「魔力がない」と婚約破棄されましたが、私を拾ったのは剣聖と呼ばれる傭兵王でした〜金で地位を買った元婚約者様、私の夫に勝てると思いましたか?〜

放浪人

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第六話:泥濘の地獄〜純銀の鎧は泥に沈み、私の石弓は空を裂く〜

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 ザァァァァァァッ――。

 天が裂けたかのような豪雨が、国境の森を叩いていた。  篠突く雨は視界を白く染め、地面をみるみるうちに黒い沼へと変えていく。  私は、設営された天幕の入り口から、その光景を静かに見つめていた。

「……計算通りですね」

 私の呟きに、奥で愛剣の手入れをしていたヴォルフガングが顔を上げた。

「あ? 何がだ?」 「天気です。この地方の植生と、昨日の風の湿り気、そして古傷が痛むという古参兵たちの証言。それらを総合すれば、今日が大雨になることは予測できました」

 私は手元のマグカップに口をつける。  中身は、一度沸騰させた湯に乾燥ハーブを入れた温かいお茶だ。  外は冷たい雨が降り注いでいるが、私たちの天幕の中は快適そのものだった。  なぜなら、設営の段階で私が指示を出し、天幕の周囲に雨水を流すための「溝」を掘らせておいたからだ。  床には防水加工された布と、その上に厚手の毛皮が敷かれ、湿気を見事に遮断している。

「へぇ、お前、天気予報までできるのかよ。魔女か?」 「統計学と観察眼です。魔力なんかなくても、空を見れば明日の天気くらいわかります」

 ヴォルフガングは感心したように唸り、自身のカップを煽った。

「にしても、ひでぇ雨だ。これじゃあ、今日は休戦だな」 「いいえ、団長。今日こそが『開戦』の日ですよ」

 私は冷ややかに笑った。

「隣国の軍は、この雨を待っていたはずです。彼らの主力は山岳兵上がりの軽装歩兵。悪天候と悪路こそが、彼らの庭ですから」 「……なるほどな。逆に、ウチの雇い主様たちは……」

 ヴォルフガングが視線を向けた先――森の開けた場所にある王立騎士団の本陣からは、雨音に混じって悲痛な叫び声と怒号が聞こえてきていた。

「水だ! 水が入ってきたぞ!」 「私のドレスが! 泥だらけじゃないの!」 「おい、誰か溝を掘れ! 今すぐにだ!」 「そんなこと言われても、スコップなんて持ってきてませんよ!」

 地獄絵図だった。  見栄えを重視して平らな低地に陣取った騎士団の野営地は、周囲から流れ込む雨水によって、巨大な水たまりと化していた。  排水の溝を掘る道具もなく、そもそもそういった土木作業を「卑しい仕事」として軽視していた彼らは、なす術もなく浸水していく天幕の中で右往左往している。  豪華な絨毯は泥水を吸って重くなり、煌びやかな家具は汚泥にまみれていることだろう。

「……バカだねぇ。戦う前から半壊状態じゃねぇか」 「準備を怠った者の末路です。彼らは『生活』を舐めている。戦場において、衣食住の確保こそが最強の防壁であると理解していません」

 私は立ち上がり、レインコート代わりの油紙のマントを羽織った。

「行きますよ、団長。フェルディナンド様が、面白いショーを見せてくれるはずです」

          ◇

 私たちが丘の上の見晴らしの良い場所に移動した頃、事態は動いた。  泥沼と化した平原の向こう、隣国側の陣地から、挑発的なラッパの音が響き渡ったのだ。  雨の中、数騎の敵兵が馬を駆り、騎士団の陣地の目の前までやってくる。  彼らは軽装の革鎧に身を包み、手には投げ槍を持っている。

「おいおい、王国の騎士様たちは雨が怖くてテントでおねんねかぁ!?」 「そのピカピカの鎧は、飾り物か? 溶けちまうのが怖いのか!?」 「国へ帰ってママのおっぱいでも吸ってな!」

 下品な罵倒。  戦場においてはありふれた挑発行為だ。  無視すればいい。雨の中、わざわざ不利な地形に出ていく必要などない。相手が疲れて帰るのを待てばいいだけだ。  まともな指揮官なら、そうする。

 だが、あいにくこちらの指揮官は、まともではなかった。

「おのれぇぇぇ! 愚弄しおってぇぇ!!」

 顔を真っ赤にしたフェルディナンドが、泥だらけの天幕から飛び出してきた。  その体には、例の純銀メッキのフルプレートアーマーが装着されている。  総重量四十キロ。  ただでさえ重いその鎧は、雨に濡れてさらに重量を増し、関節部分には泥が入り込んでギシギシと嫌な音を立てているはずだ。

「総員、出撃だ! あの無礼者どもを血祭りにあげろ! 我が騎士団の誇りを見せてやるのだ!」

 フェルディナンドが剣を抜いて叫ぶ。  側近の騎士が慌てて止めに入る。

「だ、団長! お待ちください! この雨です! 視界も悪く、足場も最悪です! 馬が走りません!」 「ええい、黙れ! これは騎士の名誉に関わる問題だ! 敵に後ろ指を指されたまま引き下がれるか! 行くぞ! 私に続けぇぇ!」

 止める声も虚しく、フェルディナンドは無理やり馬に跨り、泥濘の平原へと飛び出してしまった。  指揮官が突撃した以上、部下たちも続くしかない。  数百騎の重装騎兵が、水しぶきと泥を跳ね上げながら、ドドドと地響きを立てて進軍を開始する。

 丘の上からその様子を見ていたヴォルフガングが、深い溜息をついた。

「……あいつ、死にたいのか?」 「いえ、殺されたいのでしょうね。あるいは、現実が見えていないか」

 私は冷徹に分析した。  騎士たちが装備しているのは、平地での一騎打ちや突撃戦法を想定した重装備だ。  晴れた日の固い地面の上なら、その質量と破壊力は脅威となるだろう。戦車のようなものだ。  だが、今のこの平原は、連日の雨で底なしの沼のようになっている。    結果は、火を見るより明らかだった。

 ズブブッ……。

 先頭を走っていたフェルディナンドの愛馬(白馬だったはずだが、今は泥色だ)が、突如としてバランスを崩した。  前脚が深く泥に沈み込み、抜けない。  勢いに乗っていた馬体はつんのめり、フェルディナンドは無様に放り出された。

「ぐわぁっ!?」

 ドサァッ!!

 重たい金属音と共に、純銀の鎧が泥の中にダイブする。  四十キロの鉄塊だ。一度倒れれば、そう簡単には起き上がれない。  しかも足元はヌルヌルの泥。踏ん張りが利かない。

「ぬ、ぬおお……! 足が……重い……!」

 フェルディナンドだけではない。  後続の騎士たちも次々と泥に脚を取られ、将棋倒しのように転倒していく。  あるいは、馬が動けなくなり、ただの的のように立ち往生する。

 そこへ、敵の嘲笑が降ってきた。

「ギャハハハ! 見ろよあのザマ! 勝手に転んでやがる!」 「いいカモだぜ! やっちまえ!」

 敵の軽装歩兵たちが、待ってましたとばかりに散開した。  彼らは泥の上でも動きやすい革のブーツと、身軽な装備を身につけている。  泥に足を取られて動けない重装騎士の周りを、まるでダンスを踊るように軽快に回り込み、死角から攻撃を仕掛ける。

 ヒュンッ! カキンッ!

 投げ槍が、石礫が、容赦なく騎士たちに降り注ぐ。  分厚いプレートアーマーは槍を通さないかもしれないが、衝撃は防げない。  何より、関節の隙間や、視界の悪い兜の覗き穴は無防備だ。

「ぐあっ!」 「た、助けてくれ! 起き上がれない!」 「泥が……泥が兜の中に……!」

 悲鳴と絶叫。  誇り高き王立騎士団は、敵と剣を交えることすらできず、ただ泥の中で溺れるだけの鉄屑と化していた。  一方的な虐殺。  いや、これはもはや『いじめ』に近い。

「……ひでぇな、こりゃ」

 ヴォルフガングが顔をしかめる。  彼のような歴戦の戦士から見れば、あまりに稚拙で、あまりに無様な敗北だ。

「エリス、どうする? このままじゃ全滅だぞ」 「放っておきましょうか……と言いたいところですが、彼らが全滅すると、次は私たちの番になります。敵の士気が上がりすぎるのも面倒です」

 私は計算する。  フェルディナンド個人はどうなってもいいが、王国軍が壊滅すれば、私たち傭兵団への報酬も支払われなくなる可能性がある。それは困る。  それに、これは『鉄の牙』の力を、そして『クロスボウ』の威力を、敵味方に見せつける絶好の機会だ。

「団長、仕事の時間です。……私たちが、あの泥人形たちを助けてあげましょう」 「へっ、優しいねぇ軍師様は。……総員、配置につけ!」

 ヴォルフガングの号令一下、茂みに隠れていた傭兵たちが姿を現した。  全員が、手に新型のクロスボウを構えている。  足踏み式で装填済み。矢は、特注の『徹甲ボルト』だ。

 私たちは丘の上から、眼下の戦場を見下ろした。  距離はおよそ百メートル。  敵兵は、泥にハマった騎士たちをいたぶることに夢中で、こちらの存在に気づいていない。  完全に無防備な側面を晒している。

「目標、敵軽装歩兵。……『斉射』!」

 私が手を振り下ろすと同時、数百の弦が弾ける音が重なった。

 バシュゥゥゥッ!!

 空気を裂く音。  放たれた数百本のボルトが、黒い雨となって敵軍に降り注いだ。  弓とは違う、初速の速い一直線の弾道。  それは雨粒を切り裂き、正確無比に敵兵の体を貫いた。

「ガアッ!?」 「な、なんだ!? どこから……!?」

 革鎧など、紙切れ同然だった。  ボルトは敵の身体を貫通し、背後の地面に突き刺さるほどの威力を見せる。  次々と倒れる敵兵。  何が起きたのか理解できないまま、彼らはパニックに陥った。

「次弾、装填!」

 私の声に合わせて、傭兵たちが一斉にクロスボウの先端を地面につけ、足で鐙を踏み込む。  グッと背筋を使って弦を引き上げ、カチリと固定する。  新しいボルトをセットするまで、わずか十数秒。  従来のクロスボウでは考えられない装填速度だ。

「構え! ……撃てッ!」

 第二射。  再び死の雨が降り注ぐ。  逃げ惑う敵兵の背中に、容赦なく矢が突き刺さる。

「ひ、ひぃぃッ! なんだあの威力は!?」 「逃げろ! 悪魔だ!」

 敵軍は崩壊した。  騎士団をあざ笑っていた彼らが、今度は自分たちが狩られる側になったのだ。  恐怖が伝染し、我先にと撤退を始める。

「追撃は不要です。深追いは泥沼にハマるだけですから」

 私は冷静に指示を出した。  こちらの損害はゼロ。消費したのは矢だけ。  圧倒的な勝利だ。

 私は泥まみれの平原を見下ろした。  そこには、呆然とこちらを見上げるフェルディナンドの姿があった。  兜は泥で汚れ、自慢の純銀メッキは剥がれ落ち、かつての輝きは見る影もない。  彼は信じられないものを見るような目で、丘の上に立つ私たち――特に、黒い鎧のヴォルフガングと、その隣に立つ私を見つめていた。

「……エ、エリス……?」

 微かに届いたその声に、私は優雅に(心の中では嘲笑いながら)手を振ってみせた。

「ごきげんよう、フェルディナンド様。泥遊びは楽しめましたか? ……あいにくですが、その重たい鎧では、ダンスの相手も務まらないようですね」

 私の言葉が聞こえたのかどうか。  彼は顔を歪め、悔しそうに拳で泥を叩いた。

 こうして、緒戦は終わった。  王立騎士団の惨敗と、傭兵団『鉄の牙』の圧倒的な武威。  その事実は、瞬く間に両軍の間に広まることになる。

 だが、これはまだ序章に過ぎない。  泥沼から這い上がったフェルディナンドは、感謝するどころか、逆恨みを募らせるだろう。  そして、敵軍もこのまま黙ってはいないはずだ。

「……さて、団長。これからが本番ですよ」 「ああ。面白くなってきやがったな」

 ヴォルフガングが不敵に笑う。  雨はまだ、降り続いていた。

          ◇

 その夜。  騎士団の陣地は、お通夜のような静けさに包まれていた。  負傷者のうめき声と、泥にまみれた装備を洗う水音だけが響く。  一方、『鉄の牙』の陣地は、勝利の祝杯と温かい食事の香りに満ちていた。

「いやぁ、すごかったな! あのクロスボウ!」 「敵が紙くずみてぇに倒れていったぞ!」 「軍師様の言う通りに改造して正解だったな!」

 傭兵たちは興奮冷めやらぬ様子で、今日の戦果を語り合っている。  私は彼らのために、今日の夕食として「豚肉と豆のカスレ」を用意させていた。  たっぷりの白インゲン豆と、塩漬けにした豚肉、ソーセージを土鍋でじっくりと煮込んだ料理だ。  豆が肉の旨味を吸い込み、ホクホクとした食感が疲れた体に染み渡る。  本来はオーブンで焼く料理だが、野戦仕様としてダッチオーブンを使って直火で調理させた。表面のパン粉がカリッと焦げて、香ばしい匂いが漂う。

「うめぇ! やっぱり軍師様のメシは最高だ!」 「体が温まるぜぇ!」

 大鍋はあっという間に空になった。  ヴォルフガングもまた、山盛りのカスレを平らげ、満足げに息をついていた。

「……で、次はどうする? あの金ピカ野郎、また何かやらかしそうだが」 「ええ。おそらく、汚名返上のために無謀な作戦を立てるでしょう。そして、また失敗して、私たちに泣きついてくる。……その時が、一番の『売り時』です」

 私は金貨の計算をするように指を動かした。  騎士団の失態は、こちらの利益になる。  彼らが無能であればあるほど、私たちの価値は高まるのだ。

「性格悪ぃなぁ」 「褒め言葉として受け取っておきます」

 その時、天幕の入り口が乱暴に開かれた。  現れたのは、泥を落とし、予備の鎧(これも無駄に装飾が多い)に着替えたフェルディナンドだった。  彼は鬼の形相で私を睨みつけ、ツカツカと歩み寄ってきた。

「貴様ら! よくもやってくれたな!」

 開口一番、礼ではなく罵倒だった。  予想通りすぎて、笑いが出てしまう。

「あら、フェルディナンド様。命拾いして何よりです。お礼の言葉なら、金貨で受け付けておりますが?」 「ふざけるな! 貴様らが余計な手出しをしたせいで、私の……王立騎士団の作戦が台無しになったのだぞ!」

 彼の言い分はこうだった。  あの時、騎士団は敵を油断させるために『あえて』泥に足を取られたフリをしていた。敵を引きつけ、一網打尽にする高等な囮作戦だった。  それなのに、傭兵団が勝手に横槍を入れたせいで、敵を逃してしまった、と。

 ……呆れて物が言えない。  自分の無能を棚に上げ、ここまで恥ずかしげもなく嘘をつけるとは、ある意味才能かもしれない。

「なるほど、あれは『作戦』でしたか。それは失礼いたしました。てっきり、重たい鎧で泥遊びをなさっているのかと」 「貴様ッ……!」 「ですが、結果として敵は撤退しました。そして、あなたの部下の多くが無事でした。……それとも、全滅した方が良かったのですか?」

 私が冷たく言い放つと、フェルディナンドは言葉に詰まり、顔を真っ赤にして震え出した。

「くっ……覚えていろ! この借りは必ず返す! 次こそは、私の本当の力を見せてやる!」

 捨て台詞を残し、彼は去っていった。  その背中を見送りながら、ヴォルフガングが呆れたように肩をすくめる。

「……あいつ、本当に懲りてねぇな」 「ええ。ですが、これで確信しました」

 私は手元の地図に、赤い×印をつけた。

「彼は、次の戦いで必ず『致命的なミス』を犯します。その時こそ、彼が騎士団長の座から転げ落ちる瞬間です」

 夜の雨音だけが、静かに響いていた。  泥濘の地獄は、まだ終わらない。  次なる舞台は、敵の総攻撃。  そして、そこで輝くのは、銀の鎧ではなく、黒い鋼と、私の知略だ。
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