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第七話:見えない敵との戦い〜疫病に倒れる騎士様と、煮沸消毒で無双する私の傭兵団〜
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国境の森に、重苦しい湿気が立ち込めている。 長雨がようやく上がったかと思えば、今度は季節外れの猛暑が襲ってきたのだ。 湿った地面からは湯気が立ち上り、腐敗した落ち葉と泥の臭いが鼻をつく。 それは、剣や弓よりも恐ろしい「死神」が、音もなく戦場を徘徊し始めた合図だった。
「……臭いますね」
私はハンカチで口元を覆いながら、丘の上から風下にある王立騎士団の陣地を見下ろした。 風に乗って漂ってくるのは、単なる汗や泥の臭いではない。 排泄物、嘔吐物、そして腐った何かの強烈な悪臭。 それは、軍隊が崩壊する時の臭いだ。
「ああ、ひでぇ臭いだ。風向きが変わると飯が不味くなる」
隣に立つヴォルフガングも、顔をしかめて鼻をつまんでいる。 彼の屈強な体躯は、清潔なシャツと軽装の鎧に包まれていた。汗はかいているが、不快な脂汗ではない。健康的な労働の汗だ。
「向こうの様子、偵察部隊からの報告ではかなり深刻なようだな。『腹を下して動けない者が半数以上』だそうだ」 「予想通りですわ。いえ、予想よりも早いくらいです」
私は冷徹に分析する。 泥濘の戦いから一週間。 膠着状態が続く中、騎士団の陣地では「疫病」が爆発的に蔓延していた。 原因は明白だ。 彼らはトイレの場所を定めず、陣地のすぐそばの茂みや、あろうことか川の上流で用を足していた。その汚水が地下水や川に流れ込み、飲み水を汚染する。 さらに、泥まみれになった装備や衣服を洗わず、高温多湿のテントの中で密集して寝起きしている。 これでは、病気が流行らない方がおかしい。
「赤痢、あるいはコレラでしょうね。激しい下痢と嘔吐、高熱。脱水症状を起こせば、屈強な騎士でも三日で死にます」 「怖ぇなぁ。……剣で斬り合う方がよっぽどマシだぜ」
ヴォルフガングが身震いをする。 歴戦の傭兵である彼でさえ、目に見えない病原菌への恐怖は拭えないようだ。 だからこそ、私は徹底したのだ。
「団長、私たちの陣地の状況は?」 「完璧だ。お前の言いつけ通り、全員が守ってるぜ」
ヴォルフガングが胸を張って答える。 『鉄の牙』の野営地は、騎士団のそれとは雲泥の差だった。 まず、トイレは居住区から遠く離れた風下に設置し、深く穴を掘って使用後は必ず石灰と土を被せることを義務付けた。 飲み水は、川から汲んだものを必ず一度沸騰させ、冷ましてから飲む。生水は厳禁だ。 そして、食事の前とトイレの後には、貴重な酒(アルコール度数の高い蒸留酒)を薄めた水で手を洗わせている。
最初は「面倒くさい」「女々しい」と文句を言っていた傭兵たちも、隣の騎士団の惨状を見てからは、顔色を変えて私のルールを守るようになった。 なにせ、向こうからは昼夜を問わず、苦痛に満ちた呻き声と、汚物を垂れ流す音が聞こえてくるのだから。明日は我が身と思えば、手洗い一つにも真剣になるというものだ。
「現在、我が団の発症者はゼロ。腹痛を訴えた者が二名いましたが、単なる食べ過ぎでした」 「ハハハ! そりゃいい。元気な証拠だ」
ヴォルフガングが豪快に笑う。 健康こそが最大の武器。 敵軍もまた、同様の疫病に苦しんでいるという情報が入っている。彼らも傭兵主体とはいえ、長期の野営には慣れていない山岳兵だ。衛生観念は騎士団と大差ないだろう。 つまり今、この戦場で万全のコンディションを維持しているのは、私たち『鉄の牙』だけなのだ。
「さて、そろそろ『外交』の時間ですね。フェルディナンド様から、泣きつ……いえ、会談の要請が来ています」
私は嫌悪感を隠しきれない表情で、騎士団からの伝令書(少し湿っていて触るのも躊躇われた)をつまみ上げた。
「物資の援助要請でしょう。食料と、薬と、清潔な水を求めて」 「行くのか? 病気がうつるぞ」 「完全防備で行きます。それに、彼らの自滅をただ見ているだけでは、後の報酬交渉に響きますからね。『恩』を売っておくのも仕事のうちです」
私はマスク代わりの布を口元に巻き、革手袋をはめた。 ヴォルフガングも「やれやれ」と肩をすくめつつ、護衛のために大剣を背負う。
「へいへい、お供しますよ、聖母様」
最近、傭兵たちが私をそう呼ぶようになったのを、彼は面白がって使っている。 『聖母』。 ガラではないが、『悪女』と呼ばれるよりはマシかもしれない。
◇
王立騎士団の陣地は、地獄の様相を呈していた。 入り口のバリケードは崩れかけ、見張りの兵士は槍を支えにして辛うじて立っている状態だ。顔色は土気色で、目の下には濃いクマができている。 私たちが近づいても、制止する気力すらないようだ。
陣地の中に足を踏み入れると、悪臭はさらに強烈になった。 あちこちに吐瀉物が撒き散らされ、ハエの大群が黒い雲のように渦巻いている。 豪華だったテントは泥と汚れで変色し、中からは「水……水をくれ……」という力ない声が漏れてくる。
「……こりゃひでぇ。全滅じゃねぇか」
ヴォルフガングが眉をひそめる。 戦わずして壊滅。 これが、栄光ある王立騎士団の末路だ。
私たちは、一際大きな(そして一際汚れた)天幕へと向かった。団長であるフェルディナンドのテントだ。 入り口を守るはずの従者も姿が見えない。 勝手に中に入ると、そこには腐臭と香水の混じり合った、むせ返るような空気が充満していた。
「うぅ……気持ち悪い……誰か、水を……」
ベッド――ではなく、泥の上に敷かれた絨毯の上で、フェルディナンドがのたうち回っていた。 自慢の純銀の鎧は脱ぎ捨てられ、汗と泥にまみれたシャツ一枚の姿だ。 顔色は青白く、痩せこけて頬がこけている。かつての貴公子の面影はない。
その傍らでは、婚約者のミリアがヒステリックに叫んでいた。
「イヤァァ! 来ないで! 私に触らないでよ!」 「ミ、ミリア……頼む、背中をさすってくれ……」 「嫌よ! 汚い! 臭い! なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの!?」
彼女は自分のドレスの裾を捲り上げ、フェルディナンドから距離を取っていた。 愛だの恋だのと騒いでいた二人だが、極限状態になればこの有様だ。 私は冷めた目でその茶番劇を見下ろした。
「ごきげんよう、フェルディナンド様。お加減はいかがですか?」
私の声に、フェルディナンドがビクリと反応し、うつろな目でこちらを見た。
「エ、エリス……? なぜ、君がここに……」 「会談の要請を受けたので参りました。……ですが、お話ができる状態ではなさそうですね」 「た、助けてくれ……! 水だ、きれいな水をくれ……!」
彼は這いつくばって、私の方へ手を伸ばしてきた。 その手は泥と排泄物で汚れている。 ヴォルフガングが無言で私の前に立ち、彼を遮った。
「触るな。汚ねぇ手で俺のエリスに近づくんじゃねぇ」
その一喝に、フェルディナンドはビクリと縮み上がった。 私はヴォルフガングの背中越しに、彼に告げた。
「フェルディナンド様。これは『疫病』です。不衛生な環境と、生水の摂取が原因です。私が以前、騎士団の予算で浄水器の導入と衛生兵の増員を提案したのを覚えていますか? あなたはそれを『無駄な経費だ』と却下し、その金で鎧の装飾を増やしましたね」
「そ、そんなことはどうでもいい! 今すぐ薬をよこせ! 君たちは持っているんだろう!?」 「ええ、持っています。抗生物質代わりの薬草と、経口補水液の原料を。ですが、これらは我が団の『備蓄』です。無償で差し上げるわけにはいきません」
私は懐から、あらかじめ用意していた契約書を取り出した。
「治療薬と食料、そして清浄な水の提供。それらを行う代わりに、今後の作戦指揮権の一部譲渡と、追加報酬の支払いを約束していただきます。……サインを」
「なっ……! こ、この非常時に金の話か!? 君には人の心がないのか!」 「人の心があるからこそ、こうして交渉に来ているのです。でなければ、あなたたちが野垂れ死ぬのを高みの見物で終わらせていましたわ」
私は冷徹に言い放った。 実際、彼らを見捨てる選択肢もあった。だが、ここで騎士団が全滅すれば、王国の防衛に穴が開く。それは私の将来の平穏な生活(と年金代わりの領地経営)にとってマイナスだ。 彼らを生かさず殺さず、利用するのが最善手。
「くっ……わ、わかった! サインする! だから早く水を!」
フェルディナンドは震える手で羽ペンを握り、殴り書きのようなサインをした。 契約成立だ。 私は部下に合図をし、荷車から水樽と薬箱を運び込ませた。
「おい、お前ら! まずはその汚ぇテントから出ろ! 天日干しだ! 服も全部脱いで煮沸しろ!」
ヴォルフガングが騎士たちを怒鳴りつける。 普段なら反発する彼らも、今は従順な羊のように言うことを聞いた。生きるためには、プライドなど捨てざるを得ないのだ。
その様子を見ながら、ミリアが私にすり寄ってきた。
「エ、エリス様ぁ! 私、ずっとエリス様のこと尊敬してましたの! お願い、私にもお水を……あと、お風呂に入りたいですぅ」
媚びへつらう笑顔。 数日前まで私を嘲笑っていた女の変わり身の早さに、感心すら覚える。
「あら、ミリア様。光魔法で水くらい出せるのではなくて? ……まあいいでしょう。水は差し上げます。ですが、お風呂はありません。体を拭く布をお貸ししますので、ご自分でどうぞ」 「えぇーっ、そんなぁ……」
不満そうなミリアを放置し、私は次々と指示を出した。 重症者の隔離、トイレの設置、汚物の処理。 騎士団の陣地は、半日かけてようやく『人が住める場所』へと再生された。
◇
夕方。 『鉄の牙』の野営地に戻った私は、ドラム缶風呂の湯加減を見ていた。 戦場での入浴は贅沢品だが、衛生管理と士気向上のためには欠かせない。川から汲み上げた水を沸かし、順番に入浴させる。 もちろん、一番風呂は私だ。これは軍師としての特権である。
「ふぅ……生き返りますね」
簡易的な衝立の中で、温かいお湯に浸かる。 ハーブの香りが湯気に混じり、疲れが溶け出していくようだ。 外からは、順番待ちをする傭兵たちの賑やかな声が聞こえる。
「おい、次俺だぞ! 押すな!」 「軍師様の後のお湯だぞ、ありがたく浸かれよ!」 「変なこと言うな、殺されるぞ!?」
彼らの声には、以前のような荒みきった響きはない。 健康で、腹が満たされ、清潔であること。 それが人間にどれほどの余裕と活力を与えるか、彼らは身を持って知ったのだ。
風呂から上がり、髪を拭きながら外に出ると、傭兵たちが一斉に私に注目した。 そして、誰からともなく、敬礼――いや、それは礼拝に近いポーズを取った。
「軍師様……いや、聖母様! いいお湯でした!」 「あんたのおかげで、俺たち生きてる気がします!」 「一生ついていきます! 聖母様バンザイ!」
口々に叫ばれる感謝と崇拝の言葉。 中には拝み出す者までいる。 私は苦笑いしながら、濡れた髪をかき上げた。
「大袈裟ですよ。当たり前の生活環境を整えただけです」 「その『当たり前』が、俺たちには奇跡なんですよ」
ヴォルフガングが近づいてきて、私の肩にタオルをかけてくれた。 彼の目もまた、部下たちと同じように、熱い信頼の色を宿している。
「騎士団の連中を見て、つくづく思ったよ。強さってのは、剣の腕だけじゃねぇんだなって。……お前が守ってくれたのは、俺たちの命だけじゃねぇ。誇りだ」
泥にまみれ、汚物にまみれ、惨めに這いつくばる騎士たち。 対して、清潔な服を着て、温かい食事をとり、胸を張って立つ傭兵たち。 その対比は、彼らにとって何よりの自尊心となっていた。 自分たちは「野良犬」ではない。騎士よりも優れた、誇り高き戦士なのだと。
「……そう言っていただけると、苦労した甲斐があります」
私は素直に微笑んだ。 彼らの信頼は、私にとっても大きな武器になる。 私が「右」と言えば、彼らは地獄の底へも行くだろう。この結束力こそが、『鉄の牙』の真の強さだ。
「さて、と。これでこちらの地盤は固まりました」
私は表情を引き締め、ヴォルフガングに向き直った。
「団長。斥候からの報告によれば、敵軍も疫病で疲弊していますが、まだ撤退の兆しはありません。むしろ、追い詰められた獣のように、一発逆転を狙っている気配があります」 「ああ、こっちも同じだ。あの金ピカ野郎、水飲んで一息ついたら、また元気が戻ってきやがった」
ヴォルフガングが嫌そうに顔をしかめる。 フェルディナンドのことだ。 彼は回復するや否や、「これは敵の呪い魔法だ! 卑怯な手口には鉄槌を下さねばならん!」などと叫び散らしているらしい。自分の不衛生さが原因だとは、死んでも認めないつもりだ。
「焦り、ですね。汚名を返上しようとして、無謀な手に打って出るはずです」 「無謀な手って?」 「『夜襲』です」
私は夜の森を指差した。
「敵陣に気づかれずに接近し、奇襲をかける。成功すれば英雄ですが、失敗すれば……」 「全滅だな。今のあいつらの体力じゃ、夜の森を抜けるだけで一苦労だ」 「ええ。そして敵も、それを読んでいます。罠を張って待ち構えているでしょう」
目に見えるようだ。 闇雲に突撃し、伏兵に囲まれ、パニックに陥る騎士たちの姿が。
「どうする? 止めるか?」 「止めません。……いえ、止めても聞かないでしょう。『傭兵風情が口を出すな』と言われるのがオチです」
私は冷酷に切り捨てた。 契約は結んだが、それはあくまで物資の提供と指揮権の譲渡についてだ。彼の自殺行為まで止める義理はない。 むしろ、彼が失敗してくれた方が、私たちが全権を握る口実になる。
「ただし、彼らが全滅するのは困ります。適度なところで介入し、助け出す必要があります。……恩を売るチャンスは、多ければ多いほどいいですからね」 「へっ、やっぱりお前は悪女だなぁ。聖母の皮を被った悪魔だぜ」
ヴォルフガングが嬉しそうに笑い、私の頭をポンポンと撫でた。 無骨で、大きな手。 その温かさに、私は少しだけ心を許した。
「準備をしておきましょう。今夜か、明日か。……『祭り』が始まりますよ」
夜風が吹き抜ける。 湿気を含んだ風は、新たな血の匂いを予感させていた。 衛生という見えない盾で守られた私たちは、静かに牙を研ぐ。 愚かな騎士たちが自ら招く破滅の瞬間を、確実に刈り取るために。
「……臭いますね」
私はハンカチで口元を覆いながら、丘の上から風下にある王立騎士団の陣地を見下ろした。 風に乗って漂ってくるのは、単なる汗や泥の臭いではない。 排泄物、嘔吐物、そして腐った何かの強烈な悪臭。 それは、軍隊が崩壊する時の臭いだ。
「ああ、ひでぇ臭いだ。風向きが変わると飯が不味くなる」
隣に立つヴォルフガングも、顔をしかめて鼻をつまんでいる。 彼の屈強な体躯は、清潔なシャツと軽装の鎧に包まれていた。汗はかいているが、不快な脂汗ではない。健康的な労働の汗だ。
「向こうの様子、偵察部隊からの報告ではかなり深刻なようだな。『腹を下して動けない者が半数以上』だそうだ」 「予想通りですわ。いえ、予想よりも早いくらいです」
私は冷徹に分析する。 泥濘の戦いから一週間。 膠着状態が続く中、騎士団の陣地では「疫病」が爆発的に蔓延していた。 原因は明白だ。 彼らはトイレの場所を定めず、陣地のすぐそばの茂みや、あろうことか川の上流で用を足していた。その汚水が地下水や川に流れ込み、飲み水を汚染する。 さらに、泥まみれになった装備や衣服を洗わず、高温多湿のテントの中で密集して寝起きしている。 これでは、病気が流行らない方がおかしい。
「赤痢、あるいはコレラでしょうね。激しい下痢と嘔吐、高熱。脱水症状を起こせば、屈強な騎士でも三日で死にます」 「怖ぇなぁ。……剣で斬り合う方がよっぽどマシだぜ」
ヴォルフガングが身震いをする。 歴戦の傭兵である彼でさえ、目に見えない病原菌への恐怖は拭えないようだ。 だからこそ、私は徹底したのだ。
「団長、私たちの陣地の状況は?」 「完璧だ。お前の言いつけ通り、全員が守ってるぜ」
ヴォルフガングが胸を張って答える。 『鉄の牙』の野営地は、騎士団のそれとは雲泥の差だった。 まず、トイレは居住区から遠く離れた風下に設置し、深く穴を掘って使用後は必ず石灰と土を被せることを義務付けた。 飲み水は、川から汲んだものを必ず一度沸騰させ、冷ましてから飲む。生水は厳禁だ。 そして、食事の前とトイレの後には、貴重な酒(アルコール度数の高い蒸留酒)を薄めた水で手を洗わせている。
最初は「面倒くさい」「女々しい」と文句を言っていた傭兵たちも、隣の騎士団の惨状を見てからは、顔色を変えて私のルールを守るようになった。 なにせ、向こうからは昼夜を問わず、苦痛に満ちた呻き声と、汚物を垂れ流す音が聞こえてくるのだから。明日は我が身と思えば、手洗い一つにも真剣になるというものだ。
「現在、我が団の発症者はゼロ。腹痛を訴えた者が二名いましたが、単なる食べ過ぎでした」 「ハハハ! そりゃいい。元気な証拠だ」
ヴォルフガングが豪快に笑う。 健康こそが最大の武器。 敵軍もまた、同様の疫病に苦しんでいるという情報が入っている。彼らも傭兵主体とはいえ、長期の野営には慣れていない山岳兵だ。衛生観念は騎士団と大差ないだろう。 つまり今、この戦場で万全のコンディションを維持しているのは、私たち『鉄の牙』だけなのだ。
「さて、そろそろ『外交』の時間ですね。フェルディナンド様から、泣きつ……いえ、会談の要請が来ています」
私は嫌悪感を隠しきれない表情で、騎士団からの伝令書(少し湿っていて触るのも躊躇われた)をつまみ上げた。
「物資の援助要請でしょう。食料と、薬と、清潔な水を求めて」 「行くのか? 病気がうつるぞ」 「完全防備で行きます。それに、彼らの自滅をただ見ているだけでは、後の報酬交渉に響きますからね。『恩』を売っておくのも仕事のうちです」
私はマスク代わりの布を口元に巻き、革手袋をはめた。 ヴォルフガングも「やれやれ」と肩をすくめつつ、護衛のために大剣を背負う。
「へいへい、お供しますよ、聖母様」
最近、傭兵たちが私をそう呼ぶようになったのを、彼は面白がって使っている。 『聖母』。 ガラではないが、『悪女』と呼ばれるよりはマシかもしれない。
◇
王立騎士団の陣地は、地獄の様相を呈していた。 入り口のバリケードは崩れかけ、見張りの兵士は槍を支えにして辛うじて立っている状態だ。顔色は土気色で、目の下には濃いクマができている。 私たちが近づいても、制止する気力すらないようだ。
陣地の中に足を踏み入れると、悪臭はさらに強烈になった。 あちこちに吐瀉物が撒き散らされ、ハエの大群が黒い雲のように渦巻いている。 豪華だったテントは泥と汚れで変色し、中からは「水……水をくれ……」という力ない声が漏れてくる。
「……こりゃひでぇ。全滅じゃねぇか」
ヴォルフガングが眉をひそめる。 戦わずして壊滅。 これが、栄光ある王立騎士団の末路だ。
私たちは、一際大きな(そして一際汚れた)天幕へと向かった。団長であるフェルディナンドのテントだ。 入り口を守るはずの従者も姿が見えない。 勝手に中に入ると、そこには腐臭と香水の混じり合った、むせ返るような空気が充満していた。
「うぅ……気持ち悪い……誰か、水を……」
ベッド――ではなく、泥の上に敷かれた絨毯の上で、フェルディナンドがのたうち回っていた。 自慢の純銀の鎧は脱ぎ捨てられ、汗と泥にまみれたシャツ一枚の姿だ。 顔色は青白く、痩せこけて頬がこけている。かつての貴公子の面影はない。
その傍らでは、婚約者のミリアがヒステリックに叫んでいた。
「イヤァァ! 来ないで! 私に触らないでよ!」 「ミ、ミリア……頼む、背中をさすってくれ……」 「嫌よ! 汚い! 臭い! なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの!?」
彼女は自分のドレスの裾を捲り上げ、フェルディナンドから距離を取っていた。 愛だの恋だのと騒いでいた二人だが、極限状態になればこの有様だ。 私は冷めた目でその茶番劇を見下ろした。
「ごきげんよう、フェルディナンド様。お加減はいかがですか?」
私の声に、フェルディナンドがビクリと反応し、うつろな目でこちらを見た。
「エ、エリス……? なぜ、君がここに……」 「会談の要請を受けたので参りました。……ですが、お話ができる状態ではなさそうですね」 「た、助けてくれ……! 水だ、きれいな水をくれ……!」
彼は這いつくばって、私の方へ手を伸ばしてきた。 その手は泥と排泄物で汚れている。 ヴォルフガングが無言で私の前に立ち、彼を遮った。
「触るな。汚ねぇ手で俺のエリスに近づくんじゃねぇ」
その一喝に、フェルディナンドはビクリと縮み上がった。 私はヴォルフガングの背中越しに、彼に告げた。
「フェルディナンド様。これは『疫病』です。不衛生な環境と、生水の摂取が原因です。私が以前、騎士団の予算で浄水器の導入と衛生兵の増員を提案したのを覚えていますか? あなたはそれを『無駄な経費だ』と却下し、その金で鎧の装飾を増やしましたね」
「そ、そんなことはどうでもいい! 今すぐ薬をよこせ! 君たちは持っているんだろう!?」 「ええ、持っています。抗生物質代わりの薬草と、経口補水液の原料を。ですが、これらは我が団の『備蓄』です。無償で差し上げるわけにはいきません」
私は懐から、あらかじめ用意していた契約書を取り出した。
「治療薬と食料、そして清浄な水の提供。それらを行う代わりに、今後の作戦指揮権の一部譲渡と、追加報酬の支払いを約束していただきます。……サインを」
「なっ……! こ、この非常時に金の話か!? 君には人の心がないのか!」 「人の心があるからこそ、こうして交渉に来ているのです。でなければ、あなたたちが野垂れ死ぬのを高みの見物で終わらせていましたわ」
私は冷徹に言い放った。 実際、彼らを見捨てる選択肢もあった。だが、ここで騎士団が全滅すれば、王国の防衛に穴が開く。それは私の将来の平穏な生活(と年金代わりの領地経営)にとってマイナスだ。 彼らを生かさず殺さず、利用するのが最善手。
「くっ……わ、わかった! サインする! だから早く水を!」
フェルディナンドは震える手で羽ペンを握り、殴り書きのようなサインをした。 契約成立だ。 私は部下に合図をし、荷車から水樽と薬箱を運び込ませた。
「おい、お前ら! まずはその汚ぇテントから出ろ! 天日干しだ! 服も全部脱いで煮沸しろ!」
ヴォルフガングが騎士たちを怒鳴りつける。 普段なら反発する彼らも、今は従順な羊のように言うことを聞いた。生きるためには、プライドなど捨てざるを得ないのだ。
その様子を見ながら、ミリアが私にすり寄ってきた。
「エ、エリス様ぁ! 私、ずっとエリス様のこと尊敬してましたの! お願い、私にもお水を……あと、お風呂に入りたいですぅ」
媚びへつらう笑顔。 数日前まで私を嘲笑っていた女の変わり身の早さに、感心すら覚える。
「あら、ミリア様。光魔法で水くらい出せるのではなくて? ……まあいいでしょう。水は差し上げます。ですが、お風呂はありません。体を拭く布をお貸ししますので、ご自分でどうぞ」 「えぇーっ、そんなぁ……」
不満そうなミリアを放置し、私は次々と指示を出した。 重症者の隔離、トイレの設置、汚物の処理。 騎士団の陣地は、半日かけてようやく『人が住める場所』へと再生された。
◇
夕方。 『鉄の牙』の野営地に戻った私は、ドラム缶風呂の湯加減を見ていた。 戦場での入浴は贅沢品だが、衛生管理と士気向上のためには欠かせない。川から汲み上げた水を沸かし、順番に入浴させる。 もちろん、一番風呂は私だ。これは軍師としての特権である。
「ふぅ……生き返りますね」
簡易的な衝立の中で、温かいお湯に浸かる。 ハーブの香りが湯気に混じり、疲れが溶け出していくようだ。 外からは、順番待ちをする傭兵たちの賑やかな声が聞こえる。
「おい、次俺だぞ! 押すな!」 「軍師様の後のお湯だぞ、ありがたく浸かれよ!」 「変なこと言うな、殺されるぞ!?」
彼らの声には、以前のような荒みきった響きはない。 健康で、腹が満たされ、清潔であること。 それが人間にどれほどの余裕と活力を与えるか、彼らは身を持って知ったのだ。
風呂から上がり、髪を拭きながら外に出ると、傭兵たちが一斉に私に注目した。 そして、誰からともなく、敬礼――いや、それは礼拝に近いポーズを取った。
「軍師様……いや、聖母様! いいお湯でした!」 「あんたのおかげで、俺たち生きてる気がします!」 「一生ついていきます! 聖母様バンザイ!」
口々に叫ばれる感謝と崇拝の言葉。 中には拝み出す者までいる。 私は苦笑いしながら、濡れた髪をかき上げた。
「大袈裟ですよ。当たり前の生活環境を整えただけです」 「その『当たり前』が、俺たちには奇跡なんですよ」
ヴォルフガングが近づいてきて、私の肩にタオルをかけてくれた。 彼の目もまた、部下たちと同じように、熱い信頼の色を宿している。
「騎士団の連中を見て、つくづく思ったよ。強さってのは、剣の腕だけじゃねぇんだなって。……お前が守ってくれたのは、俺たちの命だけじゃねぇ。誇りだ」
泥にまみれ、汚物にまみれ、惨めに這いつくばる騎士たち。 対して、清潔な服を着て、温かい食事をとり、胸を張って立つ傭兵たち。 その対比は、彼らにとって何よりの自尊心となっていた。 自分たちは「野良犬」ではない。騎士よりも優れた、誇り高き戦士なのだと。
「……そう言っていただけると、苦労した甲斐があります」
私は素直に微笑んだ。 彼らの信頼は、私にとっても大きな武器になる。 私が「右」と言えば、彼らは地獄の底へも行くだろう。この結束力こそが、『鉄の牙』の真の強さだ。
「さて、と。これでこちらの地盤は固まりました」
私は表情を引き締め、ヴォルフガングに向き直った。
「団長。斥候からの報告によれば、敵軍も疫病で疲弊していますが、まだ撤退の兆しはありません。むしろ、追い詰められた獣のように、一発逆転を狙っている気配があります」 「ああ、こっちも同じだ。あの金ピカ野郎、水飲んで一息ついたら、また元気が戻ってきやがった」
ヴォルフガングが嫌そうに顔をしかめる。 フェルディナンドのことだ。 彼は回復するや否や、「これは敵の呪い魔法だ! 卑怯な手口には鉄槌を下さねばならん!」などと叫び散らしているらしい。自分の不衛生さが原因だとは、死んでも認めないつもりだ。
「焦り、ですね。汚名を返上しようとして、無謀な手に打って出るはずです」 「無謀な手って?」 「『夜襲』です」
私は夜の森を指差した。
「敵陣に気づかれずに接近し、奇襲をかける。成功すれば英雄ですが、失敗すれば……」 「全滅だな。今のあいつらの体力じゃ、夜の森を抜けるだけで一苦労だ」 「ええ。そして敵も、それを読んでいます。罠を張って待ち構えているでしょう」
目に見えるようだ。 闇雲に突撃し、伏兵に囲まれ、パニックに陥る騎士たちの姿が。
「どうする? 止めるか?」 「止めません。……いえ、止めても聞かないでしょう。『傭兵風情が口を出すな』と言われるのがオチです」
私は冷酷に切り捨てた。 契約は結んだが、それはあくまで物資の提供と指揮権の譲渡についてだ。彼の自殺行為まで止める義理はない。 むしろ、彼が失敗してくれた方が、私たちが全権を握る口実になる。
「ただし、彼らが全滅するのは困ります。適度なところで介入し、助け出す必要があります。……恩を売るチャンスは、多ければ多いほどいいですからね」 「へっ、やっぱりお前は悪女だなぁ。聖母の皮を被った悪魔だぜ」
ヴォルフガングが嬉しそうに笑い、私の頭をポンポンと撫でた。 無骨で、大きな手。 その温かさに、私は少しだけ心を許した。
「準備をしておきましょう。今夜か、明日か。……『祭り』が始まりますよ」
夜風が吹き抜ける。 湿気を含んだ風は、新たな血の匂いを予感させていた。 衛生という見えない盾で守られた私たちは、静かに牙を研ぐ。 愚かな騎士たちが自ら招く破滅の瞬間を、確実に刈り取るために。
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雪が積もる冷たい森の中で、この命が果ててしまった方がよほど幸福だとすら感じていた。
そもそも魔の森と呼ばれ恐れられている森だ。誰の助けも期待はできないし、ここに放置した人間たちは、見たこともない魔獣にルーナが食い殺されるのを期待していた。
ルーナは死を待つしか他になかった。
途切れそうになる意識の中で、ルーナは温かい温もりに包まれた夢を見ていた。
そして、ルーナがその温もりを感じた日。
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