悪役令嬢、心理学無双で氷の騎士様の心を溶してみせます

希羽

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11. 実験終了、そして膠着状態

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 あの日、道場でもつれ合うように倒れた、あの瞬間から。

 私とケイン様の世界は、完全に変わってしまった。

 私の心の中で、「実験」という名の、か細い言い訳の糸が焼き切れた。

 そして彼の心には、「任務」という名の、分厚い氷の壁が再び築かれてしまった。

 週に二度の定例行事だった護身術の訓練は、翌日から「緊急の職務」を理由に、彼の方から一方的に中止された。図書館で姿を見かけることも、庭園の巡回ルートで出会うことも、ぱったりとなくなった。

 彼は、私を完璧に避けていた。

「…典型的な『回避行動』ね」

 司令室(自室)で、私は一人、天井を仰いだ。机の上に散らばる、かつての計画書が虚しく見える。

(感情的に圧倒されるような刺激に晒された結果、対象は安全な距離まで後退し、自己の感情から隔離しようとしている。愛着理論における『回避型』の教科書通りの反応…)

 頭では、分かっているのだ。

 今、私が彼を追いかければ、彼はさらに遠くへ逃げてしまうだろう。心理的な圧迫は、回避型の人間にとって最も不快なものだ。

 必要なのは、冷却期間。彼が自らの感情を整理し、安全だと認識するまで、待つしかない。

 分かっては、いる。

 しかし、恋に落ちた心は、そんな冷静な分析をあざ笑うかのように、不安と焦燥を訴えていた。

 もう、彼に会えないのだろうか。あの気まずい瞬間が、私たちの最後の思い出になってしまうのだろうか。

 実験は終わった。

 そして、私の手元には、何の指針も残されていなかった。

 ただ、どうしようもない「好き」という感情だけを抱え、私は無為な日々を過ごしていた。

 そんな、膠着状態を破る報せが届いたのは、あの事件から一週間が過ぎた日のことだった。

 それは、父であるルクセン公爵の名が記された、王家からの正式な召喚状だった。

「…父様に、横領の嫌疑…?」

 書状を読んだ私は、全身の血が凍るのを感じた。

 内容は、こうだ。

 ルクセン公爵家が管理する王室御用達の鉱山から、産出量を偽り、不正に利益を横領している疑いがある。よって、三日後に開かれる公聴会にて、公爵は申し開きをせよ、と。

(馬鹿な…!)

 父が、そんなことをするはずがない。清廉潔白で、国への忠誠心も厚い人だ。

 これは、罠だ。

 婚約破棄だけでは飽き足らず、私を完全に社会から抹殺するため、今度は我が家に罪を着せようというのか。

(皇太子…! あなた、どこまで…!)

 唇を噛み締めると、鉄の味がした。

 これまでの「推し活」に浮かれた自分が、途端に愚かで、浅はかに思えた。

 私が恋という名の個人的な感情に溺れている間に、敵は着々と、私と私の家族を追い詰める準備をしていたのだ。

 ゲームの「断罪イベント」は、まだ終わっていなかった。

 あれは、序章に過ぎなかったのだ。

 怒りと共に、私の脳は、忘れかけていた科学者の冷徹さを取り戻していく。

 パチパチと、思考の回路が繋がる音がした。

 感傷に浸っている時間はない。

 これは、戦争だ。

 証拠と証拠、論理と論理がぶつかり合う、法廷という名の戦場。

 必要なのは、涙でも、恋心でもない。

 相手の主張の矛盾を突き、証人の心理的脆弱性を暴き、陪審員の認知バイアスを誘導する、冷徹な戦略。

 ――すなわち、『心理戦』だ。

 私は書斎へ向かい、ルクセン公爵領の鉱山に関する、過去数十年分の全ての資料を取り寄せた。

 三日間、私は眠ることも忘れ、膨大なデータと格闘した。

 金の流れ、人員の配置、産出量の推移グラフ。その全てに目を通し、敵が仕掛けてくるであろう「罠」のパターンを、何十通りもシミュレーションする。

 もう、彼のことを考える余裕はなかった。

 いや、考えないように、目の前の課題に没頭していたのかもしれない。

 そして、公聴会の前日。

 最後の準備を終え、疲労困憊で自室のソファに倒れ込んだ私の元に、一人の侍女が、一枚の封筒を運んできた。

 差出人の名はない。

 しかし、その封蝋に使われている紋章は、近衛騎士団長だけが使うことを許された、「黒獅子」の印章だった。

 震える手で封を開くと、中には、一枚の紙片が入っていただけだった。

 そこに記されていたのは、ごく短い、事務的な文章。

『公聴会における、鉱山産出量の比較対象として、隣接する王家直轄「青の渓谷」のデータが提出される見込み。ただし、かの地の鉱脈は五年前に一度枯渇しており、現在の産出量は作為的に低く調整されている可能性がある。留意されたし』

「……!」

 それは、敵が用意した最大の「罠」の在り処を示す、決定的な内部情報だった。

 これさえあれば、勝てる。

 なぜ、彼が。

 私を避けていたはずの、彼が。

 騎士として、皇太子に仕えるべき彼が、なぜ、私に塩を送るような真似を…?

 分からない。彼の行動は、もはや私のどんな分析も超えていた。

 しかし、今は、その意味を問うている場合ではない。

 私は紙片を暖炉の火で燃やし尽くすと、静かに立ち上がった。

 瞳に宿るのは、もはや恋する乙女の光ではない。
 全てを賭けて、戦場へと向かう、戦士の光だった。

「ありがとう、ケイン様」

 誰にも聞こえない声で、そう呟いた。

 私たちの間にある、見えない絆を、確かに感じながら。

 明日の勝利を、私は固く誓った。
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