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9.巡礼の旅
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9. 巡礼の旅
昼に小刻ほど休憩を取ったものの、その後は真っ白に凍える風景の中をひたすらに進む。寒空の元幌車を引くコルフォの背は、御者台から見ると小山のようで、大きさ的には強力竜とほとんど変わらないのだな、とユディは黙々と歩を進める大型獣を頼もしく見やる。
幸いにも風は穏やかで、薄曇りの空はかすかに茜色を帯びているがまだ日暮れまでは間がありそうだった。針葉樹の林が道の両側に広がっていたのが、だんだんと両側が平坦に開けて、目に眩しいほどの雪原とちらほらと植えられた雪を被った樹木という光景に変わる。
冷たく乾いた空気にさらされた頬は感覚がなく、分厚い手袋に覆われている手先がわずかに痛んだ。手綱を握っていた指を軽く動かしてから、ユディは隣に座る自分の主へと視線を向けた。
「そろそろ、村が違いようです」
「……そう」
ほぼ反射だけで返事をしたルカは、軽く背を丸めて手元を凝視している。雪で多少は均されているとはいえ、都市部の石畳のように平坦ではない道を走っているというのに、その手元は正確に針を操る。小さな手巾の角に、手の込んだ花の模様が見る間に出来上がる様は、何度見ても見事だと思う。
貴婦人であれば嗜みとして、平民や農民であれば生活の足しとして、刺繍は男女ともに重要度の高い手仕事だろう。殊に、冬の農閑期の間、北国では室内でできる仕事として編み物や織物等の手工芸が盛んにおこなわれる。ユディの出身地はオリハン領の南の端、冬場でも二毛作が行われるため力仕事が中心になる男性が刺繍をするのは、どちらかといえば珍しい(だが、皆無ではない)事だったが、片田舎とはいえ地主の妾である自分の母や正夫人が刺繍の腕を誇っていたので良し悪しは判るつもりだった。
ルカの針運びは均等で乱れもなく、図案もひと手間かけられている上に色の選択も小洒落ている。身分を隠して衣装部へ出入りして腕を磨いているので、普段は「御身様のあのご趣味はどうなのか」と、玉に瑕のように言われがちだが、ここに来て立派に身を助けている。
星教の神官の上衣は彼らの身分を示すために、生成りの質素な生地の縁を決められた色の刺繍で丁寧に飾る。衣装部が用意した上衣はごく簡素な縁飾りしか付いていないが、そこから神官本人が暇を見て刺繍を足していくことが推奨されていた。
したがって、手の込んだ図案の上着を着ている神官、すなわち年季の入った経験の長い神官として、外見で見分けがつくようになっていた。
刺繍の題材としては、植物、竜、鳥、獣、創世神話の題材など、多岐にわたる物から本人の好みで選ばれた。ちなみにルカの上着の刺繍には、薬草と花、竜と星が組み合わされている。普段着として着る上着は生成りの生地に藍色の糸で本人が刺繍した中位神官の衣だった。ルカの年齢で、高位神官の緋色の刺繍の上衣をまとうのは、自分が斎王である事を喧伝しているのに等しいため儀式以外では使われなかった。
下位神官は茶色、高位神官は赤い刺繍糸と、遠目に判りやすい色分けは、すなわち星教の内部が厳格な、独自の身分制度によって組織されている事の証左でもある。
大神殿以外の一般的な神殿には、茶色と藍色の刺繍で飾った衣の神官が所属している。赤い刺繍で飾られた衣は、一国に一つの大神殿、しかも奥の院でしか見られない。そういう事も、ユディは神殿に仕えるようになってから初めて知った。
もちろん、ユディの故郷の片田舎の神殿では、藍色の衣の神官ですら珍しい存在だった。穏やかに笑う神官の名前をユディは思い出せないが、母親は懇意にしていたようだ。ユディの将来を案じる母親に、星都の大神殿で侍従騎士を探している、という話を持ってきたのもまた、件の神官だったのだから。
「村が見えて来ましたよ」
「……うん」
どうやら主人は、村へ到着する前に手元の手巾を完成させてしまいたいらしい。生返事だけは戻ってくるが、顔を上げようともせず、針を運ぶ手が幾分早まる。
なだらかな丘を越えて、防風林の向うにちらほらと石造りの建物が見える。おおよその形は、この二か月潜んでいた山荘と変わらないが、造りは雑で、それが素朴な風景をかたち造っている。村の入り口は狭く、近づいてくる幌車に気づいた村人が意外そうな表情を作った。
「村に着いたら、まず先に水を頼みます。ここら辺りはまだ国境沿いの温泉街から遠くないので、雪解け水の水脈がありますし」
斜面を下りるために水樽は最低限だったから、とユディは小さく独り言つ。山荘の氷室から積んで来た食料は十分にあり、雪解け前でかつかつだろう村でわざわざ高値の食料を買う必要もない。今回立ち寄るのは神殿関連の情報収集と、ルカの使う刺繍糸を手に入れるためだった。ルカの手持ちの裁縫箱には一通りの糸は揃っているが、売り物にするためには足りなくなるのが目に見えている。山荘の納戸にあった新しい麻の敷布を裁断して、手巾の大きさの布を沢山用意したルカは、心底楽しそうにご婦人方の喜びそうな図案を刺している。
「ええと、私がシレギアの出身で、ユディはオリハン領の南端の出身、で良いんだったかな」
端の始末を終え、縫い針を帽子の縁に刺してからルカが顔を上げた。注意深く襟巻を引き上げて口元を覆い、弱い冬の陽射しの向う、白い光景を眩しそうに見やる。
「私はユード、御身様はルル、旅券の名前を間違えないようご注意を。結婚したのは一年前、私の出自はそのまま、御身様はシレギアのそれなりに裕福な商人の娘の――」
「私生児だろう、承知した」
気にしたふうもなく、ルカが重々しく頷く。
「真実に嘘を混ぜ合わせた方が、露見しにくい。馴れ初めは……なんだったか」
「それはありきたりに、市場でたまたま知り合った、程度で大丈夫かと。どちらも、聞かれるまでは言う必要はございませんし」
「それは、そうだな。だが私の場合は、まずほとんどの人は私が父なし子だと知っている。……なるほど、そういう物か」
奇妙なところで感心して、ルカは外套の下をごそごそと探って水筒を出す。一般的に庶民が使う水筒は竹筒か木製で、金属製の筒に軟木の栓を使った神殿印の水筒は少しばかり値が張った。だが、軽くて頑丈、焚火に直接炙って暖められる便利さから、神官たちはもちろん、少し裕福な商人も愛用しているので問題はないだろう。金属の細工師は市井にも多いが、合金を上手く扱うのは神殿に所属する職人のお家芸で、彼らは生活用品から儀式に使う神器まで、幅広い品物を扱っている。
5歳から18歳になるまでの十三年間、ルカは星教の大神殿と、その荘園内だけで育った。面積としては星都に匹敵する、といわれる広さではあるが、そこに暮らす人は星教の敬虔な信徒であって、しかも荘園内の農民や商人とはほとんど接触していない。ルカの暮らす範囲はあくまで神殿の内側、学院と斎王院、神殿の奥の院くらいのものであって、今回のように外へ出る機会はほぼなかった、と言ってもよい。
「その割に、御身様は庶民の暮らしもいろいろとご存じですよね」
つい、口に出して言ってしまうと、隣の席でぼんやりと近づく農村の風景を眺めていた主人がにんまりと唇の端を歪めた。本人の意図として、おそらく意地悪い笑みを浮かべたつもりなのだろうが、黒紗のベール越しであっても判る妖艶な笑みに、ユディは己の表情を変えるまいと唇の内側を噛んだ。
これは悪だくみの笑み、御身様は、蠱惑さを出すつもりは微塵もないのだ。
ぐっと息が詰まり、口中に湧き出た唾液を飲み込みたい衝動を堪えてわずかに首を傾げて見せれば、彼の内心を伺い知らない主人が少しばかり自慢そうな顔をする。
「斎王院には、属州属国からも斎王への救済を求める嘆願書が山のように届くゆえ。……担当の神官達があまり刺激の強くない物を抽出して回覧してくれるだろうが、それでも相談内容は多岐に渡る。遺産相続のいざこざ、痴情のもつれ、信じていた主人の不正の告発……、神殿の力で裁ける物は私には回されないので、勢い男女の仲と法律では解けない、心情的な金銭問題に集中する」
「……それって、情操教育にはどうなんでしょうか」
「世知辛い世の中の事は、早めに知った方が良いというのが長老院の教育方針でな」
「左様で」
身も蓋もなくさばけた方針に、思わずユディは口も開かない返事をする。ひとつ溜息を零せば、白い息が顔の周りで散る。村の入り口には既に人が立っていて、見慣れない幌車の到来をいぶかしげに見守っている。
「……商いは、黒砂糖に薬酒と私の刺繍の手巾、これだけでいいのだな」
「ええ。手持ちがなくなったら、薬を商う事にします。今は、まだ隠した方が無難でしょう」
毛長コルフォが引く幌車が道の凹凸に合わせるように軋むたび、幌の内側に吊った薬草の乾いた束がさやさやと音を立てる。氷室に保管されていたほとんどの種類の薬草をありったけ持ち出して来たので、このまま簡易な薬屋が開けそうなほどに在庫は潤沢だった。だか、これらの薬草はルカのために使うのが前提で、商いとして扱う気は今のところユディにはなかった。
百花蟲を身の内側に宿して以来、すっかり健康になったルカだったが、それでも神殿で包むようにして育てられた生粋の箱入り息子(箱入り斎王?)ゆえ、他国での長い旅程に体調を崩す事は十分に考えられた。
「こんにちは。王都の神殿への巡礼の道すがら行商しているのですが」
「おう、こんな季節に感心だな、若いの」
村の入り口に立つ壮年の男へ声をかけて、轍の後も少ない、さびれた広場へコルフォを向かわせる。寄って来た男の身なりは農民としては標準的、体つきはがっしりとしてユディとほぼ同じくらいの背丈で、おそらくこの村の警護を担っているのだろう。腰には一振りの粗末な剣を佩いている。
「黒糖を商っています。ご入り用はありますか。そして、差支えなければ井戸を使わせてもらえますでしょうか」
ユディは商人の口上を述べつつ、御者台から降りるルカへ手を差し伸べた。あちこちの家から人が出てくる気配を背で感じつつ、ぎこちなく降りる「妻」の身体を支えてやる。
「黒糖か……という事は、あんたは南の出身なんだな。こっちは寒くて驚いたろう」
壮年の男が相好を崩す。どうやら見かけによらず、甘党なのだろう。近づいてきた恰幅の良いご婦人に勢いよく背中をどやされている。
「あんたは本当に甘い物好きだからねぇ。他にもあるのかい?」
「妻は刺繍が得意でして。ルル、こちらのご婦人にお見せして」
「……どうぞ」
ほぼ吐息だけで答えたルカが、質素な木の盆の上に揃えた手巾を差し出す。途端に、寄って来た女性陣から歓声が上がった。
「わぁ、綺麗。赤い糸が綺麗に染まっているねぇ」
「青い色もいくつもある。ねぇ、この縫い取りの細かさをご覧な」
「一つ、いくらだい? え、お手頃じゃないか」
口々に囀って、ルカの周りの人垣が厚くなる。それを笑って見やった壮年の男が、ユディを肘でつついた。
「それで、黒糖の他に酒類なんかもあるんだろう?」
「ええ、種類は多くはないですが」
リモネ、ドクダミ、柘榴がありますよ、と耳打ちしてやれば、さらに満足そうに相好を崩す。
「今年の冬は幸運だな、リモネ酒をもらえるか。ああ、井戸にはあとで連れていってやるよ」
「ありがとうございます」
普段使わない表情筋を総動員してにっこりと微笑めば、隣に立っていた初老の男が口元を手で覆ってこっそりと告げる。
「あんたの奥さん、えらい美人だなぁ。背も高いし、ウチの村の芋どもに囲まれていると、さらに目立つな」
「……ええ、それで心配なんです」
「シレギアのご婦人は戒律が厳しいから、まだ安心だろうけど」
そうですね、と曖昧に笑って見せれば、男たちの関心はすぐに酒へと移って行く。薬種の小さな壺を、藁を詰めた木箱から取り出して見せつつ、ユディはひっそりと溜息を落とす。
目深に帽子を被り、さらに黒紗のベールで顔を隠しているというのに、ここまで他人の目を引いてしまう。
果たして王都に着くまでの間、人目を引かずに隠密に移動する事など無理かもしれない、と絶望的な認識に奥歯を噛みしめた。
「あんたが刺したのかい? 上手だねぇ」
こくりと頷いて、手元の盆を年配のご婦人へと差し出す。少しばかり遠巻きにしていたご婦人方が、小さく歓声を上げて集まって来た。未婚らしい若い娘はみつ編みにした髪を垂らして小さな毛皮の帽子を被り、既婚者らしいご婦人は素材の差はあれど麻布と毛織の生地を重ねた帽子を被っている。見慣れない形の帽子の、折り返した縁は広く、首裏までを覆っているので暖かそうに見えた。ルカは黒紗のベールの内側でひっそりと笑みを浮かべて、初めて間近にする農村の女性たちを観察した。
女性たちは皆、外套の上から前掛けをして、仕事を途中で放って出て来たのか、前掛けの端で手を吹いている人もいた。見慣れない図柄の刺繍の手巾に、目を輝かせている。
「これは? 珍しい図案だね」
「野菊に蝶、蔦の文様です」
「へえ、自作なんだ」
冬の手仕事として誰もが刺繍をするから、こうやって手巾を売れば自然と図案や糸の染色の話になる。刺繍が苦手だが染色が得意なご婦人が、糸を売ってくれる事になって、ルカは内心ホクホクしていた。普段ルカが刺すのは神官の、というよりも自分の衣装ばかり、稀にユディやイスカの手巾に刺繍をする事もあるが、たいていは儀式用の自分の服だけだった。ましてや、庶民に売るための手巾に刺す機会など皆無で、それが目の前で売れていく様を見るのは新鮮な驚きと喜びがあった。
売れ残りの品を見れば、どのような図案が喜ばれるのかも判って、ルカにとって初めての農村への行商は得る物が多かった。おもわずニコニコと微笑むと、黒紗のベール越しに年配のご婦人が微笑み返してくれた。
「あんた、若いのに刺繍が上手だね」
「好きなんです」
「それに、あんたもあんたの旦那もずいぶんと器量良しだ。お似合いだねぇ」
「ありがとうございます」
そこまでは、だいたい穏便な雑談だった。そこから、いつ結婚したんだい、とか、馴れ初めは、などとじりじりと踏み込んだ話題になって、いつの間にか夜のの方はどうなのさ、などと、およそルカが今までの生活で聞かれた事のない方面へとズバズバと切り込んでくる(まさか、斎王君に「師兄や侍従騎士の床の技はいかがですか」と尋ねる者は長老でもいない)ので、ルカはほぼ空になった盆を両手で捧げ持ったまま凍りついた。
「……真面目です」
「――こりゃまた、変わった返事が来たね」
きゃあ、と年若い娘が恥ずかしげな歓声を上げたが、正面に立つ年配のご婦人が眉をひそめる。
「もしかして、そっちは上手くいってないのかい」
「……」
思わず言い淀んで、手に持ったままの盆へと顔を向けてしまう。黒紗のベールを通して、売れ残った手巾の刺繍が寒々しく見えた。
「まだ若いんだから、旦那さんとちゃんと話してごらん。あの旦那ならあんたが頼み事をしても突っぱねたりはしないだろう。……車から降りる時に、あんなふうに丁寧に手を取ってくれる男は、滅多にいないよ」
「……そうなのですか」
思わず顔を上げて、年配のご婦人の顔を見る。口角の隣にしわを刻んでにっこりと笑ったご婦人は、年長者らしくゆったりと頷いた。濃い灰色のくすんだ外套はうっすらと汚れてはいるが、きちんと手入れされていてこの婦人が日々忙しく過ごしている事が伺われる。濃灰色の外套の下には、足首丈の薄い茶色のスカート、コルフォだろう革のいささか草臥れた長靴、まとめた髪を隠す麻と毛織を重ねた帽子は生成りの生地が顔の両側へ翼を広げるような形で、おそらくこの地方特有なのだろう。北国の寒村でどのような年月を過ごしたのか、そこはルカの想像の埒外ではあるが、長老に育てらたルカはまず年長者を敬う事に疑念がないため、彼女らの助言はありがたく受け取りたい。
「乱暴なわけじゃないね? だとしたら」
「その、途中で……」
ほぼ吐息だけで返せば、年配のご婦人の横に立った女性が、何事か納得したような顔をした。今年の風邪は喉に来るからねぇ、と笑って、前掛けで手をぬぐう。
「あとで、ウチの花梨を分けてあげる。喉にいいからさ……そんで、それってつまり……」
「……よくわからないんですけど、ごめん、って言われて」
ああ、と頷いたご婦人方がぐっと輪を狭めてひそひそと囁き交わす。あれこれ相談してまとまったらしく、ルカの前に立っていた年配のご婦人が重々しく一歩を踏み出した。
「若い時はよくあるんだよ、そういうの。保てなくて失敗する、って感じだろうね。……そりゃ、こんなに綺麗な娘だもの、勇み足だってあるだろうさ。あんたは気にしないで、鷹揚に構えていれば大丈夫だよ。……そのうち、旦那も間近にあんたを見るのに慣れる……だろうから」
語尾が少々不明瞭ではあったが、おおむね言葉は力強く、それでルカはなんとなく安心する。
「きっとベタ惚れなんだろうねぇ、若いっていいね」
「……そうでしょうか」
いや、それは違う、と胸中で明確に否定しつつも、ルカは曖昧に返答する。そのまま村の誰が誰に惚れている等の噂話題に移行して、楽しげにおしゃべりに興じるご婦人方の輪の中から、ルカは井戸へ向かうために毛長コルフォを操っ幌車を移動させるユディの姿を見ていた。
本当ならば、ユディは地元の騎士団に入って卒なく任務をこなして、数年もすれば剣の腕でそれなりの役職へ付いていたのではないか。
外れとはいえオリハン領で、しかも母親が神官に相談したばっかりに、遠く離れた星都の、さらにいえば星教の斎王の侍従騎士など、剣技以外の雑事ばかりを求められる職に就いてしまった。母親の生活の安泰を得るために、生涯の忠誠なんぞを誓ってしまったために、彼は死ぬまでごく私的な生活すらままならない。
私生活がままならないのは、ルカとて同様ではあるが、ルカは遠からず星教の頂点に立つ。その実態が、他の権力機構と星教を結び付けるための潤滑剤(犠牲とも言う)だとしても、絶大な権力を手中にするのは間違いがなかった。
だが、ユディは大神官の筆頭侍従騎士であるが、従僕という地位に違いはない。黒の騎士服をまとい、無骨な剣を腰に佩き、大神官の身の回りの一切を取り仕切り、時には寝所で閨事にすら従事する。けれども、ユディはルカとの閨事、どちらかといえばそれはルカの中では「百花蟲への給餌」として位置づけられているーー交接を不得手としているようだった。確かに、慣れればあるいはシェートラのように、大した感慨もなくこなせるのかもしれない。けれども、ユディの生来からの生真面目さを鑑みるに、そういった割り切り方をするのには不向きなのではないか、と思う。むしろ割り切って、何の感慨ももたずにこなせるようになるのは、おそらくルカの方だろう。
ならばせめて、できるだけその難渋から遠ざけてやるのが、主であるルカにできる精一杯なのではないか。
はあ、と小さく溜息を零して、ルカは視界から外れていくユディの姿を目で追った。
普段ならば背を伸ばして姿勢正しく、敏捷さを伺わせる所作なのに、今はわずかに背を丸め、脇に立つ壮年の男へと視線を配りつつ毛長コルフォの手綱を引く。若いながらに手慣れた商人らしい抑制されえたふるまいに、これが一年間神殿の外で(主に花街で)生活した成果なのか、と妙な感心がこみあげてくる。
ぼんやりと「夫」を眺めている様子を心配したのか、年配のご婦人が顔を寄せて、ルカへそっと囁いた。
「だから、これはあんたの問題じゃなくて、旦那の慣れの問題だよ。まだ結婚して一年にならないんだろう? 巡礼の旅でずっと一緒にいるんだから、神殿で神様に子宝を願えば、きっとかわいいやや子を授かれるだろうよ」
「四族が違うのでよくよくお願いしないと、と言われました」
「そりゃ、難儀だねぇ」
大仰に相槌を打って、ご婦人がやれやれと溜息を零す。
庶民は四族の違う伴侶とも番うが、子宝に恵まれない事も多かった。その場合、親戚や神殿の孤児院から養子を取るのも一般的だったので、ルカは彼らの事情にもそれなりに詳しい。
「まあ、ダメだったら神殿の孤児院で良い子をもらえばいいんだから」
「そうそう、あまり思い詰めないようにね」
陽気なご婦人方に三々五々慰められつつ、ルカは水を汲んで戻って来た幌車へ近づく。案内役の壮年の男性に軽く会釈してから、差し出された手を掴んで御者台へと引き上げてもらった。腰までを覆う黒紗のベールと、着ぶくれた外套のせいでわずかに手間取って、手綱を掴むユディの隣になんとか腰を落ち着ける。
滑るように進み出した荷車を見送りつつ、壮年の男が肩を竦めて見せた。
「本当にこの時間から出発するのか? 途中の森の中で夜になるぞ」
「どうしても、春分までに大きい神殿に着きたいので、行けるところまで進みます」
「……子宝祈願の巡礼なら、そうだろうけどなぁ」
どうやら男性側でも似たような話題になっていたらしい。ルカは思わず彼らの視線から顔をそらして、人影もまばらになった広場へと視線を向けた。
初めて訪れた農村は、農閑期らしく雪に覆われて人影もまばらで、春ならば雪解けで泥にまみれるだろう広場の土も凍っている。
「これ、さっき言ってた花梨。帰りにまた寄っておくれな」
「ありがとうございます」
荷車に走り寄ってくれた女性に少し萎びた冷たい果物を二個渡されて、ルカは御者台に腰かけたまま深々と腰を折った。村のはずれ、街道に出る小道の傍らまで送ってくれた壮年の男が声を張った。
「気を付けて!」
「皆さんもお元気で」
愛想を総動員させたらしいユディが、明るく返して片手を軽く振る。ルカはただ小首を傾げるようにして、会釈の姿勢を取って夕暮れ近い農村が背後へ流れていくのを見守った。
「……御身様、ご婦人方への商いはいかがでしたか」
しばらく無言で街道を進み、隣村とを隔てる森へ差し掛かった頃になって、ようやくユディが口を開いた。ぼんやりと夕景を眺めていたルカは、すぐ隣に座る侍従騎士へと顔を巡らせる。
「初めて、自分の差した刺繍を買ってもらった。……売れた分を全部合わせても、銀貨2枚くらいにしかならないけれど、嬉しいものだね」
しみじみと述懐して、懐から小さな布包を引っ張り出す。
「染色の得意な奥方に、足りない色を売ってもらった。毛糸だそうだが、艶があって綺麗な糸だね」
「それは、ようございました」
「……うん。ユディは、上手くいったのだろうか」
「黒糖とリモネ酒を売って、ライ麦粉と木苺の砂糖煮を手に入れましたよ。それと銀貨を数枚」
「木苺! それはいいね」
うっかり声が弾んでしまい、ユディが小さく苦笑する。
「御身様、薄パンに塗れば少しは食が進みましょうか」
「……え、うん」
内心ギクリとして、だがその動揺を顔色に乗せずに頷けば、またユディが小さく苦笑する。
「御身様、日中もできれば幌の内側へ。炭を熾しておけば少しは暖かいでしょう。竜人は寒さに弱いのですから、ご無理は禁物です」
「……でも、外の風景も見たいし」
「ええ、ですから今日は村へ着くまでをご覧に入れたのですが」
ユディは器用に手綱を操って、幌車を街道の傍らの空き地へ寄せる。身軽に御者台から飛び降りて、手際良く毛長コルフォから引き具を外した。
街道から見て、幌車の影になる場所の木へ毛長コルフォを繋ぎ、藁と飼料を与える。鼻息荒く飼料に食いつく毛長コルフォの首筋を軽く撫でてやってから、ユディは御者台に座ったままへのルカへと向き直った。
「ご自分では分からないでしょうけれども、顔色がお悪い。今日の昼も普段よりは食べる量が少なかったようですし」
そろりと足を延ばしてなんとか地上へ降りようとするのを、さっと手を伸ばして介添えしてくれる。すとんと雪の上に降りて、傍らに立つユディを見上げた。
「ありがとう」
「いえ、すぐに夕飯の準備に取り掛かります」
「水も汲ませてもらえたし、火を熾せばすぐにスープも出来るな」
毛皮の手袋を外套のポケットに突っ込んで、腕をまくる動作をすれば、ユディが外套の帽子を払って幌車の後ろ側へと回った。
「薪を出します。手近な木の、枯れ枝をお願いしても?」
「承知した」
腰帯から小刀を抜いて、立ち枯れた木からいくつか枝を掃う。ついでに手の届く範囲の枯れ枝も落として、ひとまとめにして荷台へ積んでおく。
針葉樹の枯れ枝は、着火剤として申し分がない。葉にも枝の表面にも油分をたっぷりと含んでいるので、いざとなれば生木であっても火が着くが派手に煙が立つので、できれば枯れ木の方が望ましかった。
「……この森、意外と立ち枯れた木が多いな」
薄闇に暮れた森をざっと見まわして、ルカは独り言つ。針葉樹だけの森は初めて見るが、それでも限られた視界の中に立ち枯れて茶色くなった木が点在する。
「虫か、病害か。それとも、気候の変化か」
手元に集めた枯れ枝を見ても虫や病害の兆候は見られなかった。
「先ほどの村民の話では、このところ夏でも寒い日が多かったようです」
雪の上で火を熾す用意をしつつ、ユディが答えた。火打石と枯葉とで器用に火を熾して、油分の多い枝がはじけるような音を立てて燃え上がる。
「……どうも、こちらの国では去年の夏は冷夏だったようで。……アスカンタでも割と涼しい方でしたが、こちらは作物の収穫にも影響があったらしく」
「そういえば、神殿にも余剰の作物を北へ回すように申請があった」
荷台に据えた大樽から鉄鍋に水を汲んで、火にかける。ユディが背もたれのない、折り畳み式の木製の椅子を二脚引き出して、焚火の傍へ据えた。
「夏が涼しく過ごしやすいのはありがたいが、作物に影響が出るのは好ましくない。アスカンタは南北に長い土地を持つし、南側の方が領土は広い。いまのところは冷害が問題になるほどではないが、注意するべきだろうな」
根菜をナイフで削いで鍋へ落とし、燻製肉を同じように削いで香草で味を調える。くつくつと沸く鍋からは食欲をそそる匂いが流れ始める。
「乳酪を入れよう」
「ああ、いいですね」
調味料の入った木箱から釉をかけた壺を引っ張り出して、ルカは重々しい仕草で乳酪をひと掬い鍋へ落とした。薄い黄色の油膜が表面を覆って、煮汁の中で踊る根菜類が煮えるまでの間、ルカとユディとは無言で鍋へ視線を落とす。
「先ほどの村人は、アスカンタの大神殿に軍の侵入があったことは知らないようでした」
「……さもありなん。だが、各国の大神殿には既に情報が渡っていよう。神殿の有意性は、情報伝達の速さと正確さだから。翼竜を使った神殿独自の伝達経路は、およそアスカンタ王軍の翼竜部隊でさえ追いきれまい」
荷や人を運ぶ強力、竜騎兵軍の闘竜、そして食肉目的の養殖、星教の神殿の擁する竜飼いは、人工繁殖させた竜を掛け合わせて、望んだ能力を持つ竜を生み出す。竜人や翼竜人は殊にその技に長け、一族に長く技を伝えている。他の四族でもできなくはないが、竜が絶対的に命令に従うのは竜族の人だけだった。
「イスカは、そろそろイスファの神殿に着くころでしょうか」
「……彼は、結構短気なんだねぇ」
鍋に香草と塩を抛りこんで、しばしかき混ぜる。木匙で汁を掬って、味見したルカが勿体ぶった動作で頷いた。それを確かめたユディは、平べったい蓋つきの籠から麻布に包まれた薄焼きパンを出して、焚火で軽く炙る。
「きちんと食べているといいのだけれど」
「御身様、仮にもイスカは侍従騎士です。食料がなくともイスファであれば野生の竜を狩ることも出来ます」
「……なるほど、むしろ雪と氷に閉ざされたこちらの方が過酷か」
「ええ、イスファでは服さえちゃんと着ていれば、路傍で寝ても凍え死ぬ事はございますまい」
いつの間にかすっかり陽は落ちて、辺りは闇に覆われている。雪原であれば真っ白な雪にわずかな光が照り返して青白く辺りを見渡せたが、森の中ともなれば塗りこめたようにとっぷりと暗い。だというのに、闇に慣れた目には足元の雪の白さだけが染みるように明るく見える。
「……さて、今日はもう火を始末してさっさと寝よう。陽が落ちた後は特に冷える」
「出発も夜明け前でしたし。……夕べの神事は、今日はどうなさいますか」
「一晩くらい端折ったって、神様はお気になさらないよ」
「斎王様がそうおっしゃるのでしたら」
手早く鍋や食器を片付けて(毎度の事ながら、二人で鍋一杯のスープをしっかり完食した)、焚火を始末して荷台の幌の内側へといざり入る。積んである木箱に腰かけて長靴を脱いで抱え、狭い寝台の上へ避難してユディが同じようにするのを待った。幌の内側を照らすのは小さいランタンが一つだけ、濃い影が落ちる内部は、感覚として把握しているよりも狭く見えた。
「木箱に囲まれているけど、そのせいで火鉢程度でも内側は少し暖かいな」
荷台の片側には使用人用の、装飾のない木枠だけの狭い寝台が据えてあり、寝台の下にも木箱が詰め込まれている。寝台の上にはコルフォの毛を詰めた厚い敷布団、そして毛皮と毛布が畳んで置いてあった。寝台以外の場所は、荷物を詰め込んだ木箱と水樽二つに占拠されて、ほとんど足の踏み場もない状態だった。見上げれば、幌の枠に束ねた薬草が所狭しと吊ってあり、仄かに乾いた草の匂いが漂う。
「御身様、靴は枕元へ。いつ襲撃があるとも限りませんから」
「……まだ大丈夫だろう」
「それでも、です。靴を履いたままで寝ろ、とは申しませんが」
ユディの有無を言わせない声音に、ルカはしぶしぶと長靴を枕元の木箱の上へ移動させた。毛皮を敷いた敷布団の上で外套を脱ぎ、さらに上着を脱ごうと手をかける。
「御身様、どうか上着も着たままで。これ以上の薄着では、外へ逃げても体温が保てません」
「……肩が凝りそうだ」
帽子と黒紗のベールを雑に畳んで長靴の隣へ並べる。もさもさと着ぶくれた身体を寝台へ横たえると、知らずため息が漏れた。
「ユディは?」
そこまで襲撃を警戒するのならば、ユディは服を来たままなのだろうかと素朴な疑問を覚える。騎士服は、硬い竜革に鋲を打ってあるので寝心地は最悪だろう。さらに言えば、同衾者(この場合はルカ)にとっても、心地は良くないのは間違いない。
「いえ、私はこちらで」
するりと衣服を脱いで、そして律儀に畳んだ服をひとまとめに布で包んだユディが、珍しく余裕の笑みを浮かべた。
「あ、ずるい」
濃い影を落とした褐色の裸身がふっと闇に溶けて、瞬きの後には闇が凝ったような漆黒の毛皮が輪郭を得る。ぴしりと長い尾を打った大きな黒豹が、わざとらしく大きな欠伸をしてルカの横へ長々と横たわった。だが、寝台の幅が狭いのでぐいぐいと手足をルカの身体の下へ潜らせて、ルカの頭と足首を抱える姿勢になってしまうのは仕方がないだろう。
「……さて、明日は何時頃に起きましょうか?」
もう一度くわり、と欠伸をしてユディが空とぼけた声を出す。カンテラの灯は点いたままだが、ルカが上体を起こして手を伸ばせば届く位置だから、問題はない筈だった。
「いいなぁ、本性の姿。なれるものならばなってみたい」
いつものように、ルカが羨ましげに呟く。腕を伸ばして背筋をそっとなでおろしてから、小さく嘆息する。ぐっと顎を伸ばして喉を鳴らせば、ルカは首元へもぐりこむようにして身体を寄せた。
「本性でしたら、このまま外へ出てもすぐ反撃できますし、夜目も効きますから」
「……そうだった」
溜息に混ぜて小さく呟いたルカへ、ユディはちょんとその頭頂を鼻先で突く。
「御身様、灯を消していただいても?」
「あ、うん」
もさもさと衣擦れの音をさせて起き上がったルカが、カンテラを手に取って火を吹き消す。掛けられていた支柱へ戻してから、毛布を引き上げてユディの顎下の位置へと戻ってくる。
「……ユディ、もう寝た?」
「いいえ」
短く答えると、掌が伸びて来て肩口から腰にかけてを数回撫で降ろした。少しばかり眠気に浸されたていたせいか、ゴロゴロと喉が鳴ってしまって向かい合って横たわるルカが少しだけ手足から緊張を解いた。
「その……、ユディは私と『祈りの修行』をするのは苦痛ではないか」
「……は?」
不意に投げかけられた言葉に、ゆるゆると眠気に浸っていた意識が引き戻される。問いかけの意味を正しく把握できずに問い返せば、幌の作る暗闇の中、間近に横たわるルカが小さく身じろぎした。
「その、以前にも何度か試みて上手くいかなかったろう? ……この間の神降ろしの時も結局私は寝込んでしまって、迷惑をかけたのだし」
「――御身様」
思わず、敷布団に着いた指にぐっと力が入ってしまい、慌てて爪をひっこめる。
「何故か、昼間にご婦人方と雑談している時にそちらの話題になって、彼女たちが言うには、距離が近いそういう行為にもそのうち慣れるだろうから、鷹揚に構えていろ、と」
「それは」
瞬間的に頭に血が上って、ユディはグッと息を呑み込んで腹の内側で衝動を堪える。
距離が近いとか、そういう問題か、とか、一体いつから貴方に仕えていると思っているのか、とか、毎朝着替えを手伝って、それこそ祈りの修行の準備ともなれば、交接の準備のアレコレの全てをユディがするというのに(それこそ、香油を使って後ろを指で解す事すら)、それでも己が彼を抱くとなると頭に血が上り、呼吸も乱れ、この身を制御するのがままならなくなる。
剣の試合であれば、否、実際の戦いの場であっても、おのれの血流に耳を弄され、指先が冷えて、身体の動きが鈍る事などなかったものを。
だというのに、神殿の壁画に描かれた神をもすら凌ぐ美貌の主を抱く、それがおのれの責務に含まれるのだと知って以来、ユディは己の身体がある種の引け目を感じて……もっと言えば、美しく汚れない主の身体を汚してしまうように思えて、どうにも気が進まないのだった。
初めて務めた時にはまだ少年の面影があったものの、この二年の間にすっかりと青年らしい体つきに成長したが、それでも斎王は氷の華と呼ばれる母君の面差しを映したように麗しく、気高く、その肌に触れて腕にかき抱けば、ユディも男らしく欲情を覚える。それがまた、度し難い冒涜のようにも思えてしまって、結局のところ、ユディは己の欲を制御できずに持て余すだけなのだ。
柔らかく丸かった頬が、柔らかさはそのままに幼さだけをそぎ落として、麗人と呼んでも本来の彼の美貌にはまだ足りない。
腹の内側に宿した百花蟲の作用か、ほんの少し肌に触れただけで、長い銀色の睫毛に縁どられた涼やかな銀青の瞳の、切れ長の目尻にほのかな赤みを増し、少し薄い形の良い唇が吐息を零して、肌を触れ合わせて間近に見つつ、己を律する事の難しさよ。
そして、どうにか律して交接出来、無事に神を降ろせたと思ったその時に、愛しく思った主の、整った容貌をまるで薄紙に覆われるようにして全くの他者へと変貌した衝撃を、ユディはまざまざと思い出して胸中に戦慄する。
美しく面映ゆい容貌はそのままなのに、浮かべる表情の違いであれほどの差となるのか、と今でも思い出す毎に驚嘆する。泥の沈む水底から無理やり引き上げられたかのように、疲れて重たい表情を湛えたセラヤは、物憂げな声音をしていた。間近に感じた息は凍えて、触れ合わせたままの肌からも徐々に温度が奪われていく。
あのままセラヤが自ら退去せず、いつまでもルカの身体を占拠したままだったら、ルカが己の身体へ戻れたかすら怪しかった。
それらの思いがまるで走馬灯のようにユディの脳内を駆け抜けて、後に残ったのは神降ろしの際にきちんと己の役目を文字通り果たせず、百花蟲を養う事すら叶わなかった己の失態に対する苦い思いだけだった。
「……御身様」
パタリ、と背後で尾が積んである木箱の側面を打った。わずかな苛立ちが尾に現れて、こんなささいな己の不調法さもがさらなる苛立ちを増幅する。
「御身様が気になさる事はございません。……私が至らないのですから」
そこまで言ってから、ユディは小さく息を呑む。もしや、最近ルカが小食気味なのも、百花蟲への給餌の間隔が空きすぎているからではないか、と思い当たったのだ。
「――それでも、私はユディが嫌だと思う事を無理強いはしたくない」
ぼそぼそと不明瞭に呟いたルカが、ユディの顎の下で胸毛に顔を埋めた。ふわふわした毛並みに頬を擦り付けて息を調えてから、ふと顔を上げる。
「蟲を養って以来、確かに体調は良いが……実は、どれくらいの期間、蟲に給餌せずに保っていられるのかを計っている」
「御身様、それは」
それは、少しばかり危うい選択なのではないか。
そう問いかけようとしてユディは言葉を飲み込んだ。蟲を宿すにあたって、ルカはシェートラからかなり詳しい説明を受けている。
ユディの浅い認識など越えて、その危機と利益とを天秤にかけて吟味した上での結論なのだろう。
「……そうですか、それならば。けれども、少しでも危ういと思われましたら、必ずお知らせください。蟲を養うだけであれば、私にも左程難しくはないのですから」
「そうする。……シェートラ師兄には、人によって差はあるが三か月前後と言われている。蟲が落ちる時の症状は、独特だそうだからそれと判るそうだし」
独特?と内心で問い直すユディを置いて、ルカは片手で毛布を首元まで引き上げる。腕に抱き込んだ身体がほんわりと暖かいので、眠たいのだろう。
「それに、すごくお腹が痛くなるらしい。さすがに私も、そこまで耐えるつもりはないよ」
「……ええ」
二重にかけた幌の隙間から冷たい風がするりと鼻先を撫でる。明日の晩からは、ルカを木箱を積んだ側へ寝かせて、外側へは自分が寝ようと思いつつ、ユディは金色の瞳を閉じて大きく息を吐いた。
昼に小刻ほど休憩を取ったものの、その後は真っ白に凍える風景の中をひたすらに進む。寒空の元幌車を引くコルフォの背は、御者台から見ると小山のようで、大きさ的には強力竜とほとんど変わらないのだな、とユディは黙々と歩を進める大型獣を頼もしく見やる。
幸いにも風は穏やかで、薄曇りの空はかすかに茜色を帯びているがまだ日暮れまでは間がありそうだった。針葉樹の林が道の両側に広がっていたのが、だんだんと両側が平坦に開けて、目に眩しいほどの雪原とちらほらと植えられた雪を被った樹木という光景に変わる。
冷たく乾いた空気にさらされた頬は感覚がなく、分厚い手袋に覆われている手先がわずかに痛んだ。手綱を握っていた指を軽く動かしてから、ユディは隣に座る自分の主へと視線を向けた。
「そろそろ、村が違いようです」
「……そう」
ほぼ反射だけで返事をしたルカは、軽く背を丸めて手元を凝視している。雪で多少は均されているとはいえ、都市部の石畳のように平坦ではない道を走っているというのに、その手元は正確に針を操る。小さな手巾の角に、手の込んだ花の模様が見る間に出来上がる様は、何度見ても見事だと思う。
貴婦人であれば嗜みとして、平民や農民であれば生活の足しとして、刺繍は男女ともに重要度の高い手仕事だろう。殊に、冬の農閑期の間、北国では室内でできる仕事として編み物や織物等の手工芸が盛んにおこなわれる。ユディの出身地はオリハン領の南の端、冬場でも二毛作が行われるため力仕事が中心になる男性が刺繍をするのは、どちらかといえば珍しい(だが、皆無ではない)事だったが、片田舎とはいえ地主の妾である自分の母や正夫人が刺繍の腕を誇っていたので良し悪しは判るつもりだった。
ルカの針運びは均等で乱れもなく、図案もひと手間かけられている上に色の選択も小洒落ている。身分を隠して衣装部へ出入りして腕を磨いているので、普段は「御身様のあのご趣味はどうなのか」と、玉に瑕のように言われがちだが、ここに来て立派に身を助けている。
星教の神官の上衣は彼らの身分を示すために、生成りの質素な生地の縁を決められた色の刺繍で丁寧に飾る。衣装部が用意した上衣はごく簡素な縁飾りしか付いていないが、そこから神官本人が暇を見て刺繍を足していくことが推奨されていた。
したがって、手の込んだ図案の上着を着ている神官、すなわち年季の入った経験の長い神官として、外見で見分けがつくようになっていた。
刺繍の題材としては、植物、竜、鳥、獣、創世神話の題材など、多岐にわたる物から本人の好みで選ばれた。ちなみにルカの上着の刺繍には、薬草と花、竜と星が組み合わされている。普段着として着る上着は生成りの生地に藍色の糸で本人が刺繍した中位神官の衣だった。ルカの年齢で、高位神官の緋色の刺繍の上衣をまとうのは、自分が斎王である事を喧伝しているのに等しいため儀式以外では使われなかった。
下位神官は茶色、高位神官は赤い刺繍糸と、遠目に判りやすい色分けは、すなわち星教の内部が厳格な、独自の身分制度によって組織されている事の証左でもある。
大神殿以外の一般的な神殿には、茶色と藍色の刺繍で飾った衣の神官が所属している。赤い刺繍で飾られた衣は、一国に一つの大神殿、しかも奥の院でしか見られない。そういう事も、ユディは神殿に仕えるようになってから初めて知った。
もちろん、ユディの故郷の片田舎の神殿では、藍色の衣の神官ですら珍しい存在だった。穏やかに笑う神官の名前をユディは思い出せないが、母親は懇意にしていたようだ。ユディの将来を案じる母親に、星都の大神殿で侍従騎士を探している、という話を持ってきたのもまた、件の神官だったのだから。
「村が見えて来ましたよ」
「……うん」
どうやら主人は、村へ到着する前に手元の手巾を完成させてしまいたいらしい。生返事だけは戻ってくるが、顔を上げようともせず、針を運ぶ手が幾分早まる。
なだらかな丘を越えて、防風林の向うにちらほらと石造りの建物が見える。おおよその形は、この二か月潜んでいた山荘と変わらないが、造りは雑で、それが素朴な風景をかたち造っている。村の入り口は狭く、近づいてくる幌車に気づいた村人が意外そうな表情を作った。
「村に着いたら、まず先に水を頼みます。ここら辺りはまだ国境沿いの温泉街から遠くないので、雪解け水の水脈がありますし」
斜面を下りるために水樽は最低限だったから、とユディは小さく独り言つ。山荘の氷室から積んで来た食料は十分にあり、雪解け前でかつかつだろう村でわざわざ高値の食料を買う必要もない。今回立ち寄るのは神殿関連の情報収集と、ルカの使う刺繍糸を手に入れるためだった。ルカの手持ちの裁縫箱には一通りの糸は揃っているが、売り物にするためには足りなくなるのが目に見えている。山荘の納戸にあった新しい麻の敷布を裁断して、手巾の大きさの布を沢山用意したルカは、心底楽しそうにご婦人方の喜びそうな図案を刺している。
「ええと、私がシレギアの出身で、ユディはオリハン領の南端の出身、で良いんだったかな」
端の始末を終え、縫い針を帽子の縁に刺してからルカが顔を上げた。注意深く襟巻を引き上げて口元を覆い、弱い冬の陽射しの向う、白い光景を眩しそうに見やる。
「私はユード、御身様はルル、旅券の名前を間違えないようご注意を。結婚したのは一年前、私の出自はそのまま、御身様はシレギアのそれなりに裕福な商人の娘の――」
「私生児だろう、承知した」
気にしたふうもなく、ルカが重々しく頷く。
「真実に嘘を混ぜ合わせた方が、露見しにくい。馴れ初めは……なんだったか」
「それはありきたりに、市場でたまたま知り合った、程度で大丈夫かと。どちらも、聞かれるまでは言う必要はございませんし」
「それは、そうだな。だが私の場合は、まずほとんどの人は私が父なし子だと知っている。……なるほど、そういう物か」
奇妙なところで感心して、ルカは外套の下をごそごそと探って水筒を出す。一般的に庶民が使う水筒は竹筒か木製で、金属製の筒に軟木の栓を使った神殿印の水筒は少しばかり値が張った。だが、軽くて頑丈、焚火に直接炙って暖められる便利さから、神官たちはもちろん、少し裕福な商人も愛用しているので問題はないだろう。金属の細工師は市井にも多いが、合金を上手く扱うのは神殿に所属する職人のお家芸で、彼らは生活用品から儀式に使う神器まで、幅広い品物を扱っている。
5歳から18歳になるまでの十三年間、ルカは星教の大神殿と、その荘園内だけで育った。面積としては星都に匹敵する、といわれる広さではあるが、そこに暮らす人は星教の敬虔な信徒であって、しかも荘園内の農民や商人とはほとんど接触していない。ルカの暮らす範囲はあくまで神殿の内側、学院と斎王院、神殿の奥の院くらいのものであって、今回のように外へ出る機会はほぼなかった、と言ってもよい。
「その割に、御身様は庶民の暮らしもいろいろとご存じですよね」
つい、口に出して言ってしまうと、隣の席でぼんやりと近づく農村の風景を眺めていた主人がにんまりと唇の端を歪めた。本人の意図として、おそらく意地悪い笑みを浮かべたつもりなのだろうが、黒紗のベール越しであっても判る妖艶な笑みに、ユディは己の表情を変えるまいと唇の内側を噛んだ。
これは悪だくみの笑み、御身様は、蠱惑さを出すつもりは微塵もないのだ。
ぐっと息が詰まり、口中に湧き出た唾液を飲み込みたい衝動を堪えてわずかに首を傾げて見せれば、彼の内心を伺い知らない主人が少しばかり自慢そうな顔をする。
「斎王院には、属州属国からも斎王への救済を求める嘆願書が山のように届くゆえ。……担当の神官達があまり刺激の強くない物を抽出して回覧してくれるだろうが、それでも相談内容は多岐に渡る。遺産相続のいざこざ、痴情のもつれ、信じていた主人の不正の告発……、神殿の力で裁ける物は私には回されないので、勢い男女の仲と法律では解けない、心情的な金銭問題に集中する」
「……それって、情操教育にはどうなんでしょうか」
「世知辛い世の中の事は、早めに知った方が良いというのが長老院の教育方針でな」
「左様で」
身も蓋もなくさばけた方針に、思わずユディは口も開かない返事をする。ひとつ溜息を零せば、白い息が顔の周りで散る。村の入り口には既に人が立っていて、見慣れない幌車の到来をいぶかしげに見守っている。
「……商いは、黒砂糖に薬酒と私の刺繍の手巾、これだけでいいのだな」
「ええ。手持ちがなくなったら、薬を商う事にします。今は、まだ隠した方が無難でしょう」
毛長コルフォが引く幌車が道の凹凸に合わせるように軋むたび、幌の内側に吊った薬草の乾いた束がさやさやと音を立てる。氷室に保管されていたほとんどの種類の薬草をありったけ持ち出して来たので、このまま簡易な薬屋が開けそうなほどに在庫は潤沢だった。だか、これらの薬草はルカのために使うのが前提で、商いとして扱う気は今のところユディにはなかった。
百花蟲を身の内側に宿して以来、すっかり健康になったルカだったが、それでも神殿で包むようにして育てられた生粋の箱入り息子(箱入り斎王?)ゆえ、他国での長い旅程に体調を崩す事は十分に考えられた。
「こんにちは。王都の神殿への巡礼の道すがら行商しているのですが」
「おう、こんな季節に感心だな、若いの」
村の入り口に立つ壮年の男へ声をかけて、轍の後も少ない、さびれた広場へコルフォを向かわせる。寄って来た男の身なりは農民としては標準的、体つきはがっしりとしてユディとほぼ同じくらいの背丈で、おそらくこの村の警護を担っているのだろう。腰には一振りの粗末な剣を佩いている。
「黒糖を商っています。ご入り用はありますか。そして、差支えなければ井戸を使わせてもらえますでしょうか」
ユディは商人の口上を述べつつ、御者台から降りるルカへ手を差し伸べた。あちこちの家から人が出てくる気配を背で感じつつ、ぎこちなく降りる「妻」の身体を支えてやる。
「黒糖か……という事は、あんたは南の出身なんだな。こっちは寒くて驚いたろう」
壮年の男が相好を崩す。どうやら見かけによらず、甘党なのだろう。近づいてきた恰幅の良いご婦人に勢いよく背中をどやされている。
「あんたは本当に甘い物好きだからねぇ。他にもあるのかい?」
「妻は刺繍が得意でして。ルル、こちらのご婦人にお見せして」
「……どうぞ」
ほぼ吐息だけで答えたルカが、質素な木の盆の上に揃えた手巾を差し出す。途端に、寄って来た女性陣から歓声が上がった。
「わぁ、綺麗。赤い糸が綺麗に染まっているねぇ」
「青い色もいくつもある。ねぇ、この縫い取りの細かさをご覧な」
「一つ、いくらだい? え、お手頃じゃないか」
口々に囀って、ルカの周りの人垣が厚くなる。それを笑って見やった壮年の男が、ユディを肘でつついた。
「それで、黒糖の他に酒類なんかもあるんだろう?」
「ええ、種類は多くはないですが」
リモネ、ドクダミ、柘榴がありますよ、と耳打ちしてやれば、さらに満足そうに相好を崩す。
「今年の冬は幸運だな、リモネ酒をもらえるか。ああ、井戸にはあとで連れていってやるよ」
「ありがとうございます」
普段使わない表情筋を総動員してにっこりと微笑めば、隣に立っていた初老の男が口元を手で覆ってこっそりと告げる。
「あんたの奥さん、えらい美人だなぁ。背も高いし、ウチの村の芋どもに囲まれていると、さらに目立つな」
「……ええ、それで心配なんです」
「シレギアのご婦人は戒律が厳しいから、まだ安心だろうけど」
そうですね、と曖昧に笑って見せれば、男たちの関心はすぐに酒へと移って行く。薬種の小さな壺を、藁を詰めた木箱から取り出して見せつつ、ユディはひっそりと溜息を落とす。
目深に帽子を被り、さらに黒紗のベールで顔を隠しているというのに、ここまで他人の目を引いてしまう。
果たして王都に着くまでの間、人目を引かずに隠密に移動する事など無理かもしれない、と絶望的な認識に奥歯を噛みしめた。
「あんたが刺したのかい? 上手だねぇ」
こくりと頷いて、手元の盆を年配のご婦人へと差し出す。少しばかり遠巻きにしていたご婦人方が、小さく歓声を上げて集まって来た。未婚らしい若い娘はみつ編みにした髪を垂らして小さな毛皮の帽子を被り、既婚者らしいご婦人は素材の差はあれど麻布と毛織の生地を重ねた帽子を被っている。見慣れない形の帽子の、折り返した縁は広く、首裏までを覆っているので暖かそうに見えた。ルカは黒紗のベールの内側でひっそりと笑みを浮かべて、初めて間近にする農村の女性たちを観察した。
女性たちは皆、外套の上から前掛けをして、仕事を途中で放って出て来たのか、前掛けの端で手を吹いている人もいた。見慣れない図柄の刺繍の手巾に、目を輝かせている。
「これは? 珍しい図案だね」
「野菊に蝶、蔦の文様です」
「へえ、自作なんだ」
冬の手仕事として誰もが刺繍をするから、こうやって手巾を売れば自然と図案や糸の染色の話になる。刺繍が苦手だが染色が得意なご婦人が、糸を売ってくれる事になって、ルカは内心ホクホクしていた。普段ルカが刺すのは神官の、というよりも自分の衣装ばかり、稀にユディやイスカの手巾に刺繍をする事もあるが、たいていは儀式用の自分の服だけだった。ましてや、庶民に売るための手巾に刺す機会など皆無で、それが目の前で売れていく様を見るのは新鮮な驚きと喜びがあった。
売れ残りの品を見れば、どのような図案が喜ばれるのかも判って、ルカにとって初めての農村への行商は得る物が多かった。おもわずニコニコと微笑むと、黒紗のベール越しに年配のご婦人が微笑み返してくれた。
「あんた、若いのに刺繍が上手だね」
「好きなんです」
「それに、あんたもあんたの旦那もずいぶんと器量良しだ。お似合いだねぇ」
「ありがとうございます」
そこまでは、だいたい穏便な雑談だった。そこから、いつ結婚したんだい、とか、馴れ初めは、などとじりじりと踏み込んだ話題になって、いつの間にか夜のの方はどうなのさ、などと、およそルカが今までの生活で聞かれた事のない方面へとズバズバと切り込んでくる(まさか、斎王君に「師兄や侍従騎士の床の技はいかがですか」と尋ねる者は長老でもいない)ので、ルカはほぼ空になった盆を両手で捧げ持ったまま凍りついた。
「……真面目です」
「――こりゃまた、変わった返事が来たね」
きゃあ、と年若い娘が恥ずかしげな歓声を上げたが、正面に立つ年配のご婦人が眉をひそめる。
「もしかして、そっちは上手くいってないのかい」
「……」
思わず言い淀んで、手に持ったままの盆へと顔を向けてしまう。黒紗のベールを通して、売れ残った手巾の刺繍が寒々しく見えた。
「まだ若いんだから、旦那さんとちゃんと話してごらん。あの旦那ならあんたが頼み事をしても突っぱねたりはしないだろう。……車から降りる時に、あんなふうに丁寧に手を取ってくれる男は、滅多にいないよ」
「……そうなのですか」
思わず顔を上げて、年配のご婦人の顔を見る。口角の隣にしわを刻んでにっこりと笑ったご婦人は、年長者らしくゆったりと頷いた。濃い灰色のくすんだ外套はうっすらと汚れてはいるが、きちんと手入れされていてこの婦人が日々忙しく過ごしている事が伺われる。濃灰色の外套の下には、足首丈の薄い茶色のスカート、コルフォだろう革のいささか草臥れた長靴、まとめた髪を隠す麻と毛織を重ねた帽子は生成りの生地が顔の両側へ翼を広げるような形で、おそらくこの地方特有なのだろう。北国の寒村でどのような年月を過ごしたのか、そこはルカの想像の埒外ではあるが、長老に育てらたルカはまず年長者を敬う事に疑念がないため、彼女らの助言はありがたく受け取りたい。
「乱暴なわけじゃないね? だとしたら」
「その、途中で……」
ほぼ吐息だけで返せば、年配のご婦人の横に立った女性が、何事か納得したような顔をした。今年の風邪は喉に来るからねぇ、と笑って、前掛けで手をぬぐう。
「あとで、ウチの花梨を分けてあげる。喉にいいからさ……そんで、それってつまり……」
「……よくわからないんですけど、ごめん、って言われて」
ああ、と頷いたご婦人方がぐっと輪を狭めてひそひそと囁き交わす。あれこれ相談してまとまったらしく、ルカの前に立っていた年配のご婦人が重々しく一歩を踏み出した。
「若い時はよくあるんだよ、そういうの。保てなくて失敗する、って感じだろうね。……そりゃ、こんなに綺麗な娘だもの、勇み足だってあるだろうさ。あんたは気にしないで、鷹揚に構えていれば大丈夫だよ。……そのうち、旦那も間近にあんたを見るのに慣れる……だろうから」
語尾が少々不明瞭ではあったが、おおむね言葉は力強く、それでルカはなんとなく安心する。
「きっとベタ惚れなんだろうねぇ、若いっていいね」
「……そうでしょうか」
いや、それは違う、と胸中で明確に否定しつつも、ルカは曖昧に返答する。そのまま村の誰が誰に惚れている等の噂話題に移行して、楽しげにおしゃべりに興じるご婦人方の輪の中から、ルカは井戸へ向かうために毛長コルフォを操っ幌車を移動させるユディの姿を見ていた。
本当ならば、ユディは地元の騎士団に入って卒なく任務をこなして、数年もすれば剣の腕でそれなりの役職へ付いていたのではないか。
外れとはいえオリハン領で、しかも母親が神官に相談したばっかりに、遠く離れた星都の、さらにいえば星教の斎王の侍従騎士など、剣技以外の雑事ばかりを求められる職に就いてしまった。母親の生活の安泰を得るために、生涯の忠誠なんぞを誓ってしまったために、彼は死ぬまでごく私的な生活すらままならない。
私生活がままならないのは、ルカとて同様ではあるが、ルカは遠からず星教の頂点に立つ。その実態が、他の権力機構と星教を結び付けるための潤滑剤(犠牲とも言う)だとしても、絶大な権力を手中にするのは間違いがなかった。
だが、ユディは大神官の筆頭侍従騎士であるが、従僕という地位に違いはない。黒の騎士服をまとい、無骨な剣を腰に佩き、大神官の身の回りの一切を取り仕切り、時には寝所で閨事にすら従事する。けれども、ユディはルカとの閨事、どちらかといえばそれはルカの中では「百花蟲への給餌」として位置づけられているーー交接を不得手としているようだった。確かに、慣れればあるいはシェートラのように、大した感慨もなくこなせるのかもしれない。けれども、ユディの生来からの生真面目さを鑑みるに、そういった割り切り方をするのには不向きなのではないか、と思う。むしろ割り切って、何の感慨ももたずにこなせるようになるのは、おそらくルカの方だろう。
ならばせめて、できるだけその難渋から遠ざけてやるのが、主であるルカにできる精一杯なのではないか。
はあ、と小さく溜息を零して、ルカは視界から外れていくユディの姿を目で追った。
普段ならば背を伸ばして姿勢正しく、敏捷さを伺わせる所作なのに、今はわずかに背を丸め、脇に立つ壮年の男へと視線を配りつつ毛長コルフォの手綱を引く。若いながらに手慣れた商人らしい抑制されえたふるまいに、これが一年間神殿の外で(主に花街で)生活した成果なのか、と妙な感心がこみあげてくる。
ぼんやりと「夫」を眺めている様子を心配したのか、年配のご婦人が顔を寄せて、ルカへそっと囁いた。
「だから、これはあんたの問題じゃなくて、旦那の慣れの問題だよ。まだ結婚して一年にならないんだろう? 巡礼の旅でずっと一緒にいるんだから、神殿で神様に子宝を願えば、きっとかわいいやや子を授かれるだろうよ」
「四族が違うのでよくよくお願いしないと、と言われました」
「そりゃ、難儀だねぇ」
大仰に相槌を打って、ご婦人がやれやれと溜息を零す。
庶民は四族の違う伴侶とも番うが、子宝に恵まれない事も多かった。その場合、親戚や神殿の孤児院から養子を取るのも一般的だったので、ルカは彼らの事情にもそれなりに詳しい。
「まあ、ダメだったら神殿の孤児院で良い子をもらえばいいんだから」
「そうそう、あまり思い詰めないようにね」
陽気なご婦人方に三々五々慰められつつ、ルカは水を汲んで戻って来た幌車へ近づく。案内役の壮年の男性に軽く会釈してから、差し出された手を掴んで御者台へと引き上げてもらった。腰までを覆う黒紗のベールと、着ぶくれた外套のせいでわずかに手間取って、手綱を掴むユディの隣になんとか腰を落ち着ける。
滑るように進み出した荷車を見送りつつ、壮年の男が肩を竦めて見せた。
「本当にこの時間から出発するのか? 途中の森の中で夜になるぞ」
「どうしても、春分までに大きい神殿に着きたいので、行けるところまで進みます」
「……子宝祈願の巡礼なら、そうだろうけどなぁ」
どうやら男性側でも似たような話題になっていたらしい。ルカは思わず彼らの視線から顔をそらして、人影もまばらになった広場へと視線を向けた。
初めて訪れた農村は、農閑期らしく雪に覆われて人影もまばらで、春ならば雪解けで泥にまみれるだろう広場の土も凍っている。
「これ、さっき言ってた花梨。帰りにまた寄っておくれな」
「ありがとうございます」
荷車に走り寄ってくれた女性に少し萎びた冷たい果物を二個渡されて、ルカは御者台に腰かけたまま深々と腰を折った。村のはずれ、街道に出る小道の傍らまで送ってくれた壮年の男が声を張った。
「気を付けて!」
「皆さんもお元気で」
愛想を総動員させたらしいユディが、明るく返して片手を軽く振る。ルカはただ小首を傾げるようにして、会釈の姿勢を取って夕暮れ近い農村が背後へ流れていくのを見守った。
「……御身様、ご婦人方への商いはいかがでしたか」
しばらく無言で街道を進み、隣村とを隔てる森へ差し掛かった頃になって、ようやくユディが口を開いた。ぼんやりと夕景を眺めていたルカは、すぐ隣に座る侍従騎士へと顔を巡らせる。
「初めて、自分の差した刺繍を買ってもらった。……売れた分を全部合わせても、銀貨2枚くらいにしかならないけれど、嬉しいものだね」
しみじみと述懐して、懐から小さな布包を引っ張り出す。
「染色の得意な奥方に、足りない色を売ってもらった。毛糸だそうだが、艶があって綺麗な糸だね」
「それは、ようございました」
「……うん。ユディは、上手くいったのだろうか」
「黒糖とリモネ酒を売って、ライ麦粉と木苺の砂糖煮を手に入れましたよ。それと銀貨を数枚」
「木苺! それはいいね」
うっかり声が弾んでしまい、ユディが小さく苦笑する。
「御身様、薄パンに塗れば少しは食が進みましょうか」
「……え、うん」
内心ギクリとして、だがその動揺を顔色に乗せずに頷けば、またユディが小さく苦笑する。
「御身様、日中もできれば幌の内側へ。炭を熾しておけば少しは暖かいでしょう。竜人は寒さに弱いのですから、ご無理は禁物です」
「……でも、外の風景も見たいし」
「ええ、ですから今日は村へ着くまでをご覧に入れたのですが」
ユディは器用に手綱を操って、幌車を街道の傍らの空き地へ寄せる。身軽に御者台から飛び降りて、手際良く毛長コルフォから引き具を外した。
街道から見て、幌車の影になる場所の木へ毛長コルフォを繋ぎ、藁と飼料を与える。鼻息荒く飼料に食いつく毛長コルフォの首筋を軽く撫でてやってから、ユディは御者台に座ったままへのルカへと向き直った。
「ご自分では分からないでしょうけれども、顔色がお悪い。今日の昼も普段よりは食べる量が少なかったようですし」
そろりと足を延ばしてなんとか地上へ降りようとするのを、さっと手を伸ばして介添えしてくれる。すとんと雪の上に降りて、傍らに立つユディを見上げた。
「ありがとう」
「いえ、すぐに夕飯の準備に取り掛かります」
「水も汲ませてもらえたし、火を熾せばすぐにスープも出来るな」
毛皮の手袋を外套のポケットに突っ込んで、腕をまくる動作をすれば、ユディが外套の帽子を払って幌車の後ろ側へと回った。
「薪を出します。手近な木の、枯れ枝をお願いしても?」
「承知した」
腰帯から小刀を抜いて、立ち枯れた木からいくつか枝を掃う。ついでに手の届く範囲の枯れ枝も落として、ひとまとめにして荷台へ積んでおく。
針葉樹の枯れ枝は、着火剤として申し分がない。葉にも枝の表面にも油分をたっぷりと含んでいるので、いざとなれば生木であっても火が着くが派手に煙が立つので、できれば枯れ木の方が望ましかった。
「……この森、意外と立ち枯れた木が多いな」
薄闇に暮れた森をざっと見まわして、ルカは独り言つ。針葉樹だけの森は初めて見るが、それでも限られた視界の中に立ち枯れて茶色くなった木が点在する。
「虫か、病害か。それとも、気候の変化か」
手元に集めた枯れ枝を見ても虫や病害の兆候は見られなかった。
「先ほどの村民の話では、このところ夏でも寒い日が多かったようです」
雪の上で火を熾す用意をしつつ、ユディが答えた。火打石と枯葉とで器用に火を熾して、油分の多い枝がはじけるような音を立てて燃え上がる。
「……どうも、こちらの国では去年の夏は冷夏だったようで。……アスカンタでも割と涼しい方でしたが、こちらは作物の収穫にも影響があったらしく」
「そういえば、神殿にも余剰の作物を北へ回すように申請があった」
荷台に据えた大樽から鉄鍋に水を汲んで、火にかける。ユディが背もたれのない、折り畳み式の木製の椅子を二脚引き出して、焚火の傍へ据えた。
「夏が涼しく過ごしやすいのはありがたいが、作物に影響が出るのは好ましくない。アスカンタは南北に長い土地を持つし、南側の方が領土は広い。いまのところは冷害が問題になるほどではないが、注意するべきだろうな」
根菜をナイフで削いで鍋へ落とし、燻製肉を同じように削いで香草で味を調える。くつくつと沸く鍋からは食欲をそそる匂いが流れ始める。
「乳酪を入れよう」
「ああ、いいですね」
調味料の入った木箱から釉をかけた壺を引っ張り出して、ルカは重々しい仕草で乳酪をひと掬い鍋へ落とした。薄い黄色の油膜が表面を覆って、煮汁の中で踊る根菜類が煮えるまでの間、ルカとユディとは無言で鍋へ視線を落とす。
「先ほどの村人は、アスカンタの大神殿に軍の侵入があったことは知らないようでした」
「……さもありなん。だが、各国の大神殿には既に情報が渡っていよう。神殿の有意性は、情報伝達の速さと正確さだから。翼竜を使った神殿独自の伝達経路は、およそアスカンタ王軍の翼竜部隊でさえ追いきれまい」
荷や人を運ぶ強力、竜騎兵軍の闘竜、そして食肉目的の養殖、星教の神殿の擁する竜飼いは、人工繁殖させた竜を掛け合わせて、望んだ能力を持つ竜を生み出す。竜人や翼竜人は殊にその技に長け、一族に長く技を伝えている。他の四族でもできなくはないが、竜が絶対的に命令に従うのは竜族の人だけだった。
「イスカは、そろそろイスファの神殿に着くころでしょうか」
「……彼は、結構短気なんだねぇ」
鍋に香草と塩を抛りこんで、しばしかき混ぜる。木匙で汁を掬って、味見したルカが勿体ぶった動作で頷いた。それを確かめたユディは、平べったい蓋つきの籠から麻布に包まれた薄焼きパンを出して、焚火で軽く炙る。
「きちんと食べているといいのだけれど」
「御身様、仮にもイスカは侍従騎士です。食料がなくともイスファであれば野生の竜を狩ることも出来ます」
「……なるほど、むしろ雪と氷に閉ざされたこちらの方が過酷か」
「ええ、イスファでは服さえちゃんと着ていれば、路傍で寝ても凍え死ぬ事はございますまい」
いつの間にかすっかり陽は落ちて、辺りは闇に覆われている。雪原であれば真っ白な雪にわずかな光が照り返して青白く辺りを見渡せたが、森の中ともなれば塗りこめたようにとっぷりと暗い。だというのに、闇に慣れた目には足元の雪の白さだけが染みるように明るく見える。
「……さて、今日はもう火を始末してさっさと寝よう。陽が落ちた後は特に冷える」
「出発も夜明け前でしたし。……夕べの神事は、今日はどうなさいますか」
「一晩くらい端折ったって、神様はお気になさらないよ」
「斎王様がそうおっしゃるのでしたら」
手早く鍋や食器を片付けて(毎度の事ながら、二人で鍋一杯のスープをしっかり完食した)、焚火を始末して荷台の幌の内側へといざり入る。積んである木箱に腰かけて長靴を脱いで抱え、狭い寝台の上へ避難してユディが同じようにするのを待った。幌の内側を照らすのは小さいランタンが一つだけ、濃い影が落ちる内部は、感覚として把握しているよりも狭く見えた。
「木箱に囲まれているけど、そのせいで火鉢程度でも内側は少し暖かいな」
荷台の片側には使用人用の、装飾のない木枠だけの狭い寝台が据えてあり、寝台の下にも木箱が詰め込まれている。寝台の上にはコルフォの毛を詰めた厚い敷布団、そして毛皮と毛布が畳んで置いてあった。寝台以外の場所は、荷物を詰め込んだ木箱と水樽二つに占拠されて、ほとんど足の踏み場もない状態だった。見上げれば、幌の枠に束ねた薬草が所狭しと吊ってあり、仄かに乾いた草の匂いが漂う。
「御身様、靴は枕元へ。いつ襲撃があるとも限りませんから」
「……まだ大丈夫だろう」
「それでも、です。靴を履いたままで寝ろ、とは申しませんが」
ユディの有無を言わせない声音に、ルカはしぶしぶと長靴を枕元の木箱の上へ移動させた。毛皮を敷いた敷布団の上で外套を脱ぎ、さらに上着を脱ごうと手をかける。
「御身様、どうか上着も着たままで。これ以上の薄着では、外へ逃げても体温が保てません」
「……肩が凝りそうだ」
帽子と黒紗のベールを雑に畳んで長靴の隣へ並べる。もさもさと着ぶくれた身体を寝台へ横たえると、知らずため息が漏れた。
「ユディは?」
そこまで襲撃を警戒するのならば、ユディは服を来たままなのだろうかと素朴な疑問を覚える。騎士服は、硬い竜革に鋲を打ってあるので寝心地は最悪だろう。さらに言えば、同衾者(この場合はルカ)にとっても、心地は良くないのは間違いない。
「いえ、私はこちらで」
するりと衣服を脱いで、そして律儀に畳んだ服をひとまとめに布で包んだユディが、珍しく余裕の笑みを浮かべた。
「あ、ずるい」
濃い影を落とした褐色の裸身がふっと闇に溶けて、瞬きの後には闇が凝ったような漆黒の毛皮が輪郭を得る。ぴしりと長い尾を打った大きな黒豹が、わざとらしく大きな欠伸をしてルカの横へ長々と横たわった。だが、寝台の幅が狭いのでぐいぐいと手足をルカの身体の下へ潜らせて、ルカの頭と足首を抱える姿勢になってしまうのは仕方がないだろう。
「……さて、明日は何時頃に起きましょうか?」
もう一度くわり、と欠伸をしてユディが空とぼけた声を出す。カンテラの灯は点いたままだが、ルカが上体を起こして手を伸ばせば届く位置だから、問題はない筈だった。
「いいなぁ、本性の姿。なれるものならばなってみたい」
いつものように、ルカが羨ましげに呟く。腕を伸ばして背筋をそっとなでおろしてから、小さく嘆息する。ぐっと顎を伸ばして喉を鳴らせば、ルカは首元へもぐりこむようにして身体を寄せた。
「本性でしたら、このまま外へ出てもすぐ反撃できますし、夜目も効きますから」
「……そうだった」
溜息に混ぜて小さく呟いたルカへ、ユディはちょんとその頭頂を鼻先で突く。
「御身様、灯を消していただいても?」
「あ、うん」
もさもさと衣擦れの音をさせて起き上がったルカが、カンテラを手に取って火を吹き消す。掛けられていた支柱へ戻してから、毛布を引き上げてユディの顎下の位置へと戻ってくる。
「……ユディ、もう寝た?」
「いいえ」
短く答えると、掌が伸びて来て肩口から腰にかけてを数回撫で降ろした。少しばかり眠気に浸されたていたせいか、ゴロゴロと喉が鳴ってしまって向かい合って横たわるルカが少しだけ手足から緊張を解いた。
「その……、ユディは私と『祈りの修行』をするのは苦痛ではないか」
「……は?」
不意に投げかけられた言葉に、ゆるゆると眠気に浸っていた意識が引き戻される。問いかけの意味を正しく把握できずに問い返せば、幌の作る暗闇の中、間近に横たわるルカが小さく身じろぎした。
「その、以前にも何度か試みて上手くいかなかったろう? ……この間の神降ろしの時も結局私は寝込んでしまって、迷惑をかけたのだし」
「――御身様」
思わず、敷布団に着いた指にぐっと力が入ってしまい、慌てて爪をひっこめる。
「何故か、昼間にご婦人方と雑談している時にそちらの話題になって、彼女たちが言うには、距離が近いそういう行為にもそのうち慣れるだろうから、鷹揚に構えていろ、と」
「それは」
瞬間的に頭に血が上って、ユディはグッと息を呑み込んで腹の内側で衝動を堪える。
距離が近いとか、そういう問題か、とか、一体いつから貴方に仕えていると思っているのか、とか、毎朝着替えを手伝って、それこそ祈りの修行の準備ともなれば、交接の準備のアレコレの全てをユディがするというのに(それこそ、香油を使って後ろを指で解す事すら)、それでも己が彼を抱くとなると頭に血が上り、呼吸も乱れ、この身を制御するのがままならなくなる。
剣の試合であれば、否、実際の戦いの場であっても、おのれの血流に耳を弄され、指先が冷えて、身体の動きが鈍る事などなかったものを。
だというのに、神殿の壁画に描かれた神をもすら凌ぐ美貌の主を抱く、それがおのれの責務に含まれるのだと知って以来、ユディは己の身体がある種の引け目を感じて……もっと言えば、美しく汚れない主の身体を汚してしまうように思えて、どうにも気が進まないのだった。
初めて務めた時にはまだ少年の面影があったものの、この二年の間にすっかりと青年らしい体つきに成長したが、それでも斎王は氷の華と呼ばれる母君の面差しを映したように麗しく、気高く、その肌に触れて腕にかき抱けば、ユディも男らしく欲情を覚える。それがまた、度し難い冒涜のようにも思えてしまって、結局のところ、ユディは己の欲を制御できずに持て余すだけなのだ。
柔らかく丸かった頬が、柔らかさはそのままに幼さだけをそぎ落として、麗人と呼んでも本来の彼の美貌にはまだ足りない。
腹の内側に宿した百花蟲の作用か、ほんの少し肌に触れただけで、長い銀色の睫毛に縁どられた涼やかな銀青の瞳の、切れ長の目尻にほのかな赤みを増し、少し薄い形の良い唇が吐息を零して、肌を触れ合わせて間近に見つつ、己を律する事の難しさよ。
そして、どうにか律して交接出来、無事に神を降ろせたと思ったその時に、愛しく思った主の、整った容貌をまるで薄紙に覆われるようにして全くの他者へと変貌した衝撃を、ユディはまざまざと思い出して胸中に戦慄する。
美しく面映ゆい容貌はそのままなのに、浮かべる表情の違いであれほどの差となるのか、と今でも思い出す毎に驚嘆する。泥の沈む水底から無理やり引き上げられたかのように、疲れて重たい表情を湛えたセラヤは、物憂げな声音をしていた。間近に感じた息は凍えて、触れ合わせたままの肌からも徐々に温度が奪われていく。
あのままセラヤが自ら退去せず、いつまでもルカの身体を占拠したままだったら、ルカが己の身体へ戻れたかすら怪しかった。
それらの思いがまるで走馬灯のようにユディの脳内を駆け抜けて、後に残ったのは神降ろしの際にきちんと己の役目を文字通り果たせず、百花蟲を養う事すら叶わなかった己の失態に対する苦い思いだけだった。
「……御身様」
パタリ、と背後で尾が積んである木箱の側面を打った。わずかな苛立ちが尾に現れて、こんなささいな己の不調法さもがさらなる苛立ちを増幅する。
「御身様が気になさる事はございません。……私が至らないのですから」
そこまで言ってから、ユディは小さく息を呑む。もしや、最近ルカが小食気味なのも、百花蟲への給餌の間隔が空きすぎているからではないか、と思い当たったのだ。
「――それでも、私はユディが嫌だと思う事を無理強いはしたくない」
ぼそぼそと不明瞭に呟いたルカが、ユディの顎の下で胸毛に顔を埋めた。ふわふわした毛並みに頬を擦り付けて息を調えてから、ふと顔を上げる。
「蟲を養って以来、確かに体調は良いが……実は、どれくらいの期間、蟲に給餌せずに保っていられるのかを計っている」
「御身様、それは」
それは、少しばかり危うい選択なのではないか。
そう問いかけようとしてユディは言葉を飲み込んだ。蟲を宿すにあたって、ルカはシェートラからかなり詳しい説明を受けている。
ユディの浅い認識など越えて、その危機と利益とを天秤にかけて吟味した上での結論なのだろう。
「……そうですか、それならば。けれども、少しでも危ういと思われましたら、必ずお知らせください。蟲を養うだけであれば、私にも左程難しくはないのですから」
「そうする。……シェートラ師兄には、人によって差はあるが三か月前後と言われている。蟲が落ちる時の症状は、独特だそうだからそれと判るそうだし」
独特?と内心で問い直すユディを置いて、ルカは片手で毛布を首元まで引き上げる。腕に抱き込んだ身体がほんわりと暖かいので、眠たいのだろう。
「それに、すごくお腹が痛くなるらしい。さすがに私も、そこまで耐えるつもりはないよ」
「……ええ」
二重にかけた幌の隙間から冷たい風がするりと鼻先を撫でる。明日の晩からは、ルカを木箱を積んだ側へ寝かせて、外側へは自分が寝ようと思いつつ、ユディは金色の瞳を閉じて大きく息を吐いた。
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