あやかし帝都の婚姻譚 〜浄癒の花嫁が祓魔の軍人に溺愛されるまで〜

鳴猫ツミキ

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―― 第一章 ―― 黒薔薇の刻印

【016】兄の機嫌

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 天羽家にて――本日、兄は機嫌が悪かったらしい。
 わざと痛く刺された針が、時折動いて血を溢れさせる。頭上で固定され、手首は錆びた鉄の金具に拘束されている。立った状態で、太股や脛からも注射針とチューブが伸びている。それらの先の金盥かなだらいからは血腥ちなまぐさい臭いとボタボタという音が響いてくる。手袋を外しながら兄は椅子の上に座り、片膝をもう一方の脚の上に載せた。

 兄は昔から、苦悶の表情を浮かべる桜子に対し、愉悦たっぷりの視線を投げる。
 血を抜かれている桜子には多少の興味があるようで、それ以外の時分には億劫そうな顔で嫌そうにしているというのに、舌なめずりさえしている。

 恐らく兄は、桜子が浄癒の力を宿す血の持ち主で無かったとしても、嬉々として注射針を刺すのだろう。身動みじろぎする度に、針がずれて体がズキリと痛む。

 まだ針を刺されて数刻。
 父も起きている。金盥から掬い上げた血を、何かと混ぜ合わせている。それが完全に加工されると、不思議な紫色の球体状の飴が出来ることくらいは、桜子も知っていた。血と反応した何かが、色素を紫色に見せるらしい。天羽家で請け負っているのは、そのなんらかの物質と混ぜ合わせて、丸く成形するところまでだ。

「此度は随分と吸血珠を消費したそうだ。なるべく多く補充をといわれている、“イリス”様に」

 イリスというのは、夜に輝く月の女神だと、桜子は聞いたことがある。夜を統べる聖なる人なのだと、父はいつか恍惚とした様子で語っていた。

「まぁまぁ父上、明日の朝まで血は抜けますから」
「そうだな。抜く箇所は増やせないのか?」
「そうですね、ああ、そうだなぁ。首からも取りましょうか。どうせ死なないのですし」

 父と兄がそんなやりとりをしているのを、どこか乖離した感覚で、桜子は見ていた。
 彼女の目の下には憔悴しきった様を表すように、赤いくまがある。黒い瞳に、光はない。

 ――パァン、と。
 その時戸が開いた。研究室には唯一似つかわしくなかった、母屋と通じる木製の戸が勢いよく開かれたのだ。緩慢な動作で、桜子がそちらへと顔を向ける。そして驚いて息を呑んだ。そこには、礼人の姿があったからだ。

「っ」

 礼人は驚愕したように目を見開いた。

「なっ」

 それから一転して眉を顰め、鋭く父と兄をそれぞれ睨んでから、改めて桜子を見た。

「なんですかこれは?」

 平坦な声だったが、怒りを抑えようとしているのは明らかだった。
 ――見られてしまった。
 ――呪われているとバレてしまった。
 それは、桜子にとっては幸せの終わりを意味したが、肩から力が抜けた瞬間でもあった。礼人を騙すようにして、そばにいるのが苦しかったからだ。

「なんだね? 勝手に入ってきて。これは神聖なる天羽の儀式だ、立ち去れ!」

 父が激昂している。その横で冷静に兄が、移動した。手を後ろに動かしている。そこには、なたがある。場合により、それは桜子の背中に傷をつけ、大量の血を無理に回収するのに使われてきた品だ。どうせ、痕は消えてしまうのだからと。

 傍らにあった飴入れの蓋を億劫そうに取り、数個の吸血珠を掌に載せた父は、それを口に放り込んでかみ砕く。それを見た瞬間、悟ったように礼人が叫んだ。

「もしかして桜子が……アリアの末裔なのか?」

 いつもは『桜子さん』と呼ばれるから、不思議な心地だった。

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