『悪役令嬢は、二度目の人生で無言を貫く。~処刑回避のために黙っていただけなのに、なぜか冷徹宰相様から「君こそ運命の人だ」と溺愛さています~』

放浪人

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第3話:静寂のティータイム(ファーストデート)

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 私が連れ去られた先は、王都の一等地にそびえ立つ、要塞のようなお屋敷だった。

 アイゼンベルク侯爵邸。  高い塀に囲まれ、鉄門は重厚で、庭木は定規で測ったように一ミリの狂いもなく剪定されている。  屋敷の主であるクラウス・ヴァン・アイゼンベルク宰相の性格が、そのまま建築物になったかのような場所だ。

「……着いたよ、エリス」

 馬車が止まり、クラウスが手を差し出す。  私はその手を震えながら借りて、地面に降り立った。  夜の冷気が肌を刺す。しかし、それ以上に屋敷から漂う「規律」と「静寂」の圧力が凄まじい。

 玄関ホールに入ると、ズラリと並んだ使用人たちが、一糸乱れぬ動きで頭を下げた。

「お帰りなさいませ、旦那様」

 軍隊か。  足音ひとつ、衣擦れの音ひとつさせない完璧な出迎え。  その最前列にいた初老の執事が、私を見てわずかに眉を動かした。ほんの数ミリ、驚きを表しただけだが、この鉄壁の屋敷ではそれが大事件のように感じられる。

「旦那様。そちらの女性は……」 「ローゼン公爵令嬢だ。事情があって保護することになった。最上級の客室を用意しろ。それと、彼女は今、心に深い傷を負っている。余計な干渉はするな。静かに休ませてやれ」

 クラウスの指示は短く、絶対的だった。  執事は瞬時に表情を引き締め、「畏まりました」と深く一礼する。

 私はといえば、借りてきた猫どころか、剥製にされた猫のように固まっていた。  豪華なシャンデリア。磨き上げられた大理石の床。  どこを見ても塵ひとつない。  もしここで躓いて転んだりしたら、不敬罪で即座に処刑されるのではないか。そんな妄想が頭をよぎる。

「エリス」

 不意に名前を呼ばれ、私はビクッと肩を跳ねさせた。  クラウスが振り返り、私をじっと見つめている。その氷色の瞳には、先ほどの馬車の中と同じ、奇妙な優しさが宿っていた。

「今日はもう遅い。何も考えずに休むといい。……君の沈黙が守られるよう、使用人たちにも言い含めておく」

 あ、はい。ありがとうございます。  私はコクコクと首を縦に振った。  声を出さなくていいのは助かる。  今の私は、何か喋ろうとすれば「ひぃ」とか「あぅ」とか、知性の欠片もない奇声を発してしまいそうだからだ。

「お休みなさい。……良い夢を」

 クラウスはそう言い残し、自身の執務室へと消えていった。  残された私は、メイド長と思われる厳格そうな女性に案内され、客室へと連行――もとい、案内されたのだった。

          ◇

 翌朝。  目が覚めると、私は見知らぬ天井の下にいた。

 一瞬、自分が死んで天国にいるのかと思ったが、すぐに昨夜の記憶が奔流のように押し寄せてきた。  断罪パーティー。  処刑の記憶。  声が出なかった私。  そして、冷徹宰相によるお持ち帰り。

「……終わった」

 私はベッドの上で頭を抱えた。  とんでもないことになってしまった。  アデル王太子との婚約は、実質的に破談だろう。それはいい。あんな男、こちらから願い下げだ。  問題は、私が「宰相閣下に保護されている」という事実だ。

 クラウス・ヴァン・アイゼンベルク。  「氷の閣下」「歩く法律全書」「笑顔を見た者は死ぬ」など、数々の異名を持つ男。  彼は私を「高潔な令嬢」だと勘違いしている。  沈黙を「雄弁な抗議」だと解釈している。

 もし。  もしも私が口を開き、中身がただの「ビビリで庶民的な思考の持ち主」だとバレたら?

(詐欺罪で処刑!? あるいは、公爵家への泥塗りで家ごと取り潰し!?)

 恐怖のあまり、胃がキリキリと痛む。  逃げたい。  でも、この要塞のような屋敷から逃げ出せるわけがない。

 だとしたら、生き残る道は一つ。

「……貝になろう」

 私は改めて決意した。  昨日の今日だ。まだショックで声が出ないという設定で押し通す。  余計なことは一切喋らない。  ニコニコ(引きつり笑い)して、頷くだけのマシーンになるのだ。  ボロが出る前に、なんとかして実家に帰してもらう。それが当面の目標だ。

 コンコン。  控えめなノックの音が響いた。

「失礼いたします。エリス様、朝のお支度に参りました」

 昨日のメイド長が入ってきた。  私はベッドの上で居住まいを正し、無言で会釈をした。  メイド長はテキパキとカーテンを開け、洗面器を用意し、ドレスを選んでいく。その間、私に対して一切の無駄口をきかない。  さすがは宰相家の使用人だ。教育が行き届いている。

「旦那様がお庭でお待ちです。朝食の後、お茶をご一緒したいとのことですが、いかがなさいますか?」

 お茶。  宰相閣下と、サシでお茶。

 断りたい。  全力で拒否したい。  「お腹が痛いので」と仮病を使いたい。

 しかし、恩人である彼の誘いを断るのは、それこそ貴族として――いや、人としてあり得ない。  私は覚悟を決めた。  これは試練だ。  「静寂の令嬢」を演じきるための、最初の関門なのだ。

 私はゆっくりと、優雅に見えるように意識して(実際はスローモーションなだけ)、首を縦に振った。

          ◇

 案内された中庭は、息を呑むほど美しかった。

 白亜のガゼボ(西洋風の東屋)を中心に、色とりどりの薔薇が咲き誇っている。  しかし、その配置は幾何学的で、自然の奔放さというよりは、計算され尽くした人工美を感じさせた。  一輪の枯れ葉も落ちていない清潔さは、やはりこの屋敷の主の性格を反映している。

 ガゼボの中には、すでにクラウスが座っていた。  朝日を背に受けて、紅茶を飲んでいる姿は、一枚の絵画のように完璧だ。  ただ、その眉間には深い皺が刻まれている。

(……不機嫌?)

 私は入り口で立ち止まり、帰りたくなった。  やはり昨日の私の態度に怒っているのではないか?  「調子に乗るなよ」と釘を刺されるために呼ばれたのではないか?

 クラウスが気配に気づき、顔を上げた。  私と目が合う。  その瞬間、彼の表情からスッと険しさが消えた。

「――来たか」

 低い声。  私は心臓を押さえながら、おずおずと近づき、カーテシー(膝を曲げる挨拶)をした。  無言で。

「座ってくれ。……急な呼び出しですまない」

 勧められた椅子に座る。  目の前には、湯気を立てる最高級の紅茶と、宝石のように美しい焼き菓子が並んでいる。  しかし、喉を通る気がしない。

 クラウスは再びティーカップを口に運び、ふぅ、と息をついた。  そして――黙った。

 ……。  …………。  ………………。

 会話がない。  え、何これ?  放送事故?

 カチャリ、とカップをソーサーに戻す音だけが、静寂の中に響く。  小鳥のさえずりが聞こえる。  風が葉を揺らす音が聞こえる。  でも、人間の声は一切しない。

 私は冷や汗をかき始めた。  何か喋るべき?  「いいお天気ですね」とか?  いや、私が「無言の令嬢」であることを評価されているなら、自分から口を開くのは減点対象か?  でも、招待主より先に客が黙り込んでいるのは無礼では?

 頭の中で「会話デッキ」を高速回転させるが、どれもこれも「処刑」というバッドエンドに繋がっている気がして選べない。  結局、私はひたすらティーカップを見つめ、紅茶の水面に映る自分の引きつった顔と睨めっこをするしかなかった。

 一方のクラウスは。  彼は何も言わず、ただぼんやりと庭の薔薇を眺めていた。  その横顔には、色濃い疲労の色が滲んでいる。

 目の下にうっすらとクマがある。  肌も少し荒れているようだ。  そういえば、彼は「王国の頭脳」として、一人で国政のほとんどを背負っていると聞いたことがある。  睡眠時間は三時間だとか、食事は移動中に済ませるとか、そんなブラックな噂も。

(……お疲れなんだな)

 恐怖が少し和らぎ、同情心が芽生えた。  彼は私を怒るために呼んだのではなく、単に休憩時間に誰か居てほしかっただけなのかもしれない。

 その時、クラウスが手を伸ばして、シュガーポットを取ろうとした。  しかし、彼の指先はわずかに震えていて、ポットの蓋をつかみ損ねた。  カチャン、と蓋が音を立てる。

 あ。  私は反射的に動いていた。  シュガーポットを両手で持ち、彼のカップのそばに差し出したのだ。  「どうぞ」とは言わない。  ただ、スッと差し出す。

 クラウスが目を見開いて私を見た。  しまった。  余計なことをしたか?  「自分でできる」と怒られるか?

 私はビクビクしながら様子を伺う。  クラウスは数秒間、私とポットを交互に見ていたが、やがて小さく口元を緩めた。

「……ありがとう」

 彼は角砂糖を二つ、カップに入れた。  甘党なのだろうか。意外だ。  そして再び、静寂が訪れる。

 でも、さっきまでの張り詰めた空気とは、少しだけ違う気がした。  クラウスが椅子の背もたれに深く体重を預け、目を閉じたのだ。

(えっ、寝るの?)

 まさか。  公爵令嬢を前にして居眠りなんて、あり得ない。  でも、彼の呼吸は次第に深く、規則正しくなっていく。

 どうしよう。  起こすべき?  「閣下?」と声をかけるべき?

 いや、待て。  ここで起こしたら、彼の貴重な睡眠時間を奪うことになる。  不機嫌にさせて、首をはねられるかもしれない。  それに、よほど疲れているのだろう。このまま寝かせておくのが、人としての情けというものだ。

 私は決めた。  私は「空気」になる。  彼が目覚めるまで、音一つ立てず、存在を消し去るのだ。  幸い、息を潜めて気配を消すのは、前世でいじめられっ子だった時に培った得意技だ。

 十分経過。  二十分経過。  三十分経過。

 ガゼボの中は、奇妙な静けさに満ちていた。  目の前の美形宰相は、スヤスヤと寝息を立てている。  無防備だ。  起きている時はあんなに怖いのに、寝顔は少し幼く見える。

 私は紅茶が冷めていくのを眺めながら、ただじっと座り続けた。  カップを置く音すら立てないよう、カップはずっと両手で持ったままだ。  足が痺れてきた。  背中が痒い。  でも動かない。  私の命がかかっているのだから。

 そして、一時間が経過しようとした頃。  クラウスのまつ毛が震え、ゆっくりと瞼が開かれた。

 灰色の瞳が、焦点を結ぶ。  彼は一瞬、自分がどこにいるのかわからないような顔をし、次に目の前の私を見て、ハッと息を呑んだ。

「……! すまない、私としたことが……!」

 彼は慌てて姿勢を正した。  その顔には、明らかな動揺と、自己嫌悪が浮かんでいる。  まずい。  客を放置して寝てしまったことを恥じている。  これは、その失態を目撃した私が消されるパターンでは?

 私はブンブンと首を横に振った。  「気にしないでください」  「私も楽しんでました(壁の花として)」  そんな意味を込めて、精一杯の愛想笑い(顔面筋肉の痙攣とも言う)を向ける。

 すると、クラウスの動きが止まった。  彼は私をまじまじと見つめた。  まるで、未確認生物を見るような目で。

「……君は、怒らないのか?」  問いかけに、私は首を横に振る。  怒るわけがない。むしろ静かで助かりました。

「一時間だぞ? 私は一時間も、君を放置して眠っていた。その間、君は私を起こさず、文句も言わず、音も立てず、ただ待っていたというのか?」

 はい。  怖くて動けなかっただけですけど。

 クラウスは額に手を当て、深く溜息をついた。  しかしそれは、呆れではなく、感嘆の吐息だった。

「信じられない……。今まで私が会ってきた女性たちは、五分と黙っていられなかった。私の注意を引こうと香水を振りまき、甲高い声で喋り続け、私が少しでも欠伸をすれば『退屈なのですか?』とヒステリックに騒いだ」

 へえ、モテる男は大変ですね。  私は他人事のように思う。

「だというのに、君は……。私の疲れを察し、安眠を妨げないよう、自ら気配を消してくれた。まるで、静寂そのものになって、私を守るように」

 解釈が重い!  気配を消したのは自己防衛です!

 クラウスはテーブルの上の私の手――冷めたカップを握りしめたままの手――に、自分の手を重ねた。  温かい。  大きくて、ゴツゴツとした男の手だ。

「……心地よかった」  彼は独り言のように呟いた。

「誰かの気配が側にあるのに、これほど安らいだのは初めてだ。君の沈黙は、雄弁な言葉以上に、私の心を癒やしてくれる」

 彼の瞳が、熱を帯びて私を射抜く。  え、ちょっと待って。  雰囲気がおかしい。  これ、吊り橋効果的な何か?  ただ寝てただけのおじさんと、ただ固まってただけの小娘の間で、なんでロマンスが生まれそうになってるの?

 クラウスは私の手を、そっと持ち上げた。  そして、手の甲に唇を寄せようとして――寸前で止めた。  理性が踏みとどまったようだ。  彼は名残惜しそうに手を放すと、真剣な眼差しで私に告げた。

「エリス。君に頼みがある」

 はい?  処刑宣告でなければ何でも聞きますが。

「また、こうして時間を共有してほしい。……いや、もっとはっきり言おう。私は、君にもっと会いたい」

 え?

「君の沈黙が、私には必要な気がするんだ」

 私はポカンと口を開けそうになり、慌てて引き結んだ。  会いたい?  私に?  黙ってるだけの私に?

 意味がわからない。  この人は天才すぎて、思考回路が一周回ってバグっているのではないか。  私は答えに窮し、首を小さく傾げた。  肯定でも否定でもない、困惑の角度。

 しかし、クラウスはそれを見て、満足げに微笑んだ。

「沈黙は肯定、と受け取っていいのだろうか。……ありがとう。では、明日は私の執務室に来てくれないか。君に見せたいものがある」

 どんどん予定が埋まっていく。  実家に帰るという私の目標が、遠のいていく音がした。

          ◇

 ガゼボを去る時、私は背中に強い視線を感じた。  振り返る勇気はなかった。  ただ、クラウスの最後の言葉が、耳に残って離れない。

『君の沈黙が、私には必要だ』

 それは、前世も含めて、誰からも言われたことのない言葉だった。  「うるさい」「黙れ」「喚くな」  そんな言葉ばかり浴びせられてきた私にとって、それは奇妙なほど甘く、そして恐ろしい響きを持っていた。

 部屋に戻った私は、鏡の前でへたり込んだ。  心臓がバクバクしている。  これは恐怖?  それとも、別の何か?

(……いや、恐怖だ。絶対に恐怖だ)

 私は自分に言い聞かせる。  あの人は宰相。国のトップ。  気まぐれで私を面白がっているだけ。  調子に乗ってボロを出せば、今度こそ終わりだ。

 でも。  私の手を包んだあの手の温かさは、なぜか冷めずに残っていた。

 そして私はまだ知らない。  この「静寂のティータイム」の様子が、使用人たちを通じて尾ひれ背ひれをつけられ、王都中に拡散されようとしていることを。

 『宰相閣下が、公爵令嬢に膝枕を強請ったらしい』  『いや、一時間も見つめ合っていたそうだ』  『二人だけの世界だったとか』

 そんな噂が、私の知らないところで爆発的に広まろうとしていた。
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