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リヒト⑧
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トイレをすませた後で、僕はシモンさんの診察を受けた。
まだ微熱はあるみたいだけど、喉も赤くなってないし、胸の音もきれいだからお風呂に入っていいと言ってもらった。
ユーリ様は僕を抱っこしてお風呂場まで連れて行ってくださると、そのまま僕を丁寧に洗ってくれた。
ユーリ様に洗われるのは久しぶりだ。僕は嬉しくて嬉しくて、やっぱりこれは夢なのじゃないかなと疑った。
ユーリ様に会いたいと思いすぎて、ついには幻を生み出してしまったのかも。
ユーリ様の手は淀みなく動いて、僕はあっという間に全身を洗われて湯船に浸からせてもらった。
ユーリ様は服を着たまま、縁に腰を掛けてこちらを見下ろしてくる。
「リヒト。ついでに歯を磨こう。口を開けてごらん」
あまりに当然のように告げられて、僕はぱかりと口を開いた。
ユーリ様の持つ歯ブラシが、シャカシャカと動き出す。
あれ?
「うぉくじうんれみあれまふ」
歯磨きはユーリ様がお仕事でお屋敷を空けられる前も、僕が自分でしていた。ユーリ様にはちゃんと磨けたかの確認をしてもらっていただけなので「僕自分で磨けます」と言ってみたけれど、歯ブラシが邪魔して舌がうまく動かなかったようだ。自分でもおかしな言葉になったと思った。
ユーリ様がアハハと笑って、
「いいからいいから」
と、なにがいいのかよくわからない返事をして、そのまま僕の歯をきれいに磨いてくれた。
ユーリ様が手を動かしている間、僕がしたことと言ったら、湯船に浸かったまま口をあ~んと開けていたことと、うがいをしたことだけだ。
僕の体がよくぬくもったと判断したユーリ様が、抱っこで湯から引き揚げてくれて、その後は足の先から髪の先まで拭われ、服まで着せてもらった。
なぜかいつもお風呂上りに塗るクリームまで用意されていて、僕が首を傾げたら、
「テオが屋敷まで取りに行ってくれたんだよ」
とユーリ様が仰った。
テオバルドさんがユーリ様のお屋敷から持ってきたのは、肌のクリームだけではなかった。僕の枕元に常に置かれている飲み物も準備万端、整えられていた。
味のわからない僕は、ユーリ様にそれを飲むように促されても気づかなかったけれど、
「やっぱりうちのシェフの作ったものが、一番安心だ」
とのユーリ様のお言葉でそれを知った。
「飲めそうならぜんぶ飲んでね、リヒト」
ユーリ様に促されて、僕はグラスの中のドリンクをぜんぶ飲み干した。
「いい子」
ちゅ、と頬にキスをしたユーリ様が、僕の口元をてのひらで拭ってくださる。またこぼしてしまったのだ。恥ずかしい。
「きたなくして、ごめんなさい」
思わず謝ると、ユーリ様がペロリと僕の唇を舐めてきた。
「きたないなんて思ったことないよ、僕のオメガ。さて、食事に行こうか」
身支度の済んだ僕をひょいと抱っこして、ユーリ様が歩きだした。
ここがまだどこなのかわからなくて僕がきょろきょろしていたら、ユーリ様が、
「そうだ、言い忘れてた。リヒト、ここは王城だよ。いまから行くのは、前に僕たちが住んでいた部屋。覚えてる? 赤いカーペットのあの部屋だよ」
そう教えてくださった。
王城。そうか、ここはお城なのか。
なぜエミール様のお屋敷からここへ来たのかはわからなかったけれど、僕は以前暮らしていたユーリ様のお部屋で、ユーリ様と一緒に遅い昼食(昼食! 僕はちょっと寝すぎじゃないかな。朝がとっくに終わっているどころか、昼も大きく回っていたなんて)を摂った。
ユーリ様の膝に座って、ユーリ様が口に運んでくれる料理を食べる。食べる。食べる。
ユーリ様がお留守だった間のいっとき、僕がお祈りのために食事を断っていたことがユーリ様にばれないように、いつもこれだけ食べてたんですよと言わんばかりに僕は頑張って味のないそれらを頬張った。
ユーリ様はひと口ずつ、
「しっかり煮込まれたお肉だよ。とってもやわらかいよ」
とか、
「とうもろこしのポタージュだよ。とろとろで甘くておいしいよ」
とか、
「チーズパンだよ、このへんが香ばしくてとってもおいしいんだ」
と教えてくれて、僕の口に合わせた量を匙にのせてくれた。
ユーリ様との久しぶりの食事だ。それだけで僕のこころはウキウキと弾んで、楽しかった。
デザートのときにふと思い立って、ユーリ様の目の色のようにきれいな葡萄を一粒摘まみ上げた。
「ユーリ様もどうぞ」
そう言って、ユーリ様の唇と思しきあたりに持ち上げると、ユーリ様が「うわぁ!」と叫んだ。
その声が、遠いはずの僕の耳にもあまりに大きく響いたから、僕は驚いて手を引っ込めてしまった。
「あっ、待って! リヒト、僕にくれるの?」
「は、はい。いつも、ユーリ様が食べさせてくれるので」
「嬉しいな。僕の口に入れてくれる?」
ユーリ様があーんと口を開けたように見えたので、僕はそうっとそこに葡萄を入れた。
ころり、と転がった粒は無事にユーリ様の口に入ったようだ。
ユーリ様が、
「とっても美味しいよ、リヒト。ありがとう」
と笑って、お礼にと言って僕の口に三粒も入れてきたから、僕は一生懸命もぐもぐしなければならなかった。
食事の合間に水分もこまめに促された。
いつもはグラスやカップを手に持たされて、それを飲むように言われるのだけれど、今日はその飲み物までもユーリ様の手によって与えられた。
ユーリ様は僕に、果実水やミルクを飲ませながら、
「哺乳瓶があればよかったのに!」
と仰っていた。
哺乳瓶、と聞いて僕は、ユーリ様のお屋敷のどこかに僕以外のオメガのひとが居ることを思い出す。
赤ちゃんはいつ生まれるのだろうか。
僕はそのへんの知識がないから、よくわからない。
ユーリ様は以前にも哺乳瓶を欲しがっておられたから、プレゼントしたら喜んでくれるだろうか。飾緒ではなくて、哺乳瓶を作った方が良かったのかもしれない。
いまからでも間に合うだろうか。エミール様に聞いてみようかな。
そう考えている途中で、なんだかかなしくなってきた。
そうか、そうだった、ユーリ様のオメガは、僕だけじゃないのだった。
でも僕は決めたんだ。
ユーリ様と一緒に居るための強さを持つんだって、決めたから。
だからこれぐらいのことは、気にしたらダメなんだ。
「リヒト? リヒト、どうしたの?」
突然、ぎゅうっとユーリ様に抱き締められた。
驚いてユーリ様を振り仰ぐと、ユーリ様が僕のこめかみに唇を寄せて、
「なにがかなしいの?」
と訊いてきた。
僕はびっくりして目をパチパチとしてしまう。
「……僕、かなしくなんてないです」
なんでバレてしまったんだろうと焦りながらも、慌ててごまかす。
するとユーリ様がちゅ、ちゅ、と僕の顔のあちこちにキスをして、
「そう? きみのかなしみは僕のかなしみだから、なにかあったらちゃんと教えてほしい」
そんな、やさしい言葉をかけてくださった。
食事が終わると、ユーリ様が僕を抱っこしたまま、しずかな口調で切り出された。
「リヒト。シモンを呼んでもいいかな?」
シモンさん。また僕の診察だろうか?
拒む理由もなくて、僕ははいと頷いた。
ユーリ様が呼び鈴を鳴らし、侍従のひとを呼んだ。テオバルドさんだろうか? それともロンバードさんかな。茶色い髪のひとだ。テオバルドさんなら、クリームと飲み物のお礼を言いたかったけれど、そのひとはすぐにシモンさんを呼びに走って行ってしまった。
シモンさんはすぐにやってきた。
食事の片づけをするから、とユーリ様は隣の部屋へと移った。その部屋にはソファがいくつかあって、その内のひとつにユーリ様が腰を下ろされた。
抱っこされていた僕も当然のことながらユーリ様の膝に抱かれて座る形となる。
僕の前にシモンさんが椅子を引っ張ってきて座った。
「リヒト、昨日の話を覚えてる?」
耳元で、ユーリ様が問いかけてくる。
昨日の話。それはエミール様のお屋敷の、寝台の中で交わした会話のことだろう。
僕は夢の中の出来事だと思っていたけれど、あれは実際にあったことで。
「僕が、僕はなにもあきらめないよときみに言ったのは、覚えてる?」
問われて、僕は頷いた。
「リヒト。きみの願いは僕がぜんぶ叶える。それが僕の願いだからね」
「……ユーリ様」
「リヒト、きみは僕に、目が見えるようになりたいと、言った。その気持ちに変わりはない?」
僕の耳に、くっきりと届くように告げられた質問。
僕は視界のぼやける両目を限界まで見開いて、ユーリ様を見つめた。
頷いていいのかわからない。
だって、前にそれを尋ねたとき……目を治すお薬はありますかと訊いたとき、ユーリ様はないと仰っていたから。
あると言ってあげたいけど、それはできないと、仰っていたから。
だから、頷いていいのかわからなかった。
「リヒト」
ユーリ様のてのひらが、僕の両頬を包んだ。
僕の触覚が正常だったなら、その感触が伝わってくるだろうか。
ユーリ様の体温が。皮膚の匂いが。頬を撫でる感触が。
僕にもわかっただろうか。
「リヒト。きみの気持ちが聞きたい。教えてくれる? 僕に。リヒト、きみはどうしたい?」
あまりにやさしく問われて、僕の喉の奥が苦しくなった。
唇を開くと、無意識に嗚咽が漏れた。
うえ……と泣き声が出て、それで僕は自分が泣いていることに気づいた。
「ぼ、僕……ぼく」
僕は。
僕は。
「僕は……ゆぅり様のお顔が、見たいです」
ユーリ様のお顔が見たい。
ちゃんと、はっきり見たい。離れても思い出せるように。他のひとと間違えたりしないように。
お顔が見たい。
声も聞きたい。くっきりと、もっときちんと聞き取りたい。ぼわんと頼りない、こもった音ではなくて、ユーリ様の声として認識したい。
温もりも、匂いも、ユーリ様のものはぜんぶ、ぜんぶ、僕に刻み付けたい。それを感じるだけで、ああこれはユーリ様だ、と認識ができるように。
僕は。
僕は……。
どもりながら、詰まりながら、それでも僕はそう訴えた。
ユーリ様はそんな僕の背を撫でながら、ときにぎゅうっと抱きしめて下さりながら、最後までしずかに聞いていてくれた。
そして話し終わった僕の、涙で濡れた顔を両手で包んで。
「リヒト。よく聞いて。僕は、きみの五感を治す薬を発見したんだ」
信じがたい言葉を、ゆっくりと告げてきた。
まだ微熱はあるみたいだけど、喉も赤くなってないし、胸の音もきれいだからお風呂に入っていいと言ってもらった。
ユーリ様は僕を抱っこしてお風呂場まで連れて行ってくださると、そのまま僕を丁寧に洗ってくれた。
ユーリ様に洗われるのは久しぶりだ。僕は嬉しくて嬉しくて、やっぱりこれは夢なのじゃないかなと疑った。
ユーリ様に会いたいと思いすぎて、ついには幻を生み出してしまったのかも。
ユーリ様の手は淀みなく動いて、僕はあっという間に全身を洗われて湯船に浸からせてもらった。
ユーリ様は服を着たまま、縁に腰を掛けてこちらを見下ろしてくる。
「リヒト。ついでに歯を磨こう。口を開けてごらん」
あまりに当然のように告げられて、僕はぱかりと口を開いた。
ユーリ様の持つ歯ブラシが、シャカシャカと動き出す。
あれ?
「うぉくじうんれみあれまふ」
歯磨きはユーリ様がお仕事でお屋敷を空けられる前も、僕が自分でしていた。ユーリ様にはちゃんと磨けたかの確認をしてもらっていただけなので「僕自分で磨けます」と言ってみたけれど、歯ブラシが邪魔して舌がうまく動かなかったようだ。自分でもおかしな言葉になったと思った。
ユーリ様がアハハと笑って、
「いいからいいから」
と、なにがいいのかよくわからない返事をして、そのまま僕の歯をきれいに磨いてくれた。
ユーリ様が手を動かしている間、僕がしたことと言ったら、湯船に浸かったまま口をあ~んと開けていたことと、うがいをしたことだけだ。
僕の体がよくぬくもったと判断したユーリ様が、抱っこで湯から引き揚げてくれて、その後は足の先から髪の先まで拭われ、服まで着せてもらった。
なぜかいつもお風呂上りに塗るクリームまで用意されていて、僕が首を傾げたら、
「テオが屋敷まで取りに行ってくれたんだよ」
とユーリ様が仰った。
テオバルドさんがユーリ様のお屋敷から持ってきたのは、肌のクリームだけではなかった。僕の枕元に常に置かれている飲み物も準備万端、整えられていた。
味のわからない僕は、ユーリ様にそれを飲むように促されても気づかなかったけれど、
「やっぱりうちのシェフの作ったものが、一番安心だ」
とのユーリ様のお言葉でそれを知った。
「飲めそうならぜんぶ飲んでね、リヒト」
ユーリ様に促されて、僕はグラスの中のドリンクをぜんぶ飲み干した。
「いい子」
ちゅ、と頬にキスをしたユーリ様が、僕の口元をてのひらで拭ってくださる。またこぼしてしまったのだ。恥ずかしい。
「きたなくして、ごめんなさい」
思わず謝ると、ユーリ様がペロリと僕の唇を舐めてきた。
「きたないなんて思ったことないよ、僕のオメガ。さて、食事に行こうか」
身支度の済んだ僕をひょいと抱っこして、ユーリ様が歩きだした。
ここがまだどこなのかわからなくて僕がきょろきょろしていたら、ユーリ様が、
「そうだ、言い忘れてた。リヒト、ここは王城だよ。いまから行くのは、前に僕たちが住んでいた部屋。覚えてる? 赤いカーペットのあの部屋だよ」
そう教えてくださった。
王城。そうか、ここはお城なのか。
なぜエミール様のお屋敷からここへ来たのかはわからなかったけれど、僕は以前暮らしていたユーリ様のお部屋で、ユーリ様と一緒に遅い昼食(昼食! 僕はちょっと寝すぎじゃないかな。朝がとっくに終わっているどころか、昼も大きく回っていたなんて)を摂った。
ユーリ様の膝に座って、ユーリ様が口に運んでくれる料理を食べる。食べる。食べる。
ユーリ様がお留守だった間のいっとき、僕がお祈りのために食事を断っていたことがユーリ様にばれないように、いつもこれだけ食べてたんですよと言わんばかりに僕は頑張って味のないそれらを頬張った。
ユーリ様はひと口ずつ、
「しっかり煮込まれたお肉だよ。とってもやわらかいよ」
とか、
「とうもろこしのポタージュだよ。とろとろで甘くておいしいよ」
とか、
「チーズパンだよ、このへんが香ばしくてとってもおいしいんだ」
と教えてくれて、僕の口に合わせた量を匙にのせてくれた。
ユーリ様との久しぶりの食事だ。それだけで僕のこころはウキウキと弾んで、楽しかった。
デザートのときにふと思い立って、ユーリ様の目の色のようにきれいな葡萄を一粒摘まみ上げた。
「ユーリ様もどうぞ」
そう言って、ユーリ様の唇と思しきあたりに持ち上げると、ユーリ様が「うわぁ!」と叫んだ。
その声が、遠いはずの僕の耳にもあまりに大きく響いたから、僕は驚いて手を引っ込めてしまった。
「あっ、待って! リヒト、僕にくれるの?」
「は、はい。いつも、ユーリ様が食べさせてくれるので」
「嬉しいな。僕の口に入れてくれる?」
ユーリ様があーんと口を開けたように見えたので、僕はそうっとそこに葡萄を入れた。
ころり、と転がった粒は無事にユーリ様の口に入ったようだ。
ユーリ様が、
「とっても美味しいよ、リヒト。ありがとう」
と笑って、お礼にと言って僕の口に三粒も入れてきたから、僕は一生懸命もぐもぐしなければならなかった。
食事の合間に水分もこまめに促された。
いつもはグラスやカップを手に持たされて、それを飲むように言われるのだけれど、今日はその飲み物までもユーリ様の手によって与えられた。
ユーリ様は僕に、果実水やミルクを飲ませながら、
「哺乳瓶があればよかったのに!」
と仰っていた。
哺乳瓶、と聞いて僕は、ユーリ様のお屋敷のどこかに僕以外のオメガのひとが居ることを思い出す。
赤ちゃんはいつ生まれるのだろうか。
僕はそのへんの知識がないから、よくわからない。
ユーリ様は以前にも哺乳瓶を欲しがっておられたから、プレゼントしたら喜んでくれるだろうか。飾緒ではなくて、哺乳瓶を作った方が良かったのかもしれない。
いまからでも間に合うだろうか。エミール様に聞いてみようかな。
そう考えている途中で、なんだかかなしくなってきた。
そうか、そうだった、ユーリ様のオメガは、僕だけじゃないのだった。
でも僕は決めたんだ。
ユーリ様と一緒に居るための強さを持つんだって、決めたから。
だからこれぐらいのことは、気にしたらダメなんだ。
「リヒト? リヒト、どうしたの?」
突然、ぎゅうっとユーリ様に抱き締められた。
驚いてユーリ様を振り仰ぐと、ユーリ様が僕のこめかみに唇を寄せて、
「なにがかなしいの?」
と訊いてきた。
僕はびっくりして目をパチパチとしてしまう。
「……僕、かなしくなんてないです」
なんでバレてしまったんだろうと焦りながらも、慌ててごまかす。
するとユーリ様がちゅ、ちゅ、と僕の顔のあちこちにキスをして、
「そう? きみのかなしみは僕のかなしみだから、なにかあったらちゃんと教えてほしい」
そんな、やさしい言葉をかけてくださった。
食事が終わると、ユーリ様が僕を抱っこしたまま、しずかな口調で切り出された。
「リヒト。シモンを呼んでもいいかな?」
シモンさん。また僕の診察だろうか?
拒む理由もなくて、僕ははいと頷いた。
ユーリ様が呼び鈴を鳴らし、侍従のひとを呼んだ。テオバルドさんだろうか? それともロンバードさんかな。茶色い髪のひとだ。テオバルドさんなら、クリームと飲み物のお礼を言いたかったけれど、そのひとはすぐにシモンさんを呼びに走って行ってしまった。
シモンさんはすぐにやってきた。
食事の片づけをするから、とユーリ様は隣の部屋へと移った。その部屋にはソファがいくつかあって、その内のひとつにユーリ様が腰を下ろされた。
抱っこされていた僕も当然のことながらユーリ様の膝に抱かれて座る形となる。
僕の前にシモンさんが椅子を引っ張ってきて座った。
「リヒト、昨日の話を覚えてる?」
耳元で、ユーリ様が問いかけてくる。
昨日の話。それはエミール様のお屋敷の、寝台の中で交わした会話のことだろう。
僕は夢の中の出来事だと思っていたけれど、あれは実際にあったことで。
「僕が、僕はなにもあきらめないよときみに言ったのは、覚えてる?」
問われて、僕は頷いた。
「リヒト。きみの願いは僕がぜんぶ叶える。それが僕の願いだからね」
「……ユーリ様」
「リヒト、きみは僕に、目が見えるようになりたいと、言った。その気持ちに変わりはない?」
僕の耳に、くっきりと届くように告げられた質問。
僕は視界のぼやける両目を限界まで見開いて、ユーリ様を見つめた。
頷いていいのかわからない。
だって、前にそれを尋ねたとき……目を治すお薬はありますかと訊いたとき、ユーリ様はないと仰っていたから。
あると言ってあげたいけど、それはできないと、仰っていたから。
だから、頷いていいのかわからなかった。
「リヒト」
ユーリ様のてのひらが、僕の両頬を包んだ。
僕の触覚が正常だったなら、その感触が伝わってくるだろうか。
ユーリ様の体温が。皮膚の匂いが。頬を撫でる感触が。
僕にもわかっただろうか。
「リヒト。きみの気持ちが聞きたい。教えてくれる? 僕に。リヒト、きみはどうしたい?」
あまりにやさしく問われて、僕の喉の奥が苦しくなった。
唇を開くと、無意識に嗚咽が漏れた。
うえ……と泣き声が出て、それで僕は自分が泣いていることに気づいた。
「ぼ、僕……ぼく」
僕は。
僕は。
「僕は……ゆぅり様のお顔が、見たいです」
ユーリ様のお顔が見たい。
ちゃんと、はっきり見たい。離れても思い出せるように。他のひとと間違えたりしないように。
お顔が見たい。
声も聞きたい。くっきりと、もっときちんと聞き取りたい。ぼわんと頼りない、こもった音ではなくて、ユーリ様の声として認識したい。
温もりも、匂いも、ユーリ様のものはぜんぶ、ぜんぶ、僕に刻み付けたい。それを感じるだけで、ああこれはユーリ様だ、と認識ができるように。
僕は。
僕は……。
どもりながら、詰まりながら、それでも僕はそう訴えた。
ユーリ様はそんな僕の背を撫でながら、ときにぎゅうっと抱きしめて下さりながら、最後までしずかに聞いていてくれた。
そして話し終わった僕の、涙で濡れた顔を両手で包んで。
「リヒト。よく聞いて。僕は、きみの五感を治す薬を発見したんだ」
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