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第一話:後宮は巨大な市場(マーケット)
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「雪蘭、お前に話がある」
父、李伯の書斎に呼ばれた時、私はその硬い表情から全てを察した。墨と古い紙の匂いが満ちる簡素な部屋で、父は眉間に深い皺を刻み、口を開いた。
「……後宮が、新たな妃を迎え入れるそうだ。我が李家からも、候補者を出すようお達しがあった」
父は、しがない地方役人だ。清廉だが、それゆえに貧しい。我が家に蓄えはなく、むしろ借りがある。娘を後宮に上げることは、家格を上げるまたとない機会であり、同時に、愛娘を鳥かごに送る苦渋の決断でもあっただろう。
「お前ほどの娘を……すまない。だが、これも家のため……」
父の言葉は、私の耳を滑り落ちていく。
(──来た)
私の心は、驚くほど静かだった。
李雪蘭、十七歳。この世界に生を受けてから、ずっと違和感を抱えて生きてきた。私の頭の中には、全く別の人生の記憶があるのだ。
高層ビルが立ち並び、「自動車」が道を埋め尽くす日本という国。そこで私は、「化粧品メーカーの研究員」として白衣を着て、フラスコを振る日々を送っていた。情熱を注いだのは、肌の角質層(ラメラ)構造や、新規保湿成分の分子式。恋愛にはとんと縁がなく、週末の楽しみは競合他社の新商品分析だった。
そんな私が、この古風な帝国で、役人の娘として生きている。
父が望むように、良家の子息に嫁ぎ、子を産み、家を守る。そんな人生に、私の心が少しも動かないのは当然だった。私の魂が渇望しているのは、愛でも安寧でもない。
知的好奇心を満たす研究と、それを形にし、世に問い、価値を創造する──そう、「ビジネス」への尽きせぬ渇きだ。
父の心配をよそに、私の思考は高速で回転していた。
後宮。皇帝ただ一人をめぐり、数百、数千の女たちが美を競い、謀略を巡らせる女の園。ある者にとっては牢獄、ある者にとっては栄華への階段。
だが、私の目には全く別の景色が映っていた。
(帝国の最高級の素材、最新の流行、そして最も購買意欲の高い顧客が集まる場所……)
そこは、この国で最も巨大で、最も未開拓な市場に他ならない。
私は顔を上げ、父の目をまっすぐに見つめた。
「お話、お受けいたします。父上」
「なっ……雪蘭、お前……」
無理強いを覚悟していた父は、私の迷いなき即答に目を丸くした。
「私は、李家を救うために参るのではありません」
私は静かに、しかしはっきりと告げた。
「私の夢を、叶えるために参るのです」
父には、その言葉の真意はわからなかっただろう。
数ヶ月後、私は絢爛豪華な衣装をまとい、後宮の門をくぐった。
朱塗りの柱、瑠璃瓦の屋根、磨き上げられた回廊。新人妃として集められた十数人の令嬢たちは、不安と期待に頬を紅潮させ、ささやき合っている。
「まあ、あちらにいらっしゃるのが張貴妃様……お美しい……」
「皇帝陛下は、どのようなお方なのかしら……」
そんな会話に加わることなく、私は静かに彼女たちを──否、未来の顧客たちを観察していた。
絹の衣に、高価な珠玉の髪飾り。見た目は華やかだ。だが、研究員だった私の目は、その奥にあるものを見逃さない。
(……白粉の粒子が粗く、肌に馴染んでいない。あれでは厚塗りに見え、乾燥を招くだけだ)
(あちらの令嬢の唇、皮がめくれている。使っている紅の質が悪い証拠ね。油分と顔料が分離している)
女官たちの間を通り過ぎる。ふわりと香る花の香り。しかし、その香りに持続性はない。すぐに汗の匂いと混じって、不快なものに変わるだろう。
これはひどい。
有効成分どころか、肌に有害な鉛や水銀を平気で使っているものまである。皮膚科学の基礎すら、この世界には存在しないのだ。
そして、こんな粗悪品が、信じられないほどの高値で取引されている。
需要と供給のバランスが、完全に崩壊している。品質管理という概念すらない。
新人妃たちの間を、一人の女官が通り過ぎた。その手には、小さな陶器の壺。おそらく、張貴妃が懇意の商人から仕入れている人気の白粉だろう。令嬢たちが羨望の眼差しを向ける。
私は、その壺にではなく、それを持つ女官の指先に目をやった。顔料で爪の縁が黒ずみ、指先はひび割れている。
(毎日扱っているだけで、あれほど肌を痛める代物……)
私の唇に、自然と笑みが浮かんだ。
周りの令嬢たちが、気味悪げに私を見る。無理もない。誰もが不安に震えるこの場所で、一人だけ歓喜に打ち震えているのだから。
ああ、なんてことだ。
なんて素晴らしい。
私の知識が、私の技術が、この巨大な市場を根底から覆すことができる。
女たちの「美しくなりたい」という切実な願いは、最高のビジネスチャンスだ。
寵愛争い? 権力闘争?
結構。どうぞお好きになさればいい。
私が欲しいのは、皇帝の寵愛ではない。
この後宮における、化粧品市場の──完全なる独占だ。
父、李伯の書斎に呼ばれた時、私はその硬い表情から全てを察した。墨と古い紙の匂いが満ちる簡素な部屋で、父は眉間に深い皺を刻み、口を開いた。
「……後宮が、新たな妃を迎え入れるそうだ。我が李家からも、候補者を出すようお達しがあった」
父は、しがない地方役人だ。清廉だが、それゆえに貧しい。我が家に蓄えはなく、むしろ借りがある。娘を後宮に上げることは、家格を上げるまたとない機会であり、同時に、愛娘を鳥かごに送る苦渋の決断でもあっただろう。
「お前ほどの娘を……すまない。だが、これも家のため……」
父の言葉は、私の耳を滑り落ちていく。
(──来た)
私の心は、驚くほど静かだった。
李雪蘭、十七歳。この世界に生を受けてから、ずっと違和感を抱えて生きてきた。私の頭の中には、全く別の人生の記憶があるのだ。
高層ビルが立ち並び、「自動車」が道を埋め尽くす日本という国。そこで私は、「化粧品メーカーの研究員」として白衣を着て、フラスコを振る日々を送っていた。情熱を注いだのは、肌の角質層(ラメラ)構造や、新規保湿成分の分子式。恋愛にはとんと縁がなく、週末の楽しみは競合他社の新商品分析だった。
そんな私が、この古風な帝国で、役人の娘として生きている。
父が望むように、良家の子息に嫁ぎ、子を産み、家を守る。そんな人生に、私の心が少しも動かないのは当然だった。私の魂が渇望しているのは、愛でも安寧でもない。
知的好奇心を満たす研究と、それを形にし、世に問い、価値を創造する──そう、「ビジネス」への尽きせぬ渇きだ。
父の心配をよそに、私の思考は高速で回転していた。
後宮。皇帝ただ一人をめぐり、数百、数千の女たちが美を競い、謀略を巡らせる女の園。ある者にとっては牢獄、ある者にとっては栄華への階段。
だが、私の目には全く別の景色が映っていた。
(帝国の最高級の素材、最新の流行、そして最も購買意欲の高い顧客が集まる場所……)
そこは、この国で最も巨大で、最も未開拓な市場に他ならない。
私は顔を上げ、父の目をまっすぐに見つめた。
「お話、お受けいたします。父上」
「なっ……雪蘭、お前……」
無理強いを覚悟していた父は、私の迷いなき即答に目を丸くした。
「私は、李家を救うために参るのではありません」
私は静かに、しかしはっきりと告げた。
「私の夢を、叶えるために参るのです」
父には、その言葉の真意はわからなかっただろう。
数ヶ月後、私は絢爛豪華な衣装をまとい、後宮の門をくぐった。
朱塗りの柱、瑠璃瓦の屋根、磨き上げられた回廊。新人妃として集められた十数人の令嬢たちは、不安と期待に頬を紅潮させ、ささやき合っている。
「まあ、あちらにいらっしゃるのが張貴妃様……お美しい……」
「皇帝陛下は、どのようなお方なのかしら……」
そんな会話に加わることなく、私は静かに彼女たちを──否、未来の顧客たちを観察していた。
絹の衣に、高価な珠玉の髪飾り。見た目は華やかだ。だが、研究員だった私の目は、その奥にあるものを見逃さない。
(……白粉の粒子が粗く、肌に馴染んでいない。あれでは厚塗りに見え、乾燥を招くだけだ)
(あちらの令嬢の唇、皮がめくれている。使っている紅の質が悪い証拠ね。油分と顔料が分離している)
女官たちの間を通り過ぎる。ふわりと香る花の香り。しかし、その香りに持続性はない。すぐに汗の匂いと混じって、不快なものに変わるだろう。
これはひどい。
有効成分どころか、肌に有害な鉛や水銀を平気で使っているものまである。皮膚科学の基礎すら、この世界には存在しないのだ。
そして、こんな粗悪品が、信じられないほどの高値で取引されている。
需要と供給のバランスが、完全に崩壊している。品質管理という概念すらない。
新人妃たちの間を、一人の女官が通り過ぎた。その手には、小さな陶器の壺。おそらく、張貴妃が懇意の商人から仕入れている人気の白粉だろう。令嬢たちが羨望の眼差しを向ける。
私は、その壺にではなく、それを持つ女官の指先に目をやった。顔料で爪の縁が黒ずみ、指先はひび割れている。
(毎日扱っているだけで、あれほど肌を痛める代物……)
私の唇に、自然と笑みが浮かんだ。
周りの令嬢たちが、気味悪げに私を見る。無理もない。誰もが不安に震えるこの場所で、一人だけ歓喜に打ち震えているのだから。
ああ、なんてことだ。
なんて素晴らしい。
私の知識が、私の技術が、この巨大な市場を根底から覆すことができる。
女たちの「美しくなりたい」という切実な願いは、最高のビジネスチャンスだ。
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