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しおりを挟む清次は一つ摘まみ、口にする。倉田の時以上の緊張感で、春信は口を引き結ぶ。
清次は目を閉じしばらく咀嚼すると、「うん」と言って目を開いた。
「井之口堂の餡だ」
清次が淡々と告げる。いつもなら穏やかな笑みを称えている清次だったが、その顔はどこか険しい。
「……口に合わなかった?」
恐る恐る春信が聞くと、「そうじゃない」と清次が首を横に振る。
「確かに美味しいよ。でもこれは、ただの模倣品でしかない」
清次からの指摘に、春信は強い衝撃を受ける。その家の味を引き継ぐのが大事な事であり、それが一番正しいことのはずなのだから。
「君はよく言っていたじゃないか。父は古い考えの持ち主だと。だからこそ、君は何度も異議を唱えてきたのだろ。そんな君が新しい物でなく、古い形に囚われているのは可笑しい話だとは思わないのかい?」
春信は目から鱗が落ちる思いで、清次の発言を受け止める。停滞していたのは、それが原因でもあったのだと。
「父上もきっと、君の餡を認めていないわけではなく、同じ物を出されたから口にしなかったのではないのか」
確かに思い返してみれば、最初のうちは昭蔵も口にしていた。だが、そのうち時が流れるにつれて、口にすることがなくなっていたのだ。
「君にしか出来ない物を生み出してこそ、父上を見返すことが出来るのだよ」
「……僕にしか出来ないもの」
そんなものが作れるのだろうかと、春信は思い悩む。
「そういえば、君と約束していた羊羹の輸出の件だが、今年の秋頃を予定している。涼しいときの方が、商品の保存状態も良いからね。その時に、君の父親が視察に来るはずだ。その際に、君を連れて行こう」
昭蔵に会うと考えるだけで、全身が緊張で強ばる。どんな顔をして会えば良いのかも分からない。それに、思ったものが生み出せている確証もなかった。
だが、この機会を逃したら、もしかしたら一生涯、後悔し続けることは間違いない。
「分かった。やってみる」
春信は決意を固める。時間はそれほどないが、こんな好機を与えてくれたのだから活かす以外にないはずだ。
そんな機会を与えてくれる清次に、春信は敬愛の念を抱く。
「ボクも協力しよう。試作品が出来たらボクに持ってきてご覧。味見してあげよう」
「ありがとう。でも、太らせてしまうかもしれない」
餡には大量の砂糖を使う。砂糖の値段が高いというのもあるが、太るのを懸念して気を遣うことも多かったのだ。
「それは問題ないよ。君がもっと、夜の相手をしてくれれば良いだけの話だからね」
春信は赤面する。倉田は呆れたように、台所に引っ込んでしまう。
そんな二人の様子を尻目に、清次は「そうだ」と声を上げる。
「今週末、やっと休みが取れそうなんだ。約束通り、観劇を観に行こう。きっと、君にとっても良い刺激になると思うからね」
嬉しい申し入れではあったが、春信は困惑する。ここのところずっと、清次は働きづめだった。朝から家で仕事をし、外出して帰ってからも、書斎に引きこもっていた。
「久々の休暇なんだから、身体を休めた方が……」
「この日を得る為に、ボクは馬車馬の如く働いたんだ。ご褒美ぐらいあっても、罰は当たらないはずだよ」
そう清次に言われてしまえば、春信も引き下がるしかなかった。
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