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第1話:「姉はいらない、妹をよこせ」
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カチャン、と乾いた音が、静まり返った居間に響く。
古びたティーカップがソーサーに戻される音だ。 ただそれだけの音が、今の私には処刑台の合図のように聞こえた。
「……渋いな」
対面に座る男――私の婚約者であるカミロ・バンデラス子爵が、顔をしかめて呟く。
「申し訳ありません、カミロ様。茶葉がもう、これしかなくて……」
「フン。腐っても歴史あるベルンシュタイン伯爵家が聞いて呆れる。出がらしのような茶しか出せんとは」
カミロ様は、わざとらしくはぁ、と大きなため息をついた。
その横柄な態度に、私は唇を噛む。
テーブルの上に置かれた私の手は、ささくれだらけで、爪も短く切り揃えられている。貴族の令嬢の手ではない。日々の労働と、金策に走り回る生活が刻み込まれた、生活感に溢れた手だ。
対して、カミロ様の手は白く、滑らかで、指には高価な宝石のついた指輪が光っている。
この対比こそが、今の私たちの関係そのものだった。
「それで? 話というのはなんだ、アリア。僕も暇じゃないんだが」
カミロ様が組んだ足を揺らしながら、面倒くさそうに私を見る。
その視線には、かつてのような甘い色は欠片もない。あるのは、路傍の石を見るような冷徹な侮蔑と、値踏みするような下卑た光だけ。
私は膝の上で拳を握りしめ、震える声を必死に抑え込んで口を開いた。
「……借金の返済期限について、ご相談させていただきたく……」
「ああ、そのことか」
カミロ様はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「今月末だったな。金貨二千枚。用意できたのか?」
「……いえ、その……」
「なんだ、まだなのか」
「今の我が家には、売れるような資産はもう残っておりません。屋敷の使用人も最小限にし、私も妹のミラも、食べるものすら切り詰めて……」
「そんな貧乏話はどうでもいい」
カミロ様が私の言葉を遮る。 冷たい言葉が、胸に突き刺さる。
「僕が聞きたいのは、金があるのか、ないのか。それだけだ」
「……ありません。ですから、どうか期限を……あと半年、いえ、三ヶ月だけでいいのです。待っていただけないでしょうか」
私は頭を下げた。 プライドも何りも捨てて、ただひたすらに懇願する。
亡き両親が残した莫大な借金。 連帯保証人となっていたカミロ様の家、バンデラス子爵家がその肩代わりをしてくれたのは、三年前のことだ。
その代償として、私はカミロ様と婚約した。 没落寸前の伯爵家と、新興貴族で金はあるが箔が欲しい子爵家。 政略結婚だったが、当時のカミロ様は優しかった。
『君のような慎み深い女性が妻なら、僕も安心だ』
そう言って笑ってくれたあの笑顔は、もうどこにもない。
「待つ? これ以上か?」
カミロ様の声が、一段低くなる。
「アリア。お前、自分の立場が分かっているのか?」
「……はい」
「お前の家はもう泥船だ。沈むのを待つだけのな。僕が今まで温情をかけてやってきたのは、お前が『伯爵家の娘』というブランドを持っていたからだ。だがな、最近じゃ社交界でもお前の家の噂でもちきりだぞ。『貧乏伯爵』『借金まみれ』ってな」
カミロ様が身を乗り出し、私の顔を覗き込む。
整った顔立ちが、今は悪魔のように歪んで見えた。
「そんな噂のある家の娘を妻に迎えてみろ。僕まで笑いものだ。それに……」
彼は私の顔をじろじろと眺め、あからさまに嘲笑した。
「お前、最近ますます地味になったんじゃないか? 肌はカサカサ、髪はパサパサ。服だって何年前の流行だ? まるで雑巾みたいなドレスだな」
「っ……!」
雑巾。 その言葉に、胸がえぐられるような痛みが走る。
確かに、今の私は見る影もないだろう。 化粧品を買う金などない。ドレスを新調する余裕もない。 妹のミラにだけは、なんとか綺麗な服を着せてやりたくて、私は自分のものを全て売り払ったのだから。
「……申し訳、ありません」
「謝罪なんていらないんだよ。欲しいのは金だ」
カミロ様は背もたれに深く体を預け、天井を見上げた。
「……まあ、いい。金がないなら、ないで」
「え……?」
予想外の言葉に、私は顔を上げた。 許してくれるのだろうか。 やはり、かつての優しさは嘘ではなかったのだろうか。
一筋の希望が胸に灯った、その時だった。
「代わりのものを貰えばいいだけの話だ」
カミロ様の唇が、三日月のように吊り上がる。
「代わりの、もの……?」
「ああ。お前には無理でも、この家にはまだ『価値のあるもの』が残っているだろう?」
価値のあるもの? 絵画も、宝石も、壺も、すべて売り払った。 この屋敷だって、抵当に入っているようなものだ。 一体、何が――。
その時。 居間の扉が控えめにノックされた。
「お姉様……お客様に、お茶菓子をお持ちしました」
鈴を転がしたような、愛らしい声。
扉が開き、お盆を持った少女が入ってくる。
プラチナブロンドの髪が、窓から差し込む光を受けてキラキラと輝く。 大きな青い瞳は、不安そうに揺れながらも、見る者を惹きつける清廉さを宿している。 ツギハギだらけの私の服とは違い、私が夜なべして仕立て直した水色のドレスが、彼女の白い肌によく似合っていた。
私の最愛の妹、ミラだ。
「……ミラ」
私が名を呼ぶより早く。
「おお……!」
カミロ様が、弾かれたように立ち上がった。 その目は、今まで私に向けていたものとは全く違う。 欲望と、執着と、粘着質な熱を帯びて、ミラを舐めるように見回している。
「これだ……これこそが、宝石だ」
カミロ様が呟く。
嫌な予感がした。 背筋を冷たい汗が伝う。 心臓が早鐘を打ち、警鐘を鳴らす。
カミロ様は、ミラの元へと歩み寄ると、彼女の細い手首を無遠慮に掴んだ。
「きゃっ!?」
「ミラ!」
私が叫んで立ち上がろうとするより早く、カミロ様はミラを引き寄せ、その頬に自分の顔を近づけた。
「いい匂いだ……貧乏生活をしていても、やはり素材が違うな。姉とは大違いだ」
「は、離してください……!」
ミラが怯えて身をよじるが、カミロ様は離さない。 むしろ、その抵抗を楽しむかのように、さらに強く抱き寄せる。
「おい、アリア」
ミラを拘束したまま、カミロ様が私を振り返る。
その顔には、醜悪な笑みが張り付いていた。
「提案だ。この借金、帳消しにしてやってもいいぞ」
「……え?」
「その代わり――婚約者を変更しよう」
時間が、止まった気がした。
婚約者を、変更?
「ど、どういう……意味でしょうか」
「言葉通りの意味だ。何の取り柄もない、地味で貧乏臭いお前はいらない」
カミロ様は、掴んでいるミラを、まるで商品のように私の前に突き出した。
「代わりに、この妹をよこせ」
「――は?」
思考が真っ白になる。 何を言われているのか、理解できなかった。 理解したくなかった。
「ミラを、よこせ……?」
「そうだ。美しいミラなら、僕の妻にふさわしい。いや、妻じゃなくてもいいな。愛人として囲ってもいい。とにかく、この美しい娘を僕に差し出せば、あの莫大な借金はチャラにしてやる」
カミロ様は、ニタニタと笑いながら、ミラのプラチナブロンドの髪に指を這わせる。 ミラは恐怖で顔を青ざめ、涙をいっぱいに溜めて私を見つめている。
「お、お姉ちゃん……助けて……」
その震える声が、私の脳髄を貫いた。
プツン。
何かが切れる音がした。
それは、私がこれまで必死に繋ぎ止めてきた「理性」であり、「貴族としての矜持」であり、「カミロ様への最後の敬意」だった。
「……ふざけるな」
私の口から、低い声が漏れた。
「ん? なんだ?」
「ふざけるなと言ったのよ!!」
私はテーブルを力任せに叩いた。 ガシャーン! 使い古したティーカップが跳ね上がり、床に落ちて砕け散る。
その音に、カミロ様が驚いて目を丸くした。 今まで従順で、何を言われても耐えてきた私が、初めて感情を爆発させたからだ。
「あ、アリア……? 貴様、気が狂ったか?」
「狂っているのは貴方よ、カミロ・バンデラス!」
私は彼を指差し、睨みつけた。 腹の底から湧き上がる怒りで、視界が赤く染まるようだ。
「私を侮辱するのはいい。私の容姿を笑うのも、私の家を馬鹿にするのも、甘んじて受け入れましょう。私が無力なのは事実だから! でも……!」
私は一歩、また一歩とカミロ様に詰め寄る。 その剣幕に圧されたのか、カミロ様がたじろぐ。
「ミラだけは……この子だけは、絶対に渡さない!!」
「な、何を……」
「妹は私の命よ! 私の宝よ! それを、借金のカタに? 愛人に? よくもそんな汚らわしい口が利けたものね!」
「き、貴様……立場が分かっているのか!? 借金を返せないなら、お前たちに拒否権なんかないんだぞ!」
「いいえ、あります!」
私はミラの手首を掴んでいたカミロ様の手を、力づくで振りほどいた。 ミラを背後に庇い、カミロ様と対峙する。
身長差はある。 力の差もある。 権力の差は、もっとある。
けれど、今の私は、一国の軍隊を相手にしてでも引かない覚悟があった。
「借金は返します。金貨二千枚でしょう? 耳を揃えて返してやるわよ!」
「は、ははっ! 何を寝言を! お前にそんな当てがあるわけがないだろう!」
「今はなくとも、作ってみせる! 私の人生すべてを懸けてでも!」
私の目には、殺気すら宿っていたかもしれない。 カミロ様が、ひっ、と小さく息を呑んで後ずさった。
「そ、そこまで言うなら……やってみろ」
カミロ様は、震える手でハンカチを取り出し、額の汗を拭った。 プライドを傷つけられた怒りと、私の異様な迫力への恐怖が入り混じった顔をしている。
「だがな、期限は待たんぞ。今月末だ」
「……ええ、結構よ」
「あと一ヶ月だぞ!? 一ヶ月で金貨二千枚など、まともな方法で稼げるわけがない!」
「稼いでみせます」
私はカミロ様を真っ直ぐに見据え、言い放った。
「私がどんな手を使おうと、地獄の底を這いずり回ろうと、必ず金を用意します。だから二度と、その汚い手でミラに触れないで」
「……っ、後悔するぞ、アリア!」
カミロ様は顔を真っ赤にして叫んだ。
「一ヶ月後だ! 一ヶ月後の正午、私が再びここに来る! その時までに金がなければ、ミラは力づくで連れて行くからな! 契約不履行で、お前も牢獄行きだ!」
「望むところよ。とっとと出て行って!」
「くそっ、薄気味悪い女だ! これだから不美人は嫌いなんだ!」
カミロ様は捨て台詞を吐き、逃げるように部屋を出て行った。 バタン! と乱暴に扉が閉まる音が、再び静寂を連れてくる。
部屋に残されたのは、私とミラ、そして砕け散ったティーカップの残骸だけ。
「……っ」
緊張が解けた瞬間、膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちそうになった。
「お姉ちゃん!」
ミラが駆け寄り、私を支えてくれる。 その温もりが、震える体に染み渡る。
「ごめんね、お姉ちゃん……私のせいで……」
ミラが泣きじゃくる。 その涙を、私は親指で優しく拭った。
「泣かないで、ミラ。あなたは何も悪くないの」
「でも……金貨二千枚なんて……どうするの? お屋敷を売っても足りないよ……」
「大丈夫」
私は自分に言い聞かせるように、力強く頷いた。
「必ずなんとかなる。なんとかしてみせる」
嘘だった。 当てなんて、何一つない。 金貨二千枚なんて大金、普通の貴族が一生かかっても稼げるかどうかの金額だ。 それを一ヶ月で? 常識で考えれば、不可能だ。
けれど。
(渡さない……絶対に)
ミラの純粋な瞳を見る。 この子は、希望だ。 泥沼のような私の人生の中で、唯一輝く光だ。
あんな男の慰み者にするくらいなら、私が悪魔に魂を売った方がマシだ。
私は立ち上がった。 足元の陶器の破片を踏みしめる。 ジャリ、と音がした。
その痛みすら、今の私には心地よかった。 それが、私の覚悟をより鮮明にしてくれるからだ。
「ミラ、聞いて」
私はミラの肩を掴み、その瞳を覗き込んだ。
「私はね、決めたの」
「お姉ちゃん……?」
「『何の取り柄もない姉』? 『地味な不美人』? ええ、そうよ。カミロの言う通りだわ。今の私は、ただの無力な没落令嬢よ」
鏡に映る自分を想像する。 色はくすみ、目は死んだ魚のように濁り、ドレスはボロボロ。 誰がどう見ても、惨めな敗北者だ。
でも。
私の腹の底で、どす黒く、熱い炎が渦を巻いているのが分かった。
それは『怒り』だ。 理不尽への怒り。 無力な自分への怒り。 そして、妹を侮辱されたことへの、許しがたい激怒だ。
「でもね、見ていなさい。あいつが腰を抜かすような女になってやるわ」
私は窓へと歩み寄り、カーテンを乱暴に開け放った。 夕日が差し込み、薄暗い部屋を赤く染め上げる。
「金も、地位も、名誉も、全部手に入れてやる。ミラを守るためなら、私は……」
窓の外、遠くに見える王都の中心。 そこに聳え立つ、白亜の王城と、それを取り囲む大貴族たちの屋敷を見据える。
噂で聞いたことがある。 この国には、誰もが恐れる『氷の公爵』がいると。 冷徹で、無慈悲で、だが王家をも凌ぐ権力と財力を持つ男。 その屋敷では、あまりの厳しさに使用人が一日ともたずに逃げ出すという。
「……『国一番の淑女』にだって、這い上がってみせるわ」
私は誓った。 これは契約だ。 私自身と交わす、血の契約だ。
残り三十日。 私の、命を削る戦いが始まる。
窓ガラスに映る私の顔は、もはや地味なだけの娘ではなかった。 獲物を狙う獣のような、飢えた目をしていた。
(待っていなさい、カミロ。そして世界)
私はスカートの裾を翻し、ミラに向かって不敵に微笑んでみせた。
「さあ、忙しくなるわよ、ミラ」
ここからが、私の――私たちの、大逆転劇の幕開けだ。
古びたティーカップがソーサーに戻される音だ。 ただそれだけの音が、今の私には処刑台の合図のように聞こえた。
「……渋いな」
対面に座る男――私の婚約者であるカミロ・バンデラス子爵が、顔をしかめて呟く。
「申し訳ありません、カミロ様。茶葉がもう、これしかなくて……」
「フン。腐っても歴史あるベルンシュタイン伯爵家が聞いて呆れる。出がらしのような茶しか出せんとは」
カミロ様は、わざとらしくはぁ、と大きなため息をついた。
その横柄な態度に、私は唇を噛む。
テーブルの上に置かれた私の手は、ささくれだらけで、爪も短く切り揃えられている。貴族の令嬢の手ではない。日々の労働と、金策に走り回る生活が刻み込まれた、生活感に溢れた手だ。
対して、カミロ様の手は白く、滑らかで、指には高価な宝石のついた指輪が光っている。
この対比こそが、今の私たちの関係そのものだった。
「それで? 話というのはなんだ、アリア。僕も暇じゃないんだが」
カミロ様が組んだ足を揺らしながら、面倒くさそうに私を見る。
その視線には、かつてのような甘い色は欠片もない。あるのは、路傍の石を見るような冷徹な侮蔑と、値踏みするような下卑た光だけ。
私は膝の上で拳を握りしめ、震える声を必死に抑え込んで口を開いた。
「……借金の返済期限について、ご相談させていただきたく……」
「ああ、そのことか」
カミロ様はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「今月末だったな。金貨二千枚。用意できたのか?」
「……いえ、その……」
「なんだ、まだなのか」
「今の我が家には、売れるような資産はもう残っておりません。屋敷の使用人も最小限にし、私も妹のミラも、食べるものすら切り詰めて……」
「そんな貧乏話はどうでもいい」
カミロ様が私の言葉を遮る。 冷たい言葉が、胸に突き刺さる。
「僕が聞きたいのは、金があるのか、ないのか。それだけだ」
「……ありません。ですから、どうか期限を……あと半年、いえ、三ヶ月だけでいいのです。待っていただけないでしょうか」
私は頭を下げた。 プライドも何りも捨てて、ただひたすらに懇願する。
亡き両親が残した莫大な借金。 連帯保証人となっていたカミロ様の家、バンデラス子爵家がその肩代わりをしてくれたのは、三年前のことだ。
その代償として、私はカミロ様と婚約した。 没落寸前の伯爵家と、新興貴族で金はあるが箔が欲しい子爵家。 政略結婚だったが、当時のカミロ様は優しかった。
『君のような慎み深い女性が妻なら、僕も安心だ』
そう言って笑ってくれたあの笑顔は、もうどこにもない。
「待つ? これ以上か?」
カミロ様の声が、一段低くなる。
「アリア。お前、自分の立場が分かっているのか?」
「……はい」
「お前の家はもう泥船だ。沈むのを待つだけのな。僕が今まで温情をかけてやってきたのは、お前が『伯爵家の娘』というブランドを持っていたからだ。だがな、最近じゃ社交界でもお前の家の噂でもちきりだぞ。『貧乏伯爵』『借金まみれ』ってな」
カミロ様が身を乗り出し、私の顔を覗き込む。
整った顔立ちが、今は悪魔のように歪んで見えた。
「そんな噂のある家の娘を妻に迎えてみろ。僕まで笑いものだ。それに……」
彼は私の顔をじろじろと眺め、あからさまに嘲笑した。
「お前、最近ますます地味になったんじゃないか? 肌はカサカサ、髪はパサパサ。服だって何年前の流行だ? まるで雑巾みたいなドレスだな」
「っ……!」
雑巾。 その言葉に、胸がえぐられるような痛みが走る。
確かに、今の私は見る影もないだろう。 化粧品を買う金などない。ドレスを新調する余裕もない。 妹のミラにだけは、なんとか綺麗な服を着せてやりたくて、私は自分のものを全て売り払ったのだから。
「……申し訳、ありません」
「謝罪なんていらないんだよ。欲しいのは金だ」
カミロ様は背もたれに深く体を預け、天井を見上げた。
「……まあ、いい。金がないなら、ないで」
「え……?」
予想外の言葉に、私は顔を上げた。 許してくれるのだろうか。 やはり、かつての優しさは嘘ではなかったのだろうか。
一筋の希望が胸に灯った、その時だった。
「代わりのものを貰えばいいだけの話だ」
カミロ様の唇が、三日月のように吊り上がる。
「代わりの、もの……?」
「ああ。お前には無理でも、この家にはまだ『価値のあるもの』が残っているだろう?」
価値のあるもの? 絵画も、宝石も、壺も、すべて売り払った。 この屋敷だって、抵当に入っているようなものだ。 一体、何が――。
その時。 居間の扉が控えめにノックされた。
「お姉様……お客様に、お茶菓子をお持ちしました」
鈴を転がしたような、愛らしい声。
扉が開き、お盆を持った少女が入ってくる。
プラチナブロンドの髪が、窓から差し込む光を受けてキラキラと輝く。 大きな青い瞳は、不安そうに揺れながらも、見る者を惹きつける清廉さを宿している。 ツギハギだらけの私の服とは違い、私が夜なべして仕立て直した水色のドレスが、彼女の白い肌によく似合っていた。
私の最愛の妹、ミラだ。
「……ミラ」
私が名を呼ぶより早く。
「おお……!」
カミロ様が、弾かれたように立ち上がった。 その目は、今まで私に向けていたものとは全く違う。 欲望と、執着と、粘着質な熱を帯びて、ミラを舐めるように見回している。
「これだ……これこそが、宝石だ」
カミロ様が呟く。
嫌な予感がした。 背筋を冷たい汗が伝う。 心臓が早鐘を打ち、警鐘を鳴らす。
カミロ様は、ミラの元へと歩み寄ると、彼女の細い手首を無遠慮に掴んだ。
「きゃっ!?」
「ミラ!」
私が叫んで立ち上がろうとするより早く、カミロ様はミラを引き寄せ、その頬に自分の顔を近づけた。
「いい匂いだ……貧乏生活をしていても、やはり素材が違うな。姉とは大違いだ」
「は、離してください……!」
ミラが怯えて身をよじるが、カミロ様は離さない。 むしろ、その抵抗を楽しむかのように、さらに強く抱き寄せる。
「おい、アリア」
ミラを拘束したまま、カミロ様が私を振り返る。
その顔には、醜悪な笑みが張り付いていた。
「提案だ。この借金、帳消しにしてやってもいいぞ」
「……え?」
「その代わり――婚約者を変更しよう」
時間が、止まった気がした。
婚約者を、変更?
「ど、どういう……意味でしょうか」
「言葉通りの意味だ。何の取り柄もない、地味で貧乏臭いお前はいらない」
カミロ様は、掴んでいるミラを、まるで商品のように私の前に突き出した。
「代わりに、この妹をよこせ」
「――は?」
思考が真っ白になる。 何を言われているのか、理解できなかった。 理解したくなかった。
「ミラを、よこせ……?」
「そうだ。美しいミラなら、僕の妻にふさわしい。いや、妻じゃなくてもいいな。愛人として囲ってもいい。とにかく、この美しい娘を僕に差し出せば、あの莫大な借金はチャラにしてやる」
カミロ様は、ニタニタと笑いながら、ミラのプラチナブロンドの髪に指を這わせる。 ミラは恐怖で顔を青ざめ、涙をいっぱいに溜めて私を見つめている。
「お、お姉ちゃん……助けて……」
その震える声が、私の脳髄を貫いた。
プツン。
何かが切れる音がした。
それは、私がこれまで必死に繋ぎ止めてきた「理性」であり、「貴族としての矜持」であり、「カミロ様への最後の敬意」だった。
「……ふざけるな」
私の口から、低い声が漏れた。
「ん? なんだ?」
「ふざけるなと言ったのよ!!」
私はテーブルを力任せに叩いた。 ガシャーン! 使い古したティーカップが跳ね上がり、床に落ちて砕け散る。
その音に、カミロ様が驚いて目を丸くした。 今まで従順で、何を言われても耐えてきた私が、初めて感情を爆発させたからだ。
「あ、アリア……? 貴様、気が狂ったか?」
「狂っているのは貴方よ、カミロ・バンデラス!」
私は彼を指差し、睨みつけた。 腹の底から湧き上がる怒りで、視界が赤く染まるようだ。
「私を侮辱するのはいい。私の容姿を笑うのも、私の家を馬鹿にするのも、甘んじて受け入れましょう。私が無力なのは事実だから! でも……!」
私は一歩、また一歩とカミロ様に詰め寄る。 その剣幕に圧されたのか、カミロ様がたじろぐ。
「ミラだけは……この子だけは、絶対に渡さない!!」
「な、何を……」
「妹は私の命よ! 私の宝よ! それを、借金のカタに? 愛人に? よくもそんな汚らわしい口が利けたものね!」
「き、貴様……立場が分かっているのか!? 借金を返せないなら、お前たちに拒否権なんかないんだぞ!」
「いいえ、あります!」
私はミラの手首を掴んでいたカミロ様の手を、力づくで振りほどいた。 ミラを背後に庇い、カミロ様と対峙する。
身長差はある。 力の差もある。 権力の差は、もっとある。
けれど、今の私は、一国の軍隊を相手にしてでも引かない覚悟があった。
「借金は返します。金貨二千枚でしょう? 耳を揃えて返してやるわよ!」
「は、ははっ! 何を寝言を! お前にそんな当てがあるわけがないだろう!」
「今はなくとも、作ってみせる! 私の人生すべてを懸けてでも!」
私の目には、殺気すら宿っていたかもしれない。 カミロ様が、ひっ、と小さく息を呑んで後ずさった。
「そ、そこまで言うなら……やってみろ」
カミロ様は、震える手でハンカチを取り出し、額の汗を拭った。 プライドを傷つけられた怒りと、私の異様な迫力への恐怖が入り混じった顔をしている。
「だがな、期限は待たんぞ。今月末だ」
「……ええ、結構よ」
「あと一ヶ月だぞ!? 一ヶ月で金貨二千枚など、まともな方法で稼げるわけがない!」
「稼いでみせます」
私はカミロ様を真っ直ぐに見据え、言い放った。
「私がどんな手を使おうと、地獄の底を這いずり回ろうと、必ず金を用意します。だから二度と、その汚い手でミラに触れないで」
「……っ、後悔するぞ、アリア!」
カミロ様は顔を真っ赤にして叫んだ。
「一ヶ月後だ! 一ヶ月後の正午、私が再びここに来る! その時までに金がなければ、ミラは力づくで連れて行くからな! 契約不履行で、お前も牢獄行きだ!」
「望むところよ。とっとと出て行って!」
「くそっ、薄気味悪い女だ! これだから不美人は嫌いなんだ!」
カミロ様は捨て台詞を吐き、逃げるように部屋を出て行った。 バタン! と乱暴に扉が閉まる音が、再び静寂を連れてくる。
部屋に残されたのは、私とミラ、そして砕け散ったティーカップの残骸だけ。
「……っ」
緊張が解けた瞬間、膝から力が抜け、私はその場に崩れ落ちそうになった。
「お姉ちゃん!」
ミラが駆け寄り、私を支えてくれる。 その温もりが、震える体に染み渡る。
「ごめんね、お姉ちゃん……私のせいで……」
ミラが泣きじゃくる。 その涙を、私は親指で優しく拭った。
「泣かないで、ミラ。あなたは何も悪くないの」
「でも……金貨二千枚なんて……どうするの? お屋敷を売っても足りないよ……」
「大丈夫」
私は自分に言い聞かせるように、力強く頷いた。
「必ずなんとかなる。なんとかしてみせる」
嘘だった。 当てなんて、何一つない。 金貨二千枚なんて大金、普通の貴族が一生かかっても稼げるかどうかの金額だ。 それを一ヶ月で? 常識で考えれば、不可能だ。
けれど。
(渡さない……絶対に)
ミラの純粋な瞳を見る。 この子は、希望だ。 泥沼のような私の人生の中で、唯一輝く光だ。
あんな男の慰み者にするくらいなら、私が悪魔に魂を売った方がマシだ。
私は立ち上がった。 足元の陶器の破片を踏みしめる。 ジャリ、と音がした。
その痛みすら、今の私には心地よかった。 それが、私の覚悟をより鮮明にしてくれるからだ。
「ミラ、聞いて」
私はミラの肩を掴み、その瞳を覗き込んだ。
「私はね、決めたの」
「お姉ちゃん……?」
「『何の取り柄もない姉』? 『地味な不美人』? ええ、そうよ。カミロの言う通りだわ。今の私は、ただの無力な没落令嬢よ」
鏡に映る自分を想像する。 色はくすみ、目は死んだ魚のように濁り、ドレスはボロボロ。 誰がどう見ても、惨めな敗北者だ。
でも。
私の腹の底で、どす黒く、熱い炎が渦を巻いているのが分かった。
それは『怒り』だ。 理不尽への怒り。 無力な自分への怒り。 そして、妹を侮辱されたことへの、許しがたい激怒だ。
「でもね、見ていなさい。あいつが腰を抜かすような女になってやるわ」
私は窓へと歩み寄り、カーテンを乱暴に開け放った。 夕日が差し込み、薄暗い部屋を赤く染め上げる。
「金も、地位も、名誉も、全部手に入れてやる。ミラを守るためなら、私は……」
窓の外、遠くに見える王都の中心。 そこに聳え立つ、白亜の王城と、それを取り囲む大貴族たちの屋敷を見据える。
噂で聞いたことがある。 この国には、誰もが恐れる『氷の公爵』がいると。 冷徹で、無慈悲で、だが王家をも凌ぐ権力と財力を持つ男。 その屋敷では、あまりの厳しさに使用人が一日ともたずに逃げ出すという。
「……『国一番の淑女』にだって、這い上がってみせるわ」
私は誓った。 これは契約だ。 私自身と交わす、血の契約だ。
残り三十日。 私の、命を削る戦いが始まる。
窓ガラスに映る私の顔は、もはや地味なだけの娘ではなかった。 獲物を狙う獣のような、飢えた目をしていた。
(待っていなさい、カミロ。そして世界)
私はスカートの裾を翻し、ミラに向かって不敵に微笑んでみせた。
「さあ、忙しくなるわよ、ミラ」
ここからが、私の――私たちの、大逆転劇の幕開けだ。
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