535 / 555
静寂の町に潜む闇
夜闇の気配
しおりを挟む
どれほど眠ったのか分からない。
胸の奥に重さを感じて目を開くと、部屋はすでに闇に沈んでいた。
蝋燭はとうに消えて、わずかに差しこむ月明かりが窓辺を白く照らしている。
――どこかで泣き声が聞こえた。
最初は夢の続きかと思った。
だが、耳を澄ますと確かに聞こえる。
か細くも押し殺すような子どもの泣き声。
続けて、小さな足音が石畳を走っていく気配。
眠気など一瞬で吹き飛んだ。
寝台から飛び起き、剣を腰に下げて窓を開ける。
外は一面の闇。星明りだけが頼りだ。
建物の影が濃く落ち、路地の奥は墨を流したように見えない。
泣き声は町外れの方へ遠ざかっていく。
俺はためらうことなく部屋を飛び出した。
深夜の町は異様な静けさに包まれていた。
昼間には子どもたちの声が響いていた通りも、今は人気がなく、家々はまるで死んだように灯りを落としている。
自分の靴音だけが響き、足が自然と速くなるような急き立てられる感覚になる。
――何かがおかしい。
黒布の兵を追った戦場よりも、この無人の町のほうがよほど不気味だった。
風が吹くたびに戸板がきしみ、どこかの屋根瓦が鳴る。
その音が人の呻き声に聞こえて心臓を締めつける。
子どもの泣き声はやがて嗚咽に変わり、細い足音とともに町の端へと消えていった。
息を上げながら追ったが、辿り着いた時には声も足音もぷつりと途絶えていた。
行き止まりの広場に立ち尽くし、呼吸を整える。
元冒険者として身体を鍛えているつもりだが、起き抜けの全力疾走は苦しいものだった。
落ちついたところでホーリーライトで街灯を補うように灯りを増やす。
足跡を探して石畳を照らすが、風に舞う埃と乾いた砂だけがあった。
影の奥に隠れているのかと身を屈めても、何も残されてはいなかった。
まるで子どもごと夜に呑みこまれたように痕跡すらない。
「……いや、幻覚のはずがない」
人気のない場所でつぶやいた声が響く。
戦場の疲労が幻聴を見せたのではない。
確かに泣き声はあった。
足音も。俺はそれを追った。だが途中で消えたのだ。
気味の悪さに背筋を冷たいものが這い上がる。
心を乱さないように剣の柄を強く握りしめた。
この夜闇の下に長居はできない――そう直感した。
そこから足早に宿へと引き返す。
振り返るたびに、暗がりから誰かが覗いているような錯覚に襲われた。
――こうして、その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝。宿の食堂に降りると、客の一人が「子どもがいなくなった」と呟いた。
俺の耳は敏感にその言葉を捉えた。
問い返そうとしたが、周囲の客は一様に顔を曇らせ、まるで口をつぐむかのように黙りこんでしまった。
宿の主人に聞いても、そっけない返事しか返ってこない。
「……この辺りでは時々あることなんです。気にしても仕方がない」
仕方がない、だと?
子どもが行方不明になったというのに、町人たちは諦めたように肩をすくめるだけだ。
どうにか見つけ出そうという気配は感じられない。
その諦観こそが、昨日の夜に感じた不気味さの正体なのかもしれなかった。
俺は苛立ちを隠せず、食堂を出て町を歩いた。
昼間の表通りは相変わらず賑わっている。
行商人が声を張り上げ、子どもたちが走り回り、大人たちは笑顔で買い物をする。
――まるで昨夜の出来事などなかったかのように。
俺の胸にはますます重苦しい違和感が広がっていった。
昼の光に照らされる町は一見平穏そのものだ。
だが注意深く見れば、笑う顔の奥にかすかな影が差している。
荷車を押す若者の目は笑っていても、どこか曇り、母親の笑みも引きつったように見える。
声をかけてみても返ってくるのは曖昧な返事ばかりで、それ以上は決して踏みこませないという壁のようなものを感じた。
やはり、何かが隠されている――。
***
情報を集めるには、酒場が一番だ。
夕刻、町で評判の酒場を訪れた。
木造りの扉を開けると陽気な声と酒の匂いが押し寄せてくる。
旅人や商人で賑わい、昼間の市場と同じように笑いが絶えない。
奥のカウンターに立つ女主人は、年の頃は三十前後だろうか。
栗色の髪をまとめ、朗らかな笑みを浮かべて客を迎えていた。
その笑顔は場を和ませる力があり、常連たちは彼女を慕っているのがすぐに分かった。
俺が席につくと、彼女はにこやかにジョッキを差し出してきた。
「お疲れでしょう、旅人さん。ここのエールは冷えてますよ」
俺も笑みを作って礼を言う。
だが、どこか引っかかるものを感じていた。
彼女の笑顔は完璧すぎる。
客の一人一人に声をかけ、冗談を飛ばし、軽やかに動く。
その仕草には不自然なところはない。
むしろ人当たりの良さが際立っていた。
――だが、目だ。
笑顔の奥の瞳が、一瞬だけ冷たく光った気がした。
こちらを見た瞬間、測るような視線を投げかけ、それをすぐに笑みに隠した。
黒布の兵士との戦いを終えたばかりだからかと思いかけたが、ここが慣れない場であるというだけで、平常心を保っていることに気づく。
俺は酒を口にしながら、彼女の振る舞いを観察した。
町の誰もが彼女を信頼している。
困ったことがあれば彼女に相談し、彼女の言葉に従う。
そんな空気が酒場全体に満ちていた。
――もしも。
子どもが消えるこの町で、誰かが糸を引いているとすれば。
その中心に立てるのは、町の誰もが疑わぬ存在。
女主人の微笑みが、逆に俺の胸をざわつかせた。
夜の影は、この酒場から伸びているのかもしれない。
胸の奥に重さを感じて目を開くと、部屋はすでに闇に沈んでいた。
蝋燭はとうに消えて、わずかに差しこむ月明かりが窓辺を白く照らしている。
――どこかで泣き声が聞こえた。
最初は夢の続きかと思った。
だが、耳を澄ますと確かに聞こえる。
か細くも押し殺すような子どもの泣き声。
続けて、小さな足音が石畳を走っていく気配。
眠気など一瞬で吹き飛んだ。
寝台から飛び起き、剣を腰に下げて窓を開ける。
外は一面の闇。星明りだけが頼りだ。
建物の影が濃く落ち、路地の奥は墨を流したように見えない。
泣き声は町外れの方へ遠ざかっていく。
俺はためらうことなく部屋を飛び出した。
深夜の町は異様な静けさに包まれていた。
昼間には子どもたちの声が響いていた通りも、今は人気がなく、家々はまるで死んだように灯りを落としている。
自分の靴音だけが響き、足が自然と速くなるような急き立てられる感覚になる。
――何かがおかしい。
黒布の兵を追った戦場よりも、この無人の町のほうがよほど不気味だった。
風が吹くたびに戸板がきしみ、どこかの屋根瓦が鳴る。
その音が人の呻き声に聞こえて心臓を締めつける。
子どもの泣き声はやがて嗚咽に変わり、細い足音とともに町の端へと消えていった。
息を上げながら追ったが、辿り着いた時には声も足音もぷつりと途絶えていた。
行き止まりの広場に立ち尽くし、呼吸を整える。
元冒険者として身体を鍛えているつもりだが、起き抜けの全力疾走は苦しいものだった。
落ちついたところでホーリーライトで街灯を補うように灯りを増やす。
足跡を探して石畳を照らすが、風に舞う埃と乾いた砂だけがあった。
影の奥に隠れているのかと身を屈めても、何も残されてはいなかった。
まるで子どもごと夜に呑みこまれたように痕跡すらない。
「……いや、幻覚のはずがない」
人気のない場所でつぶやいた声が響く。
戦場の疲労が幻聴を見せたのではない。
確かに泣き声はあった。
足音も。俺はそれを追った。だが途中で消えたのだ。
気味の悪さに背筋を冷たいものが這い上がる。
心を乱さないように剣の柄を強く握りしめた。
この夜闇の下に長居はできない――そう直感した。
そこから足早に宿へと引き返す。
振り返るたびに、暗がりから誰かが覗いているような錯覚に襲われた。
――こうして、その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝。宿の食堂に降りると、客の一人が「子どもがいなくなった」と呟いた。
俺の耳は敏感にその言葉を捉えた。
問い返そうとしたが、周囲の客は一様に顔を曇らせ、まるで口をつぐむかのように黙りこんでしまった。
宿の主人に聞いても、そっけない返事しか返ってこない。
「……この辺りでは時々あることなんです。気にしても仕方がない」
仕方がない、だと?
子どもが行方不明になったというのに、町人たちは諦めたように肩をすくめるだけだ。
どうにか見つけ出そうという気配は感じられない。
その諦観こそが、昨日の夜に感じた不気味さの正体なのかもしれなかった。
俺は苛立ちを隠せず、食堂を出て町を歩いた。
昼間の表通りは相変わらず賑わっている。
行商人が声を張り上げ、子どもたちが走り回り、大人たちは笑顔で買い物をする。
――まるで昨夜の出来事などなかったかのように。
俺の胸にはますます重苦しい違和感が広がっていった。
昼の光に照らされる町は一見平穏そのものだ。
だが注意深く見れば、笑う顔の奥にかすかな影が差している。
荷車を押す若者の目は笑っていても、どこか曇り、母親の笑みも引きつったように見える。
声をかけてみても返ってくるのは曖昧な返事ばかりで、それ以上は決して踏みこませないという壁のようなものを感じた。
やはり、何かが隠されている――。
***
情報を集めるには、酒場が一番だ。
夕刻、町で評判の酒場を訪れた。
木造りの扉を開けると陽気な声と酒の匂いが押し寄せてくる。
旅人や商人で賑わい、昼間の市場と同じように笑いが絶えない。
奥のカウンターに立つ女主人は、年の頃は三十前後だろうか。
栗色の髪をまとめ、朗らかな笑みを浮かべて客を迎えていた。
その笑顔は場を和ませる力があり、常連たちは彼女を慕っているのがすぐに分かった。
俺が席につくと、彼女はにこやかにジョッキを差し出してきた。
「お疲れでしょう、旅人さん。ここのエールは冷えてますよ」
俺も笑みを作って礼を言う。
だが、どこか引っかかるものを感じていた。
彼女の笑顔は完璧すぎる。
客の一人一人に声をかけ、冗談を飛ばし、軽やかに動く。
その仕草には不自然なところはない。
むしろ人当たりの良さが際立っていた。
――だが、目だ。
笑顔の奥の瞳が、一瞬だけ冷たく光った気がした。
こちらを見た瞬間、測るような視線を投げかけ、それをすぐに笑みに隠した。
黒布の兵士との戦いを終えたばかりだからかと思いかけたが、ここが慣れない場であるというだけで、平常心を保っていることに気づく。
俺は酒を口にしながら、彼女の振る舞いを観察した。
町の誰もが彼女を信頼している。
困ったことがあれば彼女に相談し、彼女の言葉に従う。
そんな空気が酒場全体に満ちていた。
――もしも。
子どもが消えるこの町で、誰かが糸を引いているとすれば。
その中心に立てるのは、町の誰もが疑わぬ存在。
女主人の微笑みが、逆に俺の胸をざわつかせた。
夜の影は、この酒場から伸びているのかもしれない。
17
あなたにおすすめの小説
土属性を極めて辺境を開拓します~愛する嫁と超速スローライフ~
にゃーにゃ
ファンタジー
「土属性だから追放だ!」理不尽な理由で追放されるも「はいはい。おっけー」主人公は特にパーティーに恨みも、未練もなく、世界が危機的な状況、というわけでもなかったので、ササッと王都を去り、辺境の地にたどり着く。
「助けなきゃ!」そんな感じで、世界樹の少女を襲っていた四天王の一人を瞬殺。 少女にほれられて、即座に結婚する。「ここを開拓してスローライフでもしてみようか」 主人公は土属性パワーで一瞬で辺境を開拓。ついでに魔王を超える存在を土属性で作ったゴーレムの物量で圧殺。
主人公は、世界樹の少女が生成したタネを、育てたり、のんびりしながら辺境で平和にすごす。そんな主人公のもとに、ドワーフ、魚人、雪女、魔王四天王、魔王、といった亜人のなかでも一際キワモノの種族が次から次へと集まり、彼らがもたらす特産品によってドンドン村は発展し豊かに、にぎやかになっていく。
過労死して転生したら『万能農具』を授かったので、辺境でスローライフを始めたら、聖獣やエルフ、王女様まで集まってきて国ごと救うことになりました
黒崎隼人
ファンタジー
過労の果てに命を落とした青年が転生したのは、痩せた土地が広がる辺境の村。彼に与えられたのは『万能農具』という一見地味なチート能力だった。しかしその力は寂れた村を豊かな楽園へと変え、心優しきエルフや商才に長けた獣人、そして国の未来を憂う王女といった、かけがえのない仲間たちとの絆を育んでいく。
これは一本のクワから始まる、食と笑い、もふもふに満ちた心温まる異世界農業ファンタジー。やがて一人の男のささやかな願いが、国さえも救う大きな奇跡を呼び起こす物語。
転生したら神だった。どうすんの?
埼玉ポテチ
ファンタジー
転生した先は何と神様、しかも他の神にお前は神じゃ無いと天界から追放されてしまった。僕はこれからどうすれば良いの?
人間界に落とされた神が天界に戻るのかはたまた、地上でスローライフを送るのか?ちょっと変わった異世界ファンタジーです。
『辺境伯一家の領地繁栄記』序章:【動物スキル?】を持った辺境伯長男の場合
鈴白理人
ファンタジー
北の辺境で雨漏りと格闘中のアーサーは、貧乏領主の長男にして未来の次期辺境伯。
国民には【スキルツリー】という加護があるけれど、鑑定料は銀貨五枚。そんな贅沢、うちには無理。
でも最近──猫が雨漏りポイントを教えてくれたり、鳥やミミズとも会話が成立してる気がする。
これってもしかして【動物スキル?】
笑って働く貧乏大家族と一緒に、雨漏り屋敷から始まる、のんびりほのぼの領地改革物語!
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
勇者パーティを追放されてしまったおっさん冒険者37歳……実はパーティメンバーにヤバいほど慕われていた
秋月静流
ファンタジー
勇者パーティを追放されたおっさん冒険者ガリウス・ノーザン37歳。
しかし彼を追放した筈のメンバーは実はヤバいほど彼を慕っていて……
テンプレ的な展開を逆手に取ったコメディーファンタジーの連載版です。
42歳メジャーリーガー、異世界に転生。チートは無いけど、魔法と元日本最高級の豪速球で無双したいと思います。
町島航太
ファンタジー
かつて日本最強投手と持て囃され、MLBでも大活躍した佐久間隼人。
しかし、老化による衰えと3度の靭帯損傷により、引退を余儀なくされてしまう。
失意の中、歩いていると球団の熱狂的ファンからポストシーズンに行けなかった理由と決めつけられ、刺し殺されてしまう。
だが、目を再び開くと、魔法が存在する世界『異世界』に転生していた。
10歳で記憶喪失になったけど、チート従魔たちと異世界ライフを楽しみます(リメイク版)
犬社護
ファンタジー
10歳の咲耶(さや)は家族とのキャンプ旅行で就寝中、豪雨の影響で発生した土石流に巻き込まれてしまう。
意識が浮上して目覚めると、そこは森の中。
彼女は10歳の見知らぬ少女となっており、その子の記憶も喪失していたことで、自分が異世界に転生していることにも気づかず、何故深い森の中にいるのかもわからないまま途方に暮れてしまう。
そんな状況の中、森で知り合った冒険者ベイツと霊鳥ルウリと出会ったことで、彼女は徐々に自分の置かれている状況を把握していく。持ち前の明るくてのほほんとしたマイペースな性格もあって、咲耶は前世の知識を駆使して、徐々に異世界にも慣れていくのだが、そんな彼女に転機が訪れる。それ以降、これまで不明だった咲耶自身の力も解放され、様々な人々や精霊、魔物たちと出会い愛されていく。
これは、ちょっぴり天然な《咲耶》とチート従魔たちとのまったり異世界物語。
○○○
旧版を基に再編集しています。
第二章(16話付近)以降、完全オリジナルとなります。
旧版に関しては、8月1日に削除予定なのでご注意ください。
この作品は、ノベルアップ+にも投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる