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第三章 天使とディーバの取引明細
41.君の役割
しおりを挟むその後、母親からの電話を受けて壱伊くんはひとりで帰宅した。
電話口では、勉強とレッスンの息抜きに、先生といつもの喫茶店にクリームソーダを飲みにきていたと説明していたから、気晴らしの外出は日課なのだろう。
テーブルには空のグラスが残されている。伝票には、ブレンドコーヒー四百八十円、クリームソーダ七百八十円也。なるほど、物は言いようだ。嘘はひとつも吐いていない。
「さて、九遠堂の人。ああ、名前はなんだったかな?」
ボックス席に残されたのは僕と梁間さんの二人。必然として一対一で向かい合う体勢となり、緊張が走る。
「伏見千幸です。べつに覚えて帰らなくてもいいですよ」
「僕らに協力してくれないか、チユキ」
「待ってください。まだ、解明されていない謎があります。繁華街でカナタさんを連れ去ろうとした黒服の男たちが何者なのか」
「まあ、そうね」
「壱伊くんに事情があるのはわかりました。うそをついているようには見えなかったし、彼の純真は僕も尊重したい。でも、子どもの夢を壊してるのは梁間さん、あなたじゃないですか」
壱伊くんの言葉を額面どおりに信じるらば、梁間さんはインターネット上に作ったSNSアカウントを消去して、カナタさんとの連絡手段を絶ったことになる。
しかし、カナタさんは梁間氏と伊奈羽市で落ち合う約束を交わしていたのだ。昨夜は待ち合わせ場所も指定されていた。
梁間ヨウを騙る第三者の介入も可能性として考慮できるが、梁間さんのとぼけた反応をうかがうかぎり、十中八九、クロだろう。
壱伊くんは、カナタさんがひとり前触れなく伊奈羽市に訪れたのだと思い込んでいた。
彼にとって都合の悪い真実に蓋をしながら姑息に立ちまわり、安全圏で疑いの芽を摘みながら、ふたりに虚構を虚構のままを信じ込ませることができる人物は、ひとりしかいない。
――人物、と断定してもいいのだろうか。
「梁間さん。僕は、人の世で生きている夢魔と会ったことがあります。ひょっとして、あなたも」
「だとしたら?」
「カナタさんと壱伊くんに危害を加えようと企んでいるのなら、僕が止めます」
これは独善ではない。九遠堂に仏の顔は三度もないと釘をさされてしまったが、きっと椎堂さんは僕の行動を読んでいただろう。あの人のことだから、梁間さんの正体も見破っていたにちがいない。
「やれやれ一筋縄ではいいかないものだ。少年、ちょっと散歩をしようか」
梁間さんはにこりと笑った。
それからテーブルから伝票を颯爽と奪うと、そのまま会計へと立ち去った。物言わぬ背中は武骨なままついてこい、と静かに語る。
梁間さんの背を追いかける。
速度を上げたところでコンパスの差は覆らず、歩調を緩めると容赦なく引き離されるため、着いていくのに必死だった。朱山近辺の地理にはうとい。頭の中で地図を描くが、あっという間に道を失い徒労に終わる。
梁間さんは構いもせず、英城大学の裏門から敷地内に入った。
高校と違い大学の内部は開放的だ。平常時でも手続きなしで一般利用ができる施設もあるそうだ。
広大な緑地とささやかな植物園をそなえた英城大学の一部は、地域住民たちの憩いの場にもなっているようで、スケッチに興じる日曜画家たちが、思い思いの場所でイーゼルを立てかけていた。
青年は緑地を抜けて、研究棟とおぼしき建物が立ちならぶ一角で立ち止まった。
「ここならいいかな」
あたりに人の気配はない。建物の中に誰かがいると賭けて、一か八か、大声をあげれば気がついてもらえるかもしれない。
ゆらり、梁間さんが振り向く。翳りを帯びた瞳が紅く輝きを放った――ように見えた。急に目眩を覚えて立ちくらみに足をとられる。
顔を上げる。と。
いつの間にか、四方を囲まれている。
屈強な黒服の男たちが五人ほど、行手を阻むようにして配置されている。
八方塞がり。これでは逃げ場がない。
背筋には悪寒と緊張がほとばしる。
「彼らは僕の眷属たち……だと説明するのが手っ取り早いかな」
梁間さんが優雅に指を鳴らす。
と、男のかたちをしていたものたちは、煙のように霧散した。
黒い靄があたりにたちこめ、薄れたかと思えば、晴れ渡った視界では蝙蝠が飛んでいる。
空中を飛びまわる獣たちは一匹、また一匹と散っていき、最後の一匹が青年の肩に止まった。
「認めよう。昨夜の一件は、僕の独断だ」
何だ、今のは。化かされたのだろうか。
目の前を通り過ぎていった常識外れの現象に、僕は精一杯の痩せ我慢をする。
「贈り物のピアスは標的を示すマーカーってとこですか。カナタさんをどうするつもりだったんです?」
「危害を加えるつもりはなかった。脅かして、コワイ思いでもしてもらおうかと思っただけ。自分が悪人に騙されたのだと思い込んでくれれば、梁間ヨウを諦めるいい薬にもなるだろうし」
しかし昨夜は邪魔が入った。
僕と佳代さん、そして椎堂さんが居合わせたばかりに、梁間さんの目論見には狂いが生じた。
「それにしても九遠堂の主人は読めない。君みたいに純朴で獰猛な子を飼ってるのは驚いたな」
「犬か猫ですか。……椎堂さんのこと、よくよくご存知なんですね」
「この街で生きる狭間のモノたちで、彼の噂を知らない者はいないさ。あるモノは嫌い、あるモノは慕い、あるモノは崇めたてる。あれでも人間の範疇なのだから感心するよ」
それは椎堂さんが、怪奇なるものを引き寄せる特異体質の持ち主だからか。
――マレビトとは一体何だ。
「あの人の関与が生じた以上は、僕も観念せざるを得ない。ただひとつ、君には信じてほしいけど、僕はイチイの味方だよ」
「なぜ壱伊くんのそばに?」
「君が椎堂さんのかたわらにいるのはなぜだい?」
「なりゆきです。偶然つながって、九遠堂に関わるうちに引き返せなくなりました」
「そして君は、彼とのつながりを失くすのは惜しいと思っている」
どきりとする。
僕は椎堂さんのことをなにも知らない。ただ、あの人が九遠堂を営む変わり者で、引き合わされた以上は彼の行いを見極めようと決めているだけだ。
理解も共感もしてはいない。運命をもてあそぶように理不尽に天秤を傾けるのならば、見過ごせなかったが、そうではない。行動の裏にはあの人なりの道理が確かに通っているようで、僕はそれを知りたいのだ。
「僕も同じだ。偶然、つながってしまった。共に過ごすうちに情が沸いて、寄る辺なく生きる彼をひとりにはしておけなくて、彼が歩けるようになるまで手助けをしてやりたいと思うようになったんだ」
「……同じじゃありませんよ、ちっとも」
「そう? だって、君も異なる理のもとで生きる隣人に憧れたひとりだ。ヒトというより、イチイはまるで天使のようさ。純真で心優しく、あまりに繊細で一途だ。幼いながらも音楽という神に奉仕する姿は、さながら敬虔なしもべのよう。だからこそ僕も惚れ込んだ。才能を開花させたのは、栗林カナタというミューズを得たからからかもしれないが」
肩にのせたコウモリの頭を撫でながら、梁間さんはさらに語りはじめる。
「イチイが学校に行けなくなったのは、神経系の病が原因でね。起立性調節障害――というらしい。病ってのは厄介だね。病名と原因が与えられるからこそ治療も解決も可能にはなるが、本人にとってはこれほど重い楔はない。外部から与えられるおのれへの釈明が、決して明るくはなかったとき、君だって傷つくだろう?」
「それは、そうですけど」
「僕はイチイの味方なんだ。彼が悲しむのは避けたい。イチイの気持ちに寄り添おうとせず、理解を示そうともしない相手と触れ合わせるわけにはいかない」
「カナタさんがそうだとはかぎりません。事情を話せばきっと……」
「いいや、栗林カナタだって同じだよ。才能に惚れ込んでる、実力を認めているけど、イチイが子どもだとわかったらきっと、見方を変えるよね。現世は偏見に満ちている。年齢、性別、経歴……人は与えられた情報に隷属して判断を下すものだから。途端に評価を変えるかもしれない。――小学生がつくったにしては、よくできてるって」
彼は一歩も譲らない。それだけ本気で壱伊くんを案じているのだと、否応なく理解が及ぶ。
「安心していいよ。僕らは理が違えば、寿命も異なる生き物だから。イチイの未来に僕がいないことは、十分理解している。中学へ進んだ暁には……彼も地上に生きるだろう。数年先には海外に戻るとでも伝えて、頃合いを見て荒木家の人々の前から消えれば事は丸くおさまる」
「そんなの、カナタさんとの繋がりを失って、あなたまでいなくなるなら壱伊くんは……」
「なら、イチイに告げてみるかい? 僕の正体が人間ではないのだと」
ふたりの関係は一見、温かな友愛にもとづいてみえる。
理解者に恵まれなかった壱伊くんにとって、梁間さんの存在は精神的支柱にちがいない。彼のかたわらで、彼をみちびく理想の大人であったはずだ。
おそらく、梁間さんがただの人間だったのなら、すこしの疑念も抱かず、僕は彼らの活動を誠心誠意に応援しただろう。
これは差別だろうか。
ヒトと怪奇なるものが寄り添い合うことを認めず、断固として否定をするのは。
「カナタには九遠堂から譲り受けたものを返すように伝えるよ。それにあのピアスを持っていることは、彼女にとってもプラスになるはずだから」
「僕にはすべてを話しておいて、口をつぐめと?」
「それが君の役割だ、九遠堂の少年。……今のカナタに真に必要なのは、願いを叶えるために助力してくれる万能具ではなく、チャンスをものにして、『梁間ヨウ』を失くしても進み続ける勇気だよ」
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