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第九話:皇帝、来る
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大図書館の静寂を後にし、私が離宮へ駆け戻った時、そこは蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「妃様っ、お戻りでしたか!」
「ど、どうしましょう! 皇帝陛下がお見えになるなんて、前代未聞ですわ!」
「お掃除を! 急いでお部屋を綺麗にしないと!」
アンナやサラたちが、顔面蒼白で行ったり来たりしている。皇帝の突然の訪問。それは、この後宮の片隅で忘れられていた私たちにとって、まさに天変地異に等しい出来事だった。
「全員、落ち着きなさい」
私の凛とした声に、パニックに陥っていた侍女たちの動きがぴたりと止まる。
「掃除はしなくていいわ。慌てて取り繕ったところで、すぐに見抜かれるだけ。それよりも、普段通りになさい。畑の手入れをする者は畑へ、工房で作業する者は工房へ。そして、何を聞かれても、正直に答えればいい」
私の言葉には、不思議な説得力があったらしい。侍女たちはまだ不安げな顔をしながらも、こくこくと頷き、それぞれの持ち場へと散っていった。
(皇帝アレクシス……。一体、何の目的で……)
後宮内の奇妙な噂――最下位妃の周りに、侍女たちが集まって何かをしている。その噂が、ついに彼の耳にまで届いたのだろう。
面倒なことになる。私はそう思いながらも、心のどこかでこの状況を楽しんでいる自分に気づいていた。
やがて、数名の側近だけを連れた一人の男性が、私たちの離宮の庭へと足を踏み入れた。
陽光を反射して輝く金の髪、そして全てを見透かすような、鋭い紫紺の瞳。華美な装飾はなくとも、その佇まいだけで場の空気を支配する絶対的な存在感。
彼こそが、この帝国の若き支配者、皇帝アレクシスだった。
しかし、彼の目に映った光景は、予想とは全く違っていたのだろう。その紫紺の瞳が、驚きにわずかに見開かれた。
彼が想像していたのは、きっと埃っぽく、淀んだ空気が流れるわびしい離宮だったはずだ。だが、目の前にあるのは、青々とした葉を茂らせる整然とした畑。工房の窓から漏れ聞こえてくる、楽しげな侍女たちの笑い声。そして、すれ違う侍女たちの、最下位の離宮に仕える者とは思えぬほど明るく、健康的な表情。
「お初にお目にかかります、陛下」
庭でちょうどカモミールの手入れをしていた私が、土のついた手をスカートで拭いながら、静かに礼をした。
「……お前が、リディア・バーデンか」
「はい」
「説明してもらおう。この騒ぎは、一体何だ? 妃でありながら、商売まがいのことをしていると聞いたが」
彼の声は低く、威圧的だ。しかし、私は少しも臆さなかった。
「これは商売ではございません、陛下。後宮内で活用されていない資源……『価値』を再分配し、侍女たちの生活の質を向上させるための、『相互扶助活動』にございます」
「……そうごふじょ?」
聞き慣れない言葉に、皇帝が眉をひそめる。
私は彼を工房へと案内し、ちょうど焼き上がったばかりのカモミールクッキーと、淹れたてのハーブティーを勧めた。
「さあ、お召し上がりください。私たちの活動の、ささやかな成果です」
皇帝は訝しげな表情で、側近が毒見をするのを待ってから、ためらうようにクッキーを口に運んだ。そして、その動きが止まる。次にハーブティーを一口飲み、彼は驚きに目を見開いた。
「これが……最下位妃の離宮で出されるものだというのか……」
「はい。全て、この離宮の仲間たちの手で作り出したものでございます」
皇帝はしばらく黙って私を見つめていたが、やがてふっと、まるで面白くてたまらないとでも言うように、その口元に笑みを浮かべた。
「気に入った。褒美をやろう。お前のランクを、Bランクまで引き上げてやる」
それは、後宮の妃にとって望みうる最高の栄誉のはずだった。しかし、私の答えは決まっている。
「お言葉ですが、陛下。わたくし、ランクには興味がございません」
私の予期せぬ返答に、今度は側近たちが息を呑んだ。皇帝は、ますます面白そうに目を細める。
「ならば、何が望みだ。金か? 宝石か?」
「いいえ」
私はまっすぐに皇帝の紫紺の瞳を見返し、はっきりと告げた。
「わたくしが望むのは、ただ一つ。大図書館の未公開書庫への、自由な立ち入り許可にございます」
しばしの沈黙。
やがて、皇帝アレクシスは、声を上げて笑い出した。威厳のある君主の顔ではなく、まるで無二の好敵手を見つけたかのような、楽しげな少年の顔で。
「面白い。実に面白い女だ、お前は」
彼は立ち上がると、私の目の前に歩み寄った。そして、私の真価を試すかのように、全く予想外の問いを投げかける。
「ならば聞こう、リディア・バーデン。お前は、この後宮を……ひいては、この国を、どうしたい?」
その問いは、あまりにも大きく、そしてあまりにも魅力的だった。
私は驚きに目を見開きながらも、その瞳に挑戦的な光を宿し、目の前の若き皇帝を、まっすぐに見つめ返した。
「妃様っ、お戻りでしたか!」
「ど、どうしましょう! 皇帝陛下がお見えになるなんて、前代未聞ですわ!」
「お掃除を! 急いでお部屋を綺麗にしないと!」
アンナやサラたちが、顔面蒼白で行ったり来たりしている。皇帝の突然の訪問。それは、この後宮の片隅で忘れられていた私たちにとって、まさに天変地異に等しい出来事だった。
「全員、落ち着きなさい」
私の凛とした声に、パニックに陥っていた侍女たちの動きがぴたりと止まる。
「掃除はしなくていいわ。慌てて取り繕ったところで、すぐに見抜かれるだけ。それよりも、普段通りになさい。畑の手入れをする者は畑へ、工房で作業する者は工房へ。そして、何を聞かれても、正直に答えればいい」
私の言葉には、不思議な説得力があったらしい。侍女たちはまだ不安げな顔をしながらも、こくこくと頷き、それぞれの持ち場へと散っていった。
(皇帝アレクシス……。一体、何の目的で……)
後宮内の奇妙な噂――最下位妃の周りに、侍女たちが集まって何かをしている。その噂が、ついに彼の耳にまで届いたのだろう。
面倒なことになる。私はそう思いながらも、心のどこかでこの状況を楽しんでいる自分に気づいていた。
やがて、数名の側近だけを連れた一人の男性が、私たちの離宮の庭へと足を踏み入れた。
陽光を反射して輝く金の髪、そして全てを見透かすような、鋭い紫紺の瞳。華美な装飾はなくとも、その佇まいだけで場の空気を支配する絶対的な存在感。
彼こそが、この帝国の若き支配者、皇帝アレクシスだった。
しかし、彼の目に映った光景は、予想とは全く違っていたのだろう。その紫紺の瞳が、驚きにわずかに見開かれた。
彼が想像していたのは、きっと埃っぽく、淀んだ空気が流れるわびしい離宮だったはずだ。だが、目の前にあるのは、青々とした葉を茂らせる整然とした畑。工房の窓から漏れ聞こえてくる、楽しげな侍女たちの笑い声。そして、すれ違う侍女たちの、最下位の離宮に仕える者とは思えぬほど明るく、健康的な表情。
「お初にお目にかかります、陛下」
庭でちょうどカモミールの手入れをしていた私が、土のついた手をスカートで拭いながら、静かに礼をした。
「……お前が、リディア・バーデンか」
「はい」
「説明してもらおう。この騒ぎは、一体何だ? 妃でありながら、商売まがいのことをしていると聞いたが」
彼の声は低く、威圧的だ。しかし、私は少しも臆さなかった。
「これは商売ではございません、陛下。後宮内で活用されていない資源……『価値』を再分配し、侍女たちの生活の質を向上させるための、『相互扶助活動』にございます」
「……そうごふじょ?」
聞き慣れない言葉に、皇帝が眉をひそめる。
私は彼を工房へと案内し、ちょうど焼き上がったばかりのカモミールクッキーと、淹れたてのハーブティーを勧めた。
「さあ、お召し上がりください。私たちの活動の、ささやかな成果です」
皇帝は訝しげな表情で、側近が毒見をするのを待ってから、ためらうようにクッキーを口に運んだ。そして、その動きが止まる。次にハーブティーを一口飲み、彼は驚きに目を見開いた。
「これが……最下位妃の離宮で出されるものだというのか……」
「はい。全て、この離宮の仲間たちの手で作り出したものでございます」
皇帝はしばらく黙って私を見つめていたが、やがてふっと、まるで面白くてたまらないとでも言うように、その口元に笑みを浮かべた。
「気に入った。褒美をやろう。お前のランクを、Bランクまで引き上げてやる」
それは、後宮の妃にとって望みうる最高の栄誉のはずだった。しかし、私の答えは決まっている。
「お言葉ですが、陛下。わたくし、ランクには興味がございません」
私の予期せぬ返答に、今度は側近たちが息を呑んだ。皇帝は、ますます面白そうに目を細める。
「ならば、何が望みだ。金か? 宝石か?」
「いいえ」
私はまっすぐに皇帝の紫紺の瞳を見返し、はっきりと告げた。
「わたくしが望むのは、ただ一つ。大図書館の未公開書庫への、自由な立ち入り許可にございます」
しばしの沈黙。
やがて、皇帝アレクシスは、声を上げて笑い出した。威厳のある君主の顔ではなく、まるで無二の好敵手を見つけたかのような、楽しげな少年の顔で。
「面白い。実に面白い女だ、お前は」
彼は立ち上がると、私の目の前に歩み寄った。そして、私の真価を試すかのように、全く予想外の問いを投げかける。
「ならば聞こう、リディア・バーデン。お前は、この後宮を……ひいては、この国を、どうしたい?」
その問いは、あまりにも大きく、そしてあまりにも魅力的だった。
私は驚きに目を見開きながらも、その瞳に挑戦的な光を宿し、目の前の若き皇帝を、まっすぐに見つめ返した。
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