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リヒト⑧
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僕は、僕の耳がおかしくなったのだと思った。
だって、五感を治す薬が見つかった、だなんて。
そんな嘘みたいなこと、あるはずがないから。
ふだんからあまり働いてくれない僕の耳が、いよいよおかしくなったのだと思った。
それか、やっぱり夢を見ているのだ。
僕にとって都合の良い夢を。
「リヒト? あれ、聞いてる? リヒト、僕のオメガ、ねぇ、いまの話聞こえてた?」
僕が固まってしまったからだろう。
ユーリ様が声のボリュームを上げて、こちらを覗き込んでくる。
僕はユーリ様の肩口をぎゅっと握りしめて、首を横へ振った。
「き、きこえません、でした」
「そう? じゃあもう一度言うよ。リヒト、僕はきみの目を治す薬を見つけたんだ。耳も治る。味も匂いもわかるようになるし、触覚だってちゃんと感じるようになる」
「…………嘘です」
「なぜ?」
「だって、ユーリ様は、そんなお薬はない、って……」
前にそう言ったのは、他ならぬユーリ様だ。
僕がそう答えると、ユーリ様は「うん」としずかに頷かれた。
それから僕のひたいに、ひたいをコツンと合わせて。
「ないと、思ってた。でも違った。リヒトの五感は治せる。そのための薬を僕が、見つけてきたんだよ」
ユーリ様の話し方は、いつも通り、どこまでもやさしかった。
嘘を言っているふうではなかった。
僕は急に怖くなってきた。
だって、あまりに嬉しいことを、教えてもらったから。
僕の目が見えるようになる、だなんて、あまりに嬉しいことを言ってもらったから。
もしもこれがやっぱり夢で、目が覚めて僕はひとりで、ユーリ様は帰っていらしてなくて、五感を治す薬なんてありませんと誰かに言われてしまったら。
僕はいったい、どうなってしまうのだろう。
想像だけで恐ろしくて、息がうまくできなくなる。
「リヒト~。リヒト、大丈夫。夢じゃないよ。僕が居る。リヒト、僕のオメガ。僕の言うこと、信じてくれる?」
ユーリ様が僕の抱えた不安ごと、全身をぎゅうっと抱きしめてきた。
なんで僕の気持ちがわかるのだろう。なんでユーリ様にはぜんぶ伝わってしまうのだろう。
それが不思議で、でも温度をあまり感じない皮膚の表面が、ユーリ様に触れてじわりとあったかくなっているような気がして、僕の呼吸は楽になった。
「僕は、ユーリ様を信じてます」
そうだ。信じてる。信じると、決めた。だからもう一度声に出す。
「ユーリ様を、信じてます」
「うん。ありがとう、僕のオメガ。じゃあこれが夢じゃないのもわかるね?」
「う……はい」
「いい子」
まだすんなりとは納得できないけれど、ユーリ様が仰るのだからと無理に自分に言い聞かせて頷いた僕に、ユーリ様がちゅっとキスをした。
どうでもいいけれど今日のユーリ様はたくさんキスをしてくれるし、ずっと僕を抱っこしていてくれる。
僕は嬉しいけど、ユーリ様は重くないのかな?
でも久しぶりのユーリ様の抱っこだから、自分から降りるなんてもったいなくてできない。ユーリ様が降りてと言うまではこのままでいいのかな。
そんなことを考えていた僕の耳に、
「リヒト様、シモンです」
とシモンさんの声が聞こえてきた。
ユーリ様の方へ向けていた顔をそちらへ振り向けると、シモンさんがやわらかに笑って、
「ずいぶんと顔色が良くなりましたなぁ。風邪には栄養が一番ですが、リヒト様の場合はユリウス殿下に勝る特効薬はないというわけですな」
穏やかにそう話しかけてきた。
先ほどエミール様にも似たようなことを言われた僕は、すこし恥ずかしくなる。
ユーリ様がお留守だとしょんぼりして、帰ってきた途端に元気になるなんて。あまりに子どもすぎるし単純すぎる。
うう……と身を縮めた僕は、続く言葉にハッとしてシモンさんを凝視した。
「さて、殿下の仰った五感を治す薬のことですが」
シモンさんが、白い小さな紙袋を取り出して、それを僕の手に握らせてきた。
「これが、ユリウス殿下が異国で発見された、あなたのための薬です」
僕はシモンさんの言葉を聞いてようやく、今回のユーリ様のお仕事と、僕の五感を治す薬とが関係あるのだと繋がった。
ユーリ様はまさか、このために遥々お出かけになったのだろうか。
騎士団の……お兄さんのクラウス様まで連れて。
僕の薬のために。
ユーリ様を振り仰いだ僕の表情から、僕の思いを読み取ってくださったのか、ユーリ様がひとつ頷きを返してくる。
「今回は、五感を治す薬を手に入れることができるかもしれないという情報を得て、遠征に行くことを決めたんだ。リヒト、そんな顔をしないで。僕が行きたかったから行っただけだよ。それに、薬が必ずあるとも限らなかった。不確かな情報だったから、前もってきみに説明することができなかったんだ。リヒト、さびしい思いをさせてごめんね」
僕の髪を撫でながら、ユーリ様が謝罪の言葉を口にされた。
なぜ、ごめんなんて言うのだろう。
僕の方こそ申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だって、僕のためにお出かけになられて、そんな事情も知らずに僕は自分のことしか考えられずに……ユーリ様に会いたい気持ちしか考えられずに、エミール様やテオバルドさんたちに迷惑をかけていたのだから。
謝るのは、僕の方だった。
でも僕が口を開こうとしたら、ユーリ様の唇で塞がれて、声が出せなくなる。
「リヒト。この件に関してはきみはなにも言わなくていい。いいね? 結果的に薬があったから良かったけど、手ぶらで帰ってくる可能性だってあったんだから。そうなったら僕は、ただ自分のつがいにさびしい思いをさせただけの、愚かなアルファだったんだよ」
くすり、とユーリ様が笑われる。
ぼやけた視界で、きちんと見えたわけではない。
それでも笑顔の形に滲む目や唇はなんとか僕にも確認できて、僕はなんと答えていいかわからずに、ユーリ様に啄まれた唇を、ただもごりと動かした。
「リヒト様。ユリウス殿下は異国で、あなたと同じ症状の患者が治るのを見た、と仰っています」
「えっ」
僕は無意識に、手の中の紙袋を握りしめていたようだった。
ユーリ様の手が重なってきて、くしゃくしゃになった紙袋を僕の手からそっと取り上げた。
ユーリ様はそこから、白く丸いものをひとつ出して、僕のてのひらに置いた。
「リヒト、シモンの言う通り、僕は患者が治る瞬間を見てきた。これが、そのときに使われていた薬だよ」
「まずは、一錠から試していきましょう。リヒト様、五感を治す方法は、この薬を毎食後に服用する、それだけです。ただし、注意事項がいくつか」
なんだか話が急に進みすぎて、呆気にとられるばかりの僕は、注意事項、と言われてごくりと唾を飲み込んだ。
薬、というものはこれまでも折りに触れて口にする機会があった。
それこそ十二年前、ユーリ様に拾われたときには僕は瀕死の状態だったというし、そこから二年間は眠りっぱなしで血管からも薬や栄養剤を入れてもらっていたらしい。
目が覚めてからも薬湯はよく飲んでいたし、体調を崩すことも多く、その度にベンさんがお薬を出してくれていた。
薬には、副作用というものがあるらしい。
たとえば解熱剤を飲むときは、手足がしびれたり皮膚がかゆくなったりすることが稀にあります、とベンさんから注意を受けた。
でも自分ではそういう副作用に気づくことができないし、そもそも五感が弱いせいで熱が上がってることにも気づけないような僕だったので、そのことに気をつけるのはもっぱらユーリ様の役目だった。
ユーリ様はふだんから僕のことをよく観察してくださっているけれど、体調を崩したときは、これ以上ないというほど事細かに僕に気を配ってくださっていた。
僕はてのひらの上にある丸薬を見つめた。
五感を治す、なんて魔法のような薬である。副作用も強いのかもしれない。
そしてそういう薬を口にするということは、僕に副作用が出ていないか観察する、というユーリ様の手間を増やしてしまうことになるのだ。
どうしよう。あまりこまかな注意が必要なようだったら、飲まない方がいいのかな。
俄かに迷いが生まれたけれど、そうと知らないシモンさんは続きを話しだしてしまった。
「まず、ひとつ。薬は忘れずに飲むこと。ひとつ、薬効には個人差があるということを理解すること。ひとつ、効果を実感できなかったとしても、勝手にやめないこと。以上です」
ひとつずつ、ゆっくりと説明したシモンさんは、そう締めくくった。
「……え……それだけですか?」
僕はポカンとしてしまい、つい問い直してしまう。
ええ、とシモンさんが頷いた。
「えっと、でも、あの、これを飲むことで、副作用みたいなのは」
「はいな。リヒト様はベルンハルトの言葉をよく覚えてらっしゃるのですなぁ。それは結構。しかし、この薬は、あなたにとって不利益となる症状が出ることは、一切ございません」
シモンさんがきっぱりと断言した。
どんな薬にも副作用はある、とベンさんから聞いた覚えのある僕はびっくりしてしまったけど、
「リヒト様。この薬は副作用ですら利用している、最新の技術で開発されたものなのですぞ。副作用の症状も、治療のひとつとして使える、というわけです」
滔々としたシモンさんの揺らぎない口調に納得して、
「すごいお薬ですね」
と呟いた。
ごふっとおかしな音が聞こえて顔を上げたら、ユーリ様が口を押さえてむせておられたので、僕は慌てて手を伸ばしてユーリ様の背中をさすった。
僕が咳をしたとき、ユーリ様がよくこうしてくださるので自然と覚えた仕草だった。
「ありがとう、リヒト。大丈夫だよ」
ふぅ、と肩で息をしたユーリ様がお礼とばかりに僕のおでこにキスをして、それから抱っこしている僕の姿勢を整えると、改めて僕を呼んだ。
「リヒト」
「はい」
「いま、シモンが言った通りだ。治療としては、この薬を忘れずに飲むだけ。ただし、効果には個人差がある。いいかい、必ずすべてが治る、というわけじゃない」
「……はい」
「でも、絶対に良くなる」
矛盾したことを、ユーリ様が仰った。
絶対に、良くなる。
「リヒト。きみが僕を信じるなら、きみの五感は治るよ。ねぇ僕のオメガ。僕はなにひとつあきらめないと、きみに言っただろう? きみの願いはすべて僕が叶える。だからきみは、僕の言葉を信じて」
「……ユーリ様」
「きみは治る」
「僕は……治る」
「そう。きみの目は、きみが見たいものを見ることができる。きみの耳は、聞きたいものを聞くことができる。美味しいものをたくさん食べることもできるし、お風呂に入って気持ちいな~と思うこともできる。リヒト。きみは自由だ。きみの感覚を遮るものはなにもない。きみの感覚は自由なんだよ」
ひとつひとつの言葉を、僕に沁み込ませるようにして、ユーリ様がゆっくりと語られた。
僕の感覚は自由……。
なんだか不思議な言い方だった。
まるでこれまで、僕の五感が縛り付けられていたかのような……。
「ふぁ……」
真面目な話をしてるのに、急にあくびが出て驚いた。
僕は焦りながら手で口を押さえた。
「ご、ごめんなさい」
急いで謝ったけれど、ユーリ様は怒っていなかった。
「リヒト、大丈夫。眠たい? まだすこし頑張れる?」
「は、はい」
なんで突然眠気が襲ってきたんだろう。
いまはしっかり、ユーリ様とシモンさんの話が聞きたいのに。
「リヒト。治療は受けるかい? 薬を飲むか飲まないかはきみが決めていい」
「飲みます!」
僕は即答した。
その途端またあくびが出た。脳の奥が重い。そんな感覚になった。
なんで。
さっきまであんなに寝ていたのに。
なんで急に、こんな……。
「リヒト。頑張れ」
「……ふぁい」
「口を開けて」
とろとろと微睡みながらも、僕は言われるままに口を開けた。
僕の手の上にあった錠剤をユーリ様が摘まみ上げ、口に入れてくださる。
シモンさんが差し出した水のグラス。それをユーリ様が口元まで運んでくれた。
こくり、こくり。
二口、嚥下する。
「リヒト、もう一度口を開けて」
「ふぁい」
ぱかりと口を開くと、ユーリ様が、
「うん、ちゃんと飲めてる」
と確認をしてくれて。
僕はホッとしてユーリ様の胸にもたれかかった。
「きみは治るよ、リヒト」
ユーリ様の声がぼわんと耳に溶けて、やさしく響いた。
僕は治る。
ユーリ様がそう仰るのだから。
僕はきっと、治るんだ……。
だって、五感を治す薬が見つかった、だなんて。
そんな嘘みたいなこと、あるはずがないから。
ふだんからあまり働いてくれない僕の耳が、いよいよおかしくなったのだと思った。
それか、やっぱり夢を見ているのだ。
僕にとって都合の良い夢を。
「リヒト? あれ、聞いてる? リヒト、僕のオメガ、ねぇ、いまの話聞こえてた?」
僕が固まってしまったからだろう。
ユーリ様が声のボリュームを上げて、こちらを覗き込んでくる。
僕はユーリ様の肩口をぎゅっと握りしめて、首を横へ振った。
「き、きこえません、でした」
「そう? じゃあもう一度言うよ。リヒト、僕はきみの目を治す薬を見つけたんだ。耳も治る。味も匂いもわかるようになるし、触覚だってちゃんと感じるようになる」
「…………嘘です」
「なぜ?」
「だって、ユーリ様は、そんなお薬はない、って……」
前にそう言ったのは、他ならぬユーリ様だ。
僕がそう答えると、ユーリ様は「うん」としずかに頷かれた。
それから僕のひたいに、ひたいをコツンと合わせて。
「ないと、思ってた。でも違った。リヒトの五感は治せる。そのための薬を僕が、見つけてきたんだよ」
ユーリ様の話し方は、いつも通り、どこまでもやさしかった。
嘘を言っているふうではなかった。
僕は急に怖くなってきた。
だって、あまりに嬉しいことを、教えてもらったから。
僕の目が見えるようになる、だなんて、あまりに嬉しいことを言ってもらったから。
もしもこれがやっぱり夢で、目が覚めて僕はひとりで、ユーリ様は帰っていらしてなくて、五感を治す薬なんてありませんと誰かに言われてしまったら。
僕はいったい、どうなってしまうのだろう。
想像だけで恐ろしくて、息がうまくできなくなる。
「リヒト~。リヒト、大丈夫。夢じゃないよ。僕が居る。リヒト、僕のオメガ。僕の言うこと、信じてくれる?」
ユーリ様が僕の抱えた不安ごと、全身をぎゅうっと抱きしめてきた。
なんで僕の気持ちがわかるのだろう。なんでユーリ様にはぜんぶ伝わってしまうのだろう。
それが不思議で、でも温度をあまり感じない皮膚の表面が、ユーリ様に触れてじわりとあったかくなっているような気がして、僕の呼吸は楽になった。
「僕は、ユーリ様を信じてます」
そうだ。信じてる。信じると、決めた。だからもう一度声に出す。
「ユーリ様を、信じてます」
「うん。ありがとう、僕のオメガ。じゃあこれが夢じゃないのもわかるね?」
「う……はい」
「いい子」
まだすんなりとは納得できないけれど、ユーリ様が仰るのだからと無理に自分に言い聞かせて頷いた僕に、ユーリ様がちゅっとキスをした。
どうでもいいけれど今日のユーリ様はたくさんキスをしてくれるし、ずっと僕を抱っこしていてくれる。
僕は嬉しいけど、ユーリ様は重くないのかな?
でも久しぶりのユーリ様の抱っこだから、自分から降りるなんてもったいなくてできない。ユーリ様が降りてと言うまではこのままでいいのかな。
そんなことを考えていた僕の耳に、
「リヒト様、シモンです」
とシモンさんの声が聞こえてきた。
ユーリ様の方へ向けていた顔をそちらへ振り向けると、シモンさんがやわらかに笑って、
「ずいぶんと顔色が良くなりましたなぁ。風邪には栄養が一番ですが、リヒト様の場合はユリウス殿下に勝る特効薬はないというわけですな」
穏やかにそう話しかけてきた。
先ほどエミール様にも似たようなことを言われた僕は、すこし恥ずかしくなる。
ユーリ様がお留守だとしょんぼりして、帰ってきた途端に元気になるなんて。あまりに子どもすぎるし単純すぎる。
うう……と身を縮めた僕は、続く言葉にハッとしてシモンさんを凝視した。
「さて、殿下の仰った五感を治す薬のことですが」
シモンさんが、白い小さな紙袋を取り出して、それを僕の手に握らせてきた。
「これが、ユリウス殿下が異国で発見された、あなたのための薬です」
僕はシモンさんの言葉を聞いてようやく、今回のユーリ様のお仕事と、僕の五感を治す薬とが関係あるのだと繋がった。
ユーリ様はまさか、このために遥々お出かけになったのだろうか。
騎士団の……お兄さんのクラウス様まで連れて。
僕の薬のために。
ユーリ様を振り仰いだ僕の表情から、僕の思いを読み取ってくださったのか、ユーリ様がひとつ頷きを返してくる。
「今回は、五感を治す薬を手に入れることができるかもしれないという情報を得て、遠征に行くことを決めたんだ。リヒト、そんな顔をしないで。僕が行きたかったから行っただけだよ。それに、薬が必ずあるとも限らなかった。不確かな情報だったから、前もってきみに説明することができなかったんだ。リヒト、さびしい思いをさせてごめんね」
僕の髪を撫でながら、ユーリ様が謝罪の言葉を口にされた。
なぜ、ごめんなんて言うのだろう。
僕の方こそ申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だって、僕のためにお出かけになられて、そんな事情も知らずに僕は自分のことしか考えられずに……ユーリ様に会いたい気持ちしか考えられずに、エミール様やテオバルドさんたちに迷惑をかけていたのだから。
謝るのは、僕の方だった。
でも僕が口を開こうとしたら、ユーリ様の唇で塞がれて、声が出せなくなる。
「リヒト。この件に関してはきみはなにも言わなくていい。いいね? 結果的に薬があったから良かったけど、手ぶらで帰ってくる可能性だってあったんだから。そうなったら僕は、ただ自分のつがいにさびしい思いをさせただけの、愚かなアルファだったんだよ」
くすり、とユーリ様が笑われる。
ぼやけた視界で、きちんと見えたわけではない。
それでも笑顔の形に滲む目や唇はなんとか僕にも確認できて、僕はなんと答えていいかわからずに、ユーリ様に啄まれた唇を、ただもごりと動かした。
「リヒト様。ユリウス殿下は異国で、あなたと同じ症状の患者が治るのを見た、と仰っています」
「えっ」
僕は無意識に、手の中の紙袋を握りしめていたようだった。
ユーリ様の手が重なってきて、くしゃくしゃになった紙袋を僕の手からそっと取り上げた。
ユーリ様はそこから、白く丸いものをひとつ出して、僕のてのひらに置いた。
「リヒト、シモンの言う通り、僕は患者が治る瞬間を見てきた。これが、そのときに使われていた薬だよ」
「まずは、一錠から試していきましょう。リヒト様、五感を治す方法は、この薬を毎食後に服用する、それだけです。ただし、注意事項がいくつか」
なんだか話が急に進みすぎて、呆気にとられるばかりの僕は、注意事項、と言われてごくりと唾を飲み込んだ。
薬、というものはこれまでも折りに触れて口にする機会があった。
それこそ十二年前、ユーリ様に拾われたときには僕は瀕死の状態だったというし、そこから二年間は眠りっぱなしで血管からも薬や栄養剤を入れてもらっていたらしい。
目が覚めてからも薬湯はよく飲んでいたし、体調を崩すことも多く、その度にベンさんがお薬を出してくれていた。
薬には、副作用というものがあるらしい。
たとえば解熱剤を飲むときは、手足がしびれたり皮膚がかゆくなったりすることが稀にあります、とベンさんから注意を受けた。
でも自分ではそういう副作用に気づくことができないし、そもそも五感が弱いせいで熱が上がってることにも気づけないような僕だったので、そのことに気をつけるのはもっぱらユーリ様の役目だった。
ユーリ様はふだんから僕のことをよく観察してくださっているけれど、体調を崩したときは、これ以上ないというほど事細かに僕に気を配ってくださっていた。
僕はてのひらの上にある丸薬を見つめた。
五感を治す、なんて魔法のような薬である。副作用も強いのかもしれない。
そしてそういう薬を口にするということは、僕に副作用が出ていないか観察する、というユーリ様の手間を増やしてしまうことになるのだ。
どうしよう。あまりこまかな注意が必要なようだったら、飲まない方がいいのかな。
俄かに迷いが生まれたけれど、そうと知らないシモンさんは続きを話しだしてしまった。
「まず、ひとつ。薬は忘れずに飲むこと。ひとつ、薬効には個人差があるということを理解すること。ひとつ、効果を実感できなかったとしても、勝手にやめないこと。以上です」
ひとつずつ、ゆっくりと説明したシモンさんは、そう締めくくった。
「……え……それだけですか?」
僕はポカンとしてしまい、つい問い直してしまう。
ええ、とシモンさんが頷いた。
「えっと、でも、あの、これを飲むことで、副作用みたいなのは」
「はいな。リヒト様はベルンハルトの言葉をよく覚えてらっしゃるのですなぁ。それは結構。しかし、この薬は、あなたにとって不利益となる症状が出ることは、一切ございません」
シモンさんがきっぱりと断言した。
どんな薬にも副作用はある、とベンさんから聞いた覚えのある僕はびっくりしてしまったけど、
「リヒト様。この薬は副作用ですら利用している、最新の技術で開発されたものなのですぞ。副作用の症状も、治療のひとつとして使える、というわけです」
滔々としたシモンさんの揺らぎない口調に納得して、
「すごいお薬ですね」
と呟いた。
ごふっとおかしな音が聞こえて顔を上げたら、ユーリ様が口を押さえてむせておられたので、僕は慌てて手を伸ばしてユーリ様の背中をさすった。
僕が咳をしたとき、ユーリ様がよくこうしてくださるので自然と覚えた仕草だった。
「ありがとう、リヒト。大丈夫だよ」
ふぅ、と肩で息をしたユーリ様がお礼とばかりに僕のおでこにキスをして、それから抱っこしている僕の姿勢を整えると、改めて僕を呼んだ。
「リヒト」
「はい」
「いま、シモンが言った通りだ。治療としては、この薬を忘れずに飲むだけ。ただし、効果には個人差がある。いいかい、必ずすべてが治る、というわけじゃない」
「……はい」
「でも、絶対に良くなる」
矛盾したことを、ユーリ様が仰った。
絶対に、良くなる。
「リヒト。きみが僕を信じるなら、きみの五感は治るよ。ねぇ僕のオメガ。僕はなにひとつあきらめないと、きみに言っただろう? きみの願いはすべて僕が叶える。だからきみは、僕の言葉を信じて」
「……ユーリ様」
「きみは治る」
「僕は……治る」
「そう。きみの目は、きみが見たいものを見ることができる。きみの耳は、聞きたいものを聞くことができる。美味しいものをたくさん食べることもできるし、お風呂に入って気持ちいな~と思うこともできる。リヒト。きみは自由だ。きみの感覚を遮るものはなにもない。きみの感覚は自由なんだよ」
ひとつひとつの言葉を、僕に沁み込ませるようにして、ユーリ様がゆっくりと語られた。
僕の感覚は自由……。
なんだか不思議な言い方だった。
まるでこれまで、僕の五感が縛り付けられていたかのような……。
「ふぁ……」
真面目な話をしてるのに、急にあくびが出て驚いた。
僕は焦りながら手で口を押さえた。
「ご、ごめんなさい」
急いで謝ったけれど、ユーリ様は怒っていなかった。
「リヒト、大丈夫。眠たい? まだすこし頑張れる?」
「は、はい」
なんで突然眠気が襲ってきたんだろう。
いまはしっかり、ユーリ様とシモンさんの話が聞きたいのに。
「リヒト。治療は受けるかい? 薬を飲むか飲まないかはきみが決めていい」
「飲みます!」
僕は即答した。
その途端またあくびが出た。脳の奥が重い。そんな感覚になった。
なんで。
さっきまであんなに寝ていたのに。
なんで急に、こんな……。
「リヒト。頑張れ」
「……ふぁい」
「口を開けて」
とろとろと微睡みながらも、僕は言われるままに口を開けた。
僕の手の上にあった錠剤をユーリ様が摘まみ上げ、口に入れてくださる。
シモンさんが差し出した水のグラス。それをユーリ様が口元まで運んでくれた。
こくり、こくり。
二口、嚥下する。
「リヒト、もう一度口を開けて」
「ふぁい」
ぱかりと口を開くと、ユーリ様が、
「うん、ちゃんと飲めてる」
と確認をしてくれて。
僕はホッとしてユーリ様の胸にもたれかかった。
「きみは治るよ、リヒト」
ユーリ様の声がぼわんと耳に溶けて、やさしく響いた。
僕は治る。
ユーリ様がそう仰るのだから。
僕はきっと、治るんだ……。
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そんな彼の前に現れたのは、ミステリアスな傭兵カイ。
共に困難を乗り越えるうち、二人の間には強い絆が芽生え始める。
だがレオンには、誰にも言えない秘密があった。
彼は、この世界で蔑まれる存在――「オメガ」なのだ。
一方、レオンを追放した王国は、彼の不在によって崩壊の一途を辿っていた。
これは、どん底から這い上がる悪役令息が、運命の番と出会い、真実の愛と幸福を手に入れるまでの物語。
痛快な逆転劇と、とろけるほど甘い溺愛が織りなす、異世界やり直しロマンス!
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