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15. 私たちの共同研究(ハッピーエンド)
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あれから、一年が過ぎた。
王都の季節は巡り、かつて私の運命を大きく変えたあの夜会と同じ季節が訪れていた。
しかし、私のいる場所も、隣にいる人も、そして私の心も、一年前とは全く違う。
「…また、難しい顔をしているな」
低い、穏やかな声に顔を上げると、ケイン様が私の手から、読んでいた本をそっと抜き取った。彼の執務室のソファ。ここは、いつの間にか私の定位置になっていた。
「『集団心理が経済動向に与える影響』か。君は本当に、そういうものが好きだな」
呆れたように言いながらも、その灰色の瞳は、慈愛に満ちた色で私を見つめている。
「ええ。人の心ほど、複雑で、面白くて、そして美しいパズルはありませんから」
私がそう答えると、彼は「そうか」とだけ言って、私の隣に深く腰掛けた。そして、抜き取った本を机に置くと、その代わりに私の手を、彼自身の大きな手で包み込んだ。
もう、そこに氷の騎士はいない。
いるのは、セラフィナという一人の女性を、誰よりも深く愛してくれる、ケインという名の男性だけだ。
私たちの関係は、あの告白の後、驚くほど穏やかに進展した。
父様は大喜びで私たちの婚約を認め、王家も、公聴会の一件でルクセン家に大きな貸しがあるため、否やはなかった。
ちなみに、アルフォンス元皇太子と聖女リリア様については、様々な噂が流れている。
公聴会での失態と、その後の調査で明らかになった数々の判断ミスにより、アルフォンス様は皇太子の位を剥奪され、今は北の離宮で静かに暮らしているという。
そして、彼の権力という輝きが失われた途端、聖女リリア様の「純粋な愛」もどこかへ消え失せ、今では実家の伯爵家で、良縁を探しているのだとか。
彼らのことを思い出すのは、もう、遠い昔の論文を読み返すような、何の感情も伴わない作業になっていた。
「そういえば、先日宰相閣下がお前に会いたがっていたぞ」
ケイン様が、私の髪を優しく撫でながら言った。
「西の国との貿易交渉が難航しているらしい。相手の交渉官が、どうにも一筋縄ではいかない人物なのだとか」
「まあ。どんな方ですの?」
「『遊び』のように交渉を楽しみ、こちらの出方を見ては態度を変える、食えない男だと」
その言葉に、私は思わず笑みを浮かべた。
「それなら、お安い御用ですわ。そういう相手には、論理的な駆け引きは通用しません。まずはこちらが相手の『ゲーム』に乗ったフリをして、安心させてから、彼が最も失いたくないプライドを、そっと人質に取って差し上げればいいのです」
「…恐ろしいことを、楽しそうに言う」
ケイン様は苦笑するが、その瞳には絶対的な信頼が宿っている。
いつからか、私たちは、こうして二人で国の問題を解決する、最高のパートナーになっていた。
彼が「剣」として王国を守り、私が「盾」として、見えない敵から国を守る。
「でも、不思議ですわね」
私は、彼の胸にそっと寄り添った。
「わたくし、最初は、あなたの心を『実験』で手に入れようとしていたのに」
あの頃の計画書は、今では笑い話だ。
私の稚拙な実験は、ことごとく失敗した。単純接触効果はストーキングになり、類似性の法則は付け焼き刃がバレ、吊り橋効果に至っては不発に終わった。
「…ああ。迷惑な実験だった」
ケイン様が、懐かしむように言った。
「だが、間違いだらけの実験報告書の中に、たった一つだけ、正しいことが書いてあった」
「え?」
「君は、私の心をハックすると言った」
彼は、私の手を、さらに強く握った。
「…完全に、成功している」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
私は、いたずらっぽく微笑んで、彼を見上げた。
「あら。でも、ケイン様。わたくしの研究は、まだ終わっておりませんのよ」
「ほう?」
「ええ。あなたという、最も興味深い研究対象のデータ収集は、生涯続くプロジェクトですから」
その言葉に、ケイン様は、初めて会った頃には想像もつかなかったほど、柔らかく、幸せそうに笑った。
「そうか、セラフィナ博士」
そして、彼はゆっくりと顔を近づけ、私の耳元で、囁いた。
「ならば、共同研究者として、君に新しい、非常に有力なデータを提供しよう」
次の瞬間、彼の唇が、私の唇に優しく重ねられた。
悪役令嬢に転生し、破滅の運命から逃れるために始めた、奇妙な恋の実験。
それは、たくさんの失敗と、計算外の出来事を経て、世界でただ一つの真実を導き出した。
人の心は、科学では解明しきれない。
でも、愛する人と手を取り合えば、どんな難解なパズルよりも、楽しく、幸せな答えを見つけられる。
私たちの「共同研究」は、これからもずっと続いていく。
そして、その研究報告書には、きっと、こう記されるのだろう。
――ハッピーエンド、と。
(完)
王都の季節は巡り、かつて私の運命を大きく変えたあの夜会と同じ季節が訪れていた。
しかし、私のいる場所も、隣にいる人も、そして私の心も、一年前とは全く違う。
「…また、難しい顔をしているな」
低い、穏やかな声に顔を上げると、ケイン様が私の手から、読んでいた本をそっと抜き取った。彼の執務室のソファ。ここは、いつの間にか私の定位置になっていた。
「『集団心理が経済動向に与える影響』か。君は本当に、そういうものが好きだな」
呆れたように言いながらも、その灰色の瞳は、慈愛に満ちた色で私を見つめている。
「ええ。人の心ほど、複雑で、面白くて、そして美しいパズルはありませんから」
私がそう答えると、彼は「そうか」とだけ言って、私の隣に深く腰掛けた。そして、抜き取った本を机に置くと、その代わりに私の手を、彼自身の大きな手で包み込んだ。
もう、そこに氷の騎士はいない。
いるのは、セラフィナという一人の女性を、誰よりも深く愛してくれる、ケインという名の男性だけだ。
私たちの関係は、あの告白の後、驚くほど穏やかに進展した。
父様は大喜びで私たちの婚約を認め、王家も、公聴会の一件でルクセン家に大きな貸しがあるため、否やはなかった。
ちなみに、アルフォンス元皇太子と聖女リリア様については、様々な噂が流れている。
公聴会での失態と、その後の調査で明らかになった数々の判断ミスにより、アルフォンス様は皇太子の位を剥奪され、今は北の離宮で静かに暮らしているという。
そして、彼の権力という輝きが失われた途端、聖女リリア様の「純粋な愛」もどこかへ消え失せ、今では実家の伯爵家で、良縁を探しているのだとか。
彼らのことを思い出すのは、もう、遠い昔の論文を読み返すような、何の感情も伴わない作業になっていた。
「そういえば、先日宰相閣下がお前に会いたがっていたぞ」
ケイン様が、私の髪を優しく撫でながら言った。
「西の国との貿易交渉が難航しているらしい。相手の交渉官が、どうにも一筋縄ではいかない人物なのだとか」
「まあ。どんな方ですの?」
「『遊び』のように交渉を楽しみ、こちらの出方を見ては態度を変える、食えない男だと」
その言葉に、私は思わず笑みを浮かべた。
「それなら、お安い御用ですわ。そういう相手には、論理的な駆け引きは通用しません。まずはこちらが相手の『ゲーム』に乗ったフリをして、安心させてから、彼が最も失いたくないプライドを、そっと人質に取って差し上げればいいのです」
「…恐ろしいことを、楽しそうに言う」
ケイン様は苦笑するが、その瞳には絶対的な信頼が宿っている。
いつからか、私たちは、こうして二人で国の問題を解決する、最高のパートナーになっていた。
彼が「剣」として王国を守り、私が「盾」として、見えない敵から国を守る。
「でも、不思議ですわね」
私は、彼の胸にそっと寄り添った。
「わたくし、最初は、あなたの心を『実験』で手に入れようとしていたのに」
あの頃の計画書は、今では笑い話だ。
私の稚拙な実験は、ことごとく失敗した。単純接触効果はストーキングになり、類似性の法則は付け焼き刃がバレ、吊り橋効果に至っては不発に終わった。
「…ああ。迷惑な実験だった」
ケイン様が、懐かしむように言った。
「だが、間違いだらけの実験報告書の中に、たった一つだけ、正しいことが書いてあった」
「え?」
「君は、私の心をハックすると言った」
彼は、私の手を、さらに強く握った。
「…完全に、成功している」
その言葉に、胸がいっぱいになる。
私は、いたずらっぽく微笑んで、彼を見上げた。
「あら。でも、ケイン様。わたくしの研究は、まだ終わっておりませんのよ」
「ほう?」
「ええ。あなたという、最も興味深い研究対象のデータ収集は、生涯続くプロジェクトですから」
その言葉に、ケイン様は、初めて会った頃には想像もつかなかったほど、柔らかく、幸せそうに笑った。
「そうか、セラフィナ博士」
そして、彼はゆっくりと顔を近づけ、私の耳元で、囁いた。
「ならば、共同研究者として、君に新しい、非常に有力なデータを提供しよう」
次の瞬間、彼の唇が、私の唇に優しく重ねられた。
悪役令嬢に転生し、破滅の運命から逃れるために始めた、奇妙な恋の実験。
それは、たくさんの失敗と、計算外の出来事を経て、世界でただ一つの真実を導き出した。
人の心は、科学では解明しきれない。
でも、愛する人と手を取り合えば、どんな難解なパズルよりも、楽しく、幸せな答えを見つけられる。
私たちの「共同研究」は、これからもずっと続いていく。
そして、その研究報告書には、きっと、こう記されるのだろう。
――ハッピーエンド、と。
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