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第三章 魔王様、アルバイトは時給千円からです!
第64話 魔王、本屋に驚き、料理人、玉ねぎに燃える
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【日本・横浜】
朝のラジオ体操の音楽が、工事現場の無骨な空気に、のんびりと響き渡っていた。
作業員たちが眠そうに体を伸ばす中、魔王ゼファーは一人、仁王立ちでその光景を観察していた。ヘルメットと安全ベストは、昨日よりは幾分、体に馴染んでいるように見える。
「オヤカタよ。この奇妙な舞踊は、戦意高揚のための儀式か?」
「ぶはっ! 戦意高揚って……ただの準備運動だよ、ゼファーさん! 体ほぐしとかねえと、ギックリ腰になっちまうからな!」
オヤカタは腹を抱えて笑い、ゼファーの背中をバシンと叩く。ゼファーはよろめきもせず、ただ「ぎっくりごし……? 新手の呪いか?」と真顔で呟き、周囲の作業員たちから更なる笑いを誘っていた。
(……解せぬ。だが、この一体感……悪くない)
ゼファーの内心は、昨日とは明らかに違っていた。もはや、この労働を屈辱だとは思っていない。自らの力で対価を得て、腹を満たす。そのサイクルの心地よさを、彼の魂は理解し始めていた。それは、王として民を支配するのとは全く異なる種類の、原始的で純粋な充足感だった。
その日の労働も、ゼファーの怪力のおかげで驚くほどスムーズに進んだ。
昼休憩、彼は昨日ギギが米を研ぐ儀式を覚えたおかげで、芯の残っていない完璧な白米が詰められた弁当を広げた。おかずは、不格好な卵焼きと、昨日の残りの「金のハンバーグ」だ。
「お、ゼファーさん、今日も愛妻弁当か?」
「『あいさい』……? 我に妻はおらぬ」
「へえ、じゃあ自分で作ってんのか! 偉いじゃねえか!」
同僚たちとの、そんな他愛ない会話。ゼファーはぶっきらぼうに相槌を打つだけだが、そのやり取りが、彼の凍てついていた社会性を、少しずつ溶かしていくのを感じていた。
仕事が終わり、再び日給一万円を握りしめたゼファーは、ギギと共に家路についていた。
「魔王様! 今日は、あの……『ぎょうざ』という食べ物に挑戦しませんか!?」
「ふむ。良いだろう」
すっかり食に前向きになった主君の姿に、ギギは嬉しそうに小走りでついていく。
その道すがら、ギギがとある店の前でぴたりと足を止めた。ショーウィンドウに飾られた、色鮮やかな絵が満載の本に、彼の小さな瞳が釘付けになっている。
「……しょてん?」
ゼファーは、看板に書かれた見慣れない文字を呟いた。
好奇心に引かれ、二人は自動ドアをくぐった。
その瞬間、ゼファーは息を呑んだ。
壁という壁が、天井まで届くほどの本棚で埋め尽くされている。そこに、無数の紙の束――本が、ぎっしりと、整然と並べられていた。
古い紙の匂いと、インクの香り。そして、知識だけが持つ、静かな圧力。
「……なんだ、ここは。巨大な……書庫か?」
魔界の王城にある禁断の書庫ですら、これほどの蔵書はない。しかも、それらが誰でも手に取れる場所に、無防備に置かれている。
「ま、魔王様……! 絵が、絵がいっぱいです! 見たことのない魔獣の絵も……!」
ギギが興奮して指差したのは、子供向けの動物図鑑だった。
ゼファーは、まるで博物館を歩くかのように、ゆっくりと棚の間を進んでいく。歴史、科学、文学……陽人の世界の、あらゆる叡智がここに封印されている。彼は、統治者として、この「情報」というものの価値と恐ろしさを、肌で感じていた。
そして、彼はある一角で足を止めた。
『家庭の料理』『おもてなしレシピ』『スパイス大事典』
そこは、料理本のコーナーだった。
ページをめくると、色鮮やかな料理の写真が目に飛び込んでくる。フランス料理、中華料理、イタリア料理……そして、陽人が時折作っていた「和食」というジャンルの、無数の料理たち。
(……陽人の料理は……彼の独創ではなかったのか)
ゼファーは衝撃を受けていた。彼が作る、あの奇跡のような料理の数々。その源流には、これほどまでに豊かで、広大な「食の文化」が存在していたのだ。陽人は、その膨大な知識体系の中から、魔界の食材に合うものを選択し、応用していたに過ぎない。
いや、それだからこそ、凄いのではないか?
「……我は、何も知らなかったのだな」
ゼファーは、一冊の初心者向けの料理本を、そっと手に取った。
『誰でも作れる!基本の和食』
その、あまりにも謙虚なタイトルが、今の彼には何よりも輝いて見えた。
「ギギよ」
「は、はいぃ!」
「……我々も、学ばねばならんようだ。この世界の『理(ことわり)』をな」
ゼファーは、生まれて初めて、自らの意思で「本」を買うことを決意した。
【異世界・マカイ亭】
厨房には、天国のような香りが満ちていた。
オーブンの中でじっくりと火を通された「水晶玉葱」が、自らの糖分でカラメル化し、甘く、香ばしい匂いをあたりに振りまいている。
「よし……完璧な火入れだ!」
陽人は、ミトンをはめた手で、熱々の鉄皿を取り出した。水晶玉葱は、熱でトロリと蕩(とろ)け、その断面は宝石のようにキラキラと輝いている。仕上げに、魔界バターの塊を乗せると、ジュワッという音と共に、濃厚な香りが立ち上った。
「リリア! 看板は出したか!?」
「はい、シェフ! 『叡智探求メニュー第一弾』、準備万端です!」
店の前には、リリアが描いた可愛らしい玉ねぎのイラスト付きの看板が立てかけられている。
開店と同時に、客たちがなだれ込んできた。
「おい、あの魔王様が考えたって料理、食えるんだろ!?」
「限定20食ですって! 急がないと!」
噂はすでに広まっているらしく、客たちの期待は最高潮に達していた。
「へい、お待ち! 『天上の甘露・水晶玉葱の丸ごと焼き』だ!」
陽人がカウンター越しに皿を出すと、客から「おお……!」と感嘆の声が上がる。
一口食べた男が、目を丸くして絶叫した。
「な、なんだこりゃあ! 玉ねぎが……玉ねぎが、果物みてえに甘ぇぞ!」
「本当だわ! とろっとろで、口の中で溶けていく……! これが魔王様の叡智……!」
その評判は、客から客へと伝染し、注文が殺到する。陽人は休む間もなくオーブンと向き合い、リリアは笑顔でホールを駆け回り、バルガスは黙々と空いた皿を下げていく。
「叡智探求メニュー」は、瞬く間に完売した。
「……やったな、シェフ」
閉店後、疲れ果てて椅子に座る陽人に、リリアが興奮気味に声をかける。
「ええ! 作戦は大成功です! これで、魔王様が本当にお料理研究してるって、みんな信じてくれますよ!」
「ああ……ひとまず、な」
陽人は安堵の息をつきつつも、心のどこかで冷静だった。これは、時間を稼ぐための、その場しのぎの策に過ぎない。
(……早く、帰ってきてくださいよ、魔王様)
陽人がそう願った、その時だった。
店の向かいの路地の暗がりで、一人の男が、マカイ亭の盛況ぶりを、苦々しい表情で見つめていた。その手には、ボルドア子爵の紋章が刻まれた短剣が、鈍い光を放っている。
作戦の成功は、同時に、新たな敵意を明確に育て始めていた。
朝のラジオ体操の音楽が、工事現場の無骨な空気に、のんびりと響き渡っていた。
作業員たちが眠そうに体を伸ばす中、魔王ゼファーは一人、仁王立ちでその光景を観察していた。ヘルメットと安全ベストは、昨日よりは幾分、体に馴染んでいるように見える。
「オヤカタよ。この奇妙な舞踊は、戦意高揚のための儀式か?」
「ぶはっ! 戦意高揚って……ただの準備運動だよ、ゼファーさん! 体ほぐしとかねえと、ギックリ腰になっちまうからな!」
オヤカタは腹を抱えて笑い、ゼファーの背中をバシンと叩く。ゼファーはよろめきもせず、ただ「ぎっくりごし……? 新手の呪いか?」と真顔で呟き、周囲の作業員たちから更なる笑いを誘っていた。
(……解せぬ。だが、この一体感……悪くない)
ゼファーの内心は、昨日とは明らかに違っていた。もはや、この労働を屈辱だとは思っていない。自らの力で対価を得て、腹を満たす。そのサイクルの心地よさを、彼の魂は理解し始めていた。それは、王として民を支配するのとは全く異なる種類の、原始的で純粋な充足感だった。
その日の労働も、ゼファーの怪力のおかげで驚くほどスムーズに進んだ。
昼休憩、彼は昨日ギギが米を研ぐ儀式を覚えたおかげで、芯の残っていない完璧な白米が詰められた弁当を広げた。おかずは、不格好な卵焼きと、昨日の残りの「金のハンバーグ」だ。
「お、ゼファーさん、今日も愛妻弁当か?」
「『あいさい』……? 我に妻はおらぬ」
「へえ、じゃあ自分で作ってんのか! 偉いじゃねえか!」
同僚たちとの、そんな他愛ない会話。ゼファーはぶっきらぼうに相槌を打つだけだが、そのやり取りが、彼の凍てついていた社会性を、少しずつ溶かしていくのを感じていた。
仕事が終わり、再び日給一万円を握りしめたゼファーは、ギギと共に家路についていた。
「魔王様! 今日は、あの……『ぎょうざ』という食べ物に挑戦しませんか!?」
「ふむ。良いだろう」
すっかり食に前向きになった主君の姿に、ギギは嬉しそうに小走りでついていく。
その道すがら、ギギがとある店の前でぴたりと足を止めた。ショーウィンドウに飾られた、色鮮やかな絵が満載の本に、彼の小さな瞳が釘付けになっている。
「……しょてん?」
ゼファーは、看板に書かれた見慣れない文字を呟いた。
好奇心に引かれ、二人は自動ドアをくぐった。
その瞬間、ゼファーは息を呑んだ。
壁という壁が、天井まで届くほどの本棚で埋め尽くされている。そこに、無数の紙の束――本が、ぎっしりと、整然と並べられていた。
古い紙の匂いと、インクの香り。そして、知識だけが持つ、静かな圧力。
「……なんだ、ここは。巨大な……書庫か?」
魔界の王城にある禁断の書庫ですら、これほどの蔵書はない。しかも、それらが誰でも手に取れる場所に、無防備に置かれている。
「ま、魔王様……! 絵が、絵がいっぱいです! 見たことのない魔獣の絵も……!」
ギギが興奮して指差したのは、子供向けの動物図鑑だった。
ゼファーは、まるで博物館を歩くかのように、ゆっくりと棚の間を進んでいく。歴史、科学、文学……陽人の世界の、あらゆる叡智がここに封印されている。彼は、統治者として、この「情報」というものの価値と恐ろしさを、肌で感じていた。
そして、彼はある一角で足を止めた。
『家庭の料理』『おもてなしレシピ』『スパイス大事典』
そこは、料理本のコーナーだった。
ページをめくると、色鮮やかな料理の写真が目に飛び込んでくる。フランス料理、中華料理、イタリア料理……そして、陽人が時折作っていた「和食」というジャンルの、無数の料理たち。
(……陽人の料理は……彼の独創ではなかったのか)
ゼファーは衝撃を受けていた。彼が作る、あの奇跡のような料理の数々。その源流には、これほどまでに豊かで、広大な「食の文化」が存在していたのだ。陽人は、その膨大な知識体系の中から、魔界の食材に合うものを選択し、応用していたに過ぎない。
いや、それだからこそ、凄いのではないか?
「……我は、何も知らなかったのだな」
ゼファーは、一冊の初心者向けの料理本を、そっと手に取った。
『誰でも作れる!基本の和食』
その、あまりにも謙虚なタイトルが、今の彼には何よりも輝いて見えた。
「ギギよ」
「は、はいぃ!」
「……我々も、学ばねばならんようだ。この世界の『理(ことわり)』をな」
ゼファーは、生まれて初めて、自らの意思で「本」を買うことを決意した。
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オーブンの中でじっくりと火を通された「水晶玉葱」が、自らの糖分でカラメル化し、甘く、香ばしい匂いをあたりに振りまいている。
「よし……完璧な火入れだ!」
陽人は、ミトンをはめた手で、熱々の鉄皿を取り出した。水晶玉葱は、熱でトロリと蕩(とろ)け、その断面は宝石のようにキラキラと輝いている。仕上げに、魔界バターの塊を乗せると、ジュワッという音と共に、濃厚な香りが立ち上った。
「リリア! 看板は出したか!?」
「はい、シェフ! 『叡智探求メニュー第一弾』、準備万端です!」
店の前には、リリアが描いた可愛らしい玉ねぎのイラスト付きの看板が立てかけられている。
開店と同時に、客たちがなだれ込んできた。
「おい、あの魔王様が考えたって料理、食えるんだろ!?」
「限定20食ですって! 急がないと!」
噂はすでに広まっているらしく、客たちの期待は最高潮に達していた。
「へい、お待ち! 『天上の甘露・水晶玉葱の丸ごと焼き』だ!」
陽人がカウンター越しに皿を出すと、客から「おお……!」と感嘆の声が上がる。
一口食べた男が、目を丸くして絶叫した。
「な、なんだこりゃあ! 玉ねぎが……玉ねぎが、果物みてえに甘ぇぞ!」
「本当だわ! とろっとろで、口の中で溶けていく……! これが魔王様の叡智……!」
その評判は、客から客へと伝染し、注文が殺到する。陽人は休む間もなくオーブンと向き合い、リリアは笑顔でホールを駆け回り、バルガスは黙々と空いた皿を下げていく。
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