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第12話 ピンク色の洗脳と、覚醒のロースト
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──パリン。
華やかなワルツの調べを切り裂くように、何かが砕ける音がした。
音源は、頭上のバルコニー。
「……甘い」
ヘリオス殿下の腕の中で、私は眉をひそめた。
直後、会場の天井から、ピンク色の粉塵のようなものが雪のように降り注いできたのだ。
それは強烈に甘ったるい、腐りかけた果実のような芳香を放っていた。
「……なんだ、これは? 視界が……」
殿下がふらりとよろめく。
その瞳の焦点が合っていない。
周囲を見渡せば、先ほどまで私の「オペラ」を絶賛していた貴族たちが、糸が切れた人形のように立ち尽くしていた。
そして、誰かがうわ言のように呟いた。
「……そうだ。アリス・フォン・ローゼンバーグは……悪役令嬢だ」
「彼女を……断罪しなければ……」
「ヒロインを……お救いしなければ……」
ザワザワと、異様な熱気が広がる。
彼らの目は濁り、口元には不気味な笑みが張り付いている。
(……は?)
私は瞬時に理解した。
これは「強制イベント」だ。
誰かが魔法的な薬物を使って、この場の空気を無理やり「断罪イベント」へと書き換えようとしている。
「殿下! しっかりしてください!」
「く……頭が、割れるようだ……。アリス、離れろ……君を、傷つけたくない……!」
ヘリオス殿下が苦悶の表情で私を突き飛ばそうとする。
その首筋には、青筋が浮かんでいた。
強力な精神干渉。本来なら、彼もとっくに洗脳されているはずだ。
だが、私のコーヒー漬けになった彼の脳が、必死に甘い毒霧に抵抗している。
(……ふざけんじゃないわよ)
私の店(日常)を壊し、私の客(殿下)を奪い、またあの退屈な断罪劇を繰り返そうというのか。
7回目の人生で、ようやく手に入れた「美味しいコーヒーが飲める平和」を。
ブチリ。
私の中で、何かが切れる音がした。
「……いい度胸ね。喧嘩を売る相手を間違えてるわよ」
私はドレスの隠しポケットから、小袋を取り出した。
中身は、焙煎する前の生豆ではない。
試作のために持ち歩いていた、極深煎りのイタリアンロースト豆だ。
「甘ったるい夢なんて、私が覚ましてあげる」
私は指先で複雑な印を結ぶ。
生活魔法レベルの【イグニス(炎)】と【ウェントス(風)】。
だが、前世の知識を掛け合わせれば、それは兵器になる。
「……爆ぜろ! 『ジェット・ロースター』!!」
ドォォォォォォォン!!
私の手の中で、豆が一瞬にして炭化し、漆黒の煙が爆発的に膨れ上がった。
会場に広がっていたピンク色の霧を、黒い煙が飲み込んでいく。
漂うのは、花のような甘い香りではない。
すべてを焼き尽くすような、強烈な焦げの匂い。煙の苦味。
火災現場一歩手前の、暴力的な焙煎香だ。
「げほっ! ごほっ、ごほっ!?」
「くっさ!? なんだこれ、苦い!?」
陶酔していた貴族たちが、一斉にむせ返った。
涙目になり、咳き込む。
そのショックで、濁っていた彼らの瞳に理性の光が戻っていく。嗅覚への強烈な刺激が、脳の麻痺を強制的に解除したのだ。
「……やりすぎだ、店主」
私の背後から、呆れたような声がした。
影の中から、黒い礼服を着たレンが現れた。彼は鼻と口を黒い布で覆っている。さすが準備がいい。
「レン! 換気扇代わりになって!」
「人使いが荒いな……。だが、あの甘い匂いは俺も吐き気がしていたところだ」
レンは短剣を抜くと、見えない速さで空を切った。
真空の刃が生まれ、黒い煙を会場全体へと拡散させる。
「ぬおおおおっ! 火事か!? 敵襲か!?」
そこへ、大混乱の会場を割って、一人の男が飛び出してきた。
ジークハルト騎士団長だ。
彼は状況を理解していないようだが、充満するコーヒーの焦げた匂いを嗅いで、本能的に反応したらしい。
「この匂いは……アリスか! 救援に来たぞ!」
「団長! あそこのバルコニーに向けて、全力で風を送ってください!」
「心得た! 総員、衝撃に備えよ! 『嵐の咆哮ストーム・ハウル』!!」
騎士団長が大きく息を吸い込み、咆哮した。
物理的な音圧と魔力が混ざり合い、凄まじい突風となってバルコニーへ吹き荒れる。
黒い煙の塊が、砲弾のようにバルコニーへ直撃した。
「きゃあああああっ!?」
煙の向こうで、女性の悲鳴が聞こえた。
ピンク色のドレスを着た影が、手すりを乗り越えて逃げ出していくのが見える。
(……逃がしたか)
だが、洗脳は解けた。
会場の空気は、甘ったるいピンク色から、いつもの落ち着いた(少し煙たい)色に戻っていた。
「……はぁ、はぁ……」
私の腕の中で、ヘリオス殿下が荒い息をつきながら顔を上げた。
その瞳は、澄んだ金色に戻っている。
「……酷い目に遭った。口の中が、焦げた豆の味でいっぱいだ」
「目が覚めましたか?」
「ああ。おかげでね」
殿下は苦笑すると、私を強く抱きしめ直した。
今度は、洗脳による力任せな抱擁ではない。体温の伝わる、優しい強さだ。
「……アリス」
「はい」
「君は本当に、劇薬だ。……だが、あの甘ったるい幻覚より、この苦い煙の方が、ずっと生きた心地がする」
彼は私の髪に口づけを落とした。
周囲では、正気に戻った貴族たちが、呆然と私たちを見つめている。
だが、そこにもう嘲笑の色はない。
あるのは、突然の事態を鎮圧した(ように見える)私への、畏怖と困惑だけだ。
「……騒がしいな」
そこへ、威厳のある声が響いた。
ローゼンバーグ公爵──父だ。
父は煙の中でも平然としていた。どうやら、普段から私の激苦エスプレッソを飲んでいるおかげで、この程度の刺激には完全な耐性があるらしい。
「アリス。……焼きすぎだ。これでは豆が台無しではないか」
「……緊急事態でしたので」
「フン。……だが、害虫駆除にはちょうど良い燻いぶし銀かもしれんな」
父はバルコニーの方角を睨みつけると、私に向かって不器用に口の端を上げた。
「帰るぞ。こんな煙たい場所には長居できん。……店で、まともな茶を淹れろ」
「……はい、お父様」
こうして、私の「断罪イベント(7回目)」は、不発に終わった。
いや、今回は私の手で、物理的に粉砕したのだ。
会場を後にする私の背中には、もう誰からの悪口も聞こえてこなかった。
ただ、服に染み付いた深煎りの香りだけが、勲章のように残っていた。
華やかなワルツの調べを切り裂くように、何かが砕ける音がした。
音源は、頭上のバルコニー。
「……甘い」
ヘリオス殿下の腕の中で、私は眉をひそめた。
直後、会場の天井から、ピンク色の粉塵のようなものが雪のように降り注いできたのだ。
それは強烈に甘ったるい、腐りかけた果実のような芳香を放っていた。
「……なんだ、これは? 視界が……」
殿下がふらりとよろめく。
その瞳の焦点が合っていない。
周囲を見渡せば、先ほどまで私の「オペラ」を絶賛していた貴族たちが、糸が切れた人形のように立ち尽くしていた。
そして、誰かがうわ言のように呟いた。
「……そうだ。アリス・フォン・ローゼンバーグは……悪役令嬢だ」
「彼女を……断罪しなければ……」
「ヒロインを……お救いしなければ……」
ザワザワと、異様な熱気が広がる。
彼らの目は濁り、口元には不気味な笑みが張り付いている。
(……は?)
私は瞬時に理解した。
これは「強制イベント」だ。
誰かが魔法的な薬物を使って、この場の空気を無理やり「断罪イベント」へと書き換えようとしている。
「殿下! しっかりしてください!」
「く……頭が、割れるようだ……。アリス、離れろ……君を、傷つけたくない……!」
ヘリオス殿下が苦悶の表情で私を突き飛ばそうとする。
その首筋には、青筋が浮かんでいた。
強力な精神干渉。本来なら、彼もとっくに洗脳されているはずだ。
だが、私のコーヒー漬けになった彼の脳が、必死に甘い毒霧に抵抗している。
(……ふざけんじゃないわよ)
私の店(日常)を壊し、私の客(殿下)を奪い、またあの退屈な断罪劇を繰り返そうというのか。
7回目の人生で、ようやく手に入れた「美味しいコーヒーが飲める平和」を。
ブチリ。
私の中で、何かが切れる音がした。
「……いい度胸ね。喧嘩を売る相手を間違えてるわよ」
私はドレスの隠しポケットから、小袋を取り出した。
中身は、焙煎する前の生豆ではない。
試作のために持ち歩いていた、極深煎りのイタリアンロースト豆だ。
「甘ったるい夢なんて、私が覚ましてあげる」
私は指先で複雑な印を結ぶ。
生活魔法レベルの【イグニス(炎)】と【ウェントス(風)】。
だが、前世の知識を掛け合わせれば、それは兵器になる。
「……爆ぜろ! 『ジェット・ロースター』!!」
ドォォォォォォォン!!
私の手の中で、豆が一瞬にして炭化し、漆黒の煙が爆発的に膨れ上がった。
会場に広がっていたピンク色の霧を、黒い煙が飲み込んでいく。
漂うのは、花のような甘い香りではない。
すべてを焼き尽くすような、強烈な焦げの匂い。煙の苦味。
火災現場一歩手前の、暴力的な焙煎香だ。
「げほっ! ごほっ、ごほっ!?」
「くっさ!? なんだこれ、苦い!?」
陶酔していた貴族たちが、一斉にむせ返った。
涙目になり、咳き込む。
そのショックで、濁っていた彼らの瞳に理性の光が戻っていく。嗅覚への強烈な刺激が、脳の麻痺を強制的に解除したのだ。
「……やりすぎだ、店主」
私の背後から、呆れたような声がした。
影の中から、黒い礼服を着たレンが現れた。彼は鼻と口を黒い布で覆っている。さすが準備がいい。
「レン! 換気扇代わりになって!」
「人使いが荒いな……。だが、あの甘い匂いは俺も吐き気がしていたところだ」
レンは短剣を抜くと、見えない速さで空を切った。
真空の刃が生まれ、黒い煙を会場全体へと拡散させる。
「ぬおおおおっ! 火事か!? 敵襲か!?」
そこへ、大混乱の会場を割って、一人の男が飛び出してきた。
ジークハルト騎士団長だ。
彼は状況を理解していないようだが、充満するコーヒーの焦げた匂いを嗅いで、本能的に反応したらしい。
「この匂いは……アリスか! 救援に来たぞ!」
「団長! あそこのバルコニーに向けて、全力で風を送ってください!」
「心得た! 総員、衝撃に備えよ! 『嵐の咆哮ストーム・ハウル』!!」
騎士団長が大きく息を吸い込み、咆哮した。
物理的な音圧と魔力が混ざり合い、凄まじい突風となってバルコニーへ吹き荒れる。
黒い煙の塊が、砲弾のようにバルコニーへ直撃した。
「きゃあああああっ!?」
煙の向こうで、女性の悲鳴が聞こえた。
ピンク色のドレスを着た影が、手すりを乗り越えて逃げ出していくのが見える。
(……逃がしたか)
だが、洗脳は解けた。
会場の空気は、甘ったるいピンク色から、いつもの落ち着いた(少し煙たい)色に戻っていた。
「……はぁ、はぁ……」
私の腕の中で、ヘリオス殿下が荒い息をつきながら顔を上げた。
その瞳は、澄んだ金色に戻っている。
「……酷い目に遭った。口の中が、焦げた豆の味でいっぱいだ」
「目が覚めましたか?」
「ああ。おかげでね」
殿下は苦笑すると、私を強く抱きしめ直した。
今度は、洗脳による力任せな抱擁ではない。体温の伝わる、優しい強さだ。
「……アリス」
「はい」
「君は本当に、劇薬だ。……だが、あの甘ったるい幻覚より、この苦い煙の方が、ずっと生きた心地がする」
彼は私の髪に口づけを落とした。
周囲では、正気に戻った貴族たちが、呆然と私たちを見つめている。
だが、そこにもう嘲笑の色はない。
あるのは、突然の事態を鎮圧した(ように見える)私への、畏怖と困惑だけだ。
「……騒がしいな」
そこへ、威厳のある声が響いた。
ローゼンバーグ公爵──父だ。
父は煙の中でも平然としていた。どうやら、普段から私の激苦エスプレッソを飲んでいるおかげで、この程度の刺激には完全な耐性があるらしい。
「アリス。……焼きすぎだ。これでは豆が台無しではないか」
「……緊急事態でしたので」
「フン。……だが、害虫駆除にはちょうど良い燻いぶし銀かもしれんな」
父はバルコニーの方角を睨みつけると、私に向かって不器用に口の端を上げた。
「帰るぞ。こんな煙たい場所には長居できん。……店で、まともな茶を淹れろ」
「……はい、お父様」
こうして、私の「断罪イベント(7回目)」は、不発に終わった。
いや、今回は私の手で、物理的に粉砕したのだ。
会場を後にする私の背中には、もう誰からの悪口も聞こえてこなかった。
ただ、服に染み付いた深煎りの香りだけが、勲章のように残っていた。
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