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珠里の夏休み
しおりを挟む夏休み期間の避暑地となると、相当混雑しているのだろうと覚悟していた。
だがお盆が終わる頃には観光地も随分落ち着きを取り戻すらしい。珠里と誠也が訪れたK高原は、思ったより人も多くなく散策するにはちょうど良いのんびりした空気だった。到着したのが日曜の午後なので、今日帰る人も多いせいだろう。
久々の長距離運転に緊張気味だった誠也も、無事に目的地に辿り着き一安心したようだ。ホテル本館の駐車場に車を停めた後、大きな伸びをして強張った身体をほぐしている。若く見えても35歳だ。珠里がからかうと、頭に優しい拳骨が落ちてきた。
標高が高いだけあって、風がひんやりと心地良い。日差しはそれなりに強くうっかりすると日焼けしそうだが、何よりもサラサラした空気が肌に快適だった。
辺りを見渡せば、勇壮な山々が青空を切り取るように美しいラインを描いていて、眺めているだけで清々しい気持ちになっていく。珠里は弾む足取りで誠也に近づき、半袖シャツの腕に自分の腕をそっとからめた。
こんなふうに堂々と腕を組んで歩けることが、嬉しくてたまらない。
誠也は少々照れくさいようだが、珠里は構わずじゃれついた。今までできなかったぶん、これからは存分に誠也に甘えると決めたのだ。何といっても今回の旅行は保護者との家族旅行ではなく恋人同士としての旅行なわけで、珠里が浮かれるのも仕方なかった。
もちろん、今夜起こるであろう出来事に想像を巡らすと胸がドキドキして顔が熱くなる。
怖くないと言ったら嘘になる。でも、こうしてふたりきりで誰にも邪魔されない二日間を過ごせると思うと、幸せすぎて眩暈がしそうだった。
ホテルの本館でチェックインをした後、フロントから鍵を受け取り実際に宿泊するコテージに向かった。
ホテル裏手の遊歩道を進み、美しい木立を眺めながら歩き続ける。
最初の内は擦れ違う人の姿もそれなりにあったが、奥へと進むにつれ人の気配も減り小さな森に迷い込んだような錯覚を覚えた。緑の匂いと葉擦れの音に包まれながら歩いて行くと、不意に広場のように開けたエリアに差し掛かり、ログハウス風の建物があちこちに点在しているのが見えてきた。
まるでおとぎ話の世界のようで、珠里の胸が期待に膨れ上がる。誠也がフロントからもらったマップと立て看板を確認し、ふたりが滞在する可愛らしいコテージに到着した。
外観はもちろんのこと、実際に入ってみると室内もとても素敵で居心地が良さそうだった。
勾配のある天井、木枠の大きな窓。壁も床も設置された家具も、すべてに温かみのある木材が使われている。
広いリビングの真ん中にテーブルセットと大きなソファがあり、窓辺からは白樺の木立が見渡せる。キッチンもコンパクトだが使い勝手が良さそうだ。
寝室はリビングから仕切りなしで続いていた。もともとカップルを想定した部屋なのか、ツインルームではあるがベッドはぴったり並べて設置されている。ベッドカバーもカーテンも色合いがシックで品のいいヨーロッパ調だ。
珠里はうっとりした心地でコテージの中を見て回った。浴室を覗いた時には思わず「わあっ!」と声を上げてしまった。
お風呂はさすがに簡易的なユニットバスだろうと思っていたのだが、実際は広々とした洗い場に大きな檜風呂だったので驚いた。壁には一部大理石のような石が嵌め込まれている。夜になれば、天窓から星空を覗き見ることができそうだ。
「野村さんに、おみやげ奮発しないとな」
気が付けば誠也がすぐ隣に立っていて、豪華な浴室をぐるりと見回している。檜風呂をしげしげと眺め「ふたりで入っても余裕だな」と呟き、珠里を赤面させて面白がった。
ついこの前までは珠里の下着姿にあれほどうろたえていたと言うのに、想いが通じあってからの誠也はなんだか余裕に見える。いや、余裕というよりも、何か吹っ切れたかのように「男」の部分を珠里に見せるようになった。そんな誠也の姿は珠里を翻弄し、戸惑わせると同時にたまらなくセクシーだった。
一通り見て回った後、備え付けのIHキッチンで湯を沸かし、リビングのテーブルでドリップコーヒーを飲んだ。珠里が持ってきたガイドブックを開いて行ってみたい場所をチェックし、それから戸締りをしてコテージを出た。
緑が眼に美しい小径を歩き、白樺やハルニレを眺めながら散策した。
透き通った空気が肌に優しい。時折家族連れやカップルと擦れちがうが、皆それぞれにのんびりと穏やかな表情で休暇を楽しんでいるようだ。
歌うような小鳥の囀りが耳をくすぐる。葉陰から聞こえてくる蝉の鳴き声さえ、この場所では涼しげで心地良いBGMに聴こえてくる。
歩き出すとすぐ、誠也の方から珠里の手を握ってくれた。
指を絡めた繋ぎ方がものすごく嬉しくて、やっぱり胸がドキドキしてしまう。11年も一緒に暮らしてきて、手を繋いで歩いたことなど一度だってなかったのだ。
珠里はフレンチスリーブのワンピースを着ていたので、腕のほとんどが露出している。寄り添って歩いていると自然に肌が触れ、その度に身体の奥で甘い何かが疼くような気がした。
林に囲まれた別荘地や古い教会を見て回った後、今度は駅の近くまで足を延ばしてみた。
比較的最近できた複合商業施設には、観光客向けの珍しいショップや土産物店、カフェにレストラン、足湯やリラクゼーションの店まで集まっていた。犬を散歩させながらショッピングしている人も少なくない。有名な建築家がデザインしたという和洋折衷の建物が独特の雰囲気を醸し出していて、見ているだけで「大人の遊び場」という洒落たイメージが浮かんでくる。
日本ではここが一号店だと言うイタリア直営の店でジェラートをひとつ買い、明るいテラス席に座って食べた。と言っても大盛りのジェラートの大半を珠里が食べ、甘いものがそれほど好きでない誠也は地ビールを美味しそうに飲んでいた。
誠也はさっきからスマートフォンのカメラで珠里を写してばかりいた。
自分だけ写されるのは恥ずかしいので、珠里もお返しに誠也の写真を撮った。好きな人の写真を撮ることは、単純に楽しくて嬉しい。お互いに写真を取り合ってはしゃいでいたら、隣のテーブルに座っていた犬連れの中年男性に「ふたり一緒に撮ってあげようか」と声を掛けられた。
厚意に甘え、珠里は男性にスマートフォンを渡し、誠也と寄り添う写真を何枚か撮ってもらった。ふたり一緒の写真などほとんど持っていなかったので、内心とても嬉しくて頬が紅潮した。
男性は「美男美女だね」とお世辞を言ってくれた。連れていた可愛いシュナウザーを珠里に抱っこさせてくれ、その姿を誠也が写真に収めた。お勧めのレストランを教えてもらった後、握手をしてから男性と別れた。
その後は建ち並ぶ面白そうな店を端から覗いてみた。
お洒落なインテリア&文具の店で、珠里はクッションカバー、誠也は外国製のちょっと高価な絵の具を手に入れた。
自然派食品の店では美味しそうなジャムや蜂蜜を買ったので、いきなり荷物が重くなった。
珠里はハーブとアロマの店でアルガンオイル配合のボディクリーム、マッサージオイル、数種類のハーブティーを買い、麻実子へのおみやげにラベンダーのボディローションとローズのリップバームを選んだ。
誠也は輸入食材の店で珍しいビールやチーズを買い込み、健康グッズの店では腰痛防止に効くと噂のクッションをこっそり買っていた。
そうして歩き回っているうちに日が暮れてきたので、先ほど写真を撮ってくれた男性が「美味しい」と教えてくれたスペイン料理の店に行ってみた。
人気店だけあって既にかなり混んでいたが、運よく窓際の席に座ることができた。雑誌でも何度か紹介されたという評判のパエリアを選び、一緒にアヒージョを数種類とサラダ、ワインも注文した。
昼食が手打ちそばだったので、夜は濃いめの味とボリュームにふたりとも大満足した。デザートのプリンをテイクアウトで包んでもらい、お腹をパンパンにして店を出た。
すっかり夜の帳が下りて星々が空を埋め尽くす頃、珠里と誠也はようやくコテージへと帰り着いた。
「風呂、先に入っていいぞ」
そう声を掛けられ、ドキリとした。
「え、いいの……?」
「ゆっくり入ってこい。俺はそこで酔いを冷ましてるよ。久しぶりに結構飲んだから」
窓の向こうにウッドデッキを敷いたテラスのようなスペースがあり、小さなテーブルとチェアが置いてある。夜はそこで星を眺めたり、朝はホテルでパンを買ってきてこのテーブルで朝食タイムを過ごす客も多いそうだ。
誠也はたまに喫っている煙草とライター、小さな灰皿を手にテラスに出る。珠里は「ありがとう。じゃあ、お先に」となるべく自然な笑みで応え、下着の入った袋と洗面道具を胸に抱えて浴室に向かった。
正直、ホッとした。いきなり一緒にお風呂に入ることになるかと内心ドキドキしていたので、誠也がさりげなく気遣ってくれてありがたかった。
この後のことを考えると、どうしたって緊張して落ち着かなくなる。心の奥でずっと願ってきたこととは言え、いざ現実になろうとすると怖気づいてしまうのは女の子なら仕方ない。
珠里は鏡の前で火照った頬をパンパンと叩き、深呼吸してからワンピースを脱ぎだした。
檜風呂はいい香りで、とても気持ちが良かった。
清潔で優雅な造りの洗い場で身体を念入りに洗い、髪もしっかりトリートメントした。
湯に浸かりながら天窓を見上げると、ちょうどいい位置に月が見えたので感激した。ぼうっと眺めていると、誠也とふたり旅行に来ていることがまるで夢のように思えてくる。
十分に温まって浴室を出ると、珠里は丁寧に身体を拭き昼間買ったボディクリームを身体に塗った。ネロリとイランイラン、ベルガモットが配合されたいい香りだ。胸元まで塗り込んでから、下着をつけバスローブを羽織った。備え付けのタオルで髪をざっと拭き、一度ヘアクリップでまとめ上げた状態でリビングに戻った。
「誠ちゃん、お風呂ありがとう」
テラスにいる誠也の背中に声を掛けた。
誠也はミネラルウォーターのボトルを手に、星を眺めていたようだ。珠里もバスローブ姿のままテラスに出る。見上げた夜空はまさに満天の星で、あまりの美しさに一瞬言葉を失うほどだった。
「うわぁ……。やっぱりうちの方とは全然違うね。こんな星空初めて見た」
「な。いくら見てても飽きないから、首が痛くなった。なんか吸い込まれそうになるよ」
こういうときの誠也はちょっと少年ぽい顔になる。もともとSF小説やアニメが好きで自分でも描くようになっただけあり、星を見上げて物思いに耽るのは子供の頃からの習慣らしい。
「来年の新しい漫画のアイデア、浮かんだ?」
「……まだ教えない」
誠也は含みのある笑みを浮かべながら、改めてこちらを振り返った。
「……」
「ん、何……?」
不意に黙り込んだ誠也が、珠里の姿をじいっと見つめている。
そう言えばお風呂上りの寝間着姿はお互い見慣れているけれど、バスローブを着たところは初めて見せる。まだどこか子供っぽい珠里に、こういうスタイルはやはり似合わないだろうか。
いきなり肩を抱かれ、強引に室内に連れ戻された。「どしたの?」と驚いて尋ねると「よその人間に見られる」と、ちょっと怒ったような声で言う。
それから誠也はガラス戸の鍵を締めカーテンをきっちり引いた。玄関口の鍵も確かめた後、戻ってきておもむろに珠里を抱きすくめた。
「誠ちゃ……」
今日初めての抱擁に、思いがけず胸がドキンと鳴った。
頬に押し当てられた硬い胸から、少し汗の混じった誠也の匂いがする。珠里の大好きな匂い。ずっとずっと包まれていたくなるような。
「悪い。ちょっと、欲情した」
思いがけない言葉に耳たぶが熱くなる。ドキドキして、でも嬉しくて、そっと顔を上げたら待ち構えていたように唇をふさがれた。
花火の夜以来、キスは何度もしていた。
「おはよう」を言うときの、啄むようなキス。ふとした拍子にくれる、慈しむような優しいキス。時間を忘れてしまいそうな、深く情熱的なキスだって。
でも今夜のキスは特別だった。貪るように唇を吸われ、その甘い熱量にクラクラした。ほんの少し煙草の匂い。熱い舌が口内を犯すように侵入してきて、あっという間に珠里の舌を捕らえてしまう。
膝から力が抜けそうになった。腰を抱く誠也の腕に、更に力が籠められる。大きな手のひらが珠里の上気した頬を包み込み、根元から奪いそうなほど淫らに舌を絡みつかせてくる。
珠里は誠也のTシャツの胸の辺りを握りしめ、激しいくちづけに必死に応えた。
身体の芯がゾクゾク震え、せつないほどの甘い衝動が胸に込み上げてくる。なんて気持ちがいいのだろう。呼吸が勝手に乱れる。唇も舌も誠也の熱で溶かされて、すべて持っていかれそうになる。
「んふ……っ」
自分のものとは思えない、甘い息がこぼれた。滴るようないやらしい音を立てた後、誠也がようやく唇を離す。
身体は強い力で抱かれたままだ。野蛮なほどの熱を溜めた瞳が、珠里の顔をじっと見下ろしている。その眼差しを受けるだけで珠里の視界は潤み、お腹の奥に攣れるような恥ずかしい燻りが生じてしまう。
「……俺、大人げないな」
誠也が珠里のおでこにコツンと自分の額をくっつけた。
「みっともない。がっついて」
ひどく照れくさそうだ。珠里はたまらなくなる。そんなふうに求めてくれることが嬉しくて仕方ない。胸が苦しくなるほどに。
「誠ちゃん、早くお風呂、入ってきて。……待ってるから」
言ってから自分でもびっくりした。こんな、催促するような言葉を口にするなんて。
恥ずかしくてじわじわ赤面していると、誠也がふうっと熱い息を吐いて珠里の濡れた髪に顔を埋めた。
「やっぱり、小悪魔だ」
どこか嬉しそうな声音でそう言うと、誠也は珠里のお尻をポンと叩きバスルームに消えていった。
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