【完結】トワイライト

古都まとい

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エピローグ(2)

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 異国の地ではじめて手にした金メダルは、あまり実感を伴わなかった。当然だ。自分の隣にも、金メダルを手にした奴がいるのだから。
 旭陽と道上はオーストラリアの大学で学びながら、競泳の強化練習に参加していた。言語の壁に苦しむこともあったが、幸いにもコーチの中に日本人がいたため、本当に困った時は日本人コーチに相談できる環境が整えられていた。

 練習に明け暮れているうちにあっという間に季節は巡る。
 年越しを終え、三月。日本へ帰国する前、最後の大会に旭陽と道上は臨んだ。結果によってはオリンピックの強化選手に選ばれるかもしれないとあって、二人とも今まで以上に真剣に練習に打ち込んだ。
 結果は一位同着。旭陽と道上はぴったり0.01秒まで、同じタイムを記録した。
 それは旭陽が、道上の背に触れた瞬間だった。あんなに遠かった背中が、今は目の前にある。目の前にあるその背中に、旭陽は指先で触れたのだ。それが大会という大舞台で起こった、たった一回の出来事だったとしても、旭陽はたしかに道上に追いつき、肩を並べたのだ。

「……信じられない」

 二人で会場を出て、寮に戻る道すがらで道上は苦々しく呟いた。きっと同着なんて想像もしていなかったのだろう。今回も自分が一位になる。旭陽は二位だ。そう信じて疑わなかったのだ。
 道上の想像を覆せたことに、旭陽は歓喜していた。本当は0.01秒でも道上のタイムを抜いて、一人で表彰台の一番高いところに登りたかったが、ここまでの結果を出せたのだ。今は文句は言うまい。

「同着ってことはさ、俺ら二人とも強化選手に選ばれんのかな」

 いつもはしゃんと伸びている道上の背中が心なしが丸まっている。前を歩くその背中に声をかけると、彼は嫌そうな顔をして振り返った。

「他の大会の結果次第じゃないのか? オリンピックの強化選手を狙っている日本人は、なにも俺たちだけじゃない。日本でもちょうど選手権大会が行われている頃だろうし――」
「オリンピックでも、お前と戦えたらいいな」
「日本人同士でメダル争いしてどうするんだよ」
「だってお前もほしいだろ? オリンピックの金メダル」

 道上は旭陽の顔をさっと睨むと、前を向いてふたたび歩き出した。

「お前に金メダルを譲るつもりはない」

 道上はそう吐き捨てると、歩く速度を上げた。旭陽も置いていかれないよう、早足になる。
 留学は、つらいことも多かった。練習や言語習得もそうだが、なにより碧と長期間離れなくてはいけないことが心にずっしりと来る日が多かった。
 スマホを使えば連絡は取れるのだが、碧は旭陽の練習を邪魔したくないと言って、電話もメッセージもほとんど寄越して来なかった。唯一、彼がメッセージをくれるのは旭陽が大会の入賞報告をした時だけだった。
 早く日本に帰って、碧に会いたい。旭陽は寮までの道を道上と歩きながら、頭の中ではあのアパートまでの家路を思い起こしていた。


◇ ◇ ◇


 寮に着くと、管理人から旭陽宛てに小包が届いていると知らされた。部屋の前に戻ってみると、たしかに扉の前に荷物が置いてある。鍵を回し、何気なく荷物を拾い上げた旭陽は目をみはった。
 送り主は、小野碧。一ヶ月ほど前に寮の住所を聞かれたが、まさか碧から荷物が届くなんて想像もしていなかった。
 転げるようにして部屋に入り、持っていたカバンをベッドの上に放り投げる。何重にも巻かれたテープを半ば力ずくでベリベリと剥がし、旭陽は小包を開けた。
 中から出てきたのは、一冊の単行本だった。作者は、野々みどり。そして下に巻かれた帯には太字で『発売後即重版! 十万部突破!』と書いてある。
 固い表紙をめくると、一枚の紙がひらひらと落ちてきた。拾い上げると、端正な文字でメッセージが書かれている。どうやら短い手紙のようだ。

『僕は十束くんとの約束を果たした。十万部突破だ。君はどうだ?』

 じんわりと身体が熱くなっていく。碧はまだ、あの時の勝負を忘れていなかったのだ。碧は旭陽に「二作目を十万部売ってみせる」と言った。旭陽は碧に「道上の記録を超えてみせる」と言った。どちらも今この瞬間、目標は達成された。
 壁に貼られたカレンダーを見る。帰国まであと半年。九月の帰国の際には、碧が空港まで迎えに来てくれると言っていた。その時まで、勝負の結果は伏せたままにしておこう。

 旭陽は送られてきた単行本のページをめくった。冒頭は文芸誌の連載で読んでいたが、途中から留学して連載を読めなくなってしまったため、大半がまだ読んだことのない物語だ。
 碧は旭陽が留学した後も連載を続けていたと思うが、いくらメッセージで聞いても詳細は教えてくれなかった。もしかするとこうしてきちんと形になったものを旭陽に読ませたいという気持ちがあったのかもしれない。
 留学してから、縦書きの文章に触れることはほとんどなかった。一行ずつ、ゆっくりと読み進めながら、旭陽は久しぶりに日本語の海に溺れた。はじめて碧のデビュー作を読んだ時のように、旭陽は食事を取ることも忘れ、本に熱中した。
 碧の紡ぐ文章は時に厳しく、時に優しかった。そしてなにより、碧の体温を感じさせた。
 文字を通じて、会いたいという気持ちは増すばかりだ。残り半年。将来を左右するような大きな大会は残っていない。けれど、ここで手を抜けば帰国後、碧に怒られるだろう。最後まで、彼に恥じない成果を残したい。
 それが作家・野々みどりに対する最大限の敬意の払い方だと、旭陽は思った。
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