31 / 45
第三章 天使とディーバの取引明細
31.誘惑の夢魔
しおりを挟む「待ってください!」
叫ぶ。精一杯の息を吐いて。
刹那、ぐにゃり――と、男の身体がひしゃげた。
彼女の前で背を丸めていた男性は、その場にうずくまり、倒れ、打ちっ放しのコンクリートにだらりと手足を投げ出した。
意識不明の昏倒。
あっという間に、昏睡患者がひとりできあがる。
……呆気にとられてしまった。
偶然居合わせて、自身はなにひとつ手を下していないとはいえ、目前でひとりの人間が不自然に失神する瞬間に立ち会ったのだ。
「あら。あなた――どこかで会ったお顔だね?」
すべもなく茫然と立ち尽くす僕に、疑惑のまなざしを向ける女性がいた。
おそらく、この人こそが犯人で間違いはないだろう。
男が倒れ込む直前に、彼女は目を細めて、ふっと息を吹きかけるような仕草をしていた。アルコールのせいかもしれないが、足もとから頽れたのは耳元に魔性の吐息を浴びた直後だった。
愛らしく首をかしげてみせる美女から、そそくさと目をそらす。思い出すのは、あられもない姿だから。
「……九遠堂の二階のベッドって、寝心地はいかがなものでしょうか」
「あ、そっかぁ! シドーのところに居た男の子だ!」
ころころと鈴が転がるような声は無邪気なよろこびに満ちていて、罪悪感などかけらも感じさせない。
椎堂さんの言葉を信じるならば、彼女は人ならざるもの。この程度のことは造作もないのだろう。
「ふーん、わたしのこと見てたんだ? うしろから匂いがすると思ったら、そういうことね。悪い子だなぁ」
「すみません。偶然見かけて気がかりでして。……この人、大丈夫なんですか?」
「ちょっと、ね。うっかりして骨抜きにしすぎちゃったみたい。あれこれしつこかったから眠ってもらっちゃった」
まったく末恐ろしい。震え上がる猶予も与えられず、無作為に手首をとられる。
「じゃあ行こっか?」
「誰かに見咎められる前に、逃亡ってとこですか。この人は?」
「べつにこのままでもいいんじゃない? どうせ起きたら忘れてるし」
そういうものなのか。
たしかに、夏も盛りで熱帯夜が続いているため、地下駐車場にこのまま放置しても寝冷めすることもないだろう。
「あの……聞いてもいいですか。こういうことはめずらしくない、ということでしょうか。椎堂さんから聞きました。よく枕元に現れるそうで。あなたは夢魔……〈怪奇なるもの〉で、人のように見えていてもそれはまやかしで……」
あなた、と呼びかけ続けるのはなんとももどかしい。
名前を尋ねると、彼女は思ってみなかったようで、しばしの間考え込んでから答えてくれた。
「じゃあ、錦ユカリ。わたしの名前、それでいい?」
「では、ユカリさん。実はあなたのような方々のこと、詳しくは知らないんです。さきほどのように、人と関わることもあるようですけど、僕ら人間とは根本から異なる生き物……そう考えても、失礼にはあたりませんか?」
かねてよりの疑問を素直に打ち明ける。
九遠堂に身を置きながら、ここで当事者であるユカリさんに尋ねるのは遅いくらいだ。
「キミ、そんなことも知らないの? 椎堂ってば、なんでも優しく教えてくれるわけじゃないのね」
「あの人、とりわけ僕に親切だったことはないです、今のところ。佳代さんといい、いったいどこがいいのやら」
「そこはほら、恋しちゃってるから」
……色恋沙汰の機微にはうとい。
話の飛躍についていけずうろたえる僕に対して、ユカリさんは泰然とした態度を崩さない。引っぱられた腕はそのまま、地下駐車場の奥へと連れていかれる。
エレベーターを上がるとそこはオフィスビルの一階で、無機質なホールが待ち受けていた。
壁際のプレートには有名企業が名を連ねており、めいめいが各階にオフィスをかまえているのが見てとれた。上階ではスーツ姿のビジネスマンたちが、遅くまで仕事に追われていることだろう。
学生の身分では気後れしてしまうような静謐な空間を、ユカリさんは堂々と歩いていく。
僕は連れられるがまま、彼女が語る言葉に耳を傾けていた。
「そうねぇ……わたしたちって、あやふやなの。現世での存在が不確かだから、モノやしがらみには囚われないんだけど、それって意味や価値が薄いってことだから。浮き世をただよう蜃気楼みたいなもの。わたしたちは、人々に一夜限りの夢を魅せるだけの存在。
だから、この手に触れたことがあっても、たいていの人は忘れちゃう。本当は二度目ましての人にも、はじめましてを言うんだ」
蜃気楼のような、あやふやな存在。
在野の人外たちのなかでも、人間に対して友好的であるものは、人の形をとるのだとは椎堂さんも教えてくれた。夢魔であるユカリさんのような、人を模した〈怪奇なるもの〉が、この世界には昔からひっそりと共存しているのだろうか。
「それがね、ほかのみんなは平気だったみたいだけど、わたしは寂しかった。だれかに、わたしがわたしだって見つけて欲しかった。そんなときに、シドーと会ったんだ」
「椎堂さんと?」
「うん、わたしを覚えてくれていたの。あんな人はじめて。何度会ったかも覚えてくれていて、誘惑しても全然なびかなくて、わけがわからなくて! それからずっと特別」
「……そういうものですか」
「たまにそういう人がいるんだって。わたしたちの間では、マレビトって呼ぶのよ」
ふたりのなれそめは理解できた。
そして、ユカリさんが椎堂さんに執心する動機も。しかし気になることがある。
「わたしたち、なんですね」
「知りたい? いいよ。もっと色々教えてあげる。わたしたちのこと、怪奇なるものと人間たちのこと。だから……ね? いいでしょう?」
正面玄関の自動扉を抜けると、生ぬるい夜風が頬をじっとりと撫でる。
妙な状況に緊張していたせいか、背中には冷や汗がつたっていた。わずかだが呼吸も苦しい。
まるで酸素不足にでも陥ったかのように頭がくらくらする。
無理やりに腕を引かれたときから身構えてはいたのだが、どうにも警戒心が足りなかった。
うかつだったのだ。妖艶な色香をまとう夢魔という生き物には、手玉にとった人間を屈服させる権能がそなわっているのかもしれない。
奇特な店である九遠堂で働く一介のアルバイトであり、なりゆきで椎堂さんの弟子のような立場をとっているが、もとより僕は平凡な男子高校生である。
――はい、と頷くほかに一体なにができようか。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる