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第5話 断罪の歯車
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インクの鉄錆びたような匂いが、鼻腔(びこう)の奥にこびりついて離れない。
私は机に向かい、真新しい羊皮紙を広げていた。
手には羽根ペンを握っているが、その先はまだ一度も紙に触れていない。
窓の外は夜だ。
王都の喧騒(けんそう)は遠く、時折、風が窓ガラスをガタガタと揺らす音だけが部屋に響く。
明日の早朝、私は王都を発つ。
その前に、どうしても整理しておかなければならないことがあった。
(思い出して。何が起きたのか。誰が私を嵌めたのか)
私は一度、殺されたのだ。
半年後の未来で、「悪役令嬢」として断罪され、処刑された。
だが、その記憶は妙に断片的だ。
処刑台の冷たさや、民衆の罵声は鮮明なのに、肝心の「なぜそうなったか」という過程が、霧がかかったように曖昧になっている。
まるで、私の脳が自己防衛のために、核心部分をあえて消し去っているかのように。
「……っ」
ペン先を紙に落とそうとして、指先が震えた。
カリッ、と乾いた音がして、インクが黒い飛沫(しぶき)を散らす。
怖い。
思い出すことが、たまらなく怖い。
記憶の淵(ふち)を覗き込もうとすると、喉が詰まり、あの時の窒息感が蘇ってくる。
けれど、原因がわからなければ、また同じ道を辿るかもしれない。
「無能」を演じて逃げるにしても、敵の正体を知らなければ、逃げる方向さえ間違えてしまう。
私は震える手を左手で押さえつけ、無理やり文字を書き始めた。
『王太子セオドール』
私の元婚約者。
正義感が強く、曲がったことが大嫌いな人。
けれど、その正義は「自分の見たいもの」しか見ない危うさがあった。
彼は、私の言葉を聞こうとしなかった。
私が領地の不正会計を指摘した時も、「疑うことしか知らない冷たい女だ」と吐き捨てた。
『アルノー公爵家の物流』
我が家が管理する北方の鉱山と流通網。
莫大な利益を生む利権。
これを狙っていたのは誰? 商会連盟? それとも、もっと別の……。
ペンが紙を擦る音が、静寂の中でやけに大きく響く。
呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が、耳の奥で早鐘を打っている。
そして、もう一人。
あの日、王太子の隣で涙を流しながら、私を見下ろしていた少女。
彼女の名前を書こうとして、ペンが止まった。
手が、動かない。
文字にすることさえ拒絶するような、強烈な不快感と恐怖。
彼女は「聖女」と呼ばれていた。
光り輝く奇跡の力で人々を癒やし、誰もが彼女を称賛した。
けれど、私の記憶にある彼女の瞳は、慈愛に満ちたものではなかった気がする。
もっと、焦燥に駆られたような、飢えた獣のような……。
「……はぁ、はぁ」
脂汗がこめかみを伝う。
私は歯を食いしばり、インク溜まりの上から、その名を刻みつけた。
『ミレイユ』
書き終えた瞬間、ガタン! と窓が強く揺れた。
風だ。
ただの風だとわかっていても、私は悲鳴を上げそうになって口元を押さえた。
紙の上に残ったその名前は、黒いインクで汚れて、まるで呪いの言葉のように見えた。
彼女が中心にいる。
彼女の「奇跡」が、王太子を、民衆を、そして世界の空気そのものを変えてしまい、私を「悪」へと追いやったのだ。
「……逃げなきゃ」
紙をクシャクシャに丸め、暖炉の火に放り込む。
紙が燃え上がり、一瞬で灰へと変わっていく。
その炎を見つめながら、私は自分の震えが止まらないことに気づいていた。
ただ黙っているだけでは、足りないかもしれない。
あの「空気」は、無能なふりをした程度で、見逃してくれるほど甘いものなのだろうか。
焦げた紙の匂いが、インクの匂いと混じり合う。
私は自分の冷え切った二の腕を抱きしめ、炎が消えるまで立ち尽くしていた。
私は机に向かい、真新しい羊皮紙を広げていた。
手には羽根ペンを握っているが、その先はまだ一度も紙に触れていない。
窓の外は夜だ。
王都の喧騒(けんそう)は遠く、時折、風が窓ガラスをガタガタと揺らす音だけが部屋に響く。
明日の早朝、私は王都を発つ。
その前に、どうしても整理しておかなければならないことがあった。
(思い出して。何が起きたのか。誰が私を嵌めたのか)
私は一度、殺されたのだ。
半年後の未来で、「悪役令嬢」として断罪され、処刑された。
だが、その記憶は妙に断片的だ。
処刑台の冷たさや、民衆の罵声は鮮明なのに、肝心の「なぜそうなったか」という過程が、霧がかかったように曖昧になっている。
まるで、私の脳が自己防衛のために、核心部分をあえて消し去っているかのように。
「……っ」
ペン先を紙に落とそうとして、指先が震えた。
カリッ、と乾いた音がして、インクが黒い飛沫(しぶき)を散らす。
怖い。
思い出すことが、たまらなく怖い。
記憶の淵(ふち)を覗き込もうとすると、喉が詰まり、あの時の窒息感が蘇ってくる。
けれど、原因がわからなければ、また同じ道を辿るかもしれない。
「無能」を演じて逃げるにしても、敵の正体を知らなければ、逃げる方向さえ間違えてしまう。
私は震える手を左手で押さえつけ、無理やり文字を書き始めた。
『王太子セオドール』
私の元婚約者。
正義感が強く、曲がったことが大嫌いな人。
けれど、その正義は「自分の見たいもの」しか見ない危うさがあった。
彼は、私の言葉を聞こうとしなかった。
私が領地の不正会計を指摘した時も、「疑うことしか知らない冷たい女だ」と吐き捨てた。
『アルノー公爵家の物流』
我が家が管理する北方の鉱山と流通網。
莫大な利益を生む利権。
これを狙っていたのは誰? 商会連盟? それとも、もっと別の……。
ペンが紙を擦る音が、静寂の中でやけに大きく響く。
呼吸が浅くなる。
心臓の鼓動が、耳の奥で早鐘を打っている。
そして、もう一人。
あの日、王太子の隣で涙を流しながら、私を見下ろしていた少女。
彼女の名前を書こうとして、ペンが止まった。
手が、動かない。
文字にすることさえ拒絶するような、強烈な不快感と恐怖。
彼女は「聖女」と呼ばれていた。
光り輝く奇跡の力で人々を癒やし、誰もが彼女を称賛した。
けれど、私の記憶にある彼女の瞳は、慈愛に満ちたものではなかった気がする。
もっと、焦燥に駆られたような、飢えた獣のような……。
「……はぁ、はぁ」
脂汗がこめかみを伝う。
私は歯を食いしばり、インク溜まりの上から、その名を刻みつけた。
『ミレイユ』
書き終えた瞬間、ガタン! と窓が強く揺れた。
風だ。
ただの風だとわかっていても、私は悲鳴を上げそうになって口元を押さえた。
紙の上に残ったその名前は、黒いインクで汚れて、まるで呪いの言葉のように見えた。
彼女が中心にいる。
彼女の「奇跡」が、王太子を、民衆を、そして世界の空気そのものを変えてしまい、私を「悪」へと追いやったのだ。
「……逃げなきゃ」
紙をクシャクシャに丸め、暖炉の火に放り込む。
紙が燃え上がり、一瞬で灰へと変わっていく。
その炎を見つめながら、私は自分の震えが止まらないことに気づいていた。
ただ黙っているだけでは、足りないかもしれない。
あの「空気」は、無能なふりをした程度で、見逃してくれるほど甘いものなのだろうか。
焦げた紙の匂いが、インクの匂いと混じり合う。
私は自分の冷え切った二の腕を抱きしめ、炎が消えるまで立ち尽くしていた。
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