6 / 61
第6話 出発の朝
しおりを挟む
出発の朝は、薄い霧に包まれていた。
屋敷の正門前には、荷物を積み込んだ馬車が一台、ぽつんと停まっている。
公爵家の令嬢が旅立つのに、見送りは最小限だった。
父も母も、「朝が早いから」という理由で顔を見せない。
それが今の私の価値なのだと、改めて思い知らされる。
「お気をつけて」
並んだ使用人たちの声が揃う。
けれど、その視線は私の足元や、馬車の車輪に向けられていて、誰も私の顔を見ようとしない。
肌を刺すような、冷ややかな空気。
直接的な悪口は聞こえない。けれど、空気の振動が伝えてくるのだ。
『婚約者に疎まれて、追放されるらしい』
『わがままで冷酷だから、当然の報いね』
『やっと静かになるわ』
そんな幻聴が聞こえてきそうで、私は顔を伏せた。
着ているのは、昨日選んだ地味な灰色の旅装。
飾り気のないフードを目深に被り、自分の表情を隠す。
私はもう、煌びやかな公爵令嬢ではない。
ただの、無能で地味な女だ。
「さあ、こちらへ」
レージが馬車の扉を開け、手を差し出してくる。
真っ白な手袋。
その手にすがれば楽だとわかっているけれど、私は彼の手を無視して、自分でステップに足をかけた。
有能な執事に頼る姿を見せれば、また「偉そうだ」と陰口を叩かれるかもしれない。
それに、彼に触れられると、弱音が漏れ出しそうで怖かった。
「……」
レージは一瞬だけ空いた手を空中に留め、すぐに何事もなかったように優雅に引いた。
その沈黙が、私の胸をチクリと刺す。
馬車の中に入ると、ひんやりとした空気が溜まっていた。
革張りの座席に腰を下ろす。
クッションは硬く、長旅には不向きそうだ。
これも「無能な令嬢」にはお似合いの待遇かもしれない。
ふと、座席の隅に置いてあるものに目が留まった。
毛布に包まれた、丸い膨らみ。
手を触れると、じんわりとした温かさが掌に伝わってくる。
「……湯袋?」
丁寧に布で包まれた銅製の湯袋だった。
まだ熱い。
つい先ほど、誰かが用意してくれたものだ。
この屋敷の使用人が、私ごときにこんな気遣いをするはずがない。
だとしたら。
「寒さはこれから厳しくなります。お膝元を温めておいてください」
馬車に乗り込んできたレージが、向かいの席に座りながら淡々と言った。
彼は私の驚きなど予想済みだという顔をしている。
その完璧なポーカーフェイスが、今は少しだけ憎らしい。
「……こんなもの、頼んでないわ」
私はわざと冷たく言い放ち、湯袋を指先で突く。
本当は、その温もりに縋(すが)りつきたいほど指先が凍えているのに。
「ええ。ですが、風邪を引かれては旅程が遅れます。これは効率のための処置です」
レージは涼しい顔で言い返す。
「優しさ」を「効率」という言葉で包んで、私が受け取りやすいように差し出してくる。
その手口が、あまりにも鮮やかすぎて。
私は何も言い返せなくなり、唇を噛んで黙り込んだ。
膝の上に置いた湯袋の熱が、厚手の布越しにじわじわと染みてくる。
その温かさが、かえって私の孤独を際立たせるようで、私は窓の外へと視線を逃がした。
御者(ぎょしゃ)の掛け声とともに、馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を車輪が噛む、ゴトゴトという低い音が、長い逃避行の始まりを告げていた。
私はもう、振り返らない。
屋敷の正門前には、荷物を積み込んだ馬車が一台、ぽつんと停まっている。
公爵家の令嬢が旅立つのに、見送りは最小限だった。
父も母も、「朝が早いから」という理由で顔を見せない。
それが今の私の価値なのだと、改めて思い知らされる。
「お気をつけて」
並んだ使用人たちの声が揃う。
けれど、その視線は私の足元や、馬車の車輪に向けられていて、誰も私の顔を見ようとしない。
肌を刺すような、冷ややかな空気。
直接的な悪口は聞こえない。けれど、空気の振動が伝えてくるのだ。
『婚約者に疎まれて、追放されるらしい』
『わがままで冷酷だから、当然の報いね』
『やっと静かになるわ』
そんな幻聴が聞こえてきそうで、私は顔を伏せた。
着ているのは、昨日選んだ地味な灰色の旅装。
飾り気のないフードを目深に被り、自分の表情を隠す。
私はもう、煌びやかな公爵令嬢ではない。
ただの、無能で地味な女だ。
「さあ、こちらへ」
レージが馬車の扉を開け、手を差し出してくる。
真っ白な手袋。
その手にすがれば楽だとわかっているけれど、私は彼の手を無視して、自分でステップに足をかけた。
有能な執事に頼る姿を見せれば、また「偉そうだ」と陰口を叩かれるかもしれない。
それに、彼に触れられると、弱音が漏れ出しそうで怖かった。
「……」
レージは一瞬だけ空いた手を空中に留め、すぐに何事もなかったように優雅に引いた。
その沈黙が、私の胸をチクリと刺す。
馬車の中に入ると、ひんやりとした空気が溜まっていた。
革張りの座席に腰を下ろす。
クッションは硬く、長旅には不向きそうだ。
これも「無能な令嬢」にはお似合いの待遇かもしれない。
ふと、座席の隅に置いてあるものに目が留まった。
毛布に包まれた、丸い膨らみ。
手を触れると、じんわりとした温かさが掌に伝わってくる。
「……湯袋?」
丁寧に布で包まれた銅製の湯袋だった。
まだ熱い。
つい先ほど、誰かが用意してくれたものだ。
この屋敷の使用人が、私ごときにこんな気遣いをするはずがない。
だとしたら。
「寒さはこれから厳しくなります。お膝元を温めておいてください」
馬車に乗り込んできたレージが、向かいの席に座りながら淡々と言った。
彼は私の驚きなど予想済みだという顔をしている。
その完璧なポーカーフェイスが、今は少しだけ憎らしい。
「……こんなもの、頼んでないわ」
私はわざと冷たく言い放ち、湯袋を指先で突く。
本当は、その温もりに縋(すが)りつきたいほど指先が凍えているのに。
「ええ。ですが、風邪を引かれては旅程が遅れます。これは効率のための処置です」
レージは涼しい顔で言い返す。
「優しさ」を「効率」という言葉で包んで、私が受け取りやすいように差し出してくる。
その手口が、あまりにも鮮やかすぎて。
私は何も言い返せなくなり、唇を噛んで黙り込んだ。
膝の上に置いた湯袋の熱が、厚手の布越しにじわじわと染みてくる。
その温かさが、かえって私の孤独を際立たせるようで、私は窓の外へと視線を逃がした。
御者(ぎょしゃ)の掛け声とともに、馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を車輪が噛む、ゴトゴトという低い音が、長い逃避行の始まりを告げていた。
私はもう、振り返らない。
69
あなたにおすすめの小説
婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~
ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」
義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。
父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。
けれど――
公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。
王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。
さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。
そして下されたのは――家ごとの褫奪。
一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。
欲しがったのは肩書。
継いだのは責任。
正統は叫びません。
ただ、残るだけ。
これは、婚約を奪われた公爵令嬢が
“本当に継がれるべきもの”を証明する物語。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
王国最強の天才魔導士は、追放された悪役令嬢の息子でした
由香
ファンタジー
追放された悪役令嬢が選んだのは復讐ではなく、母として息子を守ること。
無自覚天才に育った息子は、魔法を遊び感覚で扱い、王国を震撼させてしまう。
再び招かれたのは、かつて母を追放した国。
礼儀正しく圧倒する息子と、静かに完全勝利する母。
これは、親子が選ぶ“最も美しいざまぁ”。
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
将来を誓い合った王子様は聖女と結ばれるそうです
きぬがやあきら
恋愛
「聖女になれなかったなりそこない。こんなところまで追って来るとはな。そんなに俺を忘れられないなら、一度くらい抱いてやろうか?」
5歳のオリヴィエは、神殿で出会ったアルディアの皇太子、ルーカスと恋に落ちた。アルディア王国では、皇太子が代々聖女を妻に迎える慣わしだ。しかし、13歳の選別式を迎えたオリヴィエは、聖女を落選してしまった。
その上盲目の知恵者オルガノに、若くして命を落とすと予言されたオリヴィエは、せめてルーカスの傍にいたいと、ルーカスが団長を務める聖騎士への道へと足を踏み入れる。しかし、やっとの思いで再開したルーカスは、昔の約束を忘れてしまったのではと錯覚するほど冷たい対応で――?
『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています
六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。
しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。
「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!
冷遇夫がお探しの私は、隣にいます
終日ひもの干す紐
恋愛
愛人がいるなら、さっさと言ってくれればいいのに!
妻に駆け落ちされた、傷心の辺境伯ロシェのもとへ嫁いでほしい。
シャノンが王命を受け、嫁いでから一年……とんでもない場面に立ち会ってしまう。
「サフィール……またそんなふうに僕を見つめて、かわいいね」
シャノンには冷たいの夫の、甘ったるい囁き。
扉の向こうの、不貞行為。
これまでの我慢も苦労も全て無駄になり、沸々と湧き上がる怒りを、ロシェの愛猫『アンブル』に愚痴った。
まさかそれが、こんなことになるなんて!
目が覚めると『アンブル』になっていたシャノン。
猫の姿に向けられる夫からの愛情。
夫ロシェの“本当の姿”を垣間見たシャノンは……?
* * *
他のサイトにも投稿しています。
蔑まされた没落貴族家の悪役令嬢ですが、この舞台の主役は私がやらせていただきます!
あぷりこっと
恋愛
「君の嫉妬深さにはもう辟易しているんだ」
婚約者のハイベルクにそう告げられた瞬間、レーウは確信した。
――計画通り。
何も知らない侯爵令嬢ランダ。王国最強と謳われた騎士団長ハイベルク。彼がその双剣を振るう相手を間違えた時、破滅のカウントダウンは始まった。
世間がレーウを嫉妬に狂った没落家の伯爵令嬢と蔑んでいる間、彼女は自警団と共に貴族院の秘密を暴き敵の逃げ場を奪い続けていた。
格安警備会社へのすり替え、配電盤の掌握、そして夜視の魔導具。
感情を切り捨て毒となった令嬢が公爵邸舞踏会を、社会的抹殺の舞台へと変える。
「不運と踊る?……いいえ。私に踊らされていたのだと、地獄で気づきなさい!!」
※ヒロインの活躍が凛々しいので応援してください♪
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる