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14. 新しい訓練
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翌日、私が道場へ向かう足取りは、これまでのどの時とも違っていた。
手には計画書も、参考資料もない。
頭の中にあるのは、昨日の彼の言葉と、その瞳に宿っていた見たことのない熱だけ。
(『対個人における、過剰な接近への対処法』…)
その言葉を反芻するたびに、心臓が期待と不安で跳ね上がる。
もはや、これは実験ではない。
これから始まるのは、答えの分からない、未知の領域だ。
道場の扉を開けると、彼はすでにそこにいた。
いつもの重厚な鎧ではなく、動きやすいシンプルな訓練着を身につけている。その姿は、孤高の「騎士団長」というよりも、一人の「ケイン」という男性を、強く意識させた。
道場の中央で向かい合う。
空気が、ぴんと張り詰めている。しかし、それはこれまでのような緊張感ではなく、これから始まる何かへの、甘い予兆に満ちていた。
「では、始める」
ケイン様は、静かに言った。
「新しい訓練の、第一項目だ」
彼は一歩、私に近づいた。
その距離は、これまで彼が頑なに守ってきた、パーソナルスペースの内側だった。
「相手が明確な意図をもって、距離を詰めてきた場合。後退は、必ずしも正しい選択ではない」
彼の低い声が、すぐ側で響く。
私は、ゴクリと唾を飲んだ。これは、護身術の話ではない。
「時には、その場に留まり、相手の意図を正面から受け止める勇気が必要だ」
そう言って、彼はさらに一歩、踏み出した。
もう、手を伸ばせば触れられる距離。
「…やってみろ」
「…何を、ですの?」
「俺から、目を逸らすな」
それは、命令だった。
私は、逃げ出したい衝動を必死にこらえ、彼の灰色の瞳をまっすぐに見つめ返した。
その瞳の奥で、激しい葛藤と、それを超える強い意志が燃えているのが見えた。
「…よろしい」
彼は満足げに言うと、ゆっくりと手を伸ばし、私の手を取った。
「第二項目。相手の動きを予測し、次の一手を読む」
彼は私の手を引いた。それは、組手の合図。
しかし、その動きは、これまでのような武骨なものではなく、まるでダンスに誘うような、優雅さがあった。
私たちの体は自然に寄り添い、足が絡み合うほどの距離で、ゆっくりとした攻防が始まる。
それは、剣術の訓練というよりも、互いの心を探り合う、密やかな対話だった。
彼が近づけば、私も退かない。
私が一歩踏み出せば、彼はそれを受け止める。
彼の指が私の腰に触れ、私の手が彼の肩にかかる。
全ての動きが、言葉以上の意味を持っていた。
そして、数合打ち合った後、彼は私の腰を強く引き寄せ、その動きをピタリと止めた。
完全に、彼の腕の中に閉じ込められていた。
ゼロ距離で、見つめ合う。
「…セラフィナ」
初めて、彼は私の名を、敬称もつけずに呼んだ。
「…私の負けだ」
「え…?」
「君を、分析しようとした」
彼は、まるで懺悔するように、言葉を紡いだ。
「危険な存在か、予測不能な変数か、あるいは、守るべき対象か…。だが、全て間違っていた」
彼の瞳が、痛々しいほど真っ直ぐに、私を射抜く。
「私の立てた仮説は、全て棄却された。残った結論は、ただ一つだ」
彼は、私の頬に、そっと手を添えた。
騎士の、硬く、節くれだった指。その指先が、熱い。
「…私の心は、君という存在に、完全に掌握された。…責任を、取ってほしい」
それは、今まで聞いたどんな言葉よりも、不器用で、誠実で、そして、甘い告白だった。
私の頬を、一筋の涙が伝う。
もう、心理学の理論も、計算も、何もいらなかった。
「…わたくしの仮説も」
私は、涙で濡れた笑顔で、彼に答えた。
「どうやら、正しかったようですわ」
その言葉が、最後の合図だった。
ケイン様は、ゆっくりと顔を傾け、その唇を、私の唇に重ねた。
それは、氷が溶けるように優しく、しかし、決して消えない熱を帯びた、長い長い、口づけだった。
私の、壮大で、奇妙で、そして最高に幸せな実験は。
今、完璧な形で、証明されたのだ。
手には計画書も、参考資料もない。
頭の中にあるのは、昨日の彼の言葉と、その瞳に宿っていた見たことのない熱だけ。
(『対個人における、過剰な接近への対処法』…)
その言葉を反芻するたびに、心臓が期待と不安で跳ね上がる。
もはや、これは実験ではない。
これから始まるのは、答えの分からない、未知の領域だ。
道場の扉を開けると、彼はすでにそこにいた。
いつもの重厚な鎧ではなく、動きやすいシンプルな訓練着を身につけている。その姿は、孤高の「騎士団長」というよりも、一人の「ケイン」という男性を、強く意識させた。
道場の中央で向かい合う。
空気が、ぴんと張り詰めている。しかし、それはこれまでのような緊張感ではなく、これから始まる何かへの、甘い予兆に満ちていた。
「では、始める」
ケイン様は、静かに言った。
「新しい訓練の、第一項目だ」
彼は一歩、私に近づいた。
その距離は、これまで彼が頑なに守ってきた、パーソナルスペースの内側だった。
「相手が明確な意図をもって、距離を詰めてきた場合。後退は、必ずしも正しい選択ではない」
彼の低い声が、すぐ側で響く。
私は、ゴクリと唾を飲んだ。これは、護身術の話ではない。
「時には、その場に留まり、相手の意図を正面から受け止める勇気が必要だ」
そう言って、彼はさらに一歩、踏み出した。
もう、手を伸ばせば触れられる距離。
「…やってみろ」
「…何を、ですの?」
「俺から、目を逸らすな」
それは、命令だった。
私は、逃げ出したい衝動を必死にこらえ、彼の灰色の瞳をまっすぐに見つめ返した。
その瞳の奥で、激しい葛藤と、それを超える強い意志が燃えているのが見えた。
「…よろしい」
彼は満足げに言うと、ゆっくりと手を伸ばし、私の手を取った。
「第二項目。相手の動きを予測し、次の一手を読む」
彼は私の手を引いた。それは、組手の合図。
しかし、その動きは、これまでのような武骨なものではなく、まるでダンスに誘うような、優雅さがあった。
私たちの体は自然に寄り添い、足が絡み合うほどの距離で、ゆっくりとした攻防が始まる。
それは、剣術の訓練というよりも、互いの心を探り合う、密やかな対話だった。
彼が近づけば、私も退かない。
私が一歩踏み出せば、彼はそれを受け止める。
彼の指が私の腰に触れ、私の手が彼の肩にかかる。
全ての動きが、言葉以上の意味を持っていた。
そして、数合打ち合った後、彼は私の腰を強く引き寄せ、その動きをピタリと止めた。
完全に、彼の腕の中に閉じ込められていた。
ゼロ距離で、見つめ合う。
「…セラフィナ」
初めて、彼は私の名を、敬称もつけずに呼んだ。
「…私の負けだ」
「え…?」
「君を、分析しようとした」
彼は、まるで懺悔するように、言葉を紡いだ。
「危険な存在か、予測不能な変数か、あるいは、守るべき対象か…。だが、全て間違っていた」
彼の瞳が、痛々しいほど真っ直ぐに、私を射抜く。
「私の立てた仮説は、全て棄却された。残った結論は、ただ一つだ」
彼は、私の頬に、そっと手を添えた。
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「…私の心は、君という存在に、完全に掌握された。…責任を、取ってほしい」
それは、今まで聞いたどんな言葉よりも、不器用で、誠実で、そして、甘い告白だった。
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もう、心理学の理論も、計算も、何もいらなかった。
「…わたくしの仮説も」
私は、涙で濡れた笑顔で、彼に答えた。
「どうやら、正しかったようですわ」
その言葉が、最後の合図だった。
ケイン様は、ゆっくりと顔を傾け、その唇を、私の唇に重ねた。
それは、氷が溶けるように優しく、しかし、決して消えない熱を帯びた、長い長い、口づけだった。
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