悪役令嬢、心理学無双で氷の騎士様の心を溶してみせます

希羽

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10. 実験8: 自己帰属の誤謬(別名: 恋)

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 音楽会での一件以来、私とケイン様の間の空気は、明らかに変化していた。

 護身術の訓練は続いている。しかし、以前のようなどこか淡々とした雰囲気は消え、互いを意識する、心地よくもどかしい緊張感が道場に満ちていた。

 彼は、あの日以来、私を「護衛対象」という言葉で呼ばなくなった。

 そして私は、彼を「観測対象」として冷静に見ることが、日に日に難しくなっていた。

 司令室(自室)の羊皮紙には、前回の報告書がそのまま残されている。

【実験7:愛着理論に関する報告】

  結果:対象は予測された「回避行動」ではなく、明確な「介入・独占行動」を示した。
  考察: こちらの感情にも、予測不能な生理的反応(心拍数の上昇、認知能力の一時的低下)が確認された。実験者が実験結果に影響を受けている。これは研究者として、致命的な欠陥(コンタミネーション)である。

 私はペンを握りしめた。

 分かっている。私の心は、もうとっくに科学者の冷静さを失っている。

 これは実験なんかじゃない。

 ただの、恋だ。

 認めてしまえば楽なのだろう。しかし、それを認めることは、私が積み上げてきた全ての計画を、ただの「乙女の暴走」だったと認めることだった。それだけは、私のプライドが許さなかった。

 だから、私は今日もまた、白衣の仮面を被って道場へと向かう。

 今日の実験テーマは『実験8:情熱の相互作用と、恋愛感情の自己帰属』。

 この高鳴る胸の正体を、科学的に突き止めるために。

 *

 その日の訓練は、初めて行う実戦形式の組手だった。

「これまで教えたことを、どれだけ体得できているか確認する」

 ケイン様はそう言って、木剣を構えた。その瞳には、いつもの指導者の顔とは違う、騎士としての鋭い光が宿っていた。

「参ります!」

 私も木剣を構え、彼に打ちかかっていく。

 もちろん、実力差は歴然だ。私の攻撃は、いとも簡単にあしらわれ、捌かれていく。

 しかし、これまでの訓練は無駄ではなかった。

 彼の動きの癖、呼吸のリズム、次の一手を繰り出す前の、ほんの僅かな筋肉の緊張。

 私の脳は、彼の全てのデータを高速で分析し、最適な防御と反撃のパターンを予測する。

「…っ!」

 彼の横薙ぎを、私は予測通りにかがんで避ける。そして、がら空きになった彼の胴に、渾身の力で木剣を打ち込んだ。

 カツン、と乾いた音が道場に響く。

 初めて、私の一撃が、クリーンヒットした瞬間だった。

 ケイン様の灰色の瞳が、驚きに見開かれる。

 その一瞬の隙を、私は見逃さなかった。

(今だ!)

 しかし、勝利を確信して踏み込んだ、その足が。
 汗で濡れた床に滑り、バランスを崩した。

「きゃっ…!」

 まずい、と思った時にはもう遅い。

 私の体は前のめりに倒れ込み、体勢を立て直そうとしたケイン様を巻き込んで、二人一緒にマットの上へともつれ込むように倒れた。

 どん、と鈍い音。

 視界が揺れ、気づいた時には、私は彼の腕の中にいた。

 彼の胸板に顔を押し付け、彼の腕が私の背中に回り、私たちの体はゼロ距離で密着していた。

 時間が、止まった。

 聞こえるのは、互いの荒い呼吸と、激しく打ち鳴らされる心臓の音だけ。

 ゆっくりと顔を上げると、数センチ先には、彼の顔があった。
 驚きに見開かれた、灰色の瞳。

 間近で見るその瞳は、冷たい氷などではなく、熱を帯びた銀色の湖のようだった。

 彼の視線が、私の目から、震える唇へと、ゆっくりと落ちる。

 その瞬間、私の頭の中から、全ての心理学用語が消え去った。

 単純接触効果も、愛着理論も、スタンバーグの三角理論も。

 そこにあったのは、ただ一つ。

 目の前の男性に、触れてほしいという、抗いがたい衝動だけだった。

「…っ」

 最初に動いたのは、彼だった。

 ケイン様は、まるで灼熱の鉄に触れたかのように、弾かれたように私から身を離した。

 そして、一度もこちらを見ることなく、立ち上がる。

「…本日の訓練は、ここまでだ」

 それだけを、絞り出すような声で言うと、彼は私に背を向け、足早に道場から出て行ってしまった。

 一人残された道場で、私はしばらく動けなかった。

 マットの冷たさと、まだ体に残る彼の熱との間で、私の心は完全に迷子になっていた。

 自室に戻り、私は『実験8』の報告書を広げた。

 しかし、ペンは動かない。

 あの瞬間を、どう記述すればいい?

 彼の瞳に宿った熱を、どんな科学用語で説明すればいい?

 無理だ。

 あれは、科学では説明できない。

 私は羊皮紙をくしゃりと丸めると、ゴミ箱へと放り投げた。

 そして、新しい一枚を取り出す。

 もう、実験計画も、仮説も、考察もいらない。

 ただ、震える手で、その中央に、一言だけ。

『ケイン様が好き』

 と、記した。

 それは、何百冊の論文よりも、確かな真実だった。

 私の長すぎた実験は、今、終わりを告げたのだ。
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