契約結婚の終わりの花が咲きます、旦那様

日室千種・ちぐ

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八話 記憶

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 結果として「妹」は逃げた。死の国という、誰にも連れ戻す事のできない国へと。
 牢に入れられていた「妹」が、どうやって死を手に入れたのか、誰にも後々までわからなかった。
 妹の死を自分の目で確認し、今度こそ帰れと領主に馬車で送られて帰った夜更けの家は、暗く、冷えきっていた。


 俺はその他人の顔をした自分の家を前に、ようやく、妻を突き飛ばしたまま、置いてきたことを思い出した。
 怪我は無かっただろうか。道も暗かった。帰り道は心細かったのではないだろうか。

 この屋敷は、かつて妻の祖母が住んで空き家を修繕して、若い夫婦にと譲ってもらった。使用人たちも、妻の実家から移ってもらった者たちだ。
 けれど、帰ってきた時はいつも、俺を主人として扱ってくれる。
 婿に入った俺に、確かにここは俺の家だと、そう思わせてくれていた周囲の配慮に、今しみじみと気が付いた。妻にとっては契約結婚などと言い出した、どうしようもない夫なのに。
 いつも恋しく思い出していた家だが。
 固く閉じた扉を鍵を使って自分で開けるのに罪悪感を感じる。それは、妻が俺を待ってくれていると言う自信が、全くないからだ。

 突然、久しぶりに帰ってきた主人を、寝ぼけ眼に麺棒や掃除用具を手に出迎えてくれた住み込みの家政婦とメイドを早々に下がらせて、足早に妻の寝室に行く。
 夫婦の主寝室だったのに、結婚以来、妻ひとりに使ってもらっている寝室だ。
 俺は初めて、その扉を開いた。
 その手が、みっともなく震えている。

 久しぶりに顔を見て、名も呼ぶ間もなく置いてきてしまった。怒っているかもしれない。いや、怒っているだろう。もう寝ていて起きないかもしれない。
 奥歯を噛み締めて、扉をくぐる。



 妻は、起きていた。
 髪は乱れて、血の気は失せ、泣き腫らした目が腫れ頬が汚れて、ひどく痛ましい。衣服もどこかで這いずったかのように膝のあたりが泥だらけだ。肌も唇も艶を失った、生気のない顔。
 一瞬、妻が見知らぬ年老いた女に見えた。
 だが、妻に違いない。
 しかし、こんなに痩せていたなんて。
 動揺した私に、妻はニコリと微笑んだ。
 目には何の熱もない、冷えた微笑みだった。
 それはまるで「妹」の浮かべていた、あの笑みだ。

「おかえりなさいませ。リゼ様のところに行かれたので、もう契約結婚の妻なんかの元には、お戻りにならないと思っておりました」

 俺は、脳天を殴られたような気がした。
 勢い余って妻を突き飛ばしてしまったし、一言の説明もなく置いてきてしまったが。
 それを妻の目から見るとどんな状況だったのか、大馬鹿な俺は、この時初めて考え、そして気がついた。
 俺は、久しぶりに会う妻が呼びかけてくれたのに、それを無視し、突き飛ばし、助け起こすこともなく、消えた別の女を追いかけるように、名を呼びながら走り去ったのだ。
 その女が俺の「妹」だとは、知る由もないだろう。話したことは、ない。

 ぞっとした。

 いや待て、なぜ、妻なんか、などと言うんだ。
 俺を救うために結婚してくれた妻が、なぜ自分を卑下する必要がある?

 長い間の疲労と、急激な安堵で、とうに役に立たなくなっていた俺の頭は、混乱に混乱を重ねた。
 それがよかったのか。
 この時、それまでちらとも思ったことのない可能性に行き当たった。
 もしかして妻は、俺がこの結婚を望んでいなかったと思っているのだろうか。実家から籍を抜くための方便として結婚したと、そう思っていたのだろうか。
 まさか。
 俺が幸せを噛み締めていた日々、隣で優しく穏やかに微笑んでいた、妻なのに?

 一度目は結婚を断った。理由を、話さないままに別れることになった。
 二度目はあえて契約結婚を申し出た。俺の痩せ我慢なこだわりでしかない意図を話したことは、もちろんない。
 妻が、俺が妻をはじめからずっと愛していると、受け取る要素があっただろうか——。

「ち、違う、リゼは死んだ。だから、もう何も問題ない、俺が君を妻とすることに、何も」

 俺のしどろもどろの言葉に、妻が眉を顰めた。
 それはそうだ。言い方が最悪だった。だが俺にとっては、何より重たい事実だったのだ。
 困惑か、怯えか。妻が俺から距離をとって、体を引いた。
 その反応が、意気地のない俺をずぶりと刺した。
 頭の中が空っぽになって、俺は力なく寝台に腰掛けて、頭を抱えた。
 苦しい。ただ苦しい。

 言葉も思考も失って、ひたすら呻いていると、妻が躊躇いがちに近づいて、背を撫でてくれた。
 その細い手の温もりに、俺の胸と腹がぎゅうぎゅうと引き絞られた。妻が、俺を気遣ってくれているのが、信じられないほど嬉しかったのだ。
 近づいた妻から懐かしい匂いがして、ついに本当に涙が出て、止められなかった。
 あれほど傷ついた顔をしていた妻のことを、欠片も思いやることもなく。ただ自分の感情に振り回されて、俺は妻にしがみついて、泣きぬれた。

 しばらく情けなく泣いて、それから、俺はゆっくりと妻に全てを話した。家のこと、妹のこと。初めの結婚の話を断らなければならなかった理由、結婚できて嬉しかったこと、この半年家に帰らなかった理由、そして、それが報われたこと。そして、先ほど出会った、妹の亡霊……。
 妻は静かに辛抱強く聞き続けてくれて、そして最後に、大変でしたね、と優しく抱きしめてくれた。
 俺は、感極まって。
 あらん限りの愛の言葉を妻に浴びせて、二人の関係を、本当の夫婦にした。

 ああ、責められても仕方がない。
 我慢の効かない独りよがりの若造そのものだった。全てを自分に都合良く受け取り解釈して、暴走した。
 俺を押さえ付けていた「妹」の存在は、取り除かれた。
 俺は大事な人を守ることができて、そしてなんとか、捨てられずに済んだのだ。
 俺は疲弊していて、そして途方もない安堵の中にいた。
 だから妻の心が、同情であってもまだ自分に向いていると思ったら、もう踏みとどまることなどできなかった。


 翌日から、もう一度、今度は本当の結婚生活が始まった。
 浮かれた俺は、なんでもできる気がしていたし、実際何をしても満たされた。なにしろ、妻を愛し、愛してもらうことを、何も恐れる必要がないのだ。
 失った社会的信用を取り戻すのには、言い表せない苦労もあったが、それすら苦ではなかった。
 全てはあるべきところにおさまり、輪は正しく周り始めたと、そう心から信じていた。

 「妹」と俺との間にあった不貞の噂を知ったのは、職場での信用を少しだけ回復できた頃だった。俺は絶句して、あまりのことに丸一日以上一口も食べ物を受け付けなくなった。
 数日かけて事態を飲み込んで。
 俺は、あの時噂を知らないまま妻の元に戻って、よかったと結論づけた。
 もし知っていたら、おれは、あまりの恥辱と憤怒と情けなさ、そして申し訳なさで、妻に顔を見せられず、そのまま別居が続いていたかもしれない。

 
 何度、二人でラクサの花を見上げただろう。


 やがて、息子と娘も成長してそれぞれに家族を持ち、執事から、何故か領主専属の事務調査員となった俺も引退し、妻と互いに足腰の心配をしながら庭師の真似事などして、穏やかに過ごしていた冬の終わり。
 妻は数日前にひいた風邪をこじらせてしまい、この三日ほど寝台から出ることができないでいた。ただの風邪だろうが、そろそろ、こういう時に心細くなってきた。
 夜に寝台の足元に入れてやる温石を用意をしていた時。
 ふと寝室から、いつもと違う妻の声が聞こえて、駆けつけた。

 その時のことはよく理解ができない。
 部屋に入ったら妻が胸を押さえていて、それを見た俺は血の気が引いて。
 ——その次の瞬間には、もう見慣れた妻はいなかった。

 寝台には、若い女がいた。
 ひと目見てわかる、かつての妻の姿。
 俺は、愕然とした。
 若い妻も、呆然としていた。
 どこかうつろな目で窓の外を見て。

「ああ、もう蕾がついているのね。春には、私は出て行かないと。あの人は、リゼ様のところへ行ってしまったのだから」

 と呟いた。
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