悪役令嬢、心理学無双で氷の騎士様の心を溶してみせます

希羽

文字の大きさ
11 / 15

11. 実験終了、そして膠着状態

しおりを挟む
 あの日、道場でもつれ合うように倒れた、あの瞬間から。

 私とケイン様の世界は、完全に変わってしまった。

 私の心の中で、「実験」という名の、か細い言い訳の糸が焼き切れた。

 そして彼の心には、「任務」という名の、分厚い氷の壁が再び築かれてしまった。

 週に二度の定例行事だった護身術の訓練は、翌日から「緊急の職務」を理由に、彼の方から一方的に中止された。図書館で姿を見かけることも、庭園の巡回ルートで出会うことも、ぱったりとなくなった。

 彼は、私を完璧に避けていた。

「…典型的な『回避行動』ね」

 司令室(自室)で、私は一人、天井を仰いだ。机の上に散らばる、かつての計画書が虚しく見える。

(感情的に圧倒されるような刺激に晒された結果、対象は安全な距離まで後退し、自己の感情から隔離しようとしている。愛着理論における『回避型』の教科書通りの反応…)

 頭では、分かっているのだ。

 今、私が彼を追いかければ、彼はさらに遠くへ逃げてしまうだろう。心理的な圧迫は、回避型の人間にとって最も不快なものだ。

 必要なのは、冷却期間。彼が自らの感情を整理し、安全だと認識するまで、待つしかない。

 分かっては、いる。

 しかし、恋に落ちた心は、そんな冷静な分析をあざ笑うかのように、不安と焦燥を訴えていた。

 もう、彼に会えないのだろうか。あの気まずい瞬間が、私たちの最後の思い出になってしまうのだろうか。

 実験は終わった。

 そして、私の手元には、何の指針も残されていなかった。

 ただ、どうしようもない「好き」という感情だけを抱え、私は無為な日々を過ごしていた。

 そんな、膠着状態を破る報せが届いたのは、あの事件から一週間が過ぎた日のことだった。

 それは、父であるルクセン公爵の名が記された、王家からの正式な召喚状だった。

「…父様に、横領の嫌疑…?」

 書状を読んだ私は、全身の血が凍るのを感じた。

 内容は、こうだ。

 ルクセン公爵家が管理する王室御用達の鉱山から、産出量を偽り、不正に利益を横領している疑いがある。よって、三日後に開かれる公聴会にて、公爵は申し開きをせよ、と。

(馬鹿な…!)

 父が、そんなことをするはずがない。清廉潔白で、国への忠誠心も厚い人だ。

 これは、罠だ。

 婚約破棄だけでは飽き足らず、私を完全に社会から抹殺するため、今度は我が家に罪を着せようというのか。

(皇太子…! あなた、どこまで…!)

 唇を噛み締めると、鉄の味がした。

 これまでの「推し活」に浮かれた自分が、途端に愚かで、浅はかに思えた。

 私が恋という名の個人的な感情に溺れている間に、敵は着々と、私と私の家族を追い詰める準備をしていたのだ。

 ゲームの「断罪イベント」は、まだ終わっていなかった。

 あれは、序章に過ぎなかったのだ。

 怒りと共に、私の脳は、忘れかけていた科学者の冷徹さを取り戻していく。

 パチパチと、思考の回路が繋がる音がした。

 感傷に浸っている時間はない。

 これは、戦争だ。

 証拠と証拠、論理と論理がぶつかり合う、法廷という名の戦場。

 必要なのは、涙でも、恋心でもない。

 相手の主張の矛盾を突き、証人の心理的脆弱性を暴き、陪審員の認知バイアスを誘導する、冷徹な戦略。

 ――すなわち、『心理戦』だ。

 私は書斎へ向かい、ルクセン公爵領の鉱山に関する、過去数十年分の全ての資料を取り寄せた。

 三日間、私は眠ることも忘れ、膨大なデータと格闘した。

 金の流れ、人員の配置、産出量の推移グラフ。その全てに目を通し、敵が仕掛けてくるであろう「罠」のパターンを、何十通りもシミュレーションする。

 もう、彼のことを考える余裕はなかった。

 いや、考えないように、目の前の課題に没頭していたのかもしれない。

 そして、公聴会の前日。

 最後の準備を終え、疲労困憊で自室のソファに倒れ込んだ私の元に、一人の侍女が、一枚の封筒を運んできた。

 差出人の名はない。

 しかし、その封蝋に使われている紋章は、近衛騎士団長だけが使うことを許された、「黒獅子」の印章だった。

 震える手で封を開くと、中には、一枚の紙片が入っていただけだった。

 そこに記されていたのは、ごく短い、事務的な文章。

『公聴会における、鉱山産出量の比較対象として、隣接する王家直轄「青の渓谷」のデータが提出される見込み。ただし、かの地の鉱脈は五年前に一度枯渇しており、現在の産出量は作為的に低く調整されている可能性がある。留意されたし』

「……!」

 それは、敵が用意した最大の「罠」の在り処を示す、決定的な内部情報だった。

 これさえあれば、勝てる。

 なぜ、彼が。

 私を避けていたはずの、彼が。

 騎士として、皇太子に仕えるべき彼が、なぜ、私に塩を送るような真似を…?

 分からない。彼の行動は、もはや私のどんな分析も超えていた。

 しかし、今は、その意味を問うている場合ではない。

 私は紙片を暖炉の火で燃やし尽くすと、静かに立ち上がった。

 瞳に宿るのは、もはや恋する乙女の光ではない。
 全てを賭けて、戦場へと向かう、戦士の光だった。

「ありがとう、ケイン様」

 誰にも聞こえない声で、そう呟いた。

 私たちの間にある、見えない絆を、確かに感じながら。

 明日の勝利を、私は固く誓った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

追放された地味なメイドは和菓子職人の記憶に目覚める 〜王子たちの胃袋を『あんこ』で掴んだら、王宮で極甘に溺愛されています〜

あとりえむ
恋愛
「起きなさい、この穀潰し!」 冷たい紅茶を浴びせられ、無実の罪で男爵家を追放された地味なメイド、ミア。 泥濘の中で力尽きようとしたその時、彼女の脳裏に鮮やかな記憶が蘇る。 それは、炊きたての小豆の香りと、丁寧にあんこを練り上げる職人としての誇り…… 行き倒れたミアを救ったのは、冷徹と恐れられる第一王子ミハエルだった。 バターと生クリームの重いお菓子に胃を痛めていた王族たちの前に、ミアは前世の知恵を絞った未知のスイーツ『おはぎ』を差し出す。 「なんだ、この食感は……深く、そして優しい。ミア、お前は私の最高のパートナーだ」 小豆の魔法に魅了されたミハエルだけでなく、武闘派の第二王子やわがままな王女まで、気づけばミアを取り合う溺愛合戦が勃発! 一方で、有能なミアを失い、裏金のカラクリを解ける者がいなくなった男爵家は、自業自得の崩壊へと突き進んでいく。 泣いて謝っても、もう遅い。 彼らを待っていたのは、処刑よりも皮肉な「全土小豆畑の刑」だった…… これは、一粒の小豆から始まる、甘くて爽快な逆転シンデレラストーリー。 あなたの心も、あんこのように「まあるく」癒やしてみせます。

はじめまして、私の知らない婚約者様

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。 見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。 けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。 ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。 けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。 この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。 悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに? ※他サイトにも掲載しています。

無能な悪役令嬢は静かに暮らしたいだけなのに、超有能な側近たちの勘違いで救国の聖女になってしまいました

黒崎隼人
ファンタジー
乙女ゲームの悪役令嬢イザベラに転生した私の夢は、破滅フラグを回避して「悠々自適なニート生活」を送ること!そのために王太子との婚約を破棄しようとしただけなのに…「疲れたわ」と呟けば政敵が消え、「甘いものが食べたい」と言えば新商品が国を潤し、「虫が嫌」と漏らせば魔物の巣が消滅!? 私は何もしていないのに、超有能な側近たちの暴走(という名の忠誠心)が止まらない!やめて!私は聖女でも策略家でもない、ただの無能な怠け者なのよ!本人の意思とは裏腹に、勘違いで国を救ってしまう悪役令嬢の、全力で何もしない救国ファンタジー、ここに開幕!

悪役を演じて婚約破棄したのに、なぜか溺愛モードの王子がついてきた!

ちゃっぴー
恋愛
公爵令嬢ミュールは、重度のシスコンである。「天使のように可愛い妹のリナこそが、王妃になるべき!」その一心で、ミュールは自ら「嫉妬に狂った悪役令嬢」を演じ、婚約者であるキース王太子に嫌われる作戦に出た。 計画は成功し、衆人環視の中で婚約破棄を言い渡されるミュール。「処罰として、王都から追放する!」との言葉に、これで妹が幸せになれるとガッツポーズをした……はずだったのだが? 連れて行かれた「追放先」は、王都から馬車でたった30分の、王家所有の超豪華別荘!? しかも、「君がいないと仕事が手につかない」と、元婚約者のキース殿下が毎日通ってくるどころか、事実上の同棲生活がスタートしてしまう。

【完結】政略婚約された令嬢ですが、記録と魔法で頑張って、現世と違って人生好転させます

なみゆき
ファンタジー
典子、アラフィフ独身女性。 結婚も恋愛も経験せず、気づけば父の介護と職場の理不尽に追われる日々。 兄姉からは、都合よく扱われ、父からは暴言を浴びせられ、職場では責任を押しつけられる。 人生のほとんどを“搾取される側”として生きてきた。 過労で倒れた彼女が目を覚ますと、そこは異世界。 7歳の伯爵令嬢セレナとして転生していた。 前世の記憶を持つ彼女は、今度こそ“誰かの犠牲”ではなく、“誰かの支え”として生きることを決意する。 魔法と貴族社会が息づくこの世界で、セレナは前世の知識を活かし、友人達と交流を深める。 そこに割り込む怪しい聖女ー語彙力もなく、ワンパターンの行動なのに攻略対象ぽい人たちは次々と籠絡されていく。 これはシナリオなのかバグなのか? その原因を突き止めるため、全ての証拠を記録し始めた。 【☆応援やブクマありがとうございます☆大変励みになりますm(_ _)m】

ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない

魚谷
恋愛
伯爵令嬢イザベラは多くの男性と浮名を流す悪女。 そんな彼女に公爵家当主のジークベルトとの縁談が持ち上がった。 ジークベルトと対面した瞬間、前世の記憶がよみがえり、この世界が乙女ゲームであることを自覚する。 イザベラは、主要攻略キャラのジークベルトの裏の顔を知ってしまったがために、冒頭で殺されてしまうモブキャラ。 ゲーム知識を頼りに、どうにか冒頭死を回避したイザベラは最弱魔法と言われる付与魔法と前世の知識を頼りに便利グッズを発明し、離婚にそなえて資金を確保する。 いよいよジークベルトが、乙女ゲームのヒロインと出会う。 離婚を切り出されることを待っていたイザベラだったが、ジークベルトは平然としていて。 「どうして俺がお前以外の女を愛さなければならないんだ?」 予想外の溺愛が始まってしまう! (世界の平和のためにも)ヒロインに惚れてください、公爵様!!

悪役令嬢はやめて、侯爵子息になります

立風花
恋愛
第八回 アイリス恋愛ファンタジー大賞 一次選考通過作品に入りました!  完結しました。ありがとうございます  シナリオが進む事のなくなった世界。誰も知らないゲーム後の世界が動き出す。  大崩落、王城陥落。聖女と祈り。シナリオ分岐の真実。 激動する王国で、想い合うノエルとアレックス王子。  大切な人の迷いと大きな決断を迫られる最終章! ーあらすじー  8歳のお誕生日を前に、秘密の場所で小さな出逢いを迎えたキャロル。秘密を約束して別れた直後、頭部に怪我をしてしまう。  巡る記憶は遠い遠い過去。生まれる前の自分。  そして、知る自分がゲームの悪役令嬢であること。  戸惑いの中、最悪の結末を回避するために、今度こそ後悔なく幸せになる道を探しはじめる。  子息になった悪役令嬢の成長と繋がる絆、戸惑う恋。 侯爵子息になって、ゲームのシナリオ通りにはさせません!<序章 侯爵子息になります!編> 子息になったキャロルの前に現れる攻略対象。育つ友情、恋に揺れる気持<二章 大切な人!社交デビュー編> 学園入学でゲームの世界へ。ヒロイン登場。シナリオの変化。絆は波乱を迎える「転」章<三章 恋する学園編> ※複数投稿サイト、またはブログに同じ作品を掲載しております

王子好きすぎ拗らせ転生悪役令嬢は、王子の溺愛に気づかない

エヌ
恋愛
私の前世の記憶によると、どうやら私は悪役令嬢ポジションにいるらしい 最後はもしかしたら全財産を失ってどこかに飛ばされるかもしれない。 でも大好きな王子には、幸せになってほしいと思う。

処理中です...