22 / 22
エピローグ
しおりを挟む9月に入ってから、誠也は俄かに忙しくなった。
来年創刊の新雑誌に連載する予定のSF作品の打ち合わせが始まり、新しい担当編集者が家に出入りするようになった。と言っても編集者が来るのは珠里が会社に行っている平日の昼間なので、特段今までと生活が変わることはない。相変わらずアダルト誌の野村も定期的に顔を出しているし、何せ同じ出版社なので、先日は野村と新しい担当が仲良く一緒に現れたそうだ。
二つの仕事を抱えることになるため、今まで以上に仕事はハードになるだろう。だが誠也はとても意欲的で楽しそうだ。これを機に生活スタイルを改善すると宣言し、なるべく規則正しい生活を心がけ、早め早めに仕事に取り掛かる癖をつけるよう努力している。
それは珠里が頼んだことだ。締め切り間際の無理な徹夜を減らすことで、少しでも身体の負担を減らしてほしいと思ったからだ。
「誠ちゃん、私より14こも年上なんだから、もっと健康に気を使って長生きしてもらわないと。私をひとりぼっちにしたくないでしょ?」
そう訴えたら、よく理解してくれたようだ。最近はサボりがちだったジム通いも復活させ、食事にも気を配るようになっている。
「音原くんは、ホントに珠里ちゃんの手のひらで転がされてるよね~。珠里ちゃん、これからも音原くんの尻叩いてやってね。よろしくぅ」
先日電話を取り次いだ時、野村は珠里にそう言って「ウヒヒ」と楽しそうに笑っていた。
珠里の方も、会社が人事異動のシーズンを迎え、やけに慌ただしい日々を過ごしていた。
組織編成が変更されたり直属の上司が変わったりで、何かと落ち着かない毎日が続いている。そんななか一番驚かされたのは、隣の課にいた門倉の転勤だった。
それも単に他支店への異動ではなく、グループ会社への出向だ。こちらの会社より格下、しかも現場叩き上げの強面が居並ぶいわくつきの部署だと言う。本人も辞令を受けて真っ青になっていたが、周囲は皆「あいつ、何やらかしたんだ」「報復人事じゃないの?」と騒然としていた。
珠里は「まさか」と思い麻実子の顔を見たが、当の麻実子は「違う違う!私経由じゃないってば~」と笑っていた。
麻実子の極秘情報によると、今回の門倉の異動はどうやら麦田綾美の件が関わっているらしい。
「営業推進に権俵さんっているでしょ?下駄みたいな顔した体育会系の」
下駄みたい、と言われて珠里にもすぐ分かった。いかつい顔立ちでガタイのいい40手前くらいの課長だ。見た目は怖いが面倒見が良く、社内での人脈づくりには定評があると噂の人だ。
「あの権俵課長ってね、麦田さんの義理のお兄さんなんだって。麦田さんのお姉さんの旦那らしいんだけど」
「え!そうなの?」
うちってコネ入社多いよねぇと、麻実子は自嘲気味に笑っている。
「でね、可愛い義妹が近頃すっかり落ち込んでるから、心配になった権俵さんが問い詰めたらしいんだよね。で、麦田さんが『門倉くんに遊ばれて捨てられた』って泣いたらしくて。あの二人、花火の夜の一回きりで終わったらしくてさ。麦田さん、それからずっと門倉に無視されてたんだって」
まさかそんなことになっていたとは。珠里はなんとも複雑な気持ちになり、権俵の鬼の形相を想像してブルッと震えた。
「権俵課長が烈火のごとく怒って、義妹の敵を討つとばかりにいろいろ根回ししたらしいよ。あの人ってW大出身でさ、あそこのOBって縦の繋がり凄いんだよね。特に権俵さんって営業本部長に可愛がられてるからさ、まあ後はだいたい分かるでしょ?」
いやー会社って怖いよねぇ、と麻実子は何やら楽しそうに笑っている。
珠里は引き攣った笑いを浮かべつつ、誠也がこういう社会と無縁でいることにホッとする思いを抱いてしまった。
「そういえば、工藤くんは麻実ちゃんが福田専務の姪だって知ってるの?」
夏以来工藤と順調に仲を深めているらしい麻実子に尋ねると、「まだ内緒ぉ」と悪戯っぽい笑みを返された。
「ここぞと言うときの切り札に使おうと思って」
男子は麻実子を敵に回してはいけない。満面の笑みを浮かべる麻実子を見て、珠里は思わず吹き出してしまった。
忙しない毎日も少しずつ落ち着きを取り戻し、街路樹が赤茶色や橙に染まり始めた頃。珠里宛に、野村の妻の礼子から宅配便が届いた。
コンパクトなボックスを開けてみると、中には薄紫の美しいリボンで飾られた包みと、礼子直筆の手紙が入っていた。
8月にK高原に行ったとき、野村夫妻には誠也がチーズやハム等の土産を送っていた。だがそれとは別に、珠里が礼子のために買ったものがあった。アロマの店で見つけた、妊娠中の女性に良いというハーブティーとマッサージクリームで、珠里はそれを誠也に預けて野村に渡してもらっていた。珠里は礼子本人に会ったことはないが、野村夫妻が宿泊券をプレゼントしてくれたおかげで楽しいひとときを過ごすことができたので、せめてものお礼を伝えたかったのだ。
野村から「嫁がものすごく喜んでた」とお礼を言われて満足しきっていたので、今になって礼子から小包みが届いたことに少々驚いた。
珠里はリボンと同じ色の封筒を開け、大きめの綺麗な文字で書かれた手紙を読んでみた。
『珠里ちゃんへ
先日はK高原のおみやげを、私にまでありがとうございました。とーっても嬉しかった!
つわりが結構きつかったので、落ち着いてからお礼をしようと思っていたらこんなに遅くなってしまいました。ゴメンナサイ。お気遣いいただいて本当にありがとう。感激しました。
マッサージクリーム、妊娠線の予防にせっせと塗ってます。おかげで最近お肌がツヤツヤしてきた感じ(笑)。それからハーブティー、すごく飲みやすくて愛飲してます。あまりにも気に入ったので、今度うちのサイトでも扱おうと仕入れ画策中。ふふふ、商魂たくましいでしょう。珠里ちゃんのおかげです。
珠里ちゃんのことは、旦那からよく話を聞いてました。「ものすごく可愛くてメチャクチャいい子、音原くんが溺愛してるイトコちゃん」ってね。前から私も「会ってみたいなー」と思っていたのですよ。なので珠里ちゃんからプレゼントをいただいて、本当に嬉しかった。
音原くんの漫画は私もいつも読ませてもらってて、何を隠そう熱烈なファンです。
うちの下着をモチーフに描いてくれた(?)ランジェリー回も読みました。すごく良かった。ちょっと泣いちゃった。一ファンが偉そうに言っちゃうと、最近の作品の中でも出色の出来だったと思います。
あのヒロインは、珠里ちゃんがモデルよね?
2、3年前、旦那が音原くんをうちに連れてきて3人で飲んだことがあって、そのとき珠里ちゃんの写真を見せてもらってたの。だから私にはすぐ分かりました。(ちなみに私たち夫婦は、音原くんが珠里ちゃんを想う気持ちに前から気づいてました。あんな大事そうに写真見せられたらフツー気づくw)
珠里ちゃんモデルのあの回、本当に愛があふれてて良かったよね。主人公がヒロインを大事に大事に想う気持ちが素晴らしかった。きっとあれは音原くんの本心なのでしょう。あなたたちの絆を見せられたようで、なんだか親戚のおばさんみたいな気持ちで感動してしまいました。
来年から、音原くんは新しいお仕事が増えて忙しくなると聞いてます。いろいろ大変になるかもしれないけど、珠里ちゃん一生懸命支えてあげてね。そして何か困ったことがあったら、遠慮なく私たち夫婦を頼ってください。もちろん女同士、内緒の相談も聞くわよ!
今回送らせてもらったのは、うちのサイトで扱ってる秋の新商品です。絶対珠里ちゃんに似合うと思うのでプレゼントします。これ着て、音原くんを更に悩殺しちゃってちょうだい♪
今度ぜひ直接お会いしたいです。良かったら、ぜひぜひうちに遊びに来てね。礼子特製のチーズケーキでおもてなしします!(ホントに美味しいから!)
ではでは、乱筆乱文お許しください。会える機会を楽しみにしています。 野村礼子』
リボンをほどいて包みを開けると、中から出てきたのは淡いピンクの美しい下着だった。柔らかな透ける素材に繊細なレースが縫い付けられた、とても可愛らしくセクシーなデザインのベビードールだ。
「なんだ、その完璧なセレクトは」
いつの間にか後ろから覗いていた誠也が、興奮を隠し切れない口調で言うので思わず吹き出しそうになった。
「野村さんの奥さん、侮れないな……」
「似合うかな?」
珠里がベビードールを自分の身体にあてがって見せると、誠也は真剣な顔で深く頷いた。
「絶対似合う。世界一似合う。パーフェクト」
珠里はクスクス笑いながら、ピンクの下着を胸に抱きしめた。
「礼子さんが、家に遊びにいらっしゃいって」
「じゃあ今度、ふたりで行ってみるか」
「うん、行きたい!」
「すげーぞ、あの人。マシンガントークが止まらないんだ」
でも気さくでいい人だから、珠里もきっと気が合うよ。誠也が笑顔でそう言うので、珠里は野村家にお邪魔する日が本当に楽しみになった。
「……なあ。それ着てるとこ、早く見たい」
誠也が珠里の腰を両手で抱き寄せ、物欲しげな顔になった。珠里の顔とベビードールを交互に見つめている表情で、不謹慎な妄想をしているのがありありと伝わってくる。
「今月の原稿、上がったらね」
「えーっ!あと一週間はかかるよ。……待てない」
「楽しみは先の方が……」
「それまでに飢えて干からびる」
本気で悲しそうな顔をするので、ますます可笑しくなってしまう。
「今日、見たい」
「……」
「今日見せてくれたら、明日から10倍仕事がんばる」
「……しょうがないなぁ。じゃあ、お風呂入った後でね」
「やった……っ!」
中学生のようなノリで、右手をぐっと握りしめている。
……そこまで喜んでくれるなら、今夜はいつも以上に優しくしてあげようかな。そう思っていろいろ想像したら、思わず頬が染まってきた。
そんな珠里の顔を見て、誠也がすかさず唇を奪う。優しいけれど、たまらなく官能的なキス。
いつもこうして珠里を誘惑してくるから、誠也はずるい。これをされると途端に身体から力が抜けてしまうのだから。
「……それ着て、あのオイルでマッサージしてくれたら20倍がんばれる」
唇を離した誠也が、おでことおでこをコツンとぶつけて甘えてきた。
K高原のアロマショップで買ってきたマッサージオイルのことだ。あれを使ってマッサージしてあげたら誠也はやけに気に入ってしまい、ことあるごとにねだってくる。とは言え毎回途中から立場が逆転し、誠也が珠里の身体をマッサージし始める。そしてそのままエッチなことになだれ込むのが最近のお約束だ。
「ほんとに甘えんぼなんだから。……分かったってば。してあげるから、そんな捨てられた子犬みたいな顔しないで」
珠里が両手で誠也の頬をギュッと挟むと、35歳の男がとびきり嬉しそうな緩い笑顔を見せた。
なんだか最近、誠也がどんどん子供っぽくなっている気がする。珠里をこの家に引き取ってくれた頃の、眼つきの鋭い不愛想なお兄さんはどこへ行ったのだろう。
でも、実はちっとも嫌じゃない。誠也が珠里にしか見せない甘い顔が、たまらなく大好きで心から愛おしいから。
「ほら、早く風呂入って来いよ。俺も今日の仕事終わらせるからさ。あ、なんだったら一緒に風呂入る……」
「誠ちゃんはいいから、仕事片づけて!」
珠里は誠也の背中を押しやり、とりあえず仕事部屋に戻らせた。頭をぽりぽり掻いている後ろ姿が妙に嬉しそうだ。やっぱり前より子供っぽくなったと思う。
来年、新しい仕事が軌道に乗ったら入籍する予定なのに。あんなに「男の子」みたいになっちゃって、果たして「旦那さん」として大丈夫なのだろうか。
でも、珠里は知っている。
自分はこの先もずっとずっと、おじいちゃんとおばあちゃんになっても、誠也に恋をし、夢中で愛していくということを。時々腹を立てたり文句を言いながらも、誠也だけに首ったけの未来が続いていくに違いないことを。
6歳のときに、誠也に魔法のバトンをもらった。誠也が珠里を救い出し、新しい人生をプレゼントしてくれた。それはいつまでも解けない幸せの魔法だ。
……ううん、それだけじゃない。これから先は、珠里が誠也に魔法をかけ続け、たっぷりの愛を注いで生きていくのだ。
珠里が誠也を世界一幸せにする。そう思うと、珠里自身が心から幸せな甘い気持ちに満たされていく。
さて。まずは今夜、どんな魔法で愛してあげようか。
珠里は鏡の前でベビードールを身体にあてがって、よりセクシーに見えるポーズをあれこれと考え始めた。
FIN
6
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
小野寺社長のお気に入り
茜色
恋愛
朝岡渚(あさおかなぎさ)、28歳。小さなイベント企画会社に転職して以来、社長のアシスタント兼お守り役として振り回される毎日。34歳の社長・小野寺貢(おのでらみつぐ)は、ルックスは良いが生活態度はいい加減、デリカシーに欠ける困った男。
悪天候の夜、残業で家に帰れなくなった渚は小野寺と応接室で仮眠をとることに。思いがけず緊張する渚に、「おまえ、あんまり男を知らないだろう」と小野寺が突然迫ってきて・・・。
☆全19話です。「オフィスラブ」と謳っていますが、あまりオフィスっぽくありません。
☆「ムーンライトノベルズ」様にも掲載しています。
Catch hold of your Love
天野斜己
恋愛
入社してからずっと片思いしていた男性(ひと)には、彼にお似合いの婚約者がいらっしゃる。あたしもそろそろ不毛な片思いから卒業して、親戚のオバサマの勧めるお見合いなんぞしてみようかな、うん、そうしよう。
決心して、お見合いに臨もうとしていた矢先。
当の上司から、よりにもよって職場で押し倒された。
なぜだ!?
あの美しいオジョーサマは、どーするの!?
※2016年01月08日 完結済。
上司に恋していいですか?
茜色
恋愛
恋愛に臆病な28歳のOL椎名澪(しいな みお)は、かつて自分をフッた男性が別の女性と結婚するという噂を聞く。ますます自信を失い落ち込んだ日々を送っていた澪は、仕事で大きなミスを犯してしまう。ことの重大さに動揺する澪の窮地を救ってくれたのは、以前から密かに憧れていた課長の成瀬昇吾(なるせ しょうご)だった。
澪より7歳年上の成瀬は、仕事もできてモテるのに何故か未だに独身で謎の多い人物。澪は自分など相手にされないと遠慮しつつ、仕事を通して一緒に過ごすうちに、成瀬に惹かれる想いを抑えられなくなっていく。けれども社内には、成瀬に関する気になる噂があって・・・。
※ R18描写は後半まで出てきません。「ムーンライトノベルズ」様にも投稿しています。
Home, Sweet Home
茜色
恋愛
OL生活7年目の庄野鞠子(しょうのまりこ)は、5つ年上の上司、藤堂達矢(とうどうたつや)に密かにあこがれている。あるアクシデントのせいで自宅マンションに戻れなくなった藤堂のために、鞠子は自分が暮らす一軒家に藤堂を泊まらせ、そのまま期間限定で同居することを提案する。
亡き祖母から受け継いだ古い家での共同生活は、かつて封印したはずの恋心を密かに蘇らせることになり・・・。
☆ 全19話です。オフィスラブと謳っていますが、オフィスのシーンは少なめです 。「ムーンライトノベルズ」様に投稿済のものを一部改稿しております。
続・上司に恋していいですか?
茜色
恋愛
営業課長、成瀬省吾(なるせ しょうご)が部下の椎名澪(しいな みお)と恋人同士になって早や半年。
会社ではコンビを組んで仕事に励み、休日はふたりきりで甘いひとときを過ごす。そんな充実した日々を送っているのだが、近ごろ澪の様子が少しおかしい。何も話そうとしない恋人の様子が気にかかる省吾だったが、そんな彼にも仕事上で大きな転機が訪れようとしていて・・・。
☆『上司に恋していいですか?』の続編です。全6話です。前作ラストから半年後を描いた後日談となります。今回は男性側、省吾の視点となっています。
「ムーンライトノベルズ」様にも投稿しています。
届かぬ温もり
HARUKA
恋愛
夫には忘れられない人がいた。それを知りながら、私は彼のそばにいたかった。愛することで自分を捨て、夫の隣にいることを選んだ私。だけど、その恋に答えはなかった。すべてを失いかけた私が選んだのは、彼から離れ、自分自身の人生を取り戻す道だった·····
◆◇◆◇◆◇◆
読んでくださり感謝いたします。
すべてフィクションです。不快に思われた方は読むのを止めて下さい。
ゆっくり更新していきます。
誤字脱字も見つけ次第直していきます。
よろしくお願いします。
淫らな蜜に狂わされ
歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。
全体的に性的表現・性行為あり。
他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。
全3話完結済みです。
【完結】女当主は義弟の手で花開く
はるみさ
恋愛
シャノンは若干25歳でありながら、プレスコット伯爵家の女当主。男勝りな彼女は、由緒ある伯爵家の当主として男性と互角に渡り合っていた。しかし、そんな彼女には結婚という大きな悩みが。伯爵家の血筋を残すためにも結婚しなくてはと思うが、全く相手が見つからない。途方に暮れていたその時……「義姉さん、それ僕でいいんじゃない?」昔拾ってあげた血の繋がりのない美しく成長した義弟からまさかの提案……!?
恋に臆病な姉と、一途に義姉を想い続けてきた義弟の大人の恋物語。
※他サイトにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる