溺愛アルファの完璧なる巣作り

夕凪

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リヒト⑧

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 けれど、それから三日経っても四日経っても、十日が経過しても僕の五感は良くならなかった。
 
 薬を飲み始めて変わったものといえば、僕の食事の回数ぐらいだ。
 前は一日二食だったのが、毎食後に飲むようにと言われたから、朝昼夕の三食に増えたのだった。

 朝と夕は、これまで通りユーリ様が。
 昼は、テオバルドさんか遊びに来てくださるエミール様が食べさせてくれる。
 そして食事の最後に、僕がちゃんと薬を飲めたかを確認してくれる。

 絶対に良くなる、とユーリ様は言ってくれたし、僕もそのお言葉を信じているから、今日こそは目がすこし良くなりますように、今日こそは耳がすこし聞こえるようになりますようにとお祈りをながら白い錠剤を飲み続けた。

 でも、僕の五感は治らない。

 まるでハーゼのときのようだ、と僕は思った。

 僕がハーゼだったとき、今日こそは神様の声が聞こえますように、今日こそは信者のひとたちに喜んでもらえますようにと祈り続けたけれど、結局はそれは果たされずに、僕の祈りはみんなを苦しめただけだった。

 やっぱり僕は、ダメなのだ。
 ハーゼとしても、オメガとしても出来損ないだから。
 せっかくのこの薬も、ムダにしてしまうだけだろう。

 日が経つにつれ、思考が悪い方へ悪い方へと流れてゆく。

 薬を飲むのはもうやめます、と言わなければならない。
 治らないのに飲み続けても仕方ない。
 それにこのお薬だって、誰かが……シモンさんたちが、僕のためにわざわざ作ってくれているのだろうから、僕が薬をやめたらその手間もなくなって、もっと他の有意義なことに時間を使えるようになるはずだ。

 そんなことを考えながら、僕は今日も薬を飲む。
 薬を飲むのはもうやめます、と。
 それをユーリ様へ告げればいいだけなのに。
 そんな簡単なことができない。

 言えない。
 やめますと言うことができない。

 だって、まだ、あきらめられない。
 ユーリ様のお顔が見たい。
 ユーリ様の声が聞きたい。
 その願いを、あきらめることができない。

 ユーリ様は僕に言う。

「きみは必ず治るんだから、あせる必要はないんだよ、リヒト。今日良くならないからと言って、明日も同じとは限らない。リヒト、僕のオメガ、きみは治る。大丈夫だよ」

 毎朝、毎晩、僕にそう言ってくださる。

 僕は治る。治る。治したい。
 薬を飲むのをやめてしまったら、僕の視界は永遠にぼやけたままだ。耳は遠く、不鮮明なままだ。温もりも味も匂いも感じられないままなのだ。

 治る。僕は治る。ユーリ様がそう仰るのだから、必ず良くなる。
 なんども自分に言い聞かせているうちに、なぜかいつも眠くなる。
 まるで、このことについて考えるな、と言われているみたいに。

 一度寝てしまうと、次に目を覚ましたとき、僕はまた迷ってしまう。
 薬を飲み続けるべきか。
 やめるべきか。


「僕は本当に良くなると思いますか?」

 薬を飲み始めてひと月が過ぎた頃、僕は耐え切れずにエミール様にそう言ってしまった。

 ユーリ様はお仕事に行かれており、僕とエミール様は温室で過ごしていた。
 冬の一番寒い時期が終わり、春が近づいているのだと言って、エミール様は温室の中心にある木の葉っぱを掻き分けて、花のつぼみを探されていた。
 その動作を見ながら僕は、ポロリと言ってしまったのだった。

 エミール様が驚いたように手を止めた。

「リヒト。……リヒト、座りましょうか」

 エミール様は穏やかな声で僕を誘い、椅子のあるところまで手を引いてくれた。
 促されるままに腰を下ろすと、僕の横に座ったエミール様が両手で僕の右手を包んできた。

「リヒト。不安ですか?」
「……はい」
「なにが一番、引っかかっていますか?」

 しずかに問われて、僕は息を吸い込んだ。

「……薬を飲んでも、なにも、変わりません」

 はふ……と浅い呼吸をしたら、声が詰まった。

「薬の効果には、個人差があるとオレは聞いています。まだ効果がないからと言って、薬が効いていないわけではないでしょう」

 エミール様に諭されて、僕は頷いた。

 そうなのだ。頭ではわかってる。
 わかっているのに、なぜだか無性にやめたいと思ってしまう。

 薬を飲みたくない。
 そう言って、すべて投げ出したい衝動が、僕のこころの深い部分にあった。

 なぜだろう。
 こんなにも治したいと思っているのに。
 同じだけの強さで、薬を飲むのをやめたいという気持ちが生まれてくる。

 僕はうつむいて、小さく唸った。
 自分の気持ちをどう説明していいかわからない。
 ユーリ様が僕のために異国にまで行って、手に入れてくださった薬。
 それを投げ出してしまいたいと考えるなんて、僕はどうかしている。

 頭が重い。
 苦しい。
 エミール様の手の中から右手を引き抜いて、僕は頭を抱えた。
 これ以上五感について考えていたら、また眠気が襲ってくる。そんな気がした。

「リヒト」

 エミール様の呼びかけが降って来る。
 顔を上げなければならない。エミール様の方を向いて、聞くことに集中しなければ会話ができない。
 僕はのろのろと視線を上げて、エミール様のお顔を見た。

 エミール様はハンカチのようなものを持っていて、それで僕の目を拭いてくださった。たぶん、涙がボロボロ出ているのだ。視界がいつもよりぼやけている。
 まばたきをしたら、すこしマシになった。

「リヒト。薬をやめますか?」

 ゆっくりと、エミール様が僕に、そう訊ねてきた。
 僕は呆然と、エミール様を見つめた。

「あなたのこころが苦しくなるのなら、薬を飲むのはやめてしまいなさい。リヒト、いまのままでいいじゃありませんか。無理に治す必要なんてどこにもない。あなたがいまの自分を受け入れることができるのなら、オレは、五感の弱いリヒトのままでいいです。ユーリ様もきっとそう仰います。いまのままのあなたでいい、と」

 エミール様がなにを言っているのかわからない。

 だって、いいはずがなかった。

 五感の弱い僕は、どこまでいってもお荷物で。
 ユーリ様の手を煩わせるだけの存在で。
 なにもできずにただ、ユーリ様に甘えて生きていくだけの……。

「いまのあなたでは嫌だと、ユーリ様が仰ったのですか?」

 エミール様がまた問いかけてくる。
 質問は止まらなかった。

「ユーリ様があなたに、五感を治せと言ったのですか? ユーリ様の方から言いましたか?」

 僕は……僕は、答えられずに、ただ、首を横に振った。

 ユーリ様が言ったのではない。
 僕が言ったのだ。
 目を治すお薬はありますか、と。
 最初にそれを乞うたのは僕だ。

 ユーリ様は一度も仰らなかった。
 僕に、五感を治せ、とは。

 ただ、僕が望んだから。
 ユーリ様のお顔が見たいと、僕が望んだから。
 ユーリ様はそれを、叶えようとしてくださっているだけなのだ。

「う……うぇぇ」

 嗚咽が漏れた。我慢ができずに僕は、声をあげて泣いた。

 僕の背を、エミール様が撫でてくださっている。
 感触はわからない。だけどエミール様のやさしさが、触れた場所から伝わってきていた。

「リヒト。ユーリ様もオレも、テオバルドたちも、いまのままのあなたでいいと思ってます。無理に治さなくていい。でも、あなたが治したいと願うなら、それを応援したい。リヒト、どうしたいですか? 薬をやめたい? やめたいならやめていいんです。大丈夫。言いにくければ、ユーリ様にはオレから伝えます」

 エミール様はそう言って、力強く頷いた。
 どちらを選んでもいいのだと、選択を僕に委ねて、ただしずかに僕の返事を待っている。

(きみの願いはすべて僕が叶える)
(リヒト、きみは自由だ)
(きみの感覚は自由なんだよ)

 ユーリ様の声が、耳の奥で幾重にも響いていた。
 あまりに僕の内側の隅々にまで響いたからか、気づけばいつも感じる眠気はどこか遠くへ追いやられていた。

 思考がいつもよりクリアになった気がした。
 僕は泣きながら口を開いた。

「ぼく……ぼく、ユーリ様を信じてます。だから頑張ります。頑張って、薬を飲み続けます。ぼく、僕……治したいんです」

 涙声で、でもちゃんと自分の意思を伝えることができて僕はホッとした。
 治したい、と声に出したら、さっきまでの迷いはなんだったのかと思えるほどに気持ちが軽くなっていた。

「リヒトっ!」

 エミール様がガバっと僕に抱き着いて、しっかりと抱擁してくれる。

「リヒト、ええ、頑張りましょうね。しんどくなったらオレになんでも言ってください。ユーリ様に言いにくいことも、なんでも聞きますから。オレにできることは少ないけれど、リヒト、あなたが頼ってくれるなら、オレも頑張ります!」

 一生懸命語りかけてくれるエミール様のお言葉が嬉しくて嬉しくて、笑みがこぼれる。

「エミール様、ありがとうございます、大好きです」

 エミール様の背中を抱き返して、僕はお礼を伝えた。

「リヒト……ううっ、天使っ!」 

 エミール様がたまに口にされる言葉を今日も叫んで、僕をさらにぎゅうっと抱きしめてきたけれど、やがてハタと体を離して、
「先ほどの言葉とこの抱擁はユーリ様にはくれぐれも内緒にしてくださいね」
 と、ひどく真面目な声音で仰られたから、僕はきょとんとしてしまった。

 


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