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5章(4)
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待ち合わせ場所に現れたのは、長いワンピースに上着のコートを重ねた女だった。腰まで伸びた長い黒髪、顔は目元以外がすべてマスクで隠れていて、誰かわかったものではない。頭にも帽子を被っていて、徹底的に人目を避けているようだ。
「魔法の大変身、って感じかな」
「はあ?」
正直な感想に、彼女は気を悪くしたらしい。夢見しずくは鋭い視線を寄越すと、「外でその名前で呼ばないで」と低い声を出した。
授賞式の学ラン姿しか目にしていない碧にとって、しずくの格好は大変身としか言いようがない。やはりしずくには、女性になりたい願望でもあるのだろうか、と碧はぼんやりと思った。
「ついてきて」
しずくに言われ、歩き出した彼女の後をついていく。歩いている最中、しずくは一言も喋らなかった。荷物を抱えた碧も、どこから話を切り出していいものか迷って、結局なにも言えずじまいになっている。
――もし、二作目のチャンスがあるとしたら。
しずくの声が脳裏によみがえる。
――あなたは全部を捨てて、それに挑戦する覚悟はある?
「……あるとも」
「なにか言った?」
「いや、なにも」
しずくの不思議な電話に誘われて、碧はのこのこと準備をしてこんなところまでやってきた。アパートを離れることにためらいがなかったといえば嘘になる。隣人である旭陽に助けられ、ようやく立ち上がりはじめた頃だったため、彼の元を離れるのはかなりの勇気を要した。旭陽にも悪いと思っている。ほとんどなにも言わず、姿を消すことになってしまった。
旭陽はもう、あの原稿を読んだだろうか。原稿の出来に、失望したりしていないだろうか。自分としては書ききったと思ったが、読んだ人がどう受け取るかはまた別の問題だ。
「ここよ」
足を止めたしずくにつられて、碧も立ち止まった。目の前には大きなホテルがそびえ立っている。大学の周辺ではほとんど見られない代物だ。目視でも十階以上あることが確認でき、都会の広さを実感する。
しずくは小さなカバンから、小さなカードキーを取り出した。ホテルの名前と「1401」という印字がされている。十四階の部屋、ということだろうか。
「チェックインは済ませてある。チェックアウトの日は、今日から二ヶ月後。原稿の締切も、同じ日よ」
「そろそろ教えてくれないか」
「なにを?」
「どうして僕なんだ?」
しずくは手に持っていたカードキーをぐい、と碧の胸の辺りに押しつけた。明るい虹彩が、日差しを受けてきらめく。
「あなたは書かなきゃいけない。作家を辞めるなんて、絶対に許さない」
◇ ◇ ◇
しずくから与えられた部屋は、スイートルームまではいかないものの、かなりグレードの高い部屋だった。ダブルサイズのベッドは広々としているし、浴室やトイレもぴかぴかに磨き上げられている。床に敷き詰められた絨毯は足が埋まるほどふかふかしている。
ホテルに入る直前、碧はスマホを取り上げられた。代わりに与えられたのが執筆用のノートパソコンである。荷物をベッドの上に放り出し、パソコンを立ち上げる。部屋に備えられたWi-Fiに接続すれば、外部との連絡も可能なようだ。メールソフトには編集者のアドレスと、しずくのアドレスがあらかじめ登録されていた。
靴を脱ぎ、椅子の上で膝を抱える。ここまで来たはいいが、どうしたらいいかまるでわからなかった。
しずくが碧に求めたことは、ひとつだけ。二ヶ月後の締切までに文芸誌に連載する小説の冒頭部分を書くこと。まだプロットもなにもない状態で、担当の編集者とも一度も話をしていない。
原稿の前に編集者向けに企画書とプロットを作る必要があることは、碧も理解している。しかし、どんな話を書くべきなのか、ということが一向に見えてこないのだ。しずくは好きに書けと言ったが、連載が商業である以上、なにかしら求められていることはあるはずなのだ。
「考えろ……」
抱えた膝の間に、顔を突っ込む。自分はなにを書きたい? どんな話なら、連載として受け入れてもらえる? 企画書が通らなければ、肝心の執筆にはたどり着けない。締切から逆算しても、企画書とプロットに割ける時間はそう多くない。
顔を上げ、碧はメールの作成画面を立ち上げた。宛先は編集者だ。まずは挨拶をして、探りを入れる。先方がどんな話を求めているのか、知らないことにははじまらない。
たっぷり悩んでメールの文面をひねり出した碧は送信ボタンを押した後、どっと息を吐いた。もう大きな仕事をひとつ終えた気分だ。
それから三十分もしないうちに、編集者から返信が届いた。文芸誌の連載は、元々しずくが担当する予定だったらしい。しかしスケジュールが合わないとかなんとかでのらりくらりと話をかわされ、最終的にしずくが提示してきた代替案が、野々みどりを起用することだった、と。編集者のメールを要約するとそんな感じだった。
そして碧がもっとも欲しかった、どんな話を書くべきかという情報は、たった一文に収められていた。
『野々先生が、一番面白いと思うものを書いてください』
「魔法の大変身、って感じかな」
「はあ?」
正直な感想に、彼女は気を悪くしたらしい。夢見しずくは鋭い視線を寄越すと、「外でその名前で呼ばないで」と低い声を出した。
授賞式の学ラン姿しか目にしていない碧にとって、しずくの格好は大変身としか言いようがない。やはりしずくには、女性になりたい願望でもあるのだろうか、と碧はぼんやりと思った。
「ついてきて」
しずくに言われ、歩き出した彼女の後をついていく。歩いている最中、しずくは一言も喋らなかった。荷物を抱えた碧も、どこから話を切り出していいものか迷って、結局なにも言えずじまいになっている。
――もし、二作目のチャンスがあるとしたら。
しずくの声が脳裏によみがえる。
――あなたは全部を捨てて、それに挑戦する覚悟はある?
「……あるとも」
「なにか言った?」
「いや、なにも」
しずくの不思議な電話に誘われて、碧はのこのこと準備をしてこんなところまでやってきた。アパートを離れることにためらいがなかったといえば嘘になる。隣人である旭陽に助けられ、ようやく立ち上がりはじめた頃だったため、彼の元を離れるのはかなりの勇気を要した。旭陽にも悪いと思っている。ほとんどなにも言わず、姿を消すことになってしまった。
旭陽はもう、あの原稿を読んだだろうか。原稿の出来に、失望したりしていないだろうか。自分としては書ききったと思ったが、読んだ人がどう受け取るかはまた別の問題だ。
「ここよ」
足を止めたしずくにつられて、碧も立ち止まった。目の前には大きなホテルがそびえ立っている。大学の周辺ではほとんど見られない代物だ。目視でも十階以上あることが確認でき、都会の広さを実感する。
しずくは小さなカバンから、小さなカードキーを取り出した。ホテルの名前と「1401」という印字がされている。十四階の部屋、ということだろうか。
「チェックインは済ませてある。チェックアウトの日は、今日から二ヶ月後。原稿の締切も、同じ日よ」
「そろそろ教えてくれないか」
「なにを?」
「どうして僕なんだ?」
しずくは手に持っていたカードキーをぐい、と碧の胸の辺りに押しつけた。明るい虹彩が、日差しを受けてきらめく。
「あなたは書かなきゃいけない。作家を辞めるなんて、絶対に許さない」
◇ ◇ ◇
しずくから与えられた部屋は、スイートルームまではいかないものの、かなりグレードの高い部屋だった。ダブルサイズのベッドは広々としているし、浴室やトイレもぴかぴかに磨き上げられている。床に敷き詰められた絨毯は足が埋まるほどふかふかしている。
ホテルに入る直前、碧はスマホを取り上げられた。代わりに与えられたのが執筆用のノートパソコンである。荷物をベッドの上に放り出し、パソコンを立ち上げる。部屋に備えられたWi-Fiに接続すれば、外部との連絡も可能なようだ。メールソフトには編集者のアドレスと、しずくのアドレスがあらかじめ登録されていた。
靴を脱ぎ、椅子の上で膝を抱える。ここまで来たはいいが、どうしたらいいかまるでわからなかった。
しずくが碧に求めたことは、ひとつだけ。二ヶ月後の締切までに文芸誌に連載する小説の冒頭部分を書くこと。まだプロットもなにもない状態で、担当の編集者とも一度も話をしていない。
原稿の前に編集者向けに企画書とプロットを作る必要があることは、碧も理解している。しかし、どんな話を書くべきなのか、ということが一向に見えてこないのだ。しずくは好きに書けと言ったが、連載が商業である以上、なにかしら求められていることはあるはずなのだ。
「考えろ……」
抱えた膝の間に、顔を突っ込む。自分はなにを書きたい? どんな話なら、連載として受け入れてもらえる? 企画書が通らなければ、肝心の執筆にはたどり着けない。締切から逆算しても、企画書とプロットに割ける時間はそう多くない。
顔を上げ、碧はメールの作成画面を立ち上げた。宛先は編集者だ。まずは挨拶をして、探りを入れる。先方がどんな話を求めているのか、知らないことにははじまらない。
たっぷり悩んでメールの文面をひねり出した碧は送信ボタンを押した後、どっと息を吐いた。もう大きな仕事をひとつ終えた気分だ。
それから三十分もしないうちに、編集者から返信が届いた。文芸誌の連載は、元々しずくが担当する予定だったらしい。しかしスケジュールが合わないとかなんとかでのらりくらりと話をかわされ、最終的にしずくが提示してきた代替案が、野々みどりを起用することだった、と。編集者のメールを要約するとそんな感じだった。
そして碧がもっとも欲しかった、どんな話を書くべきかという情報は、たった一文に収められていた。
『野々先生が、一番面白いと思うものを書いてください』
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