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5章(1)
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目が覚めると、キーボードを叩く音はなくなっていた。カーテンを閉め忘れた窓から、きらめく朝日が降り注いでいる。
旭陽はもたれかかっていた壁から身体を起こした。身体の上には、いつの間にか薄いブランケットがかけられている。自分がいつまで起きていたか、正確な記憶がない。たまにぼそぼそとした小さな声で旭陽に話しかけながら執筆を続ける碧の後ろ姿を見ているうちに、眠ってしまったらしい。
「……小野さん?」
デスクの前に碧の姿が見えず、旭陽は立ち上がりながら名を呼んだ。キッチンにもその姿は見えず、浴室の照明もついていない。旭陽が眠っている間に、どこかに出かけたのだろうか。念のため旭陽は窓を開け、ベランダに出て眼下に広がるアスファルトを覗き込んだ。ただ雨に濡れた路地があるだけだ。碧の姿はない。
ふとデスクの上を見て、そこに書き置きがあることに気づいた。ノートの切れ端のようなものに、綺麗だがすこし癖のある字が並んでいる。
『原稿は自由に持ち帰ってもらって構わない。鍵はポストに』
書き置きの下には、印刷したと思しき原稿の束。それから鍵が置いてあった。旭陽に戸締まりを任せるということは、やはりどこかに出かけたらしい。起こしてくれればいいのに、と思いながら旭陽は鍵と原稿を取り上げた。
玄関を出て鍵をかけた後、言われた通りに鍵をポストに落とした。たった三歩で自分の部屋に戻る。
持ち帰ってきた原稿は、一晩で書き上げたにしてはなかなかの分量があった。碧に対して小説家ではなく、隣室に住む大学生というイメージが強い旭陽だが、これは紛れもなく野々みどりの未発表原稿ということになる。ファンなら喉から手が出るほどほしいものだろう。自分が最初の読者になることに、わずかな緊張感を覚える。
中央にタイトルが書かれた最初の一枚をめくると、びっしりと文字が詰まっていた。主人公の名前がデビュー作に登場したものと同じで、本当にこれが続編なのだという実感が湧いてくる。
旭陽はワンルームの入口に立ち尽くしたまま、貪るように文字を追った。昨日の夕方、碧と一緒に宅配のピザを食べたきりなのに空腹すら感じなかった。一刻も早く、続きが知りたかった。あの主人公の行き着く先。碧が小説の中で思い描いた未来。
碧の文章は変に固いところがなく、普段小説を読み慣れていない旭陽でも読みやすかった。文字が踊っている。たった一晩で書き上げられたそれは、碧の気合いがそのまま反映されたように力強く、そして「書きたい」という気力に溢れていた。
文末に「了」の字を見た時――旭陽は深く息を吐いた。太陽はとうに真上に昇り、秋めいた日光を部屋に注いでいる。碧の部屋を出てから、二時間が経っていた。立ちっぱなしで、二時間ぶっ通しで文章を読んだことなどはじめてだ。けれど、嫌な疲労ではなかった。心地いい疲れと、達成感が身体を包んでいる。
旭陽は最後まで読み切った原稿をテーブルの上に置くと、服を脱ぎ捨て、浴室に入った。あの物語を丁寧に咀嚼するためには、熱いシャワーを浴びることが必要だった。
浴室から出て、新しい部屋着を身につける。バスタオルで雑に髪の毛を乾かすと、もう一度テーブルの上に置かれた原稿を見た。
旭陽の中で枯れかけていた情熱が、音を立ててまた燃え上がるような感覚があった。碧の書く物語には不思議な力がある。世間的には、野々みどりの小説は売れなかったかもしれない。けれど、自分はまちがいなく碧の物語に救われた。もう一回、前を向こうと思えた。
今すぐ碧に感想を伝えたかった。そして、もう一度筆を取ってほしいと願いたかった。二作目の出版が白紙に戻ったのは残念だったかもしれないが、そんなことで書くことを止めてほしくなかった。野々みどりの小説は、もっと多くの人に届けられ、読まれるべきだ。碧が旭陽に対して泳ぐことを求めたように、旭陽は今、碧に対して書くことを望んでいた。
昂ぶる気持ちを抑えられず、旭陽は部屋を飛び出して隣室のインターホンを押した。返事がなく、ドアノブをひねってみるも、鍵がかかっている。寝ずに執筆をしていたというのに、旭陽が眠っている間に一体どこに行ったというのか。まだ帰っていないらしい。
本人に会うのを諦め、旭陽は自分の部屋に戻った。ようやくそこで自分が空腹であることに気づく。講義も練習もない日にアパートの外に出るのは億劫だったが、冷蔵庫の中身が寂しいことに気づいて旭陽は財布とスマホだけを手に外へと出た。
スーパーで適当に安売りになっている野菜や肉をカゴに突っ込んでいく。ふいに碧の顔が頭に浮かんだ。碧が部屋に戻ってきた時、ちゃんと食べるものはあるのだろうか。昨日は冷蔵庫に酒しかないと言って宅配のピザを頼んだし、買い物にでも行っていなければ食べるものがないかもしれない。
ややしばらく考えてから、旭陽はいつもより多めに食材を買い込んだ。自炊の腕に特に自信があるわけではないが、碧が手ぶらで戻ってきた時に食べられるものを差し入れたいと思ったのだ。
結局、この選択はまったくの無駄になった。秋のはじまり。旭陽に続編の原稿を託し――碧は雲のように消えた。
旭陽はもたれかかっていた壁から身体を起こした。身体の上には、いつの間にか薄いブランケットがかけられている。自分がいつまで起きていたか、正確な記憶がない。たまにぼそぼそとした小さな声で旭陽に話しかけながら執筆を続ける碧の後ろ姿を見ているうちに、眠ってしまったらしい。
「……小野さん?」
デスクの前に碧の姿が見えず、旭陽は立ち上がりながら名を呼んだ。キッチンにもその姿は見えず、浴室の照明もついていない。旭陽が眠っている間に、どこかに出かけたのだろうか。念のため旭陽は窓を開け、ベランダに出て眼下に広がるアスファルトを覗き込んだ。ただ雨に濡れた路地があるだけだ。碧の姿はない。
ふとデスクの上を見て、そこに書き置きがあることに気づいた。ノートの切れ端のようなものに、綺麗だがすこし癖のある字が並んでいる。
『原稿は自由に持ち帰ってもらって構わない。鍵はポストに』
書き置きの下には、印刷したと思しき原稿の束。それから鍵が置いてあった。旭陽に戸締まりを任せるということは、やはりどこかに出かけたらしい。起こしてくれればいいのに、と思いながら旭陽は鍵と原稿を取り上げた。
玄関を出て鍵をかけた後、言われた通りに鍵をポストに落とした。たった三歩で自分の部屋に戻る。
持ち帰ってきた原稿は、一晩で書き上げたにしてはなかなかの分量があった。碧に対して小説家ではなく、隣室に住む大学生というイメージが強い旭陽だが、これは紛れもなく野々みどりの未発表原稿ということになる。ファンなら喉から手が出るほどほしいものだろう。自分が最初の読者になることに、わずかな緊張感を覚える。
中央にタイトルが書かれた最初の一枚をめくると、びっしりと文字が詰まっていた。主人公の名前がデビュー作に登場したものと同じで、本当にこれが続編なのだという実感が湧いてくる。
旭陽はワンルームの入口に立ち尽くしたまま、貪るように文字を追った。昨日の夕方、碧と一緒に宅配のピザを食べたきりなのに空腹すら感じなかった。一刻も早く、続きが知りたかった。あの主人公の行き着く先。碧が小説の中で思い描いた未来。
碧の文章は変に固いところがなく、普段小説を読み慣れていない旭陽でも読みやすかった。文字が踊っている。たった一晩で書き上げられたそれは、碧の気合いがそのまま反映されたように力強く、そして「書きたい」という気力に溢れていた。
文末に「了」の字を見た時――旭陽は深く息を吐いた。太陽はとうに真上に昇り、秋めいた日光を部屋に注いでいる。碧の部屋を出てから、二時間が経っていた。立ちっぱなしで、二時間ぶっ通しで文章を読んだことなどはじめてだ。けれど、嫌な疲労ではなかった。心地いい疲れと、達成感が身体を包んでいる。
旭陽は最後まで読み切った原稿をテーブルの上に置くと、服を脱ぎ捨て、浴室に入った。あの物語を丁寧に咀嚼するためには、熱いシャワーを浴びることが必要だった。
浴室から出て、新しい部屋着を身につける。バスタオルで雑に髪の毛を乾かすと、もう一度テーブルの上に置かれた原稿を見た。
旭陽の中で枯れかけていた情熱が、音を立ててまた燃え上がるような感覚があった。碧の書く物語には不思議な力がある。世間的には、野々みどりの小説は売れなかったかもしれない。けれど、自分はまちがいなく碧の物語に救われた。もう一回、前を向こうと思えた。
今すぐ碧に感想を伝えたかった。そして、もう一度筆を取ってほしいと願いたかった。二作目の出版が白紙に戻ったのは残念だったかもしれないが、そんなことで書くことを止めてほしくなかった。野々みどりの小説は、もっと多くの人に届けられ、読まれるべきだ。碧が旭陽に対して泳ぐことを求めたように、旭陽は今、碧に対して書くことを望んでいた。
昂ぶる気持ちを抑えられず、旭陽は部屋を飛び出して隣室のインターホンを押した。返事がなく、ドアノブをひねってみるも、鍵がかかっている。寝ずに執筆をしていたというのに、旭陽が眠っている間に一体どこに行ったというのか。まだ帰っていないらしい。
本人に会うのを諦め、旭陽は自分の部屋に戻った。ようやくそこで自分が空腹であることに気づく。講義も練習もない日にアパートの外に出るのは億劫だったが、冷蔵庫の中身が寂しいことに気づいて旭陽は財布とスマホだけを手に外へと出た。
スーパーで適当に安売りになっている野菜や肉をカゴに突っ込んでいく。ふいに碧の顔が頭に浮かんだ。碧が部屋に戻ってきた時、ちゃんと食べるものはあるのだろうか。昨日は冷蔵庫に酒しかないと言って宅配のピザを頼んだし、買い物にでも行っていなければ食べるものがないかもしれない。
ややしばらく考えてから、旭陽はいつもより多めに食材を買い込んだ。自炊の腕に特に自信があるわけではないが、碧が手ぶらで戻ってきた時に食べられるものを差し入れたいと思ったのだ。
結局、この選択はまったくの無駄になった。秋のはじまり。旭陽に続編の原稿を託し――碧は雲のように消えた。
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