処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜

放浪人

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第12話 家庭教師の誤算と、赤ちゃんの涙は最強の武器

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 公爵邸に、奇妙な均衡が保たれたまま三日が過ぎた。  アレクセイ不在の屋敷は、表向きは静寂に包まれている。  しかし、その内実は、一触即発の火薬庫のような状態だった。

 リビングルームにて。  私は優雅にティーカップを傾けながら、対面のソファに座る「招かれざる客」に微笑みかけた。

 「ヴィクトル先生。お茶のお代わりはいかが?」

 「……いえ、結構です。奥様が入れてくださるお茶は、どうも私の体質には『刺激』が強すぎるようで」

 ヴィクトルは、一口もつけていないカップをテーブルに置いた。  彼の指先が微かに焦げているように見えるのは、気のせいではないだろう。  今日のハーブティーには、朝一番で汲んできた湧き水(私が一晩祈りを込めて浄化した聖水もどき)をたっぷりと使っているからだ。

 「あら、残念。健康に良いと評判の『破邪のハーブ』をブレンドしましたのに」

 「……お心遣い、痛み入ります。ですが、私はこれからシオン様の授業がありますので」

 ヴィクトルは立ち上がった。  その顔には、貼り付けたような笑顔が浮かんでいるが、こめかみには青筋がピクリと浮いている。  彼にとっても、この家での生活はストレスフルなようだ。  屋敷中の至る所に、アレクセイの防衛魔法と、私の聖水トラップ、そしてシオンの影魔法によるイタズラが仕掛けられているのだから。

 「さあ、シオン様。参りましょうか」

 ヴィクトルがシオンを見下ろす。  シオンは積み木遊びの手を止め、私を振り返った。  その瞳はウルウルと潤んでいる。

 「ママ……いきたくない……」

 「シオン……」

 私は胸が締め付けられる思いだった。  ヴィクトルの授業という名の「精神攻撃」は、日に日に陰湿さを増している。  直接的な暴力は振るわない(防衛システムが作動するからだ)。  その代わり、言葉巧みにシオンの過去のトラウマを刺激したり、絶望的な未来を暗示したりして、精神的に追い詰めようとしているのだ。

 「頑張って、シオン。……終わったら、大好きなプリンを作りましょうね」

 私はシオンを抱きしめ、耳元で囁いた。    『(あの録音用の魔道具、ちゃんと持った?)』

 シオンは私の背中でコクンと頷いた。  『(うん。今日こそ、あいつの尻尾を掴んでやる)』

 シオンは離れると、決死の覚悟を決めた戦士の顔で(見た目は涙目の幼児だが)、ヴィクトルの手を取った。

 「……いく」

 「ええ、いい子ですね。今日は特別に、地下の書庫で『歴史』を学びましょうか。……闇に葬られた、悲劇の英雄たちの歴史をね」

 ヴィクトルは愉悦に満ちた笑みを浮かべ、シオンを連れて行った。  私はその背中を見送りながら、拳を握りしめた。

 (負けないで、シオン。……私も、私の戦いをするわ)

 私は厨房へと向かった。  今日の昼食には、ヴィクトルが絶対に断れない「特製フルコース」を用意するつもりだ。  メインディッシュは、ニンニクと聖水を煮込んだ「対吸血鬼用ガーリックステーキ」である。

       ◆

 地下書庫。  ひんやりとした冷気が漂う薄暗い空間に、古びた本が山のように積まれている。  アレクセイでさえ滅多に入らないこの場所に、ヴィクトルはシオンを連れ込んだ。  ここなら、多少の魔力干渉があっても地上の防衛システムには感知されにくいと踏んだのだろう。

 「さて、シオン様」

 ヴィクトルは重厚な扉を閉め、鍵をかけた。  カチャリ、という音が、牢獄の錠前のように響く。

 「今日は、少し趣向を変えましょう。……絵本やお遊びはもう終わりです」

 彼は指を鳴らした。  書庫の燭台が一斉に消え、代わりに彼の手のひらに不気味な青白い炎が灯る。  その光が、ヴィクトルの顔を下から照らし出し、悪魔的な影を作り出す。

 「貴方が隠している『力』を、少し引き出してみせましょう」

 ヴィクトルは炎を床に投げつけた。  炎は瞬く間に広がり、魔法陣を形成する。  それは、精神を強制的にトランス状態に導く「催眠の陣」だった。

 「さあ、思い出してください。前世の最期を。……仲間たちが貴方を見捨てた瞬間を。愛した人々が、貴方を恐れて石を投げたあの痛みを」

 ヴィクトルの声が、シオンの脳内に直接響く。  粘着質で、逃げ場のない声。

 (くっ……!)

 シオンは歯を食いしばった。  魔力を展開して防御しようとするが、この陣の効果で魔力回路がうまく繋がらない。  視界が歪む。  目の前のヴィクトルが、かつての魔王の姿と重なって見える。  そして、周囲の書棚が、前世で自分を裏切った(と誤解している)民衆の姿に見えてくる。

 『死ね、化け物!』  『お前がいるから戦争が終わらないんだ!』  『勇者なんて、もういらない!』

 幻聴が聞こえる。  心が軋む音がする。

 「そうです、その顔です。……絶望、憎悪、悲嘆。それこそが、貴方を次の段階へと進化させる糧となるのです」

 ヴィクトルが近づいてくる。  その手には、黒い短剣が握られていた。  物理的な武器ではない。精神を切り裂く「呪いの剣」だ。

 「貴方の心を少しだけ削ぎ落としましょう。……愛情や信頼といった、不要な部分をね」

 絶体絶命。  シオンは後ずさり、背中が冷たい壁に当たった。  逃げ場はない。

 (……なんてね)

 シオンは、心の中で舌を出した。

 確かにこの魔法陣は強力だ。  普通の人間なら、一瞬で発狂しているだろう。  だが、シオンは甘くない。  彼は前世で、魔王軍の精神攻撃部隊を単身で壊滅させた経験がある。  この程度のトラウマ喚起など、「今日の夕飯は何かな」と考える余裕があるレベルだ。

 シオンが今まで黙っていたのは、ヴィクトルに「決定的な証拠」を作らせるためだ。  そして今、ヴィクトルは完全に一線を越えた。  シオンに呪いの刃を向けたのだ。

 (よし。録音完了。映像も記録した)

 シオンはポケットの中の魔道具のスイッチを切った。  そして、大きく息を吸い込んだ。

 「ギャアアアアアアアア!!!」

 地下書庫を揺るがすほどの、大絶叫。  それは恐怖の悲鳴ではない。  魔力で増幅された、SOS信号だ。

 「なッ……!?」

 ヴィクトルが怯んだ。  シオンの声には、特殊な波長が含まれていた。  それは、屋敷内の特定の人物たち――すなわち、シオンを溺愛する使用人たちの脳に直接届く、「赤ちゃん緊急事態警報」である。

       ◆

 地上。  厨房でニンニクの皮を剥いていた私、レティシアの手が止まった。  掃除をしていたメイド長マリアが、はたきを落とした。  庭で素振りをしていた騎士団長代理が、剣を取り落とした。

 全員が、同時に顔を上げた。

 『助けて! 殺される! 怖いよぉぉぉ!』

 シオンの悲痛な叫びが、私たちの本能を揺さぶった。

 「シオン様ッ!!」

 マリアが血相を変えて叫んだ。  普段は冷静沈着な彼女が、般若のような形相になっている。

 「地下だ! 地下書庫からだ!」

 騎士たちが走り出す。  私もフライパン(ニンニク炒め中)を持ったまま飛び出した。

 「ヴィクトル……! 許さない……!」

 私の中で、何かがプツンと切れる音がした。  公爵夫人としての品位? そんなものは犬にでも食わせておけ。  私の息子を泣かせる奴は、地獄の底まで追い詰めてフライパンで叩きのめす。

       ◆

 地下書庫の扉の前。  鍵がかかっている。  騎士たちが体当たりしようとしたが、魔法で強化された扉はびくともしない。

 「どいてなさい!」

 私が前に出た。  ポケットから、小瓶を取り出す。  それは、アレクセイが「もしもの時のために」と渡してくれていた、『極大爆裂ポーション(アレクセイの魔力入り)』だ。  こんなところで使うことになるとは。

 「開け、ゴマッ!!」

 私はポーションを鍵穴に叩きつけた。

 ドゴォォォォン!!

 爆音とともに、重厚な扉が吹き飛んだ。  煙が晴れると、そこには信じられない光景が広がっていた。

 シオンが床に倒れ伏し、震えている。  その目の前には、黒い短剣を振り上げたヴィクトル。  彼の周囲には不気味な青い炎が燃え盛っている。

 まさに、凶行の決定的瞬間。

 「な……っ!?」

 ヴィクトルが驚愕の表情でこちらを見た。  彼はまだ気づいていない。  自分が「詰み」の状態にあることに。

 「シオン!!」

 私が駆け寄ると、シオンは私にしがみついた。

 「ママぁ……こわいよぉ……せんせいが、ナイフで……!」

 「大丈夫よ、もう大丈夫!」

 私はシオンを抱きしめ、ヴィクトルを睨みつけた。

 「ヴィクトル先生。……これはどういうことですか?」

 私の声は、アレクセイに負けないくらい冷え切っていたと思う。  背後には、抜刀した騎士たちと、モップやフライパンを構えた使用人たちが殺気を放って並んでいる。

 ヴィクトルは一瞬で表情を取り繕った。  短剣をスッと消し、青い炎もかき消す。

 「おやおや、誤解ですな。……これは歴史の授業の一環ですよ。英雄の悲劇を再現する演劇ごっこをしていただけです」

 「演劇? ナイフを持って?」

 「幻影ですよ。子供を楽しませようとしたのですが……私の演技が真に迫りすぎてしまったようです」

 彼は肩をすくめた。  白々しい。  しかし、証拠がなければ「教育方針の違い」で押し切られる可能性がある。  彼は賢者クラスの魔術師だ。口八丁手八丁で言い逃れる術などいくらでも持っている。

 「……そうですか。誤解、ですか」

 私はシオンを見た。  シオンは私の腕の中で、こっそりと親指を立てた。  準備完了の合図だ。

 「では、その『誤解』を解くために、これを聞いていただきましょうか」

 シオンがポケットから、貝殻の形をした魔道具を取り出した。  そして、再生ボタンを押す。

 『貴方の心を少しだけ削ぎ落としましょう。……愛情や信頼といった、不要な部分をね』

 ヴィクトルのねっとりとした声が、地下室に響き渡った。

 『絶望、憎悪、悲嘆。それこそが、貴方を次の段階へと進化させる糧となるのです』

 決定的な音声データ。  言い逃れようのない、洗脳と虐待の証拠だ。

 ヴィクトルの顔から、余裕の笑みが消えた。

 「……ほう。盗聴とは、感心しませんね」

 「子供の安全を守るための、母の愛ですわ」

 私は言い返した。

 「これでもまだ、教育だと言い張りますか? ヴィクトル先生。……いいえ、帝国の回し者さん?」

 私の言葉に、騎士たちがざわめいた。  帝国。その単語が出た瞬間、彼らの殺気が数倍に跳ね上がった。

 ヴィクトルは、ふう、と深く息を吐いた。  そして、ゆっくりと眼鏡を外した。

 「……やれやれ。もう少し長く遊べると思ったのですが。優秀すぎる母親と、小賢しいガキがいると、計画通りにはいきませんね」

 彼が顔を上げた時、その瞳は完全に赤く発光していた。  人間の擬態を解いたのだ。  彼の背中から、漆黒の翼のような影が噴き出し、地下室の天井を覆った。

 「ひっ……!」  「化け物だ……!」

 使用人たちが後ずさる。  しかし、マリアだけは一歩も引かず、モップを構えていた。  さすがメイド長。

 「正体を現しましたね」

 「ええ。もう芝居は終わりです。……ここで全員始末して、シオン様を連れ去るとしましょう」

 ヴィクトルが手を掲げる。  圧倒的な魔力が膨れ上がり、空間が歪む。  アレクセイがいない今、この場にいる全員でかかっても、彼を止められる保証はない。

 だが、私たちには切り札がある。

 「全員、伏せてッ!!」

 私が叫ぶと同時に、シオンが私の腕から飛び出した。  彼は空中でクルリと回転し、着地した。  その小さな手に握られているのは、ガラガラでも積み木でもない。  アレクセイの書斎からくすねてきた、一本の「杖」だった。

 『……おじさん。僕を怒らせた罪は重いよ』

 シオンの雰囲気が一変する。  赤ちゃんの姿のまま、その背後に巨大な勇者の幻影が重なる。  紫色の魔力が、螺旋を描いて吹き荒れる。

 「なッ……!? その魔力量は……!?」

 ヴィクトルが目を見開く。

 『これでも喰らって、頭冷やしな!』

 シオンが杖を振るう。

 『聖光爆裂(ホーリー・バースト)・赤ちゃんVer.』

 カッッッ!!!!

 地下室が、太陽のような閃光に包まれた。  それは攻撃魔法ではない。純粋な光と浄化のエネルギーの塊だ。  闇属性の魔物であるヴィクトルにとっては、最も相性の悪い攻撃である。

 「グアアアアアアアア!!!」

 ヴィクトルが絶叫する。  影の翼が光に焼かれ、霧散していく。  彼の身体が壁に叩きつけられる。

 光が収まると、そこには黒焦げになり、煙を上げるヴィクトルの姿があった。  彼は虫の息で、シオンを見上げた。

 「ば、馬鹿な……。赤子の器で、これほどの出力を……! 身体が、耐えられるはずが……!」

 『耐えられないから、手加減したんだよ。……あと、ママ特製の栄養ドリンク飲んでるからね』

 シオンはケロッとしていた。  昨夜、私が飲ませた「魔力増強&肉体強化シロップ(激甘)」の効果だ。

 「くっ……! 覚えていろ……!」

 ヴィクトルは床を叩いた。  彼の足元に魔法陣が出現する。  転移魔法だ。逃げる気だ。

 「逃がしません!」

 騎士たちが斬りかかるが、ヴィクトルの姿は黒い霧となって消え失せた。    「……チッ。逃げ足の速い奴だ」

 シオンは小さく舌打ちしたが、すぐに私の方を振り向き、

 「うえぇぇぇん! ママぁ、こわかったぁ~!」

 と泣きついてきた。  切り替えが早すぎる。

 「よしよし、シオン。怖かったわね。……でも、もう大丈夫よ」

 私はシオンを抱きしめた。  使用人たちが歓声を上げる。  「若様が無事だ!」「奥様が化け物を追い払った!」と。  (実際はシオンが追い払ったのだが、そこは秘密だ)。

       ◆

 騒動の後。  私たちはリビングに戻り、事後処理に追われていた。  ヴィクトルが去ったことで、屋敷内の不穏な空気は一掃されたが、新たな問題が浮上していた。

 アレクセイからの緊急連絡だ。  水晶玉が光り、アレクセイの姿が投影される。  背景は雪山。吹雪いている。

 『レティシア! 無事か!? 屋敷の防衛結界に異常反応があった!』

 アレクセイは血相を変えていた。  戦闘中なのか、鎧には返り血のようなものが付いている。

 「はい、私たちは無事です。……ただ、少しトラブルがありまして」

 私は事情を説明した。  ヴィクトルの正体、シオンへの危害未遂、そして撃退したこと。

 『……ヴィクトルが、帝国の賢者だっただと?』

 アレクセイの顔が怒りで歪む。  画面越しの吹雪が、さらに激しくなった気がする。

 『俺の友人を騙り、家族を危険に晒すとは……。万死に値する』

 「アレクセイ様、落ち着いてください。彼は逃げました。今は追撃よりも、そちらの状況が心配です」

 『……ああ。こっちは、予想通りだ。帝国軍が国境を越えようとしている。だが、もっと厄介なことが起きた』

 アレクセイの表情が険しくなる。

 『国境付近の村々で、奇妙な病が流行っている。「魔力枯渇症」に似ているが、もっと進行が早い。村人が次々と倒れ、パニックになっている。……これもおそらく、帝国の仕業だ』

 生物兵器。  あるいは、呪詛(じゅそ)によるパンデミック。  ヴィクトルが使っていた精神汚染魔法と似たような手口かもしれない。

 『俺はここで食い止める。だが、治療法がわからない。……レティシア、君の知恵を借りたい』

 最強の魔術師アレクセイも、病気には無力だ。  ここで必要なのは、魔法ではなく「薬学」の知識。

 私は迷わず答えた。

 「わかりました。……私が行きます」

 『なっ!? ダメだ! 危険すぎる! 戦場だぞ!』

 「でも、現場を見なければ特効薬は作れません。それに、ヴィクトルが逃げた今、この屋敷も安全とは言えません。むしろ、最強の騎士団がいるアレクセイ様の側のほうが安全です」

 屁理屈かもしれない。  でも、夫が困っているのに、安全な場所で待っているなんてできない。  私は「悪役令嬢」だ。危険な場所ほど燃える性分なのだ。

 『……君は、本当に頑固だな』

 アレクセイは諦めたように笑った。

 『わかった。……迎えに寄越す。最速の飛竜便で来い。シオンも一緒だ。俺の目の届く範囲に置いておくのが一番安心だ』

 「はい。……待っていてください、あなた」

 通信が切れる。  私はシオンを見た。  シオンはニヤリと笑っていた。

 『パパのところに行くの? 冒険だね!』

 『ええ。……それに、逃げたヴィクトルとも、そこで決着をつけることになるかもしれないわ』

 予感があった。  ヴィクトルはまだ諦めていない。  国境での騒動も、彼が引いた絵図の一部かもしれない。

 私たちは旅支度を始めた。  ドレスを脱ぎ捨て、機能的な旅装束に着替える。  薬箱にありったけのポーションを詰め込む。  シオンのオムツも忘れずに。

 公爵夫人レティシア、戦場へ。  それは、彼女の薬師としての腕が、国を救う伝説の始まりとなる旅立ちだった。
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