彼の至宝

まめ

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「旦那様。旦那様。一大事で御座います」

「――どうした」

 滅多な事では取り乱す事のない侍従のロブレヒトが、ノックも忘れて部屋に駆けて来た。これはただ事ではないとディーデリックは険しい表情を浮かべた。ここは隣国との国境だ。もしや隣国が攻め入って来たかとディーデリックは最悪の事態を想像したが、侍従が次に放った言葉に呆気に取られる事となった。

「アブドゥルマリクが邸の外から少年を浚ってしまい、その子を離そうとしないのです」

「なんだその様な事くらいで」

 必死にロブレヒトは主人に訴えたが、ディーデリックは下らない事で騒ぐなと溜息を吐いた。確かにアブドゥルマリクは気難しく滅多に人に懐きやしないが。いや、待て。そうだ懐きやしないのだ。そのアブドゥルマリクが少年を浚って来ただなんて。

「一大事ではないか。何故その様な事に」

 ディーデリックはよくよく考え、その事態の重大さに驚くと腰掛けていた椅子から勢いよく立ち上がった。

「ですので先程から申し上げております。何故その様になったかは私も存じ上げません。旦那様お早く中庭へおいで下さい。アブドゥルマリクはそこにおります。もしも少年に何かあれば」

 ロブレヒトの言う事は尤もだ。もし少年がアブドゥルマリクの機嫌を損なう事でもあれば、彼は五体満足でいられないかもしれない。最悪は命を失ってしまうかもしれないのだから。そうなっては困るとディーデリックは慌てて中庭へと駆けて行った。

「ああ、アブドゥルマリク。お前どうしてくれるんだ。俺のポポタの実が潰れちゃったじゃないか。折角、今日の夕飯後に食べようと思ってたのに。服がお前の涎と潰れた実の果汁でベタベタだよ」

 ラウが腰の布袋に入れていたポポタの実は、彼の尻の下敷きとなり潰れてしまっていた。それに対し彼に怒られたアブドゥルマリクは悲し気に小さく声を漏らした。これには大好物を潰されたエーリクもお冠だった。むしろ夢の中でもラウの中に彼を感じているときでも、こんなにエーリクが怒ったことはないというくらいに激怒している。食べ物に困らない王子様でも食べ物の恨みは激しいのだなと、変なところで感心しながら、自身とエーリクの感情に流されるようにして、ラウはアブドゥルマリクに説教を続けた。
 それにしばらくは大人しく叱られていたアブドゥルマリクだったが、けれども次第に十五年も待たせた友に対し、こんなにも待った事への詫びが一言くらいあってもいいのではないかと腹を立て始めた。そうしてついに怒りが頂点に達した偉大なる精霊は、耳を後ろに伏せ鼻に皺をよせると主人に怒られて言い訳をする犬の様にギャウギャウと鳴いた。

「何だよ。何怒ってるんだよ。俺だって怒ってるんだからな」

 ラウとアブドゥルマリクはお互いを詰り合い、彼らの初めての喧嘩は何時まで経っても終わる気配がなかった。ラウの記憶にあるエーリクとアブドゥルマリクはこの様な関係ではなく、もっと落ち着き穏やかな間柄であったはずなのに、どうしてこうなったのだろうと彼はアブドゥルマリクを詰りながら心中で疑問を浮かべた。

「――ロブレヒト、あれは何だ」

 中庭に着きディーデリックは、己の契約精霊とそれに浚われた少年の様子を見て再び呆気にとられる事となった。最悪の事態を想像していたというのに、彼らはまるで子供のように言い合いの喧嘩をしていたのだから、ディーデリックがそうなるのも無理はない。この状況に頭がついていけず、彼は側に控える侍従にどういう事だと問い掛けた。

「私にも分かりかねます。ただ少年とアブドゥルマリクが、幼子のように言い合いの喧嘩をしている様に見えますが」

「そうだな。私にもその様に見える」

 さてこの状況をどうしたものかとディーデリックは戸惑ったが、すぐに収束させねばなるまいと思い直し彼らを止めようと声を掛けた。

「止めろアブドゥルマリク。子供の様な真似をするな。そこの少年もアブドゥルマリクが粗相をして申し訳ない。けれど悪いがそのくらいで勘弁してやってはくれないか」

 ディーデリックがアブドゥルマリクと言い合いをしている少年に声を掛けると、彼は宝玉の様な美しい瞳をディーデリックに向けて睨みつけた。そのアメジストの様な瞳の色を目にした途端、ディーデリックの体は歓喜に包まれた。
 ああ、この瞳を私は知っている。

「黙っていろディーデリック。私は今アブドゥルマリクに真剣に怒っているんだ。こいつは私の服を汚したばかりか、大事な大事なポポタの実まで潰してしまったんだぞ。これで怒らずにいられるか。いつもはお前の頭が茹だって真っ赤になっているがな。今日は私がそうなんだ」

 怒りに我を忘れているのだろう。少年は彼の体を支配する激情に従い、ディーデリックを睨みつけたままそう言った。彼が放った言葉は昨日夢に見た愛しい人から聞いたばかりのものだ。
 ディーデリックは逸る気持ちを抑え、少年の側に駆け寄ると彼の顔に両手を当てその瞳を覗き込んだ。少年の瞳は光の加減で変色し、先程はアメジストに見えたそれは、今は紫を含んだ青色に光っている。まるでタンザナイトの様ではないか。彼の顔を少し横にずらし光の加減を変えてやれば、今度は濃紺のサファイアの様に輝きだした。
 ああ、私の宝玉だ。間違いない。私の宝玉が再びこの手に舞い戻ってきたのだ。
 ディーデリックは少年を抱きしめ、歓喜の涙を幾筋も流したのだった。
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