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第三章 天使とディーバの取引明細
42.リトライ
しおりを挟む梁間さんと別れたあと、僕はいったん九遠堂に引き返すことにした。
心はくすぶるばかりでととのわず、とにかく誰かと話がしたかった。梁間さんが語り聞かせた、彼らを取り巻く事情を独りで抱えきれる気がしなかったのだ。
九遠堂では椎堂さんがひとり、待ち受けていた。
日が暮れて夜が更けゆく前に、カナタさんは逗留先である佳代さんの自宅に戻っていったらしい。お世話になっているお礼として、今夜は仕事でお疲れの家主のために夕食をつくるのだと告げて。商店街のスーパーで買い出しをして、佳代さんの好物の海鮮丼をこしらえるそうだ。
「椎堂さん……」
「憔悴しているな。おおかた梁間にでも脅されたか」
図星だ。
こうなることがわかっていて、僕を行かせたのだから本当にどこまでも人が悪い。
「前に、椎堂さんは言ってましたよね。怪奇なるものの中でも友好的な者たちは、人間と変わらない外見をとるって。人と異形って、なにがちがうのでしょうか。同じ世界で肩を寄せ合い、それぞれの領域で生きている。時には言葉を交わし、手を取り合い、力を貸し与えることもできる。……ただの友人のように」
駐車場で素知らぬ態度で男を昏倒させたユカリさん。
眷属を呼び寄せて使役する梁間さん。
同じ世界の住人でありながら、彼らは理の外で生きている。常人には不可能なことさえも、いともたやすく実現してみせ、時に恐ろしいまでの存在感を放ち、常識を軽々しく凌駕する者たち。
しかし、力さえ振るうことがなければ、害意さえ抱かなければ、彼らは僕らにとってただの善良な隣人に過ぎないのではないだろうか。
僕がこれまで認識をしてこなかっただけで、人と異形の営みは社会の片隅で続いていたはずだ。
だからこそ、今日まで九遠堂という境界が、両者を結びつける場として存在を許されている。梁間さんは、すべてを知ってなお口を噤ぐことが僕の役割だと告げていた。
明治期から続くというこの店は、椎堂さんは、これまでもこうして両者の営みを見送ってきたのだろうか。
「わからなくなってきました。彼らにも純粋で切実な思いがあるのだとしたら、僕にそれを阻む権利なんてあるはずがない」
僕はつい一ヶ月前に、九遠堂に足を踏み入れたばかりのしろうとだ。
懊悩も葛藤もこれからいくらでも直面するだろう。そのたびに憂慮するのだとしても、簡単に引き下がることができないほどには、自分が頑冥な人間であると薄々自覚が芽生えていた。
手がかりが欲しい。一手で状況を覆すような単純明快な打開策は、世界中どこにも落ちてはいないのだとしても。
すがるように見上げると、椎堂さんはため息を落とした。帳場の奥から重たい腰を上げて悠然と立つ。踵の浮いた外履きを鳴らすようにして闊歩し、やがて戸口で停まると、店先へぬらりと長い影が垂れる。
軒下に吊された風鈴が、涼風にさらわれて揺れる。
「世界はおまえが思うよりもずっと煩雑で、単純に見えたとしても物事の裏には様々な思惑が絡み合っている」
なにをいまさら。
わかってます、と強気で言いかえす気概も持てず、椎堂さんの視線の先を追いかけた。
戸外に人の往来はなく、夏の陽を浴びて焦げつくアスファルトの地面には蝉の死骸が転がっている。
まだ夏も盛りだというのに、不運に命を落とした羽虫は干からびて、不様に白い腹をさらしていた。滑稽だ。見るに無残な死に様だ。適者生存の自然界において、あまりにも不出来で無価値な個体。
「人の世に限っても目に余る複雑さだ。そのうえ常世へ足を踏み入れるならば、更なる混乱を覚えるのも無理もないだろうな」
「椎堂さんはカナタさんの願いを叶えるんですよね」
「すでに叶えた。彼女の中で『梁間ヨウ』はあの男だ。俺が客人に手を貸すのは一度だけだと言ったろう」
この人は自分の領分はここまでだ、と明確に線引きをしている。
僕のように軽率に首を突っ込んで逐一泥沼にはまるような真似はしないのだろう。
一介の高校生には手に余るほどに、九遠堂でのアルバイトをはじめてからは、物騒な出来事に遭遇する機会が激増した。バレー部の件では痛い目をみて退かざるを得なかった。
このあたりが引き際なのかもしれない。常識的かつ冷静に判断を下して、自分の無力さを認めるならば。
「だが、おまえは俺とは違うのだろう。俺に噛みついては無鉄砲に飛び出していく、いつもの威勢はどうした」
椎堂さんの恫喝が、水のように鼓膜をうつ。
古い水墨画から抜け出てきたような幽玄な趣をまとう男は、陶磁の肌に汗の一筋さえも浮かべず、真夏の宵に不敵に嗤う。このときばかりは、底知れない色彩の淡い瞳に僕を見つけて。
まったく――お上手なことで。
どうせ激励も煽動も似たような台詞で構成されるのだ。畏敬の念で拝み倒すつもりも、恭しく頭を垂れるつもりもないが、今はすこしだけ。素直に感謝を伝えたい気がした。
が、よしておく。
この人が通例どおりに不遜に構えているのなら、僕とて虚勢を張るのがふさわしい。
「たまには言葉巧みに慰めてはくれませんか? 僕、これでも傷心なんですけれども」
「生憎、今日は茶菓子を切らしていてな」
この世において神も仏も期待に値しない。力技で僕と椎堂さんを結びつけるような存在なのだ。
混沌の海を渡り歩きながら、困難には抵抗を試みて、答えは自分でつかみとるしかない。
僕にできることがあるのだとすれば……。
九遠堂に慈悲などなく、主人が地獄に垂らす糸は一本かぎりだが、ただのアルバイトには、たまのトライ・アンド・エラーも許されるだろう。
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