処刑前夜に逃亡した悪役令嬢、五年後に氷の公爵様に捕まる〜冷徹旦那様が溺愛パパに豹変しましたが私の抱いている赤ちゃん実は人生2周目です〜

放浪人

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第11話 最強パパの不在と、家庭教師の「特別授業」

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 別れの朝は、重苦しい曇天だった。  公爵邸の正門前には、遠征用の装備を整えた精鋭騎士団が整列し、その中心にアレクセイが立っている。  彼は漆黒の軍用マントを羽織り、腰には魔剣「氷狼(フェンリル)」を佩いていた。  その姿は、私を溺愛する甘い夫ではなく、国を守る「氷の公爵」そのものだった。

 「……行ってくる、レティシア」

 アレクセイが私に向き直る。  その表情は硬い。  国境付近での帝国軍の不穏な動き。それが単なる演習なのか、あるいは侵攻の前触れなのかを見極め、場合によっては牽制するのが今回の任務だ。  期間は一週間から十日。  私たちにとっては、再会してから初めての長期の別離となる。

 「ご武運をお祈りしています、アレクセイ様。……どうか、ご無理だけはなさらないでください」

 私が気丈に振る舞うと、彼は苦しげに顔を歪めた。

 「本音を言えば、行きたくない。一分一秒でも、君とシオンの側にいたい」

 彼は周囲の視線も気にせず、私を強く抱きしめた。  冷たい鎧の感触。でも、その奥にある体温は熱い。

 「だが、君たちの平穏な暮らしを守るためには、外の脅威を排除しなければならない。……屋敷の守りは鉄壁にしてある。ヴィクトルもいる。何かあれば、すぐに俺に連絡が届くようになっている」

 「はい。私とシオンのことは心配しないでください。留守はしっかりと守ります」

 「……いい子だ」

 彼は私の額に口づけを落とし、それから私の腕の中にいるシオンに視線を移した。

 「シオン。パパがいない間、ママを守ってくれるか?」

 「あい! まかせて!(ドンッ)」

 シオンは小さな胸を叩いてみせた。  その頼もしい姿に、アレクセイはようやく微かに微笑んだ。

 「頼んだぞ、小さな騎士殿」

 アレクセイはシオンの頭を撫で、そして最後に、傍らに控えていたヴィクトルへと向き直った。

 「ヴィクトル。……家族を頼む。俺が最も信頼する友である、お前にしか頼めない」

 アレクセイの言葉には、一点の曇りもない信頼が込められていた。  ヴィクトルは恭しく一礼した。  片眼鏡の奥の瞳を細め、柔和な笑みを浮かべて。

 「承知いたしました、公爵閣下。貴方の命に代えても守るべき宝、このヴィクトルが責任を持ってお預かりします。……私の命が尽きようとも、指一本触れさせませんよ」

 「ああ。感謝する」

 アレクセイはヴィクトルの肩を叩き、そして翻った。  馬上の人となり、騎士団と共に霧の中へと消えていく背中。  私はそれが見えなくなるまで手を振り続けた。

 胸の奥に、冷たい石のような不安が残る。  それは、夫の身を案じる気持ちだけではない。  背後に立つ、この「信頼できる友人」から漂う、言いようのない違和感への警鐘だった。

 「……さて、奥様」

 ヴィクトルの声が、耳元でねっとりと響いた。

 「旦那様も発たれました。これからしばらくの間、私が皆様のナイトを務めさせていただきます。……まずは、シオン様の午前の授業を始めましょうか」

 彼は優雅に微笑んだ。  しかし、その影が、曇り空の下で一瞬だけ異形に歪んだのを、私は見逃さなかった。

       ◆

 公爵邸の子供部屋。  かつてピンク一色だったこの部屋も、シオンの精神衛生を考慮して(という名目で、シオンが魔法でこっそり改変して)、今は落ち着いたアイボリー基調の部屋になっている。  その部屋で、シオンとヴィクトルのマンツーマン授業が始まった。

 私は「お茶の用意を」という口実で部屋に入り浸ろうとしたが、ヴィクトルに「集中力の妨げになりますので」と丁重に、しかし断固として追い出されてしまった。  仕方なく、私はドアの隙間に聴診器のような魔道具(自作)を当てて、中の様子を伺うことにした。

 部屋の中。  小さなテーブルを挟んで、一歳児と家庭教師が対峙していた。

 「さて、シオン様。今日は何をして遊びましょうか」

 ヴィクトルは、美しい装丁の絵本を取り出した。  タイトルは『勇者と魔王の伝説』。  子供なら誰もが知っている、お伽話だ。

 「……これ、よむ」

 シオンは警戒心を隠し、無邪気な幼児を演じて絵本を指差した。

 「いいですね。では、読みましょう」

 ヴィクトルは流暢な語り口で読み始めた。

 『むかしむかし、あるところに、世界を救う宿命を背負った勇者がいました。勇者はとても強くて、優しくて、みんなの人気者でした』

 ページをめくる。  勇者が仲間たちと旅をし、魔物を倒していく絵が描かれている。

 『でもね、シオン様。……勇者は本当に幸せだったのでしょうか?』

 ヴィクトルが、ふと読み聞かせを止めて、シオンに問いかけた。  その声のトーンが、一段低くなる。

 『みんなの期待を背負って、戦い続けて。血と泥に塗れて。……仲間たちは彼を称賛しましたが、本当の意味で彼の孤独を理解した者はいませんでした。彼は「勇者」という便利な道具でしかなかったのですから』

 シオンの手が、ピクリと止まる。

 『愛する者も、守るべき場所も、すべて戦火の中に消えていく。……救ったはずの世界の人々は、平和になった途端、強すぎる力を恐れて勇者を迫害しました。悲しいですねぇ。命を懸けて守ったのに、裏切られるなんて』

 それは、絵本には書かれていない内容だ。  しかし、シオンにとっては、前世の記憶を鋭利な刃物でえぐられるような言葉だった。    (……こいつ、知っていやがる)

 シオンは心の中で歯ぎしりした。  前世の勇者としての最期。  魔王と相打ちになった後、国はどうなったのか。仲間たちはどうなったのか。  シオンは知らない。  だが、ヴィクトルの口ぶりは、まるでその後の悲劇を見てきたかのように残酷で、リアリティがあった。

 「……ゆうしゃ、かわいそう?」

 シオンは首を傾げて尋ねた。

 「ええ、可哀想ですとも」

 ヴィクトルは目を細め、シオンの小さな手を握った。  その手は氷のように冷たく、そして湿っていた。

 「だからこそ、今度は間違えてはいけません。……力を持つ者は、その力を他人のために使うのではなく、自分のために使うべきなのです。支配するために。君臨するために」

 ヴィクトルの瞳孔が、爬虫類のように縦に裂ける。  彼はシオンの耳元で囁いた。

 「ねえ、英雄殿。……その小さな体で、くだらない『おままごと』をしていて楽しいですか? 貴方の本当の力は、こんな狭い部屋に収まるものではないでしょう? 解放しなさい。貴方の内なる闇を」

 ドクン。  シオンの心臓が早鐘を打つ。  ヴィクトルの言葉には、精神干渉の魔法(マインド・ハック)が乗せられていた。  甘美で、抗いがたい誘惑の響き。  前世の無念、孤独、怒り……心の奥底に封印していた負の感情が、揺り動かされる。

 (くっ……! これは、闇属性の精神汚染……!)

 シオンは必死に自我を保とうとした。  赤ちゃんの脳は未発達だ。大人の精神を持っていても、脳の構造的な脆さは否めない。  そこを狙い撃ちにされている。

 『パパ……ママ……!』

 家族の顔を思い浮かべる。  アレクセイの不器用な笑顔。レティシアの温かい抱擁。  今の自分には、守るべきものがある。愛してくれる人がいる。  前世のような孤独な道具じゃない。

 シオンは、ヴィクトルの手を振り払った。    「やー!!」

 全力で拒絶の叫びを上げる。  同時に、自身の魔力を爆発させ、ヴィクトルの精神干渉を弾き飛ばした。

 バヂィッ!!

 空中で火花が散る。  ヴィクトルは驚いたように手を引っ込め、少しだけ顔をしかめた。

 「……おや。予想以上に頑固ですね」

 彼は指先を焦がした魔力の残滓を見つめ、ニヤリと笑った。

 「ですが、焦る必要はありません。種は蒔きました。……貴方の心の闇が育つのを、ゆっくりと待つとしましょう」

 その時、ドアが勢いよく開いた。

 「失礼します! おやつの時間です!」

 私がトレイを持って飛び込んだ。  聴診器越しに聞こえたシオンの叫び声に、居ても立ってもいられなくなったのだ。

 部屋の中の空気は、一瞬で変わった。  ヴィクトルは瞬時に柔和な家庭教師の仮面を被り、立ち上がった。

 「おや、奥様。タイミングが良いですね。ちょうど絵本を読み終えたところです」

 「……シオン、大丈夫?」

 私はシオンに駆け寄った。  シオンは私のエプロンにしがみつき、ブルブルと震えている。  その顔色は悪い。

 「怖い絵本だったみたいで……少し刺激が強かったかもしれません」

 ヴィクトルは悪びれずに言った。  私は彼を睨みつけた。

 「ヴィクトル先生。一歳児にトラウマを植え付けるような教育は、当家の方針には合いません。以後は控えてください」

 「承知しました。……シオン様の感受性がこれほど豊かだとは、私の計算違いでした。申し訳ありません」

 彼は深々と頭を下げたが、その背中からは微塵も反省の色が感じられなかった。  むしろ、楽しんでいる。  この男は、危険だ。

       ◆

 その日の夜。  シオンを寝かしつけた後、私は自室の薬調合スペースに篭っていた。  机の上には、様々な薬草や鉱石が並べられている。

 (普通の人間じゃない)

 薬師としての直感が告げている。  ヴィクトルから漂う気配は、人間特有の生体エネルギーとは異質だ。  もっと冷たく、澱んでいて、それでいて底知れない。  まるで、かつて森の奥で遭遇した「腐敗した沼」のような……いや、もっと悪意のある何か。

 彼がシオンに何をしようとしているのかはわからない。  でも、守らなければならない。  アレクセイがいない今、シオンを守れるのは私だけだ。

 私は一つの小瓶を手に取った。  中に入っているのは、透明な液体。  『聖水の濃縮液』に、『破魔の香草』のエキスを混ぜたものだ。  村では「悪霊退散スプレー」として売っていたが、これをもっと強化する必要がある。

 「……相手が魔物や悪魔なら、これが効くはず」

 私はさらに、自分の血を一滴垂らした。  レティシアの体には、微弱だが浄化の魔力が宿っている。  母の愛と執念を込めた、対ヴィクトル用特製ポーションの完成だ。

 その時、廊下から微かな物音がした。  シオンの部屋の方だ。  私は小瓶を握りしめ、音を立てずに部屋を出た。

 廊下は静まり返っている。  月明かりだけが頼りだ。  シオンの部屋の前まで来ると、ドアの隙間から、紫色の淡い光が漏れているのが見えた。

 (まさか!)

 私はドアを蹴破る勢いで開けた。

 「シオン!」

 部屋の中には、シオンがベッドの上に立ち上がり、小さな両手を前に突き出していた。  その周囲には、無数の魔法陣が展開されている。  そして、窓際の闇の中に、ヴィクトルが立っていた。  いや、立っていたのはヴィクトルだが、その影は部屋全体を覆うほど巨大に膨れ上がり、無数の触手を伸ばしていた。

 「……おや。夜更かしはお肌に悪いですよ、奥様」

 ヴィクトルが振り返る。  その顔は笑っていたが、目は完全に人間のものではなかった。  赤く発光するその瞳は、見るだけで精神を蝕むような恐怖を放っていた。

 「貴様……! 正体を現したわね!」

 私は恐怖を押し殺し、一歩踏み出した。

 「シオンから離れなさい!」

 「離れる? ふふ、私はただ、夜泣きをするシオン様をあやしに来ただけですよ。……少し、彼の中身(魂)をいただこうかと思いましてね」

 ヴィクトルの影から伸びた触手が、シオンに襲いかかる。  シオンは結界で防いでいるが、徐々に押されている。  大人の魔術師(しかも化け物クラス)と、赤ちゃんの魔力容量では、持久戦になれば不利だ。

 「させるかッ!」

 私は握りしめていた小瓶を、ヴィクトルに向けて全力で投擲した。  かつて、村の子供たちとの雪合戦で鍛えたコントロールは伊達じゃない。  小瓶は美しい放物線を描き、ヴィクトルの顔面に直撃した。

 パリンッ!

 「ぐあッ!?」

 液体がかかった瞬間、ヴィクトルの顔から白煙が上がった。  『聖水濃縮液』の効果だ。  彼の皮膚がジュワジュワと焼けただれるような音を立てる。

 「こ、これは……聖水!? ただの人間ごときが、なぜ高純度の聖水を……!」

 ヴィクトルが苦悶の声を上げて顔を覆う。  影の触手が霧散する。

 「ただの人間じゃないわ! 私は『母親』よ!」

 私はその隙にシオンのもとへ駆け寄り、彼を抱き上げた。

 「シオン、大丈夫!?」

 「ママ……!」

 シオンは私の首にしがみついた。  全身が汗でびっしょりだ。  一人で戦っていたのだ。こんな化け物を相手に。

 「おのれ……!」

 ヴィクトルが顔を上げた。  火傷の痕は、見る間に再生していく。  やはり人間ではない。  彼は怒りに歪んだ形相で私を睨んだ。

 「興が削がれましたね。……ですが、私の正体を知った以上、生かしておくわけにはいきません」

 彼の手から、漆黒の雷が放たれようとした、その時。

 『警告。屋敷内の魔力濃度が規定値を超過。自動防衛システム、起動』

 無機質なアナウンスが響いた。  アレクセイが設置していった『害意感知式自動迎撃結界』だ。  ヴィクトルの殺気がトリガーとなり、屋敷全体の防衛機能が作動したのだ。

 廊下の天井から、無数の氷柱(つらら)が出現し、ヴィクトルに照準を合わせる。

 「チッ……。アレクセイめ、面倒な仕掛けを残していったな」

 ヴィクトルは舌打ちをした。  このまま戦闘を続ければ、屋敷ごと吹き飛びかねない。  そして、アレクセイがすぐに転移して戻ってくる可能性もある。

 「……いいでしょう。今夜は引きます」

 彼はスッと殺気を消した。  すると、防衛システムの氷柱も消滅した。

 「ですが、覚えておいてください。この屋敷はすでに私の『巣』です。逃げ場はありませんよ」

 彼は闇に溶けるようにして姿を消した。  残されたのは、私とシオンだけ。

 私はへたり込みそうになる足を踏ん張り、シオンを強く抱きしめた。

 「……怖かったね。ごめんね、気づくのが遅くて」

 「ママ……たすけてくれて、ありがとう」

 シオンの小さな手が、私の頬を撫でる。

 『ママ、すごかったよ。あの聖水ビンタ、クリティカルヒットだった』

 シオンの心の声が聞こえる。  少しだけ震えているが、いつもの調子だ。

 『でも、あいつはまだ本気じゃない。僕を精神的に追い詰めて、自滅させるのが狙いみたいだ』

 『自滅なんてさせない。私が絶対に守るわ』

 『うん。……僕たち二人で、パパが帰ってくるまで持ちこたえよう』

 私たちは暗い部屋で、固く誓い合った。  敵は家の中にいる。  最強のパパはいない。  頼れるのは、お互いの知恵と勇気、そして母の愛と息子の前世スキルだけ。

 窓の外では、月が黒い雲に覆われようとしていた。  長い、長い夜が始まったばかりだった。

       ◆

 翌朝。  食卓には、何事もなかったかのようにヴィクトルが座っていた。  顔の火傷は跡形もなく消え、いつもの涼しい笑顔で紅茶を飲んでいる。

 「おはようございます、奥様、シオン様。昨夜はよく眠れましたか?」

 白々しい。  私は彼を無視して席に着きたい衝動を抑え、にっこりと微笑み返した。

 「ええ、おかげさまで。……ただ、部屋に大きな『害虫』が出たので、駆除するのに少し手間取りましたわ」

 「それは災難でしたね。……次からは、もっと強力な殺虫剤が必要かもしれませんよ?」

 「ご心配なく。とっておきの『劇薬』を用意しておきますから」

 火花散る朝の挨拶。  給仕をするメイドたちは、なぜか室温が下がっていることに首を傾げていた。

 シオンは黙々とパンケーキを食べているが、その足元では、影魔法による罠をテーブルの下に張り巡らせている最中だった。  ヴィクトルの靴紐を影で結んで転ばせるという、地味だが精神的ダメージを与える作戦である。

 (負けないわよ、化け物家庭教師)  (首を洗って待ってな、魔王もどき)

 レティシアとシオンの、仁義なき家庭内戦争が幕を開けた。
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