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第2話:冷徹宰相の介入
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「――そこまでだ」
その声は、熱狂に沸くパーティー会場を一瞬で凍りつかせた。
まるで氷水を浴びせられたかのように、音楽も、話し声も、嘲笑も、すべてがピタリと止まる。 張り詰めた静寂の中、コツ、コツ、と硬質な靴音だけが響く。
私は心臓が口から飛び出しそうな恐怖の中で、薄目を開けてその人物を見た。 アデル王太子の振り上げた腕を、片手で軽々と掴み上げている男。
クラウス・ヴァン・アイゼンベルク侯爵。 この国の宰相であり、若干二十四歳にして国政を取り仕切る天才。 そして、冷徹無比な判断と容赦のない粛清から「氷の閣下」と恐れられる人物だ。
(ど、どうして宰相様がここに……?)
前世の記憶を必死に探る。 あの日、私が断罪された時、彼は確かにこの会場にいたはずだ。しかし、彼はあくまで中立を保ち、あるいは王太子の愚行に呆れて、早々に退席していたはずだった。 私のような悪役令嬢になど、興味の一欠片も示さなかったはずなのに。
なぜ、今、私の前に立っているの? しかも、王太子の腕を掴んで?
「ク、クラウス……? 何をする、放せ!」
アデルが顔を赤くして叫ぶ。 しかし、クラウスの指は万力のようにアデルの手首に食い込み、微動だにしない。 その細身の体のどこに、これほどの力が秘められているのか。
クラウスはアデルを見下ろしたまま、表情一つ変えずに言った。
「放してほしければ、まずはその無作法な拳を収めることです、殿下。ここは神聖なる学園の創立記念パーティー。ならず者の喧嘩騒ぎの場ではありません」
「な、ならず者だと!? 私は王太子だぞ! この女の悪事を暴き、正当な裁きを与えようとしていただけだ!」
「裁き、ですか」
クラウスの声が、さらに一度下がった気がした。 周囲の貴族たちが、ひっ、と息を呑む気配がする。
彼はゆっくりとアデルの手首を放した。 アデルはよろめきながら後退り、自分の手首をさする。そこにはくっきりと赤い指の跡が残っていた。
クラウスは懐から純白のハンカチを取り出し、アデルに触れた手を丁寧に拭きながら――まるで汚いものに触れたかのように――淡々と言葉を紡いだ。
「我が国の法において、貴族の断罪には厳格な手続きが必要です。確たる証拠の提示、証人への尋問、そして何より、被告人への弁明の機会。それらを経ずに、公衆の面前で女性に暴力を振るうことが、殿下の仰る『正当な裁き』なのですか?」
「う……ぐ……」
アデルが言葉に詰まる。 正論だ。あまりにも正論すぎて、誰も反論できない。
しかし、ここで黙っていないのが、私の天敵であるミリアだった。 彼女はアデルの背中からひょいと顔を出すと、潤んだ瞳でクラウスを見上げた。上目遣いの角度は完璧だ。
「宰相様ぁ、ひどいですぅ。殿下は、私のために怒ってくださったんです。エリス様がいじめるから……私、怖くて……」
出た。 伝家の宝刀、嘘泣き&被害者ムーブ。 前世の私はこれにカッとなって「嘘をつくな!」と叫び、その瞬間に「ほら見ろ、その剣幕がいじめの証拠だ!」と畳み掛けられたのだ。
でも今の私は、恐怖で声が出ない。 ただガタガタと震えながら(心の中で)、二人のやり取りを見守るしかない。
クラウスの灰色の瞳が、ミリアに向けられた。
「……男爵令嬢、ミリア・ベルガーですね」
「は、はいぃ! 私の名前、知っててくださったんですね、嬉しいですぅ」
ミリアが頬を染めて、媚びるような笑みを浮かべる。 彼女にとって、相手が誰であろうと――たとえ「氷の閣下」であろうと――自分の魅力が通じない相手はいないという自信があるのだろう。
しかし、クラウスは無慈悲だった。
「貴女の発言には、主観的感情しか含まれていない。私が求めているのは『事実』と『証拠』です。『いじめられた気がする』『怖かった』などという感情論は、断罪の根拠にはなり得ない」
「え……?」
ミリアの笑顔が凍りつく。
「それに、先ほどから拝見していましたが、貴女の態度はあまりにも目に余る。公爵令嬢であるエリス嬢を差し置いて、王太子の腕に絡みつき、被害者を自称しながら勝ち誇ったように笑う。……貴女が言う『いじめ』の実態がどのようなものか、改めて精査する必要がありそうだ」
バッサリだった。 切れ味鋭い日本刀で、一刀両断されたようだった。
会場の空気が変わる。 今までミリアに同情的だった貴族たちが、「言われてみれば……」「確かに、証拠はないな」「男爵令嬢の分際で、少し図々しいのでは?」と囁き始めたのだ。
アデルが焦って叫ぶ。
「だ、だが証拠ならある! 先月、ミリアの教科書が破られていた! 階段から突き落とされたという目撃証言もある!」
「ほう。その目撃者とは?」
「ミリアの友人の令嬢たちだ!」
「……なるほど。被害者の友人の証言のみ、ですか。客観性に欠けますね」
クラウスは冷ややかに鼻を鳴らした。
「それに、教科書が破られていたとして、それがエリス嬢の仕業であるという確証は? 現場を見た者がいるのですか? 筆跡鑑定や指紋の採取は行われたのですか?」
「そ、そこまでは……。だが、状況的にエリスしかいないだろう! いつも嫉妬してミリアを睨んでいたんだから!」
「睨んでいた、ですか」
クラウスが、ゆっくりと私の方を振り返った。
ひぃっ! 目が合った! 殺される!
私は反射的に息を止め、直立不動の姿勢を取った。 心拍数が限界突破しそうだ。 彼の瞳は、すべてを見透かすように鋭い。 きっと私の中にある「助かりたい」「逃げたい」という卑しい心も、全部お見通しに違いない。
クラウスが私に歩み寄ってくる。 一歩、また一歩。 私は逃げ場を失い、背後の壁に張り付いた。
(怒られる。きっと怒られる。「お前も何か言え」って怒鳴られるんだ……!)
クラウスが私の目の前で止まる。 背が高い。見上げると首が痛いほどの身長差だ。 彼は私を見下ろし、静かな声で問いかけた。
「エリス嬢。……貴女には、弁明の機会が与えられるべきだ。何か言いたいことは?」
問いかけられた。 弁明。 そう、ここで「私はやっていません」と言えばいい。 クラウス様なら、きっと冷静に聞いてくれるはずだ。
そう思うのに。 喉が詰まって、言葉が出てこない。
口を開こうとすると、前世の記憶が蘇るのだ。 『黙れ』という怒号。 飛んでくる石礫。 断頭台の冷たい感触。
言葉を発した瞬間に、またあの地獄に引き戻される気がして。 私はパクパクと金魚のように口を動かすだけで、音を出すことができなかった。
怖い。 声が出ない。 誰か助けて。
極限の緊張状態で、私の視界が涙で滲む。 でも、泣いてはいけない。泣いたら「嘘泣きだ」と罵られる。 私は必死に涙を堪え、震える唇を噛み締め、じっと足元を見つめた。 それは傍から見れば、悔しさに耐えながらも、気高く沈黙を守る姿に見えたかもしれない。
アデルが勝ち誇ったように声を上げた。
「見ろクラウス! 何も言えないじゃないか! 図星だから黙っているんだ! やはりこいつが犯人に決まっている!」
違う。 違うのに。
私は否定したくて首を振ろうとした。 しかし、首の筋肉までもが硬直して、わずかに顎が動いただけだった。 それが、肯定の頷きに見えたらどうしよう。 絶望感が胸に広がる。
その時。
「……ふッ」
頭上から、かすかな笑い声が聞こえた。 え? 驚いて顔を上げると、クラウスが口元に微かな笑みを浮かべていた。 冷酷な嘲笑ではない。 どこか……感心したような、あるいは眩しいものを見るような、穏やかな笑み。
「なるほど。……よくわかりました」
クラウスは深く頷くと、くるりとアデルの方へ向き直った。
「殿下。彼女の答えは明白です」
「はあ? 何を言っている? こいつは何も喋っていないぞ」
「ええ、喋っていません。一言も弁解せず、泣き言も言わず、ただ沈黙を貫いている。……これこそが、彼女の答えなのですよ」
会場中が「?」という空気に包まれる。 私も「?」だった。 どういうこと?
クラウスは朗々と、まるで演説のように語り始めた。
「真に高潔な者は、愚かな言いがかりに対して、同じ土俵に立って言い争うことを由としない。根拠のない誹謗中傷に対し、言葉で反論することすら、相手のレベルに身を落とすことになるからです」
えっ。
「彼女は沈黙をもって、貴方たちの茶番劇を否定したのです。『弁明する価値もない』と。『私の潔白は、私の生き様を見れば明らかだ』と。……なんという誇り高さ。なんという強靭な精神力」
ええーっ!?
いやいやいや! 違います! 買いかぶりすぎです! ただビビって声が出ないだけです! 生き様とかそんな立派なものじゃないです!
心の中で全力でツッコミを入れるが、もちろん声にはならない。 私の無言の困惑顔を見て、クラウスはさらに確信を深めたようだ。
「見なさい、この揺るぎない瞳を。彼女は恐怖に震えているのではない。理不尽な暴力に対する、静かなる怒りに震えているのです」
いや、恐怖です。百パーセント恐怖です。
「アデル殿下。貴方は彼女の沈黙を『肯定』と捉えたようですが、それは浅はかです。この沈黙は、貴方への『失望』であり、そして最後の『慈悲』なのです。……これ以上、公衆の面前で王家の恥を晒さぬようにと、彼女はあえて口を閉ざしてくれているのですよ」
会場の空気が、ガラリと変わった。
「そ、そうだったのか……」 「確かに、ローゼン公爵家といえば建国の功臣。その令嬢が、こんな低レベルな争いをするはずがない」 「沈黙は金、という言葉もあるしな」 「殿下のあまりの愚かさに、言葉を失っていただけなのかもしれん」 「なんてお優しい……。自らの名誉が傷つけられているのに、王家の体面を守ろうとするなんて」
貴族たちの掌返しがすごい。 さっきまで「悪女だ」「殺せ」って言ってた人たちが、今や私を「悲劇の聖女」を見るような目で見ている。
アデルは顔を真っ赤にしてパクパクと口を開閉させている。 反論したいが、クラウスの完璧な論理(超解釈)に気圧されて、言葉が出てこないようだ。
ミリアだけが、状況を理解できずに喚いた。
「な、なによそれ! 黙ってるのは図星だからでしょ!? なんでそんなにかばうんですかぁ!」
クラウスはミリアを一瞥もしなかった。 完全に無視だ。 それが一番堪えたのか、ミリアは「キィーッ!」とヒステリックに地団駄を踏んだ。 その姿は、先ほどの「か弱い被害者」の演技とはかけ離れていて、周囲の貴族たちは冷ややかな目で彼女を見つめ始めた。
「……行こう」
不意に、私の肩に暖かいものが乗せられた。 クラウスの上着だ。 彼の匂い――冷たく澄んだ冬の空気のような、でもどこか甘い香りが、私を包み込む。
「え?」
私が小さく声を漏らすと、クラウスは私の背中を優しく、しかし強引に支えた。
「これ以上、ここにいる必要はありません。貴女のような高潔な女性が、このような汚れた空気を吸い続けるのは忍びない」
彼は私をエスコートするように腕を差し出した。 私はおずおずと、その腕に手を添える。 手が震えているのがバレてしまう。
「殿下。婚約破棄の件については、改めて正式な場にて話し合いましょう。……ただし、今日のところはエリス嬢を私が保護します。彼女の心身は、貴方たちの暴挙によって深く傷ついている」
「ま、待てクラウス! 勝手なことを!」
「黙りなさい」
クラウスが一喝すると、アデルは再びビクリと竦み上がった。
「彼女の沈黙の声が聞こえない貴方に、王となる資格があるのか……今はそれを問い直すべき時かもしれませんね」
捨て台詞を残し、クラウスは歩き出した。 私も必死でついていく。 人垣が割れ、道ができる。 私たちは背筋を伸ばし、堂々と会場を後にした。 背後でアデルの怒声とミリアの悲鳴が聞こえたが、私は二度と振り返らなかった。
◇
王宮の外に出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。 待機していた宰相家の馬車に、半ば押し込まれるようにして乗せられる。
扉が閉まり、馬車が動き出す。 密室。 二人きり。
とたんに、張り詰めていた緊張の糸が切れそうになった。 やばい。 助かったのはいいけど、これからどうなるの? この人、アデルより怖いんですけど。 さっきの論破、すごかったし。 もし私がボロを出したら、あの口調で詰められるの?
私は膝の上で両手を握りしめ、ガタガタと震え出した。 今度は本当に止まらない。 歯の根が合わないほど震える。
クラウスは対面の席に座り、じっと私を見つめている。 無言だ。 それが余計に怖い。
(怒ってる? やっぱり「お前も大概にしろ」って怒ってる?)
沈黙に耐えきれず、私は何か謝罪の言葉を口にしようとした。 「すみません」「ありがとうございます」 それくらい言わなきゃ、人間として終わってる。
でも、喉がヒューヒューと鳴るだけで、言葉にならない。 涙がボロボロと溢れてくる。
すると、クラウスが動いた。 ひっ! 殴られる! 私はギュッと身を縮めた。
しかし、触れたのは優しい指先だった。 彼の手が、私の頬を伝う涙を拭っている。
「……すまない」
え? 予想外の言葉に、私は目を開けた。 クラウスが、痛ましげな表情で私を見ていた。
「私が駆けつけるのが遅れたばかりに、これほどまで君を震えさせてしまった。……悔しさが溢れているのだね。何も言わずに耐え抜いた反動が、今来ているのか」
いや、あの。 これは単に、貴方と王太子殿下の板挟みが怖すぎて腰が抜けているだけなんですけど。
「大丈夫だ、エリス。もう誰も見ていない。私の前では、その高潔な仮面を外して、思い切り泣いていい」
彼はそう言って、隣に移動してくると、私の頭を胸に引き寄せた。 硬い胸板の感触。 トクトクという心音が聞こえる。
「君の沈黙には、千の言葉よりも重い真実があった。私は……感動したよ」
抱きしめられながら、私は混乱の極みにあった。
勘違いされている。 ものすごく、良い方に勘違いされている。 どうしよう。 今さら「実はビビって声が出なかっただけです」なんて言えない。 言ったらこの人、どんな顔をするだろう。 「時間を返せ」って殺されるかもしれない。
だとしたら。 このまま黙っているのが正解? うん、そうしよう。 私は貝になる。 綺麗な貝に。
私はクラウスの胸の中で、コクコクと小さく頷いた。 それがまた「健気な令嬢」に見えたらしく、クラウスの腕に力がこもる。
「……エリス。君を屋敷には帰さない」
へ? 今、なんて?
「今日は私の屋敷に来てもらう。……いや、今日だけではないかもしれないな」
耳元で囁かれた低音ボイスに、私の背筋にゾクゾクとした悪寒(と、ほんの少しのときめき)が走った。 え、待って。 これって、誘拐? それとも、まさかの……?
私の二度目の人生は、無言を貫いたせいで、思わぬ方向へと転がり始めていた。
その声は、熱狂に沸くパーティー会場を一瞬で凍りつかせた。
まるで氷水を浴びせられたかのように、音楽も、話し声も、嘲笑も、すべてがピタリと止まる。 張り詰めた静寂の中、コツ、コツ、と硬質な靴音だけが響く。
私は心臓が口から飛び出しそうな恐怖の中で、薄目を開けてその人物を見た。 アデル王太子の振り上げた腕を、片手で軽々と掴み上げている男。
クラウス・ヴァン・アイゼンベルク侯爵。 この国の宰相であり、若干二十四歳にして国政を取り仕切る天才。 そして、冷徹無比な判断と容赦のない粛清から「氷の閣下」と恐れられる人物だ。
(ど、どうして宰相様がここに……?)
前世の記憶を必死に探る。 あの日、私が断罪された時、彼は確かにこの会場にいたはずだ。しかし、彼はあくまで中立を保ち、あるいは王太子の愚行に呆れて、早々に退席していたはずだった。 私のような悪役令嬢になど、興味の一欠片も示さなかったはずなのに。
なぜ、今、私の前に立っているの? しかも、王太子の腕を掴んで?
「ク、クラウス……? 何をする、放せ!」
アデルが顔を赤くして叫ぶ。 しかし、クラウスの指は万力のようにアデルの手首に食い込み、微動だにしない。 その細身の体のどこに、これほどの力が秘められているのか。
クラウスはアデルを見下ろしたまま、表情一つ変えずに言った。
「放してほしければ、まずはその無作法な拳を収めることです、殿下。ここは神聖なる学園の創立記念パーティー。ならず者の喧嘩騒ぎの場ではありません」
「な、ならず者だと!? 私は王太子だぞ! この女の悪事を暴き、正当な裁きを与えようとしていただけだ!」
「裁き、ですか」
クラウスの声が、さらに一度下がった気がした。 周囲の貴族たちが、ひっ、と息を呑む気配がする。
彼はゆっくりとアデルの手首を放した。 アデルはよろめきながら後退り、自分の手首をさする。そこにはくっきりと赤い指の跡が残っていた。
クラウスは懐から純白のハンカチを取り出し、アデルに触れた手を丁寧に拭きながら――まるで汚いものに触れたかのように――淡々と言葉を紡いだ。
「我が国の法において、貴族の断罪には厳格な手続きが必要です。確たる証拠の提示、証人への尋問、そして何より、被告人への弁明の機会。それらを経ずに、公衆の面前で女性に暴力を振るうことが、殿下の仰る『正当な裁き』なのですか?」
「う……ぐ……」
アデルが言葉に詰まる。 正論だ。あまりにも正論すぎて、誰も反論できない。
しかし、ここで黙っていないのが、私の天敵であるミリアだった。 彼女はアデルの背中からひょいと顔を出すと、潤んだ瞳でクラウスを見上げた。上目遣いの角度は完璧だ。
「宰相様ぁ、ひどいですぅ。殿下は、私のために怒ってくださったんです。エリス様がいじめるから……私、怖くて……」
出た。 伝家の宝刀、嘘泣き&被害者ムーブ。 前世の私はこれにカッとなって「嘘をつくな!」と叫び、その瞬間に「ほら見ろ、その剣幕がいじめの証拠だ!」と畳み掛けられたのだ。
でも今の私は、恐怖で声が出ない。 ただガタガタと震えながら(心の中で)、二人のやり取りを見守るしかない。
クラウスの灰色の瞳が、ミリアに向けられた。
「……男爵令嬢、ミリア・ベルガーですね」
「は、はいぃ! 私の名前、知っててくださったんですね、嬉しいですぅ」
ミリアが頬を染めて、媚びるような笑みを浮かべる。 彼女にとって、相手が誰であろうと――たとえ「氷の閣下」であろうと――自分の魅力が通じない相手はいないという自信があるのだろう。
しかし、クラウスは無慈悲だった。
「貴女の発言には、主観的感情しか含まれていない。私が求めているのは『事実』と『証拠』です。『いじめられた気がする』『怖かった』などという感情論は、断罪の根拠にはなり得ない」
「え……?」
ミリアの笑顔が凍りつく。
「それに、先ほどから拝見していましたが、貴女の態度はあまりにも目に余る。公爵令嬢であるエリス嬢を差し置いて、王太子の腕に絡みつき、被害者を自称しながら勝ち誇ったように笑う。……貴女が言う『いじめ』の実態がどのようなものか、改めて精査する必要がありそうだ」
バッサリだった。 切れ味鋭い日本刀で、一刀両断されたようだった。
会場の空気が変わる。 今までミリアに同情的だった貴族たちが、「言われてみれば……」「確かに、証拠はないな」「男爵令嬢の分際で、少し図々しいのでは?」と囁き始めたのだ。
アデルが焦って叫ぶ。
「だ、だが証拠ならある! 先月、ミリアの教科書が破られていた! 階段から突き落とされたという目撃証言もある!」
「ほう。その目撃者とは?」
「ミリアの友人の令嬢たちだ!」
「……なるほど。被害者の友人の証言のみ、ですか。客観性に欠けますね」
クラウスは冷ややかに鼻を鳴らした。
「それに、教科書が破られていたとして、それがエリス嬢の仕業であるという確証は? 現場を見た者がいるのですか? 筆跡鑑定や指紋の採取は行われたのですか?」
「そ、そこまでは……。だが、状況的にエリスしかいないだろう! いつも嫉妬してミリアを睨んでいたんだから!」
「睨んでいた、ですか」
クラウスが、ゆっくりと私の方を振り返った。
ひぃっ! 目が合った! 殺される!
私は反射的に息を止め、直立不動の姿勢を取った。 心拍数が限界突破しそうだ。 彼の瞳は、すべてを見透かすように鋭い。 きっと私の中にある「助かりたい」「逃げたい」という卑しい心も、全部お見通しに違いない。
クラウスが私に歩み寄ってくる。 一歩、また一歩。 私は逃げ場を失い、背後の壁に張り付いた。
(怒られる。きっと怒られる。「お前も何か言え」って怒鳴られるんだ……!)
クラウスが私の目の前で止まる。 背が高い。見上げると首が痛いほどの身長差だ。 彼は私を見下ろし、静かな声で問いかけた。
「エリス嬢。……貴女には、弁明の機会が与えられるべきだ。何か言いたいことは?」
問いかけられた。 弁明。 そう、ここで「私はやっていません」と言えばいい。 クラウス様なら、きっと冷静に聞いてくれるはずだ。
そう思うのに。 喉が詰まって、言葉が出てこない。
口を開こうとすると、前世の記憶が蘇るのだ。 『黙れ』という怒号。 飛んでくる石礫。 断頭台の冷たい感触。
言葉を発した瞬間に、またあの地獄に引き戻される気がして。 私はパクパクと金魚のように口を動かすだけで、音を出すことができなかった。
怖い。 声が出ない。 誰か助けて。
極限の緊張状態で、私の視界が涙で滲む。 でも、泣いてはいけない。泣いたら「嘘泣きだ」と罵られる。 私は必死に涙を堪え、震える唇を噛み締め、じっと足元を見つめた。 それは傍から見れば、悔しさに耐えながらも、気高く沈黙を守る姿に見えたかもしれない。
アデルが勝ち誇ったように声を上げた。
「見ろクラウス! 何も言えないじゃないか! 図星だから黙っているんだ! やはりこいつが犯人に決まっている!」
違う。 違うのに。
私は否定したくて首を振ろうとした。 しかし、首の筋肉までもが硬直して、わずかに顎が動いただけだった。 それが、肯定の頷きに見えたらどうしよう。 絶望感が胸に広がる。
その時。
「……ふッ」
頭上から、かすかな笑い声が聞こえた。 え? 驚いて顔を上げると、クラウスが口元に微かな笑みを浮かべていた。 冷酷な嘲笑ではない。 どこか……感心したような、あるいは眩しいものを見るような、穏やかな笑み。
「なるほど。……よくわかりました」
クラウスは深く頷くと、くるりとアデルの方へ向き直った。
「殿下。彼女の答えは明白です」
「はあ? 何を言っている? こいつは何も喋っていないぞ」
「ええ、喋っていません。一言も弁解せず、泣き言も言わず、ただ沈黙を貫いている。……これこそが、彼女の答えなのですよ」
会場中が「?」という空気に包まれる。 私も「?」だった。 どういうこと?
クラウスは朗々と、まるで演説のように語り始めた。
「真に高潔な者は、愚かな言いがかりに対して、同じ土俵に立って言い争うことを由としない。根拠のない誹謗中傷に対し、言葉で反論することすら、相手のレベルに身を落とすことになるからです」
えっ。
「彼女は沈黙をもって、貴方たちの茶番劇を否定したのです。『弁明する価値もない』と。『私の潔白は、私の生き様を見れば明らかだ』と。……なんという誇り高さ。なんという強靭な精神力」
ええーっ!?
いやいやいや! 違います! 買いかぶりすぎです! ただビビって声が出ないだけです! 生き様とかそんな立派なものじゃないです!
心の中で全力でツッコミを入れるが、もちろん声にはならない。 私の無言の困惑顔を見て、クラウスはさらに確信を深めたようだ。
「見なさい、この揺るぎない瞳を。彼女は恐怖に震えているのではない。理不尽な暴力に対する、静かなる怒りに震えているのです」
いや、恐怖です。百パーセント恐怖です。
「アデル殿下。貴方は彼女の沈黙を『肯定』と捉えたようですが、それは浅はかです。この沈黙は、貴方への『失望』であり、そして最後の『慈悲』なのです。……これ以上、公衆の面前で王家の恥を晒さぬようにと、彼女はあえて口を閉ざしてくれているのですよ」
会場の空気が、ガラリと変わった。
「そ、そうだったのか……」 「確かに、ローゼン公爵家といえば建国の功臣。その令嬢が、こんな低レベルな争いをするはずがない」 「沈黙は金、という言葉もあるしな」 「殿下のあまりの愚かさに、言葉を失っていただけなのかもしれん」 「なんてお優しい……。自らの名誉が傷つけられているのに、王家の体面を守ろうとするなんて」
貴族たちの掌返しがすごい。 さっきまで「悪女だ」「殺せ」って言ってた人たちが、今や私を「悲劇の聖女」を見るような目で見ている。
アデルは顔を真っ赤にしてパクパクと口を開閉させている。 反論したいが、クラウスの完璧な論理(超解釈)に気圧されて、言葉が出てこないようだ。
ミリアだけが、状況を理解できずに喚いた。
「な、なによそれ! 黙ってるのは図星だからでしょ!? なんでそんなにかばうんですかぁ!」
クラウスはミリアを一瞥もしなかった。 完全に無視だ。 それが一番堪えたのか、ミリアは「キィーッ!」とヒステリックに地団駄を踏んだ。 その姿は、先ほどの「か弱い被害者」の演技とはかけ離れていて、周囲の貴族たちは冷ややかな目で彼女を見つめ始めた。
「……行こう」
不意に、私の肩に暖かいものが乗せられた。 クラウスの上着だ。 彼の匂い――冷たく澄んだ冬の空気のような、でもどこか甘い香りが、私を包み込む。
「え?」
私が小さく声を漏らすと、クラウスは私の背中を優しく、しかし強引に支えた。
「これ以上、ここにいる必要はありません。貴女のような高潔な女性が、このような汚れた空気を吸い続けるのは忍びない」
彼は私をエスコートするように腕を差し出した。 私はおずおずと、その腕に手を添える。 手が震えているのがバレてしまう。
「殿下。婚約破棄の件については、改めて正式な場にて話し合いましょう。……ただし、今日のところはエリス嬢を私が保護します。彼女の心身は、貴方たちの暴挙によって深く傷ついている」
「ま、待てクラウス! 勝手なことを!」
「黙りなさい」
クラウスが一喝すると、アデルは再びビクリと竦み上がった。
「彼女の沈黙の声が聞こえない貴方に、王となる資格があるのか……今はそれを問い直すべき時かもしれませんね」
捨て台詞を残し、クラウスは歩き出した。 私も必死でついていく。 人垣が割れ、道ができる。 私たちは背筋を伸ばし、堂々と会場を後にした。 背後でアデルの怒声とミリアの悲鳴が聞こえたが、私は二度と振り返らなかった。
◇
王宮の外に出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。 待機していた宰相家の馬車に、半ば押し込まれるようにして乗せられる。
扉が閉まり、馬車が動き出す。 密室。 二人きり。
とたんに、張り詰めていた緊張の糸が切れそうになった。 やばい。 助かったのはいいけど、これからどうなるの? この人、アデルより怖いんですけど。 さっきの論破、すごかったし。 もし私がボロを出したら、あの口調で詰められるの?
私は膝の上で両手を握りしめ、ガタガタと震え出した。 今度は本当に止まらない。 歯の根が合わないほど震える。
クラウスは対面の席に座り、じっと私を見つめている。 無言だ。 それが余計に怖い。
(怒ってる? やっぱり「お前も大概にしろ」って怒ってる?)
沈黙に耐えきれず、私は何か謝罪の言葉を口にしようとした。 「すみません」「ありがとうございます」 それくらい言わなきゃ、人間として終わってる。
でも、喉がヒューヒューと鳴るだけで、言葉にならない。 涙がボロボロと溢れてくる。
すると、クラウスが動いた。 ひっ! 殴られる! 私はギュッと身を縮めた。
しかし、触れたのは優しい指先だった。 彼の手が、私の頬を伝う涙を拭っている。
「……すまない」
え? 予想外の言葉に、私は目を開けた。 クラウスが、痛ましげな表情で私を見ていた。
「私が駆けつけるのが遅れたばかりに、これほどまで君を震えさせてしまった。……悔しさが溢れているのだね。何も言わずに耐え抜いた反動が、今来ているのか」
いや、あの。 これは単に、貴方と王太子殿下の板挟みが怖すぎて腰が抜けているだけなんですけど。
「大丈夫だ、エリス。もう誰も見ていない。私の前では、その高潔な仮面を外して、思い切り泣いていい」
彼はそう言って、隣に移動してくると、私の頭を胸に引き寄せた。 硬い胸板の感触。 トクトクという心音が聞こえる。
「君の沈黙には、千の言葉よりも重い真実があった。私は……感動したよ」
抱きしめられながら、私は混乱の極みにあった。
勘違いされている。 ものすごく、良い方に勘違いされている。 どうしよう。 今さら「実はビビって声が出なかっただけです」なんて言えない。 言ったらこの人、どんな顔をするだろう。 「時間を返せ」って殺されるかもしれない。
だとしたら。 このまま黙っているのが正解? うん、そうしよう。 私は貝になる。 綺麗な貝に。
私はクラウスの胸の中で、コクコクと小さく頷いた。 それがまた「健気な令嬢」に見えたらしく、クラウスの腕に力がこもる。
「……エリス。君を屋敷には帰さない」
へ? 今、なんて?
「今日は私の屋敷に来てもらう。……いや、今日だけではないかもしれないな」
耳元で囁かれた低音ボイスに、私の背筋にゾクゾクとした悪寒(と、ほんの少しのときめき)が走った。 え、待って。 これって、誘拐? それとも、まさかの……?
私の二度目の人生は、無言を貫いたせいで、思わぬ方向へと転がり始めていた。
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