「何の取り柄もない姉より、妹をよこせ」と婚約破棄されましたが、妹を守るためなら私は「国一番の淑女」にでも這い上がってみせます

放浪人

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第2話:蜘蛛の糸

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翌朝、私は朝日が昇ると同時に屋敷を飛び出した。

足元は、昨日までの履き古した革靴ではない。 母が遺した、唯一売らずに残しておいた夜会用のパンプスだ。 少し踵がすり減っているけれど、丁寧に磨き上げたおかげで、遠目にはそれなりの品に見えるはずだ。

背筋を伸ばし、顎を引く。 ドレスは一番まともな紺色のワンピースを選び、ほつれた裾は昨晩のうちにすべて縫い直した。

鏡の前で何度も練習した「余裕のある微笑み」を顔に貼り付ける。

私はベルンシュタイン伯爵家の長女、アリア。 没落寸前だろうが、借金まみれだろうが、心まで貧しくなってはいけない。 舐められたら終わりだ。 金貸しという人種は、弱みを見せた人間に決して金を出さないのだから。

「行ってきます、ミラ」

寝室で不安そうに私を見送る妹に、精一杯の強気なウィンクを投げる。

「夕方には、朗報を持って帰るわ」

そう言い残して、私は戦場――王都の金融街へと向かった。

          ◇

結果から言えば、それは惨敗だった。

「お引き取りください」

本日、五件目の銀行。 窓口の男性は、私の顔を見るなり、書類に目を通すふりをして冷たく言い放った。

「あの、まだ何もご説明しておりませんが……」

「説明など不要です、ベルンシュタイン令嬢。貴家の財務状況については、こちらの業界では有名な話ですから」

男性は眼鏡の位置を直し、迷惑そうに手で追い払う仕草をした。

「担保となる不動産はすでに抵当に入っている。美術品などの動産もない。収入源である領地からの税収は、昨年の不作で激減。……これでお金を貸せというのは、どぶに捨てろと言うのと同じです」

「ですが! 私には……私には、労働力があります。どんな仕事でもします。返済計画も立ててきました。どうか、この計画書だけでも見ていただけないでしょうか」

私は徹夜で作った羊皮紙の束をカウンターに押し出した。 そこには、私が家庭教師や刺繍の針子、あるいは翻訳の仕事などを掛け持ちして、十年間で完済するという計画が記されている。

しかし、男性は書類に触れようともしなかった。

「令嬢。貴族のお遊びのような労働で、金貨二千枚の利息すら払えるとお思いですか?」

「お遊びではありません! 私は本気です!」

「本気なら、まずはそのプライドを捨てて、どこかの富豪の愛人にでもなることですな。あなたの若さと、その……まあ、十人並みの容姿でも、物好きな年寄りはいるかもしれませんよ」

「なっ……」

言葉を失う私に、彼は冷笑を浴びせた。

「次は、身の丈に合った場所へ行くことですな。次の客がつかえています。どうぞ」

警備員が近づいてくる気配を感じ、私は唇を噛みしめてその場を去った。

銀行を出ると、外は冷たい雨が降り始めていた。

傘など持っていない。 私は濡れるのも構わず、次の目的地へと歩き出した。

銀行がだめなら、個人の投資家だ。 あるいは、かつて父と親交のあった貴族たち。 誰か一人くらい、手を差し伸べてくれる人がいるはずだ。

そう信じて、私は雨の中を走り回った。

          ◇

「あら、アリア様じゃない?」

とある貴族の邸宅のサロン。 かつて私の友人と称していた、男爵令嬢のパメラが、扇子で口元を隠して笑った。

「ずいぶんと……ワイルドな装いですこと。それが今の流行りなのかしら? 雨に濡れた子犬のようなスタイルが」

周囲に侍る令嬢たちが、くすくすと笑う。

私は濡れた髪をかき上げもせず、優雅にカーテシーをした。 水滴が床に落ちるが、気にしない。

「お久しぶりです、パメラ様。突然の訪問をお許しください」

「いいのよ。それで? 私にお金の無心に来たんですって?」

単刀直入な言葉に、胸が痛む。 しかし、ここでひるむわけにはいかない。

「はい。恥を忍んでお願いに参りました。どうか、金貨五百枚……いえ、百枚でも構いません。貸していただけないでしょうか。必ず、利息をつけてお返しします」

パメラはふうん、と興味なさそうに紅茶を一口飲んだ。

「お返ししますって、どうやって? 噂では、婚約者のカミロ様にも見放されたそうじゃない」

「……」

情報は早い。 社交界のネットワークは、悪評ほど光の速さで広まるものだ。

「かわいそうに。でもね、アリア様。私、あなたに貸す義理はないのよ」

パメラが立ち上がり、私に近づく。 甘い香水の匂いが、雨と埃の匂いがする私を包み込む。

「だって、あなた昔、私のドレスを『色が派手すぎる』って注意したことあったわよね?」

「それは……貴女が公的な式典に、舞踏会用のドレスを着て行こうとしていたから、マナーとして……」

「うるさいのよ!!」

パシャッ!

熱い液体が、私の顔にかかった。 パメラが持っていた紅茶だ。

「きゃっ、ごめんなさい。手が滑っちゃった」

パメラはわざとらしく驚いて見せたが、その目は笑っていた。

熱さと、甘ったるい匂いと、茶色いシミが広がるドレス。 私は立ち尽くすことしかできなかった。

「貧乏人が、私にマナーを説教しないでくださる? 今のあなたはね、そこにいる野良犬と同じなのよ。餌が欲しければ、もっと愛想よく尻尾を振りなさい」

「……っ」

「ああ、汚い。執事、塩をまいておいて。貧乏神が移るといけないわ」

追い出されるようにして屋敷の外に出された時、私はもう、涙すら出てこなかった。

悔しい。 惨めだ。 情けない。

でも、それ以上に、恐怖があった。

(どうしよう……)

これで十件目だ。 全滅だ。 金貨一枚たりとも手に入っていない。

雨は激しさを増し、私の体を芯まで冷やしていく。 空腹で目が回りそうだ。 朝から何も食べていない。

とぼとぼと歩いていると、いつの間にか下町の広場まで来ていた。 高級住宅街とは違い、ここは活気と雑多な喧騒に満ちている。 屋根のある掲示板の前に、雨宿りをする人々が集まっていた。

私はフラフラとそこへ吸い寄せられるように向かった。 雨をしのげる場所ならどこでもよかった。

ベンチの隅に座り込む。 ドレスは泥だらけで、もはや貴族の令嬢には見えないだろう。

「……おい、聞いたか? またあそこ、募集してるぜ」

背後で、男たちの話し声が聞こえた。 冒険者風の、荒っぽい男たちだ。

「あそこって、まさか……『氷の公爵』のとこか?」

ピクリ、と私の耳が反応する。 氷の公爵。 昨日、私が窓から見つめた、あの屋敷の主。

「ああ、そうだ。公爵邸の雑用係だそうだ。なんでも、前の奴が三日で逃げ出したんだとよ」

「三日? 長く持った方じゃねえか。その前は半日だったろ?」

男たちが下品に笑う。

「だよな。あそこの主、クラウス・フォン・ラインハルト公爵……ありゃ人間じゃねえよ。氷の彫像か、血の通ってない化け物だ」

「少しでもミスをすれば即解雇。視線一つで人を凍りつかせる。給金は破格だが、命が縮むって専らの噂だ」

「でもよ、給金はすげえぞ。前金だけで金貨五十枚。さらに一ヶ月勤め上げれば、ボーナスで金貨五百枚だとよ」

ガタッ。

私は勢いよく立ち上がった。 めまいがして視界が揺れるが、構っていられない。

私は男たちに詰め寄った。

「あ、あの!」

「うおっ!? なんだ姉ちゃん、びっくりさせんなよ」

「今の話……本当ですか?」

私の形相があまりに必死だったのか、男たちは少し引いている。 濡れ鼠で、紅茶のシミがついたドレスを着た女。 狂人だと思われても仕方がない。

「ほ、本当だよ。そこの掲示板に貼ってある……」

私は振り返り、掲示板に目を凝らした。

無数の依頼書の中に、一際上質な紙で書かれた求人票があった。 黒いインクで、几帳面な筆跡で書かれている。

『急募:住み込み雑用係  条件:健康な者。口の堅い者。     公爵家の規律を絶対遵守できる者。  報酬:基本給 金貨五十枚(前払い可)。     ただし、試用期間を一ヶ月とする。     一ヶ月間の勤務態度により、特別報酬を加算する』

金貨……五十枚。 前払いで。

これだ。

二千枚には遠く及ばない。 だが、五十枚あれば、とりあえず今すぐの食費と、カミロへの手付け金くらいにはなるかもしれない。 それに、「特別報酬」という言葉。 交渉次第では、もっと引き出せる可能性もある。

「……これだわ」

私は震える手で、その求人票を剥ぎ取った。

「おいおい姉ちゃん、やめとけよ。あそこは『淑女の墓場』って呼ばれてるんだぜ? 見目麗しい令嬢たちが、公爵様に近づこうとして何人も玉砕して、泣いて帰ってきてるんだ」

「そうだよ。あんたみたいな……その、苦労してそうな人が行っても、門前払いだろ」

男たちの忠告は、もっともだ。 今の私は、淑女の墓場どころか、人生の墓場に片足を突っ込んでいる。

けれど。

「ありがとうございます。でも、私にはこれしかないの」

私は男たちに深々と頭を下げた。 なりふり構っている場合ではない。

地獄の底に垂らされた、一本の蜘蛛の糸。 それがどんなに細くても、どんなに凍てついていても、私はそれを掴むしかないのだ。

「待ってて、ミラ……!」

私は求人票を胸に抱きしめ、雨の中を走り出した。

          ◇

屋敷に戻ったのは、日が傾きかけた頃だった。 ずぶ濡れの私を見て、ミラが悲鳴を上げた。

「お姉ちゃん! どうしたの、その恰好!」

「ちょっと、雨に降られちゃって。大丈夫よ」

私は震える体で、ミラを抱きしめた。 温かい。 この温もりだけは、何があっても守らなければならない。

「ミラ、聞いて。仕事が見つかったの」

「えっ、本当?」

「ええ。住み込みの、とてもお給料の良い仕事よ。……ただ、少し遠いの」

嘘ではない。 公爵邸は王都の一等地にあるが、心理的な距離は果てしなく遠い。

「だから、しばらくここには帰れないわ。ミラには、隠れ家に移ってもらうことになる」

「隠れ家……?」

「ええ。カミロがいつまた来るか分からないもの。この屋敷は危険よ」

私はミラの手を引き、屋敷の裏手にある古びた納屋へと連れて行った。 そこには、かつて庭師が使っていた地下室への入り口が隠されている。 狭くて暗いが、換気口はあるし、誰もここには気づかないはずだ。

「ここなら安全よ。食料と水は、一ヶ月分運び込んでおくわ。私が必ず迎えに来るまで、絶対に出てきちゃだめよ」

「やだ……やだよ、お姉ちゃん!」

ミラが私の袖を掴んで泣き出した。

「暗いよ、怖いよ……お姉ちゃんと一緒がいい! 私、カミロ様のところへ行く! 私が行けば、お姉ちゃんは苦労しなくて済むんでしょ!?」

「だめっ!!」

私は思わず大きな声を出してしまった。 ミラが驚いて肩を跳ねさせる。

私はしゃがみ込み、ミラの目線の高さに合わせて、彼女の両肩を強く掴んだ。

「ミラ、よく聞いて。あいつのところへ行ったら、あなたは一生カゴの中の鳥よ。いえ、もっとひどい扱いを受けるかもしれない。そんなこと、私が死んでも許さない」

「お姉ちゃん……」

「私はね、あなたに幸せになってほしいの。好きな人と恋愛をして、素敵な結婚をして、笑顔で生きてほしいの。そのためなら、私は悪魔にだって魂を売るわ」

私の目を見て、ミラが息を呑む。 そこに宿る決意の強さを感じ取ったのだろう。

「……分かった。私、我慢する」

ミラは涙を拭い、小さく頷いた。

「お姉ちゃんが迎えに来てくれるまで、ここでいい子にしてる。だから……絶対に帰ってきてね」

「ええ。約束するわ」

私たちは小指を絡ませ、最後の抱擁を交わした。

重い地下室の扉を閉める時、胸が張り裂けそうだった。 暗闇に残していく妹。 ごめんね。 でも、これが最善の方法なの。

私は扉に鍵をかけ、その上から枯草を被せてカモフラージュした。

振り返ると、夕闇の中に、巨大な怪物の城のように公爵邸の方角が黒く浮かび上がっていた。

「さあ……行くわよ」

私は頬を両手でパンッ! と叩き、気合を入れた。

公爵邸までは歩いて一時間。 濡れた服が乾き始め、寒気と共に生乾きの嫌な臭いがしてくる。 最悪のコンディションだ。 でも、心は不思議と凪いでいた。

もう、失うものなんて何もない。 あるのは、前に進む意志だけだ。

          ◇

ラインハルト公爵邸の正門前に立った時、私はその威圧感に圧倒された。

高い鉄格子の門。 その向こうに広がる、手入れの行き届いた広大な庭園。 そして、闇夜に青白く浮かび上がる巨大な屋敷。 窓からの光は少なく、まるで主の心を映すように冷ややかだ。

門の前には、すでに長い行列ができていた。 昼間の男たちが言っていたことは本当だったらしい。

「ちっ、なんだよ。今日も採用なしかよ」 「あんなの、人が務まる仕事じゃねえ!」

ちょうど門から出てきた数人の男女が、捨て台詞を吐きながら去っていくのが見えた。 中には、顔を覆って泣いているドレス姿の令嬢もいる。

「ひっ、ひどい……あんな言い方、あんまりだわ……」 「私の家柄をなんだと思っているの……!」

どうやら、面接という名の屠殺が行われているらしい。

私は行列の最後尾に並んだ。 周りは、一攫千金を狙うゴロツキのような男や、私と同じように生活に困窮していそうな女性、そして、公爵狙いであろう着飾った令嬢たちが入り乱れている。

私の番が来るまで、二時間近くかかった。 その間も、次々と人が中に入っては、青ざめた顔で出てくる。 まるで、怪物に魂を吸い取られた抜け殻の行進だ。

「次。百八番」

鉄の門の隙間から、低い声が呼ばれた。 私の番号だ。

「はい!」

私は大きく返事をして、門をくぐった。

案内されたのは、屋敷の本館ではなく、別棟の待機室のような場所だった。 そこには、執事服を着た初老の男性が立っていた。 背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、モノクルをかけた瞳はガラス玉のように感情がない。

この屋敷の執事長だろうか。

「名前と、志望動機を」

彼は手元の書類に目を落としたまま、事務的に尋ねた。

「アリア・ベルンシュタインです。志望動機は……金です」

周囲の空気が凍ったのが分かった。 後ろに控えていた他の使用人たちが、ぎょっとした顔で私を見る。 執事長の手がピタリと止まり、ゆっくりと顔を上げた。

「……金、ですか」

「はい。金が必要です。そのためなら、どんな過酷な労働にも耐えうる覚悟があります」

私は嘘をつかないことに決めていた。 「公爵様をお慕いして」とか「公爵家の栄光に貢献したく」などという美辞麗句は、この冷徹な眼差しの前では見透かされるだけだ。

執事長は、私を頭の先から足の先まで、じっくりと観察した。 泥で汚れた靴。 シミのあるドレス。 雨に濡れて乱れた髪。 そして、血走った目。

普通なら、門前払いだ。 だが、彼は少しだけ目を細めた。

「正直なのは結構ですが……ベルンシュタイン伯爵家といえば、借金で首が回らないと聞いています。貴族の令嬢に、雑巾がけが務まるとでも?」

「務まらなければ、その場で首にしていただいて構いません。ですが、私は今日、ここに来るためにプライドを捨ててきました。今の私には、守るべきプライドよりも、守らなければならないものがあるのです」

私は一歩前に出た。 執事長の威圧感に負けないように、真っ直ぐに彼を見据える。

「手も、足も、頭も、すべて使います。泥水でもすすります。ですから……どうか、公爵閣下にお目通りをお許しください」

沈黙が流れた。 永遠にも感じる数秒間。

執事長はふっと息を吐き、モノクルの位置を直した。

「……閣下は、気まぐれでいらっしゃいます。今の貴方のような、なりふり構わぬ野良猫のような目をした人間を、面白がるかもしれません」

「え……」

「ついてきなさい。ただし、閣下の不興を買えば、命の保証はしかねますよ」

「望むところです」

執事長が踵を返し、重厚な扉を開ける。 その先には、本館へと続く長い廊下が伸びていた。 磨き上げられた大理石の床が、私の汚れた靴を映し出す。

心臓が早鐘を打つ。 いよいよだ。 この先に、ラスボスがいる。

『氷の公爵』クラウス・フォン・ラインハルト。

私は拳を握りしめ、その冷たい廊下へと足を踏み入れた。

背後で扉が閉まる音が、退路を断つ重い音として響いた。

(待っていて、ミラ。必ず……必ず、この糸を黄金の綱に変えてみせるから)

私は暗い廊下の先にある、一筋の光を見据えて歩き出した。
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