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第5章 母と息子
御史台の監察史
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薄緑色の古ぼけた壁、無機質な部屋には見覚えがある。他の部署とは離れた殿にあるあの部署だ。
「もしかしてここって」
「御史台の取調室だ」
ぱん、と羅刹は額を打った。
御史台。国に奉仕する官吏たちを監視する部署。恐れている場所に、恐れている容疑でここにいる。
床でうずくまっている羅刹のすぐ近くに、漢林がしゃがみ込む。相変わらず性格の悪そうな吊り目だ。
「お前、女だって疑いがかかってんだって?」
鼻で笑いながら漢林が言う。
「僕は女じゃない。っていうか、君に問い詰める権限はないだろ?」
「残念ながら、俺は御史台の監察史なんだよ」
監察史。官吏の功過や行政の可否を調査し、政を監視する官吏のことだ。その性格上あまり他部署と交わることもなく、監察史をしている人間の顔もあまり知られていない。書類を届けに来た時も、人はまばらだった。
「は? いや、おかしいでしょ。だって進士が御史台配属なんて聞いたことないぞ」
「俺だって聞いたことねえよ。だが稀に配属されることがあるらしい。俺がその例外ってわけだ」
「でも君、戸部の仕事してたじゃないか」
「ふだんは戸部付きの進士として働いてんの。で、仕事をしながら、怪しい動きをしてる官吏がいないかさがすわけ。まあ、進士の前では口を滑らせやすいし、諸先輩型の悪習を目にしやすい立場にはあるからな。進士を配属する利点はたしかにあると感じる」
「まさか、あの馬糞投げにも意味が……」
「あれは違う。たんにお前がムカつくからやっただけ」
「やなやつだな、君」
「はあ? 状元であることを鼻にかけて、下々の進士とは関わらない貴様も十分感じわりぃ」
「えええ! そんなふうに思われてんの僕」
「おおかたそうだろ。しかも最近は皇帝の食客だとかいう仮面の野郎とつるんでて目立つし」
自分の興味のあることに盲信する人間なので、おっしゃる通り他の進士とは必要最低限しか交流を持っていない。
友はいなくとも幸せなのだ。
はぁ。そうか、まずいのかこれは。
「さあ、これ以上俺の手を煩わせるな。脱げ」
「いやだよ、なんで君の前で脱がなきゃいけないんだ」
「蔡華様が、お前が女だったって言って連れてきたんだけどな。官吏の不正を調べるのは御史台の管轄。だからたとえ帝付きの宦官様がそうだと言っても、真偽は俺たちの手で確かめなきゃならん」
「蔡華さんはどこに?」
「とっくにここを離れられた。帝からお呼びがかかったみたいだったな」
話は終わりだと、羅刹は漢林に両手を掴まれ、硬い床に体を縫いつけられる。
「脱がないんなら脱がす。だいたい男だって言い張るなら、さっさと済ませればいいだろうが。疑いがはれれば自由になれるぞ?」
「他人に肌を晒してはいけない宗教を信仰してるんだ!」
「そんな言い訳が通ると思うか!」
勉強だけじゃなく、護身術も習っておけばよかった。そう後悔してももう遅い。羅刹は力一杯抵抗を試みた。幸い縛られてはおらず、手足は自由だ。任意同行というやつなのだろう。
「動くな、貴様」
「じゃあ手を離せ!」
「あっ、くそっ、噛んだな。いててててて! やめろやめろ! ちぎれる!」
必死の抵抗を試みていると、閉められていた扉が蹴破られた。すっ飛んできた扉が見事漢林の後頭部に命中し、彼は気絶する。
「羅刹!」
「うわ、雲嵐。今日は比較的普通な面だねって……」
そう言い終わるが前に、羅刹は雲嵐に抱きすくめられていた。
「え、なに。どうしたの……」
「お前に何かあったら、どうしようかと思った」
「そんな大袈裟な」
宥めようとするが、背中に回されたたくましい腕に、ギュッと力が入る。
朱を引いた狐の面を、雲嵐は器用に片手で外した。黒い艶髪を綺麗にまとめ上げた、美しい男の翡翠の双眸が現れる。
怯えた表情に、胸の奥がギュッとなった。
周囲は敵ばかりの彼に初めてできた友達。腹に一物持たず、協力し合える仲間。
雲嵐にとって自分は、きっとそんな相手なのだろう。
そしてあからさまにおかしな速度で事件が解決に向かおうとしている今、自分が消えた。
事件の真相を探ろうとチョロチョロし続ける羅刹は、真犯人にとって邪魔に違いない。雲嵐もそう考えていたはず。
羅刹がすでに亡き者になっている可能性を考えてしまったのだろう。
心配してくれていたんだな。
雲嵐を落ち着かせようと、羅刹は彼の背中を優しく撫でる。
「雲嵐、大丈夫だからっ……って、うぐ」
次の瞬間、羅刹の唇は、雲嵐のそれによって塞がれていた。
「もしかしてここって」
「御史台の取調室だ」
ぱん、と羅刹は額を打った。
御史台。国に奉仕する官吏たちを監視する部署。恐れている場所に、恐れている容疑でここにいる。
床でうずくまっている羅刹のすぐ近くに、漢林がしゃがみ込む。相変わらず性格の悪そうな吊り目だ。
「お前、女だって疑いがかかってんだって?」
鼻で笑いながら漢林が言う。
「僕は女じゃない。っていうか、君に問い詰める権限はないだろ?」
「残念ながら、俺は御史台の監察史なんだよ」
監察史。官吏の功過や行政の可否を調査し、政を監視する官吏のことだ。その性格上あまり他部署と交わることもなく、監察史をしている人間の顔もあまり知られていない。書類を届けに来た時も、人はまばらだった。
「は? いや、おかしいでしょ。だって進士が御史台配属なんて聞いたことないぞ」
「俺だって聞いたことねえよ。だが稀に配属されることがあるらしい。俺がその例外ってわけだ」
「でも君、戸部の仕事してたじゃないか」
「ふだんは戸部付きの進士として働いてんの。で、仕事をしながら、怪しい動きをしてる官吏がいないかさがすわけ。まあ、進士の前では口を滑らせやすいし、諸先輩型の悪習を目にしやすい立場にはあるからな。進士を配属する利点はたしかにあると感じる」
「まさか、あの馬糞投げにも意味が……」
「あれは違う。たんにお前がムカつくからやっただけ」
「やなやつだな、君」
「はあ? 状元であることを鼻にかけて、下々の進士とは関わらない貴様も十分感じわりぃ」
「えええ! そんなふうに思われてんの僕」
「おおかたそうだろ。しかも最近は皇帝の食客だとかいう仮面の野郎とつるんでて目立つし」
自分の興味のあることに盲信する人間なので、おっしゃる通り他の進士とは必要最低限しか交流を持っていない。
友はいなくとも幸せなのだ。
はぁ。そうか、まずいのかこれは。
「さあ、これ以上俺の手を煩わせるな。脱げ」
「いやだよ、なんで君の前で脱がなきゃいけないんだ」
「蔡華様が、お前が女だったって言って連れてきたんだけどな。官吏の不正を調べるのは御史台の管轄。だからたとえ帝付きの宦官様がそうだと言っても、真偽は俺たちの手で確かめなきゃならん」
「蔡華さんはどこに?」
「とっくにここを離れられた。帝からお呼びがかかったみたいだったな」
話は終わりだと、羅刹は漢林に両手を掴まれ、硬い床に体を縫いつけられる。
「脱がないんなら脱がす。だいたい男だって言い張るなら、さっさと済ませればいいだろうが。疑いがはれれば自由になれるぞ?」
「他人に肌を晒してはいけない宗教を信仰してるんだ!」
「そんな言い訳が通ると思うか!」
勉強だけじゃなく、護身術も習っておけばよかった。そう後悔してももう遅い。羅刹は力一杯抵抗を試みた。幸い縛られてはおらず、手足は自由だ。任意同行というやつなのだろう。
「動くな、貴様」
「じゃあ手を離せ!」
「あっ、くそっ、噛んだな。いててててて! やめろやめろ! ちぎれる!」
必死の抵抗を試みていると、閉められていた扉が蹴破られた。すっ飛んできた扉が見事漢林の後頭部に命中し、彼は気絶する。
「羅刹!」
「うわ、雲嵐。今日は比較的普通な面だねって……」
そう言い終わるが前に、羅刹は雲嵐に抱きすくめられていた。
「え、なに。どうしたの……」
「お前に何かあったら、どうしようかと思った」
「そんな大袈裟な」
宥めようとするが、背中に回されたたくましい腕に、ギュッと力が入る。
朱を引いた狐の面を、雲嵐は器用に片手で外した。黒い艶髪を綺麗にまとめ上げた、美しい男の翡翠の双眸が現れる。
怯えた表情に、胸の奥がギュッとなった。
周囲は敵ばかりの彼に初めてできた友達。腹に一物持たず、協力し合える仲間。
雲嵐にとって自分は、きっとそんな相手なのだろう。
そしてあからさまにおかしな速度で事件が解決に向かおうとしている今、自分が消えた。
事件の真相を探ろうとチョロチョロし続ける羅刹は、真犯人にとって邪魔に違いない。雲嵐もそう考えていたはず。
羅刹がすでに亡き者になっている可能性を考えてしまったのだろう。
心配してくれていたんだな。
雲嵐を落ち着かせようと、羅刹は彼の背中を優しく撫でる。
「雲嵐、大丈夫だからっ……って、うぐ」
次の瞬間、羅刹の唇は、雲嵐のそれによって塞がれていた。
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