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本編
第十一話
しおりを挟む私は青帝陛下のお名前を知らない。
なぜなら、神獣にとって、神名を明かすことは禁忌とされているから。
昔から、神獣の名を知っている者は、その神獣を従わせ、操ることができるといわれている。ゆえに、神獣は決して他者に名を明かさないのだと、書物には記されていた。
だから私は彼のことを「陛下」とお呼びするしかなく、それは他の人たちも同じだった。まれに龍の姿に戻られた陛下を見て、青龍様と呼ぶ人もいるらしいけど。青龍は種族名のようなもので、名前ではないらしい。
「連油はいつ気づいたの、翡翠の正体が陛下だって」
私の言葉に、台所でお茶を淹れていた連油は、ギクッとしたように振り向いた。
「何の話?」
「連油だけじゃない。他の下女や使用人の人たちも知ってたんでしょ? でなきゃ、翡翠がここに来た時、わざわざ私を呼びになんて来ないもの」
連油の、翡翠に対する態度も、後半おかしかったし。
「翡翠の正体をばらすなって、陛下に口止めされた?」
「……っていうか、あんたが鈍すぎなのよ。気づくの遅すぎ。陛下がおかわいそう」
責めるつもりが責められて、ぐうの音も出ない。
「後宮にいた時、先輩宮女に教えてもらったことがあるの。陛下は常にご多忙だから、政務で身動きが取れない時は、秘術を使われて、ご自身の分身を生み出すことがあるって。だからここで翡翠様に会った時、もしや……って思ったの」
確認したいことって、それだったのねと納得する。
そういえば私も、下級宮女だった頃にそんな話を聞いたような気もするが、その時も、堅苦しい感じの陛下と、いかにも自由奔放といった性格の翡翠を結びつけることはできなかった。
「なぜそのことを私に教えてくださらなかったのかしら」
「あんたに気づいてもらいたかったからじゃないの?」
「どうして?」
「知らないわよ。陛下にお聞きなさいな」
もっともだと思い、うなずく。
早速その日、夕餉の席で陛下に訊ねると、
「あれと私は別物だと考えてくれていい」
苦々しい口調で答える。
しかも翡翠のことを「あれ」呼ばわりとは。
「別物、ですか」
「確かにあれは、私の姿に似せて作った分身だ。番であるそなたを探し出すために、これまでも多くの分身を生み出してきた。厳密に言えば、私であって、私ではない」
突き放したような言い方に、私は寂しさを覚えた。
「そなたに隠していたつもりはない。ただ、言う必要がないと思ったからだ」
「でしたら三年前、翡翠が突然姿を消したのは?」
「分身の寿命は短い。本体である私から離れれば離れるほど、長くは生きられない」
だから命を落とす前に、本体である自分の元に戻ったのだと陛下は言う。
「翡翠は今、どこにいるのですか?」
「私の中に」
「子どもの頃、私は翡翠に助けられました。今でも、彼と過ごした時間を大切に思っています」
「――そうか」
そうか、って……。
自分の分身だと言っておきながら、まるで他人事のような口調に、もどかしさを感じる。
「陛下は、違うのですか?」
「あれの記憶はそのまま受け継いでいる。あれの目を通して、そなたを見ていたのだから」
まるで話が噛み合わないと、私はため息をついてしまう。
それとも故意に答えをはぐらかそうとしているのか。
「わかりました、陛下は翡翠のことがお嫌いなんですね」
図星だったらしく、陛下の眉間にくっきりと皺が刻まれている。
私もたまに、自分のことを嫌いになることがあるけれど。
思っていることや考えていることを口に出せない時なんか、特にそう。
――翡翠の何が、陛下のお気に障るのかしら。
考えるまでもないと、私は笑った。
私も最初は、翡翠のことを苦手に思っていたのだから。
――でも今は違う。
「陛下、私は翡翠のことが大好きなので、たまに会わせて下さると、嬉しいです」
***
「俺に嫉妬してるのか?」
珊瑚が去って、部屋にぽつんと残された青帝の前に、彼は現れた。
「嫉妬してるんだろ」
「……うるさい」
「もっと寛容になれよ。俺はあんたの一部なんだから」
にやっと悪ガキのような笑みを浮かべて、翡翠は青帝の前に立つ。
「って言っても無理か。俺も、珊瑚が俺たち以外の男に笑いかける姿なんか、見たくないもんな。けど、だからといって、珊瑚を軟禁するような真似は二度とするなよ」
「分身風情が、余に説教をする気か」
睨みつける。
「俺が言わなきゃ、誰が言うんだよ。あんたが時を巻き戻したのは、今回が初めてじゃない。これでもう五度目だ。延命の儀式を拒んだ珊瑚が、寿命を終えて死ぬたびに、あんたは時を巻き戻す。もう一度、彼女に会うために。彼女を失った絶望に耐え切れなくて――しかもご丁寧に、毎回、初めて彼女に会ったような、下手くそな演技付きで……」
「ゆえに結界に綻びが生じた」
「そろそろ、他の神獣たちもキレはじめている。他国の結界にも影響が出ているそうだ。次に時を巻き戻せば、あんたの命はないってさ」
他国の情勢を探り、情報を得ることも、分身としての役目である。
「いいかげん、珊瑚を解放してやれよ。彼女の選択を受け入れるんだ」
「そして余に狂い死ねと?」
「その前に俺が殺してやるさ。そのために、俺は生まれたんだから」
そうだったと、青帝は皮肉な笑みを浮かべる。
「自分にできないことをやらせるために、俺を作ったんだろ?」
「……ああ」
「俺は、あんたがなりたいと望む、あんたにとっての理想形態ってわけだ」
「自惚れるな。おまえは、人間的な性質を備えた、ただの分身にすぎぬ」
「けど、今回はうまくいった。だろ?」
過去に四度、番である珊瑚を探し出し、そばに置いて妻にしたが、彼女は一度も自分に心を開かなかった。罪人の娘であるという負い目を持ち、生涯、妻というより、使用人のように自分に仕えた。
「珊瑚は真面目で、ちょっと頭の固いところがあるからな」
「……余の力ではどうすることもできなかった」
「そりゃあ、あんたも馬鹿が付くほどの真面目だからさ」
いい意味で似た者同士なんだよと、翡翠は笑って言う。
「独占欲を剥き出しにした男は嫌われると、朱雀にちょっとからかわれただけで、後宮に入ったばかりの珊瑚を三年間も放置するんだからな。それでいきなり夜伽をさせるとか、鬼畜かよ」
呆れたように翡翠は続ける。
「その上、あいつに拒絶されたショックで軟禁するとか、ホントありえねぇ」
黙り込む青帝に、「だから俺に助けを求めたんだろ?」と翡翠は苦笑する。
「村を出たら、もうあいつには会わないつもりだったのに」
「……おまえがそばにいると、彼女は安心するようだ」
「子どもの頃から知ってるからな。刷り込みってやつだろ」
翡翠は肩をすくめて答える。
「俺は珊瑚を愛してる。あいつが喜ぶと嬉しいし、あいつが悲しむと胸が痛む」
「神獣が番を大切に思うのは当然のことだ」
「だったらもっと珊瑚の話を聞いてやれよ」
ぶすっとした口調で翡翠は言う。
「あいつの考えてることや、話したがっていることも聞かないで、何が大切にしている、だ。笑わせるな」
そう言い残し、翡翠は姿を消した。
正確には青帝が「戻れ」と念じたせいだが。
「忌々しい分身め」
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