守るべきモノ

神崎

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柑橘

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 貸しオフィスをたまに利用している作家も居て、春樹もその建物への道は慣れたモノだった。どこの部屋なのかも教えてもらった。ここは完全な個室ではなく半個室みたいな所で、声を抑えなければ外に声が漏れてしまう。
 つまり、ここをラブホテル代わりに使うことはできないのだ。だから政近と倫子がここにいても大丈夫だと思いながら、そのドアをノックする。
「失礼します。」
 ドアを開けるとそこには床に座り込んでいる倫子が居た。その近くには画面が割れた携帯電話が落ちている。倫子のモノだろう。
「どうしたの?田島先生はどこに行ったの?」
「……。」
 倫子の頬には泣いた跡がある。アイライナーが少しにじんでいるからだ。
「……倫子。」
 詳しい事情はわからない。だがその様子からただ携帯を落としただけだとは思えなかった。
 春樹はしゃがみ込むと、ポケットからハンカチを取り出す。そして倫子の頬を拭った。
「こんな顔で表に出たらいけない。小泉先生はもうただの一般人じゃないんだから。」
 外に出れば声をかけられることもある。それを気にしているのだろう。優しく拭うとその割れている携帯電話を手にした。
「携帯、変えないといけないね。割れているだけなら修理できるけれど、中のデータとかにも影響があるかな。」
「うん……。」
 やっと言葉が出た。
「今の時間で開いているところがあるかな。ちょっと待って。」
 携帯電話で今の時間が開いているところがあるか検索する。そのとき、倫子の携帯電話が鳴った。その音に倫子の表情が少し変わる。
 春樹がその携帯電話を手にして、かろうじてわかる通話のボタンを押した。
「もしもし……あぁ、栄輝君だっけ。倫子さんの弟の……うん。倫子さんの同居人で、担当編集してる藤枝ってものだけど。」
 割れた破片で頬を切らないだろうか。そう思いながら倫子は立ち上がった。
「あぁ。そうだったんだね。お大事に。そういう事情なら、こちらからまた打ち合わせの日取りの連絡をすると伝えておいてくれるかな。うん……。今日は倫子さんも帰らせるよ。」
 そういって電話を切った。そしてその電話を倫子に手渡す。
「今ならぎりぎりだけど、間に合う携帯ショップがある。行こうか。」
「うん。」
 オフィスを出て、春樹と並んで歩く。その間、春樹は倫子に月子の事を話していた。
「野菜の皮むきを?」
「そう。手を滑らせて手を切ったらしい。結構出血がヒドかったから、栄輝君が慌てて救急車を呼んでしまったんだ。救急車を呼ぶと、身内に連絡がいく。だから田島先生と、「三島出版」の……。」
「田島昌明さんね。政近の弟だって言ってた。」
「あっちは校了みたいでね。どうしても動けなかったらしい。」
 手首を切ったのは事故だった。倫子は少しほっとしたようだ。その様子に春樹は少し微笑む。
「それにしても、敏感になっていたんだね。」
「自傷の癖があると言っていたわ。だから亜美の恋人の桃子さんにかかっていたんだけど……どうしてもそういうモノっていうのは、完全に直ったというのは難しいの。どんなきっかけでまた再発するかわからないし。」
 薬だけではどうにもならないことがある。月子が安定しているのは気と栄輝のお陰なのだ。そして自分には春樹が居る。そう思っていたのに、どうしても政近の言葉が頭の中に響いた。
「ここだね。」
 家電量販店だった。修理なんかは無理だろうが、買い換えるのはここでもできる。そう思いながら、二人はその中に入っていった。

 新しい携帯電話を手にした倫子は、データの移行がうまくいっているのかと見ているようだった。だがあまり問題はない。ほっとして、バッグに携帯電話を入れる。
「どうしようか。食事、何か食べる?」
「そうね……。」
 食べたい気分でもないが、食べなければ倒れてしまう。仕事をしていると食事なんかをいつも忘れてしまう倫子を、いつも春樹が気にしていたのだ。
「居酒屋も良いわね。」
「飲みたい?」
 飲みたい気分だ。真矢のことと政近のことが頭をぐるぐると駆けめぐり、やるせない気持ちだったのだから。
 そのときだった。

 ぱん!

 派手に何かを殴ったような音がする。思わず二人は振り返った。そこには殴った女性と、殴られた男が居て、通行人がおもしろそうにその様子を見ている。
 女性はその場から離れて、男は頬をさすっていた。その男に倫子は見覚えがある。
「あれ?」
 そこへ男に近づいてきた人がいる。それは泉だった。
「自業自得ですよ。」
「ったく……馬鹿力め。」
 倫子も思わず近づいていく。そして声をかけた。
「泉。」
「倫子。あれ?春樹さんも?」
「打ち合わせだったんだ。」
 その殴られた人を改めて倫子はみる。そうだ。この人は「ファンだ」といってサインを一度、「book cafe」で書いたことがある。幼そうに見えたので、よく覚えていた。
「あー……小泉先生。恥ずかしいところを見られました。」
「……今晩は。泉。知り合いなの?」
「うちの上司だから。」
「は?」
 どう見ても高校生くらいががんばって粋がっているようにしか見えないのに、まさか泉の上司だと思ってなかった。
「「ヒジカタコーヒー」の赤塚です。」
 大和はそういって名刺を取り出して、倫子と春樹に手渡した。
「で、何で殴られてたんですか。」
「んー……。最初っから遊びだって言ってたんですけどねぇ。女ってのはいくつになってもわかんねぇです。」
 幼そうな大和が言う言葉に聞こえなかった。倫子は少し笑う。その様子に、春樹は少しほっとした。倫子がこんな形で笑うとは思ってなかったから。
「で、泉はどうして赤塚さんと?」
「手続きをしててさ。」
「手続き?」
「うん。「ヒジカタコーヒー」に入社する手続き。春から正式入社。で、帰ってたらこのざま。」
「ざまって言うな。お前、上司だぞ。俺。」
「どうせ、遊びだって言って付き合って、本気になりそうだから別れようとしたんでしょう?」
「セフレが彼女になるかよ。」
 その言葉に春樹は苦笑いをする。自分だって倫子とは最初は体だけだった。それが恋人だと今はいえる。セフレが恋人になることはあるのだ。
「今日は食事がないって言っていたよ。泉さんも食事に行かないかな。」
「え?いいの?私がついて行って。」
「断る理由なんか無いわ。居酒屋に行こうと思ってたの。」
 それにこんな日は泉が居てくれた方がいい。すると大和も声を上げる。
「赤塚さんも行きますか。」
 倫子はそう声をかけると、大和はうれしそうにそれに答えた。
「いいんですか。」
「えぇ。にぎやかな方がいいから。」
 気を紛らわせたい。それにこの大和という男からはいろんな事が聞けそうだ。「淫靡小説」の編集長である夏川英吾を若くしたような男。ネタになりそうだと、倫子はそう思っていた。
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