後宮妃よ、紅を引け。~寵愛ではなく商才で成り上がる中華ビジネス録~

希羽

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第五話:ブランドの誕生と最初の妨害

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 ​林淑妃が放った「紅の宣戦布告」の効果は、絶大だった。

 月華宮には、彼女が使っているというをひと目見ようと、あるいは何とかして手に入れようと、妃や女官たちがひっきりなしに訪れるようになった。

 林淑妃は巧みに希少価値を煽り、私の作った化粧品は、またたく間に「選ばれた者だけが手にできる至高のステータスシンボル」へと昇華した。

 ​当然、私の小さな工房での生産は、すぐに限界を迎えた。一人ですり鉢に向かう時間だけでは、殺到する注文を到底さばききれない。途方に暮れかけていた私の前に、救世主として現れたのが、一人の若い女官だった。

「あの……わたくしに、何かお手伝いできることはございませんか」

 ​それが、趙秀英チョウ・シュウエイとの出会いだった。

 彼女は、帝都一の豪商「趙商会」の娘でありながら、気弱で控えめな性格から、後宮では目立たない存在だった。しかし、林淑妃を通じて紅の噂とその驚くべき品質を知り、自ら協力を申し出てくれたのだ。

 ​最初は原料の整理や完成品の勘定といった地味な仕事を手伝ってもらうだけだったが、私はすぐに彼女の非凡な才能に気づかされた。数字に対する驚異的な正確さ、そして、商人としての血がもたらす天性の勘。彼女は、私の事業に欠けていた「実務管理」という最後のピースを埋めてくれる存在だった。

 ​そして、その日の作戦会議。彼女はもはや、ただの助手ではなかった。私の隣に座り、帳簿を広げた彼女は、ビジネスパートナーとして、初めて鋭い指摘を口にしたのだ。

「雪蘭様、このままでは生産が追いつきません! それに、誰に売ったのか管理しなければ、いずれ張貴妃のスパイが紛れ込みます!」

 作戦会議で、趙秀英が帳簿を広げながら悲鳴に近い声を上げた。

 彼女の言う通りだ。

 ビジネスを拡大するには、組織化が必要だった。

「秀英の言う通りね。これより、我々の化粧品に名を授けます。ブランド名は『玉肌香ぎょくきこう』」

 私は静かに宣言した。

「販売は、林淑妃様と秀英を通じた紹介制とし、顧客リストを作成します。誰が、いつ、何を買ったのか、すべて記録するのよ」
「まあ、まるで商会のようですわね!」

 目を輝かせる秀英に、私は頷いた。「その通り。私たちは、後宮に新しい商会を立ち上げるのです」

 だが、私たちが組織化を進める裏で、敵もまた動き出していた。

 張貴妃は、林淑妃の劇的な返り咲きと、後宮の流行が自分ではない誰かによって支配され始めている現実に、我慢の限界を迎えていた。彼女の怒りの矛先は、噂の出所である林淑妃のに向けられた。

 数日後、静蘭宮に、厨房のメイが怯えた顔でやってきた。

「李様……申し訳ございません。張貴妃様お付きの尚宮様から……今後一切、静蘭宮には食材の余り物はおろか、水一滴も渡すな、と……」

 薬草園も同様だった。突然、私の求める薬草がすべてになった。

 幼稚だが、効果的な兵糧攻めだ。原料がなければ、何も作れない。

「あなたのせいではないわ、梅。こうなることは、とうに分かっていたことよ」

 私は彼女を労い、下がらせた。だが、その背中を見送りながら、私の思考は次の手を打っていた。

 その夜の作戦会議で、私は二人に告げた。

「宮中の供給ルートは、最初から不安定だと読んでいました。秀英、いよいよ、あなたの家の出番です」
「はい!」

 私の言葉に、秀英は待っていましたとばかりに顔を上げた。

 翌日から、後宮に奇妙な変化が起きた。

 趙秀英の実家である趙商会から、彼女の私物として、定期的に大きな長持ながもちが運び込まれるようになったのだ。もちろん、中身は彼女の衣類などではない。張貴妃の監視をかいくぐって運び込まれる、帝都中から集められた最高品質の紅花、密蝋、そして私が指定した希少な薬草たちだった。

 張貴妃は、私が宮中の者に頼っていると思い込んでいた。だが、私のサプライチェーンは、とうに宮の外、彼女の手の届かない場所へと広がっていたのだ。

「リスク分散はビジネスの基本。一つの供給元に依存するなど、素人がすることだわ」

 新たな原料を前に、私は静かに呟いた。妨害は、むしろ私たちの結束を強め、ビジネスをより強固なものへと進化させた。

 皇帝、叡明エイメイの執務室。

「陛下、奇妙なご報告が」

 財務を司る宦官が、一冊の帳簿を差し出した。

「ここ数ヶ月、後宮内での銀子の動きが妙に活発化しております。特に、林淑妃様を中心としたいくつかの宮の間で……。金の出所を辿りますと、どうやら趙商会が関わっている模様」

 叡明は報告書に目を通し、美しい眉をわずかにひそめた。

 趙商会。帝都でも指折りの豪商だ。その商家が、なぜ一女官である娘を通じて、妃たちと密な金のやり取りをしているのか。

「林淑妃……趙家の娘……そして、あの新人妃か……」

 彼の脳裏に、先日審問にかけられそうになったという報告のあった、李雪蘭という女の顔が浮かんだ。あの時、彼女が作り出したという化粧品が原因だったはずだ。

 ただの女たちの流行り廃りではない。その裏には、明確な経済活動の匂いがする。

 叡明は帳簿を閉じると、口の端に微かな笑みを浮かべた。

 女の園で繰り広げられる、愛憎渦巻く闘争には飽き飽きしていた。だが、これはどうだ?

 これは、これまで彼が見たことのない、新しい戦の形ではないか。

「面白い」

 皇帝は、窓の外に広がる後宮を見やりながら、楽しげに呟いた。

「その『玉肌香』とやらを、私も一度、見てみたいものだな」

 彼の興味は、もはや一人の妃の美貌ではなかった。

 後宮という閉じた世界で、静かに、しかし確実に帝国を築きつつある、見えざる実業家の正体に向けられていた。
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