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第20話:新しい契約
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春の陽光が、ラインハルト大公邸の広い執務室に降り注いでいます。
私は窓辺に立ち、眼下に広がる王都の街並みを見下ろしていました。 あの日、借金取りに追われ、泥だらけの靴で歩いた石畳。 絶望の中で見上げた、冷たく閉ざされた貴族たちの屋敷。
それらは今、暖かな光に包まれ、平和な活気に満ちていました。
「……アリア様。次のご予定のお時間です」
控えめなノックと共に、侍女頭に出世したエミリーが声をかけてきました。
「ええ、分かっているわ。すぐに」
私は振り返り、鏡の前で身だしなみを整えました。 身につけているのは、深い蒼色のドレス。 胸元には、あの日クラウス様から授かった銀色のバッジ――『秘書官』の証と、左手の薬指に輝く『王家の涙』の指輪。
私はもう、ただの没落令嬢アリアではありません。 救国の英雄ラインハルト大公の妻であり、この国の外交と内政を影で支える『氷の参謀』。 そして人々からは、敬愛を込めてこう呼ばれています。
『国一番の淑女』と。
◇
「本日の陳情は五件です。まずは東部開拓地の村長から、灌漑工事の礼状が届いております」
「礼状は後で読みます。それより、西部の港湾都市で起きている労働争議の件はどうなっていますか?」
私は廊下を歩きながら、後ろに続く文官たちに指示を飛ばしました。
「はっ。現地へ派遣した交渉団より、合意に至ったとの報告が。アリア様が考案された『利益配分システム』が功を奏したようです」
「結構です。では、次は王立孤児院への視察ですね」
「はい。院長先生も、子供たちも、アリア様にお会いできるのを楽しみに待っております」
分刻みのスケジュール。 息つく暇もない激務。 普通の貴婦人なら悲鳴を上げて逃げ出すような毎日ですが、私にとっては水を得た魚のようなものです。
「……精が出ますね、大公妃殿下」
廊下の角から、聞き慣れた、そして愛しい声がしました。
「あら、クラウス様。会議はお済みですか?」
そこには、相変わらず冷徹な美貌を湛えた私の夫、クラウス様が立っていました。 ただし、その瞳だけは、私を見た瞬間に春の湖のように柔らかく緩みます。
「ああ。貴族院の古狸どもを黙らせるのに、少々手間取ったがな。……お前の入れ知恵通り、『彼らの隠し資産リスト』をちらつかせたら、途端に大人しくなったよ」
「ふふ、それは良かったです。情報は使いようですね」
私たちは自然と並んで歩き出しました。 周囲の使用人や文官たちが、私たちを見て微笑ましそうに道を空けます。
「疲れていないか? アリア。……最近、働きすぎだ」
クラウス様が私の腰に手を回し、小声で囁きます。
「平気ですわ。これが私の生き甲斐ですから。……それに、貴方の隣に立つには、これくらい働かないと釣り合いが取れませんもの」
「釣り合いなど、とっくに取れている。……むしろ、私の方がお前の輝きに目が眩みそうだ」
「まあ、お上手になられましたこと」
「本心だ」
クラウス様は立ち止まり、私の額に軽くキスを落としました。 公衆の面前だろうと、彼はもう躊躇しません。 「見せつけて何が悪い」というスタンスです。
「……夜、話がある。執務室に来てくれ」
「夜、ですか?」
「ああ。……大事な話だ」
クラウス様は意味深な視線を残し、自分の執務室へと消えていきました。 私はその背中を見送りながら、少しだけ首を傾げました。
大事な話? 今さら何でしょう。 まさか、また帝国の父(皇帝)が「娘を返せ!」と襲来するのでしょうか。 それとも、どこかの国が宣戦布告を?
胸騒ぎというよりは、何かを予感させるような、静かな高鳴りを胸に、私は午後の公務へと向かいました。
◇
その日の午後、私は久しぶりにミラと再会しました。 王立学園の長期休暇を利用して、寮から帰ってきたのです。
「お姉ちゃん! 会いたかった!」
玄関ホールで、ミラが飛びついてきました。 背が伸びて、少し大人びた表情になった妹。 制服の着こなしも板につき、その立ち居振る舞いからは、かつての怯えていた少女の面影はありません。
「おかえり、ミラ。……元気そうで何よりだわ」
「うん! 学校、すごく楽しいよ。勉強も大変だけど、友達もたくさんできたし」
ミラは目を輝かせて報告してくれました。
「それにね、私、生徒会に入ったの!」
「生徒会? すごいじゃない」
「うん。書記係なんだけどね。……お姉ちゃんみたいに、誰かの役に立ちたくて」
「ミラ……」
「いつか私も、お姉ちゃんみたいにカッコいい女性になって、誰かを守れるようになりたいな」
ミラの言葉に、私は目頭が熱くなりました。 私が守ってきた小さな種は、しっかりと根を張り、自分の力で花を咲かせようとしているのです。
「なれるわよ、ミラなら。……いいえ、もう十分立派なレディよ」
「えへへ、そうかな?」
「そうよ。……あ、そうだ。学校で悪い虫はついてない? 変な男の子に言い寄られてない?」
私が姉バカを発揮して尋ねると、ミラは顔を赤くしてモジモジし始めました。
「え、えっと……その……」
「あら? その反応は……いるのね?」
「う、うん……。隣のクラスの男の子で、剣術が得意で、優しくて……」
「詳しく聞かせなさい。名前は? 家柄は? 性格は? 一度、お姉ちゃんとクラウス様に面接させるように伝えなさい」
「もう! お姉ちゃんったら! まだそんなんじゃないよ!」
ミラは恥ずかしそうに逃げていきました。 その後ろ姿を見ながら、私は幸せな溜め息をつきました。
平和だ。 本当に、平和になりました。
カミロは鉱山で真面目に働いているという噂を聞きました。 エレナ嬢は田舎で農業に目覚め、新しい野菜の品種改良に成功したとか。 ギリアード宰相は……まあ、冷たい牢獄の中で反省の日々を送っているでしょう。
すべてが収まるべき場所に収まり、時間は穏やかに流れています。
でも。 私の中で、一つだけ「終わっていないこと」がありました。
それは、クラウス様との『始まりの約束』です。
◇
夜十時。 屋敷が静寂に包まれた頃。
私はクラウス様の執務室の前に立っていました。 三年前、泥だらけのドレスで、震えながらこの扉の前に立った夜のことを思い出します。
コン、コン。
「入れ」
懐かしい、低い声。 私は深呼吸をして、扉を開けました。
「失礼いたします」
部屋の中は、あの夜と同じように薄暗く、月明かりだけが差し込んでいました。 クラウス様は窓際の椅子に座り、ワイングラスを傾けていました。
「……来たか」
彼はグラスを置き、私に向き直りました。
「座れ」
促され、私は彼の向かいのソファに腰を下ろしました。 テーブルの上には、一枚の古びた羊皮紙が置かれていました。
それは。
「……これは」
「覚えているか? 三年前、お前が私と交わした最初の契約書だ」
クラウス様が言いました。
『契約期間:一ヶ月(延長の可能性あり)』 『報酬:金貨二千枚(前払い)』 『条件:公爵家の利益となる行動をとること。裏切った場合は命で償うこと』
懐かしい文字。 必死だった私の、下手くそな署名。
「……ええ、覚えています。これが私の、すべての始まりでした」
私は指先で羊皮紙をなぞりました。
「アリア。今日で、あの日からちょうど三年だ」
クラウス様は静かに切り出しました。
「この契約書には、期限の定めがない。……だが、そろそろ『更新』が必要だと思わないか?」
「更新、ですか?」
「ああ。……お前はもう、借金を返すための道具ではない。私の妻であり、大公妃だ。この古い契約書は、今の私たちにはふさわしくない」
クラウス様は羊皮紙を手に取りました。
「だから、これは破棄する」
ビリッ。 乾いた音がして、契約書が真っ二つに破かれました。 さらに、ビリビリと細かく引き裂かれ、暖炉の火の中へと投じられました。 炎が紙を舐め、一瞬で灰に変えていきます。
「……あっ」
私は少しだけ、寂しいような気持ちになりました。 あれは私の勲章のようなものでしたから。
「これで、お前を縛るものはなくなった」
クラウス様は私を見つめました。 その瞳は、真剣そのものでした。
「アリア。お前は自由だ。……私の妻であることも、秘書官であることも、義務ではない。お前が望むなら、いつでもこの屋敷を出て、好きな人生を歩んでいい」
「……え?」
「お前の能力なら、どこの国に行っても引く手あまただろう。帝国へ行って皇女として生きるのもいい。あるいは、あの学校で子供たちと静かに暮らすのもいい」
クラウス様は何を言っているのでしょう。 私を、追い出すつもりですか?
「……それが、閣下の望みですか?」
私が問いかけると、クラウス様は苦しげに顔を歪めました。
「違う! 私の望みなど、決まっている!」
彼は立ち上がり、私の前に跪きました。 大公である彼が、床に膝をついて、私を見上げているのです。
「私はお前が欲しい。……昨日よりも今日、今日よりも明日、お前への愛が深まっていくのが怖いほどだ。お前なしの人生など、もう考えられない」
「なら、どうして……」
「だからこそだ。……契約や義務ではなく、お前自身の『意志』で、私を選んでほしいんだ」
クラウス様は、震える手で懐から新しい一枚の紙を取り出しました。 それは、真っ白な、何も書かれていない羊皮紙でした。
「アリア。……ここに、新しい契約を書いてくれ」
「私が、書くのですか?」
「ああ。お前が私に望むこと。お前が私と生きる条件。……なんでもいい。お前の望むままに」
彼は羽ペンを私に手渡しました。
これは、試されているのではありません。 託されているのです。 私たちの未来の形を、私自身の手で描けと。
私はペンを受け取りました。 迷いはありませんでした。 私の答えは、とっくの昔に決まっていたからです。
私はサラサラとペンを走らせました。
『契約書 甲:クラウス・フォン・ラインハルト 乙:アリア・フォン・ラインハルト
第一条:乙は甲を、生涯をかけて愛し、支え、時に叱咤激励し、共に歩むことを誓う。 第二条:甲は乙を、世界で一番大切にし、守り抜き、その笑顔を絶やさないことを誓う。 第三条:……』
私はそこで筆を止め、少し悪戯っぽく微笑んでから、続きを書きました。
『第三条:ただし、乙が「退屈だ」と感じた時は、甲は直ちに面白い事件を持ってくるか、全力で乙を口説き落とすこと』
書き終えた羊皮紙を、私はクラウス様に差し出しました。
クラウス様はそれを受け取り、目を丸くして読み、そして……。
「……ぶっ、くくくっ!」
初めて、彼が声を上げて笑いました。 お腹を抱えて、子供のように無邪気に笑い転げています。
「ははは! 面白い事件を持って来いだと? そんな契約条件、聞いたことがない!」
「あら、重要ですわよ? 私はスリルとロマンがないと枯れてしまう花ですから」
「違いない! ……ああ、最高だ、アリア。お前は本当に、私の予想を遥かに超えてくる」
クラウス様は笑い涙を拭い、立ち上がりました。 そして、私を強く抱きしめました。
「謹んで、契約しよう。……退屈などさせない。毎日がお前への求婚だと思え」
「ふふ、期待していますわ、旦那様」
私たちは、三年前と同じ場所で、しかし全く違う心持ちで、キスを交わしました。 それは、主従の契約ではなく、魂の契約の成立を告げる口づけでした。
◇
数日後。
公爵邸のバルコニーに、私とクラウス様、そしてミラが並んで立っていました。 今日は、私の誕生日パーティーが開かれる日です。 庭園には、たくさんの招待客が集まっています。 セバスチャンが忙しそうに、でも嬉しそうに指揮を執っています。 遠くには、エリザベート王女殿下(今は女王陛下代理)の姿も見えます。
「すごい人だね、お姉ちゃん!」
ミラがはしゃいでいます。
「ええ。みんな、私たちのお祝いに来てくれたのよ」
私は眼下の光景を見つめました。 かつては敵だらけだったこの世界。 でも今は、愛と祝福に満ちています。
「アリア」
クラウス様が私の肩を抱きました。
「幸せか?」
「……ええ」
私は空を見上げました。 どこまでも青く、澄み渡った空。 父と母も、きっとそこから見ているでしょう。
「世界で一番、幸せです」
私は答えました。
「でも、もっと幸せになりたいです。……貴方と一緒に」
「強欲だな」
「ええ。国一番の悪女ですから」
「……訂正しろ。『国一番の淑女』だ」
クラウス様が笑い、私も笑いました。
私は窓辺に立ち、眼下に広がる王都の街並みを見下ろしていました。 あの日、借金取りに追われ、泥だらけの靴で歩いた石畳。 絶望の中で見上げた、冷たく閉ざされた貴族たちの屋敷。
それらは今、暖かな光に包まれ、平和な活気に満ちていました。
「……アリア様。次のご予定のお時間です」
控えめなノックと共に、侍女頭に出世したエミリーが声をかけてきました。
「ええ、分かっているわ。すぐに」
私は振り返り、鏡の前で身だしなみを整えました。 身につけているのは、深い蒼色のドレス。 胸元には、あの日クラウス様から授かった銀色のバッジ――『秘書官』の証と、左手の薬指に輝く『王家の涙』の指輪。
私はもう、ただの没落令嬢アリアではありません。 救国の英雄ラインハルト大公の妻であり、この国の外交と内政を影で支える『氷の参謀』。 そして人々からは、敬愛を込めてこう呼ばれています。
『国一番の淑女』と。
◇
「本日の陳情は五件です。まずは東部開拓地の村長から、灌漑工事の礼状が届いております」
「礼状は後で読みます。それより、西部の港湾都市で起きている労働争議の件はどうなっていますか?」
私は廊下を歩きながら、後ろに続く文官たちに指示を飛ばしました。
「はっ。現地へ派遣した交渉団より、合意に至ったとの報告が。アリア様が考案された『利益配分システム』が功を奏したようです」
「結構です。では、次は王立孤児院への視察ですね」
「はい。院長先生も、子供たちも、アリア様にお会いできるのを楽しみに待っております」
分刻みのスケジュール。 息つく暇もない激務。 普通の貴婦人なら悲鳴を上げて逃げ出すような毎日ですが、私にとっては水を得た魚のようなものです。
「……精が出ますね、大公妃殿下」
廊下の角から、聞き慣れた、そして愛しい声がしました。
「あら、クラウス様。会議はお済みですか?」
そこには、相変わらず冷徹な美貌を湛えた私の夫、クラウス様が立っていました。 ただし、その瞳だけは、私を見た瞬間に春の湖のように柔らかく緩みます。
「ああ。貴族院の古狸どもを黙らせるのに、少々手間取ったがな。……お前の入れ知恵通り、『彼らの隠し資産リスト』をちらつかせたら、途端に大人しくなったよ」
「ふふ、それは良かったです。情報は使いようですね」
私たちは自然と並んで歩き出しました。 周囲の使用人や文官たちが、私たちを見て微笑ましそうに道を空けます。
「疲れていないか? アリア。……最近、働きすぎだ」
クラウス様が私の腰に手を回し、小声で囁きます。
「平気ですわ。これが私の生き甲斐ですから。……それに、貴方の隣に立つには、これくらい働かないと釣り合いが取れませんもの」
「釣り合いなど、とっくに取れている。……むしろ、私の方がお前の輝きに目が眩みそうだ」
「まあ、お上手になられましたこと」
「本心だ」
クラウス様は立ち止まり、私の額に軽くキスを落としました。 公衆の面前だろうと、彼はもう躊躇しません。 「見せつけて何が悪い」というスタンスです。
「……夜、話がある。執務室に来てくれ」
「夜、ですか?」
「ああ。……大事な話だ」
クラウス様は意味深な視線を残し、自分の執務室へと消えていきました。 私はその背中を見送りながら、少しだけ首を傾げました。
大事な話? 今さら何でしょう。 まさか、また帝国の父(皇帝)が「娘を返せ!」と襲来するのでしょうか。 それとも、どこかの国が宣戦布告を?
胸騒ぎというよりは、何かを予感させるような、静かな高鳴りを胸に、私は午後の公務へと向かいました。
◇
その日の午後、私は久しぶりにミラと再会しました。 王立学園の長期休暇を利用して、寮から帰ってきたのです。
「お姉ちゃん! 会いたかった!」
玄関ホールで、ミラが飛びついてきました。 背が伸びて、少し大人びた表情になった妹。 制服の着こなしも板につき、その立ち居振る舞いからは、かつての怯えていた少女の面影はありません。
「おかえり、ミラ。……元気そうで何よりだわ」
「うん! 学校、すごく楽しいよ。勉強も大変だけど、友達もたくさんできたし」
ミラは目を輝かせて報告してくれました。
「それにね、私、生徒会に入ったの!」
「生徒会? すごいじゃない」
「うん。書記係なんだけどね。……お姉ちゃんみたいに、誰かの役に立ちたくて」
「ミラ……」
「いつか私も、お姉ちゃんみたいにカッコいい女性になって、誰かを守れるようになりたいな」
ミラの言葉に、私は目頭が熱くなりました。 私が守ってきた小さな種は、しっかりと根を張り、自分の力で花を咲かせようとしているのです。
「なれるわよ、ミラなら。……いいえ、もう十分立派なレディよ」
「えへへ、そうかな?」
「そうよ。……あ、そうだ。学校で悪い虫はついてない? 変な男の子に言い寄られてない?」
私が姉バカを発揮して尋ねると、ミラは顔を赤くしてモジモジし始めました。
「え、えっと……その……」
「あら? その反応は……いるのね?」
「う、うん……。隣のクラスの男の子で、剣術が得意で、優しくて……」
「詳しく聞かせなさい。名前は? 家柄は? 性格は? 一度、お姉ちゃんとクラウス様に面接させるように伝えなさい」
「もう! お姉ちゃんったら! まだそんなんじゃないよ!」
ミラは恥ずかしそうに逃げていきました。 その後ろ姿を見ながら、私は幸せな溜め息をつきました。
平和だ。 本当に、平和になりました。
カミロは鉱山で真面目に働いているという噂を聞きました。 エレナ嬢は田舎で農業に目覚め、新しい野菜の品種改良に成功したとか。 ギリアード宰相は……まあ、冷たい牢獄の中で反省の日々を送っているでしょう。
すべてが収まるべき場所に収まり、時間は穏やかに流れています。
でも。 私の中で、一つだけ「終わっていないこと」がありました。
それは、クラウス様との『始まりの約束』です。
◇
夜十時。 屋敷が静寂に包まれた頃。
私はクラウス様の執務室の前に立っていました。 三年前、泥だらけのドレスで、震えながらこの扉の前に立った夜のことを思い出します。
コン、コン。
「入れ」
懐かしい、低い声。 私は深呼吸をして、扉を開けました。
「失礼いたします」
部屋の中は、あの夜と同じように薄暗く、月明かりだけが差し込んでいました。 クラウス様は窓際の椅子に座り、ワイングラスを傾けていました。
「……来たか」
彼はグラスを置き、私に向き直りました。
「座れ」
促され、私は彼の向かいのソファに腰を下ろしました。 テーブルの上には、一枚の古びた羊皮紙が置かれていました。
それは。
「……これは」
「覚えているか? 三年前、お前が私と交わした最初の契約書だ」
クラウス様が言いました。
『契約期間:一ヶ月(延長の可能性あり)』 『報酬:金貨二千枚(前払い)』 『条件:公爵家の利益となる行動をとること。裏切った場合は命で償うこと』
懐かしい文字。 必死だった私の、下手くそな署名。
「……ええ、覚えています。これが私の、すべての始まりでした」
私は指先で羊皮紙をなぞりました。
「アリア。今日で、あの日からちょうど三年だ」
クラウス様は静かに切り出しました。
「この契約書には、期限の定めがない。……だが、そろそろ『更新』が必要だと思わないか?」
「更新、ですか?」
「ああ。……お前はもう、借金を返すための道具ではない。私の妻であり、大公妃だ。この古い契約書は、今の私たちにはふさわしくない」
クラウス様は羊皮紙を手に取りました。
「だから、これは破棄する」
ビリッ。 乾いた音がして、契約書が真っ二つに破かれました。 さらに、ビリビリと細かく引き裂かれ、暖炉の火の中へと投じられました。 炎が紙を舐め、一瞬で灰に変えていきます。
「……あっ」
私は少しだけ、寂しいような気持ちになりました。 あれは私の勲章のようなものでしたから。
「これで、お前を縛るものはなくなった」
クラウス様は私を見つめました。 その瞳は、真剣そのものでした。
「アリア。お前は自由だ。……私の妻であることも、秘書官であることも、義務ではない。お前が望むなら、いつでもこの屋敷を出て、好きな人生を歩んでいい」
「……え?」
「お前の能力なら、どこの国に行っても引く手あまただろう。帝国へ行って皇女として生きるのもいい。あるいは、あの学校で子供たちと静かに暮らすのもいい」
クラウス様は何を言っているのでしょう。 私を、追い出すつもりですか?
「……それが、閣下の望みですか?」
私が問いかけると、クラウス様は苦しげに顔を歪めました。
「違う! 私の望みなど、決まっている!」
彼は立ち上がり、私の前に跪きました。 大公である彼が、床に膝をついて、私を見上げているのです。
「私はお前が欲しい。……昨日よりも今日、今日よりも明日、お前への愛が深まっていくのが怖いほどだ。お前なしの人生など、もう考えられない」
「なら、どうして……」
「だからこそだ。……契約や義務ではなく、お前自身の『意志』で、私を選んでほしいんだ」
クラウス様は、震える手で懐から新しい一枚の紙を取り出しました。 それは、真っ白な、何も書かれていない羊皮紙でした。
「アリア。……ここに、新しい契約を書いてくれ」
「私が、書くのですか?」
「ああ。お前が私に望むこと。お前が私と生きる条件。……なんでもいい。お前の望むままに」
彼は羽ペンを私に手渡しました。
これは、試されているのではありません。 託されているのです。 私たちの未来の形を、私自身の手で描けと。
私はペンを受け取りました。 迷いはありませんでした。 私の答えは、とっくの昔に決まっていたからです。
私はサラサラとペンを走らせました。
『契約書 甲:クラウス・フォン・ラインハルト 乙:アリア・フォン・ラインハルト
第一条:乙は甲を、生涯をかけて愛し、支え、時に叱咤激励し、共に歩むことを誓う。 第二条:甲は乙を、世界で一番大切にし、守り抜き、その笑顔を絶やさないことを誓う。 第三条:……』
私はそこで筆を止め、少し悪戯っぽく微笑んでから、続きを書きました。
『第三条:ただし、乙が「退屈だ」と感じた時は、甲は直ちに面白い事件を持ってくるか、全力で乙を口説き落とすこと』
書き終えた羊皮紙を、私はクラウス様に差し出しました。
クラウス様はそれを受け取り、目を丸くして読み、そして……。
「……ぶっ、くくくっ!」
初めて、彼が声を上げて笑いました。 お腹を抱えて、子供のように無邪気に笑い転げています。
「ははは! 面白い事件を持って来いだと? そんな契約条件、聞いたことがない!」
「あら、重要ですわよ? 私はスリルとロマンがないと枯れてしまう花ですから」
「違いない! ……ああ、最高だ、アリア。お前は本当に、私の予想を遥かに超えてくる」
クラウス様は笑い涙を拭い、立ち上がりました。 そして、私を強く抱きしめました。
「謹んで、契約しよう。……退屈などさせない。毎日がお前への求婚だと思え」
「ふふ、期待していますわ、旦那様」
私たちは、三年前と同じ場所で、しかし全く違う心持ちで、キスを交わしました。 それは、主従の契約ではなく、魂の契約の成立を告げる口づけでした。
◇
数日後。
公爵邸のバルコニーに、私とクラウス様、そしてミラが並んで立っていました。 今日は、私の誕生日パーティーが開かれる日です。 庭園には、たくさんの招待客が集まっています。 セバスチャンが忙しそうに、でも嬉しそうに指揮を執っています。 遠くには、エリザベート王女殿下(今は女王陛下代理)の姿も見えます。
「すごい人だね、お姉ちゃん!」
ミラがはしゃいでいます。
「ええ。みんな、私たちのお祝いに来てくれたのよ」
私は眼下の光景を見つめました。 かつては敵だらけだったこの世界。 でも今は、愛と祝福に満ちています。
「アリア」
クラウス様が私の肩を抱きました。
「幸せか?」
「……ええ」
私は空を見上げました。 どこまでも青く、澄み渡った空。 父と母も、きっとそこから見ているでしょう。
「世界で一番、幸せです」
私は答えました。
「でも、もっと幸せになりたいです。……貴方と一緒に」
「強欲だな」
「ええ。国一番の悪女ですから」
「……訂正しろ。『国一番の淑女』だ」
クラウス様が笑い、私も笑いました。
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「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
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