34 / 45
第三章 天使とディーバの取引明細
34.正当防衛ですので、ええ。
しおりを挟む「俺を夜の街の只中まで呼び出すとは、いい度胸じゃないか」
階下へと降りるエレベーターの箱の中に乗り込むやいなや、椎堂さんは声を荒げた。
番号順に並んだ行き先ボタンの一階が点灯するのをじぃと睨みつける横顔は、いつものことながら無愛想を極めているが、今夜はとりわけ冷酷だ。
「なにもかもおっしゃるとおりですこの僕の不徳の致すところでございます。……ありがとうございます。正直、かなり助かりました……」
「迂闊に夢魔と関わるな。あれは人を惑わす魔性の者どもだ。おまえ程度では簡単に飲まれるぞ」
ぐうの音もない。しかし収穫はあった。
大主さんから伝え聞いた話によれば、この世界は複層構造で、僕らが暮らす現世のほかに〈怪奇なるもの〉が棲まう常世があるというのだ。
平穏無事な日常を安穏と生きてきた僕は、その事実を九遠堂と関わるまで知らなかった。これまで自分が認識していたのは、煩雑な世界の一面に過ぎないのだと教えられて、心は思いのほか軽くはずむ。
椎堂さんと出会ってからの毎日は、常識をくつがえす発見の日々がつづいている。まったく思いがけないことばかりが次々と起きる。
「まあいい。車を用意してある。家まで送ろう」
心根を悟られたのか、椎堂さんは呆れ顔だった。
チン、とベルが鳴る音が聞こえて、エレベーターが停止する。一階に到着だ。
椎堂さんが車をもっているとは初耳だ。
ああ、この人も乗用車を運転して街中にくりだす日があるのだなぁ。偏屈な性格をしているが、それなりに目をひく美丈夫なので運転席でハンドルを握る姿は、さぞかし絵になるのだろう。
九遠堂でお世話になりはじめてから早一ヶ月ほど、日が沈んだあとの繁華街を一緒にドライブすることになるとは夢にも思わなかった。
――などと、ひとしきり感慨を噛みしめてから。
期待は一瞬で裏切られた。
ビルの出入口では、屈強な女性が待ち受けていたのだ。
「千幸くん? 違法営業スレスレの危ないお店に連れ込まれたって? そもそも、こんな時間まで学生がふらふらしてるのは看過しがたいけれど、何か言うことは?」
パンツスーツの女性が、額に青筋を浮かべていた。
被告人を糾弾する検察官のごとく容赦のない詰問だった。本来ならば緊張感がほとばしる場面ではあるのだが、かの人外魔境を越えたあとでは、ほっとする顔だった。
女性の名前は、曽根河佳代さん。椎堂さんの個人的な知り合いだ。
「ご心配をおかけしました、すみません。返す言葉もないです。ところで……佳代さんはなぜこちらに?」
「そこの非常識な男に呼び出されたの。急に車を貸せって電話がかかってきてね。こっちは明日も出勤だってのに」
ちなみに僕の自宅は市内の一角に所在している。まだ終電の時刻にはすこしばかり早い。地下鉄を乗り継げば難なく帰宅できるが、ここはお言葉に甘えておこう。
佳代さんの車は、駅前の喧騒から離れた野外駐車場の一角に停められていた。
群青色のクーペだ。洗いたてのように磨かれており、流線型を描く車体は堂々とした艶を放っている。風格のある車体だ。日ごろから、愛車をぶいぶい乗りまわしているという彼女曰く、「仕事で使うからね。必要不可欠」。
尋ねれば、曽根河さんの職業は民間通信社に勤める記者なのだそうだ。
四ヶ月前に首都勤務から支社に移り、慣れ親しんだ故郷である伊奈羽市にもどってきたばかりだと説明してくれた。
「こっちの道路は走り慣れてるけど、残業後に借り出されるのは想定外」
文句を言いつつも、呼び出しに応じて車を出してくれるあたり、佳代さんも人がいい。単に律儀なのではなく、ほかでもない椎堂さんの頼みであるためだろう。複雑な心中は想像にかたくない。
僕が佳代さんからのご説教に耳を傾けているあいだにも、椎堂さんは早くも助手席に乗り込もうとしていた。僕も後部座席をお借りしよう。
と、スライドドアに手をかけたところ。
「やめてください!」
甲高い声が聞こえた。女性の叫び声だ。
夜を切り裂くような悲鳴が轟いた方向をうかがうと、真っ黒なバンの前で、まさに犯行が行われようとしていた。ひとりの女性を複数人の男性がとり囲んでいる。
「ねえ誰かっ、助けて!」
女性は泣き出しそうな顔をぐしゃりと歪めて、虚空に向けて懇願する。
そこからの動きは早かった。
バタンッ。運転席側のドアが勢いよく開閉し、僕らはクーペの周囲に取り残される。僕が緊急事態を認識するよりもはるかに早く、決断が済んでいた。
椎堂さんは投げ渡されたエンジンキーを受け取り、やれやれと呆れたようすで、助手席に押しこめた痩躯をひねり出す。
佳代さんが距離をつめていく。瞬きの間に、男たちと女性とのあいだに割って入る。突然の展開に、男たちは面を食らったようで、不意をついて現れたパンツスーツの女に当惑をぶつける。
「なんだ、おまえは」
「聞き間違いでなければ、こちらの女性が困っているようでしたので。誘拐、拉致は立派な犯罪ですよ?」
佳代さんは、怯える女性を背後にかばうようにして男たちの前に立ち塞がる。
迷いのない行動、颯爽と駆け出す胆力。
まるでアクション・フィルムのヒーローだ。
「あれの正義漢ぶりも見慣れたものだが、これほどまでとはな」
「いやいや椎堂さん、のんきに見守っている場合ですか」
いくら佳代さんが啖呵を切ろうが相手は複数人だ。見たところ、三名ほどはバンの外で待機しているが、さらに増援を呼ばれてしまっては勝ち目はない。
「なに、曽根河なら心配ないだろうよ」
バンの前で、男のうちのひとりが拳を振り上げた。
が、佳代さんの速度が上回った。
俊敏な動きで背後に滑り込み、相手の手首をつかみとった。あっさりと男の片腕を捻じ上げてしまう。油断しきっていた男は今や関節技をかけられる寸前、悲痛な雄叫びを上げている。
「グェッ……! なにを……!」
そこで僕は見てしまった。
運転中にはなかったはずだが、佳代さんの拳にはいつの間にか銀色の金属片が輝いている。指輪ではない。あれは――ナックルダスターだ。拳を防護しつつ打撃力を高めてくれる……。凶器じゃないか?
「だがまあ、そのくらいにしておけ。過ぎると正当防衛とも言い張れんぞ」
ここへきてようやく、椎堂さんは佳代さんの背中を追う。距離をつめたのは、威嚇もかねてこちらも複数人だと示したつもりだろう。
僕は制服の胸ポケットからスマートフォンを取り出し、とっさに大声をあげる。
「すみません、警察の方ですか! 路上で女性が襲われているのを見かけまして連絡しました! え? 場所ですか? 伊奈羽駅周辺の……」
おおよその住所を口走る。そのあいだに黒服の男たちは大慌てで撤収していくではないか。
そのうちの誰ひとりとして、先ほどまで取り囲んでいた女性にも、助けに入った佳代さんにも、援護射撃を試みようとした椎堂さんにも、目もくれようともしない。
男たちを乗せたバンは急発進し、駐車場を抜け出して幹線道路へと走っていく。鮮やかな引き際だった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる