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リヒト⑧
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季節が変わった。
春になり、夏を迎えた。
それでも僕の五感は戻らなかった。
秋を過ぎ、冬になった。
僕の世界はユーリ様のお屋敷だけで完結されたままだった。
視覚は相変わらずぼやけて、耳は相変わらず遠くて、なにを食べても味がよくわからず、匂いもなくて、皮膚感覚も乏しい。
そんな状態が続いていた。
薬を飲んでもあまりに変化がないので、僕はなんども気鬱に襲われて、なんどもユーリ様やエミール様に泣きついた。
「リヒト。きみはもうずっと、二十年近くも五感が弱い状態だったんだから、薬だってそんなに早くは効かないよ。リヒト、僕のオメガ。大丈夫。きみは必ず良くなるから」
ユーリ様に揺らぎなくそう言ってもらうたびに、本当に治るんだろうか、と迷いが生じるし、
「リヒト。あなたがそんなにつらいなら、もう薬を飲むのはやめましょう。無理に頑張らなくてもいいんですよ」
エミール様にそう慰めてもらうたびに、ここであきらめたくはないという気持ちになる。
僕の意思はなんて弱いんだろう、と情けなくなる。
治したいと思う気持ちは本物なのに、それがこんなにもぐらぐらと揺れてしまうなんて。
治るかどうかわからない、という不安と。
僕がこのままだったら、せっかく薬を見つけてきてくださったユーリ様がガッカリするんじゃないかという不安と。
五感の弱い、役立たずなままの僕が、このままユーリ様のお傍に居ていいのかという不安が交じり合って、僕の胸を埋め尽くしてゆく。
でもそういうときは決まってユーリ様が僕を抱きしめて、
「リヒト。僕のオメガ。大丈夫だよ。不安に思うことなどなにひとつないよ」
とやさしい声を聞かせてくださる。
僕のオメガ。
ユーリ様のその言葉が、僕の宝物だ。
以前にユーリ様から貰ったお手紙は、特注の額に入れてもらい、寝室の枕元に飾ってある。
いつかあの手紙を読んでみたい。
僕自身の目で。
僕のリヒトへ、で始まる手紙を。
きみのユーリより、終わる手紙を。
ユーリ様の文字を。
僕の目で、読んでみたい。
「そういえばあまり眠らなくなったね、リヒト」
ユーリ様にそう指摘されたのは、薬を飲み始めてから一年が経った、冬のある日のことだった。
いつものように不安に襲われた僕は、ユーリ様の膝に抱っこされて、ユーリ様に抱きしめられながらベソベソしていたのだけれど、そんな僕のひたいにキスをくれたユーリ様がふと思い立ったかのように言ったのだ。
あまり眠らなくなった、と。
これまでの僕は、ユーリ様やエミール様に五感についての相談をしているとき、いつも話の途中で眠たくなってしまうことが多かった。
でもユーリ様の仰るように、最近はこうしてお話をしていても、あくびが出ることが減っている。
「いい兆候だよ」
ユーリ様はもう一度僕のおでこにキスをして、
「きみの脳への負担が減ってるんだ」
と、よくわからないことを言った。
「……脳への負担って、なんですか?」
僕が問いかけると、ユーリ様は「ん~」とすこし考える間を挟んで、それからゆっくりと話し出した。
「これまではリヒトの頭の中に、リヒトの五感を邪魔している悪いものが居たんだ。それを薬が順調に退治していってるんだと思うよ」
「悪いもの……小人ですか?」
「ええ? なんで小人?」
「前に……エミール様が、目に見えないほど小さな魔法の小人が居るって……」
「ああ、それで小人……」
くっくっ、とユーリ様が肩を揺すって笑った。膝の上に居る僕も揺れた。視界がすこし動いたので、揺れたのだろうとわかった。
「魔法の小人は、そうだなぁ、たまにいたずらもするけど、人間にとってはいいことをする方が多いから、どちらかというとリヒトの頭の中で悪いものをやっつけてくれる方じゃないかな」
「やっつけてくれる……」
「そう。きみの頭の中では、いまもきみの五感を治そうと、たくさんの小人が闘っているよ」
ユーリ様のお話はまるで子どもの頃にユーリ様に読んでいただいた絵本のようで、絵は見えないけれどユーリ様のお声を聞いてなんとかその光景を想像しようとしていた当時のように、僕は、なにか小さなものが僕の頭の中で奮闘している様を思い描いてみた。
視界はいつもぼやけているから、想像の世界もぼやけている。
それでも、僕の五感を邪魔しようとする悪いものと闘っている小人が見えた気がして、僕はうふふと笑ったのだった。
やがて、二度目の春がきた。
その日は眠りの世界から意識が浮上しだしたときから、なにかが違っていた。
なんだろう。
なにか、違和感がある。
そう考えながらごそりと寝返りを打った僕の耳に、
「おはよう、僕のオメガ。朝だよ」
と、いつものように僕を起こしてくれるユーリ様のお声が聞こえてきた。
……え?
待って。
いつもと違う!
「リヒト? お寝坊さんの僕のオメガ、そろそろ起きようか」
耳元で話しかけてくるユーリ様のお声。
そのお声が……。
「リヒト?」
「わぁっ!」
僕は思わずユーリ様の体を押しのけて、飛び起きた。
動いた途端にバランスを崩して倒れそうになる僕を、すかさずユーリ様が支えてくれる。
「リヒト? 大丈夫?」
僕を覗き込んで尋ねてくる、ユーリ様の声。声。声。
僕は咄嗟に耳を抑えた。
そうしないと耐えられないほど、鼓膜が震えていて。
「……ぼ、ぼく……」
呟いた自分の声すら、体の内側に大きく響いて驚いた。
「ぼく、ぼく……」
その言葉以外なにも言うことのできない僕を見て、ユーリ様が。
「リヒト……まさか、耳が……」
小さな声で、切れ切れに囁かれた。
その音までも僕には、しっかりと聞こえていて。
「……ゆぅりさまぁぁ」
あまりのことに僕は情けなくも泣き出してしまった。
自分の声がみっともなく揺れている。
泣き声がこんなふうに響くなんて、これまで知らなかった。
「リヒトっ!」
ユーリ様の両腕が、僕をぎゅうっと抱きしめてきた。耳元でごわりと音がした。なんの音かと思ったら、ユーリ様の服がこすれる音だった。
僕はがむしゃらに、ユーリ様の胸にほとんど顔を埋めるようにしてユーリ様を抱き返した。
トン、トン、トン、とユーリ様の胸で音がしている。
「ゆぅりさまの、むねで、おとが、しています」
泣きながら僕は、それを訴えた。
ユーリ様が笑った。
「僕の心臓の音だね」
そう言ったユーリ様の声も、僕と同じぐらい震えていて、僕はユーリ様を見上げた。
目は治っていないので、ぼやけたままだった。
手を伸ばしてユーリ様のお顔を触ってみたけれど、体温はわからないままだった。
でも、耳が。
聞こえるようになった耳が、ユーリ様も泣いていることを僕に教えている。
「ゆぅりさま、ユーリ様、ユーリ様」
「リヒト! 僕のリヒト。よく頑張ったね、リヒト」
蕩けそうなユーリ様の声が、僕をほめてくれたけれど、僕はなにも頑張っていない。頑張ったのは、泣き言を言う僕を支え続けてくださったユーリ様の方だ。
でも声が詰まってお礼もろくに言えない。
はふ……と息を吸い込むと、その音ですら耳にうるさいほどに聞こえてきて、僕は泣き笑いになってしまった。
「リヒト、シモンを呼ぶから、すこし待ってて」
ちゅ、とユーリ様が僕の目元にキスをして、ゆっくりと体を離した。
寝台から降りたユーリ様が、呼び鈴を鳴らした。
すぐに扉が開いて、テオバルドさんだろうか、茶色い髪のひとが入ってくる。
「シモンを呼べ。リヒトの耳が聞こえるようになった」
「はいっ、えっ? へっ? あっ、はいっ!」
僕に背中を向けての会話は、たぶん、これまでだったら聞こえなかった。でもいまの僕にはちゃんと聞こえる。戸惑うように、驚くように返事をした、テオバルドさんらしきひとの返事も。
バタバタバタっ、と聞こえるのは、廊下を走る音だろうか。
すごい。世界は音で溢れている。
聞き慣れないそれらに耳をそばだてていた僕のところへ、ユーリ様が戻ってこられる。
ユーリ様は僕をひょいと抱き上げて、
「シモンが来るまでに身支度を終えようか、リヒト」
と促してくださった。
僕はまだベソベソと泣きながらユーリ様の首にしがみついた。
そんな僕にユーリ様は。
「今日は泣き虫さんだね、僕のオメガ」
と笑いの混じったやさしい声を聞かせてくださった。
「耳が治ったんだから、他の感覚もきっと戻るよ。リヒト、僕のオメガ。きみが嬉しいと僕も嬉しい。僕をこんなにも喜ばせてくれてありがとう」
泣いている僕の耳元で、ユーリ様が囁く。
そのお声があまりに甘く響くから、あぁ、ユーリ様はこんなお声をしてたんだ、といまさらに実感して、その、びっくりするほど良いお声に僕は、なんだか急にとても恥ずかしくなって、ますますユーリ様の首筋に頬を押し付けてしまったのだった。
春になり、夏を迎えた。
それでも僕の五感は戻らなかった。
秋を過ぎ、冬になった。
僕の世界はユーリ様のお屋敷だけで完結されたままだった。
視覚は相変わらずぼやけて、耳は相変わらず遠くて、なにを食べても味がよくわからず、匂いもなくて、皮膚感覚も乏しい。
そんな状態が続いていた。
薬を飲んでもあまりに変化がないので、僕はなんども気鬱に襲われて、なんどもユーリ様やエミール様に泣きついた。
「リヒト。きみはもうずっと、二十年近くも五感が弱い状態だったんだから、薬だってそんなに早くは効かないよ。リヒト、僕のオメガ。大丈夫。きみは必ず良くなるから」
ユーリ様に揺らぎなくそう言ってもらうたびに、本当に治るんだろうか、と迷いが生じるし、
「リヒト。あなたがそんなにつらいなら、もう薬を飲むのはやめましょう。無理に頑張らなくてもいいんですよ」
エミール様にそう慰めてもらうたびに、ここであきらめたくはないという気持ちになる。
僕の意思はなんて弱いんだろう、と情けなくなる。
治したいと思う気持ちは本物なのに、それがこんなにもぐらぐらと揺れてしまうなんて。
治るかどうかわからない、という不安と。
僕がこのままだったら、せっかく薬を見つけてきてくださったユーリ様がガッカリするんじゃないかという不安と。
五感の弱い、役立たずなままの僕が、このままユーリ様のお傍に居ていいのかという不安が交じり合って、僕の胸を埋め尽くしてゆく。
でもそういうときは決まってユーリ様が僕を抱きしめて、
「リヒト。僕のオメガ。大丈夫だよ。不安に思うことなどなにひとつないよ」
とやさしい声を聞かせてくださる。
僕のオメガ。
ユーリ様のその言葉が、僕の宝物だ。
以前にユーリ様から貰ったお手紙は、特注の額に入れてもらい、寝室の枕元に飾ってある。
いつかあの手紙を読んでみたい。
僕自身の目で。
僕のリヒトへ、で始まる手紙を。
きみのユーリより、終わる手紙を。
ユーリ様の文字を。
僕の目で、読んでみたい。
「そういえばあまり眠らなくなったね、リヒト」
ユーリ様にそう指摘されたのは、薬を飲み始めてから一年が経った、冬のある日のことだった。
いつものように不安に襲われた僕は、ユーリ様の膝に抱っこされて、ユーリ様に抱きしめられながらベソベソしていたのだけれど、そんな僕のひたいにキスをくれたユーリ様がふと思い立ったかのように言ったのだ。
あまり眠らなくなった、と。
これまでの僕は、ユーリ様やエミール様に五感についての相談をしているとき、いつも話の途中で眠たくなってしまうことが多かった。
でもユーリ様の仰るように、最近はこうしてお話をしていても、あくびが出ることが減っている。
「いい兆候だよ」
ユーリ様はもう一度僕のおでこにキスをして、
「きみの脳への負担が減ってるんだ」
と、よくわからないことを言った。
「……脳への負担って、なんですか?」
僕が問いかけると、ユーリ様は「ん~」とすこし考える間を挟んで、それからゆっくりと話し出した。
「これまではリヒトの頭の中に、リヒトの五感を邪魔している悪いものが居たんだ。それを薬が順調に退治していってるんだと思うよ」
「悪いもの……小人ですか?」
「ええ? なんで小人?」
「前に……エミール様が、目に見えないほど小さな魔法の小人が居るって……」
「ああ、それで小人……」
くっくっ、とユーリ様が肩を揺すって笑った。膝の上に居る僕も揺れた。視界がすこし動いたので、揺れたのだろうとわかった。
「魔法の小人は、そうだなぁ、たまにいたずらもするけど、人間にとってはいいことをする方が多いから、どちらかというとリヒトの頭の中で悪いものをやっつけてくれる方じゃないかな」
「やっつけてくれる……」
「そう。きみの頭の中では、いまもきみの五感を治そうと、たくさんの小人が闘っているよ」
ユーリ様のお話はまるで子どもの頃にユーリ様に読んでいただいた絵本のようで、絵は見えないけれどユーリ様のお声を聞いてなんとかその光景を想像しようとしていた当時のように、僕は、なにか小さなものが僕の頭の中で奮闘している様を思い描いてみた。
視界はいつもぼやけているから、想像の世界もぼやけている。
それでも、僕の五感を邪魔しようとする悪いものと闘っている小人が見えた気がして、僕はうふふと笑ったのだった。
やがて、二度目の春がきた。
その日は眠りの世界から意識が浮上しだしたときから、なにかが違っていた。
なんだろう。
なにか、違和感がある。
そう考えながらごそりと寝返りを打った僕の耳に、
「おはよう、僕のオメガ。朝だよ」
と、いつものように僕を起こしてくれるユーリ様のお声が聞こえてきた。
……え?
待って。
いつもと違う!
「リヒト? お寝坊さんの僕のオメガ、そろそろ起きようか」
耳元で話しかけてくるユーリ様のお声。
そのお声が……。
「リヒト?」
「わぁっ!」
僕は思わずユーリ様の体を押しのけて、飛び起きた。
動いた途端にバランスを崩して倒れそうになる僕を、すかさずユーリ様が支えてくれる。
「リヒト? 大丈夫?」
僕を覗き込んで尋ねてくる、ユーリ様の声。声。声。
僕は咄嗟に耳を抑えた。
そうしないと耐えられないほど、鼓膜が震えていて。
「……ぼ、ぼく……」
呟いた自分の声すら、体の内側に大きく響いて驚いた。
「ぼく、ぼく……」
その言葉以外なにも言うことのできない僕を見て、ユーリ様が。
「リヒト……まさか、耳が……」
小さな声で、切れ切れに囁かれた。
その音までも僕には、しっかりと聞こえていて。
「……ゆぅりさまぁぁ」
あまりのことに僕は情けなくも泣き出してしまった。
自分の声がみっともなく揺れている。
泣き声がこんなふうに響くなんて、これまで知らなかった。
「リヒトっ!」
ユーリ様の両腕が、僕をぎゅうっと抱きしめてきた。耳元でごわりと音がした。なんの音かと思ったら、ユーリ様の服がこすれる音だった。
僕はがむしゃらに、ユーリ様の胸にほとんど顔を埋めるようにしてユーリ様を抱き返した。
トン、トン、トン、とユーリ様の胸で音がしている。
「ゆぅりさまの、むねで、おとが、しています」
泣きながら僕は、それを訴えた。
ユーリ様が笑った。
「僕の心臓の音だね」
そう言ったユーリ様の声も、僕と同じぐらい震えていて、僕はユーリ様を見上げた。
目は治っていないので、ぼやけたままだった。
手を伸ばしてユーリ様のお顔を触ってみたけれど、体温はわからないままだった。
でも、耳が。
聞こえるようになった耳が、ユーリ様も泣いていることを僕に教えている。
「ゆぅりさま、ユーリ様、ユーリ様」
「リヒト! 僕のリヒト。よく頑張ったね、リヒト」
蕩けそうなユーリ様の声が、僕をほめてくれたけれど、僕はなにも頑張っていない。頑張ったのは、泣き言を言う僕を支え続けてくださったユーリ様の方だ。
でも声が詰まってお礼もろくに言えない。
はふ……と息を吸い込むと、その音ですら耳にうるさいほどに聞こえてきて、僕は泣き笑いになってしまった。
「リヒト、シモンを呼ぶから、すこし待ってて」
ちゅ、とユーリ様が僕の目元にキスをして、ゆっくりと体を離した。
寝台から降りたユーリ様が、呼び鈴を鳴らした。
すぐに扉が開いて、テオバルドさんだろうか、茶色い髪のひとが入ってくる。
「シモンを呼べ。リヒトの耳が聞こえるようになった」
「はいっ、えっ? へっ? あっ、はいっ!」
僕に背中を向けての会話は、たぶん、これまでだったら聞こえなかった。でもいまの僕にはちゃんと聞こえる。戸惑うように、驚くように返事をした、テオバルドさんらしきひとの返事も。
バタバタバタっ、と聞こえるのは、廊下を走る音だろうか。
すごい。世界は音で溢れている。
聞き慣れないそれらに耳をそばだてていた僕のところへ、ユーリ様が戻ってこられる。
ユーリ様は僕をひょいと抱き上げて、
「シモンが来るまでに身支度を終えようか、リヒト」
と促してくださった。
僕はまだベソベソと泣きながらユーリ様の首にしがみついた。
そんな僕にユーリ様は。
「今日は泣き虫さんだね、僕のオメガ」
と笑いの混じったやさしい声を聞かせてくださった。
「耳が治ったんだから、他の感覚もきっと戻るよ。リヒト、僕のオメガ。きみが嬉しいと僕も嬉しい。僕をこんなにも喜ばせてくれてありがとう」
泣いている僕の耳元で、ユーリ様が囁く。
そのお声があまりに甘く響くから、あぁ、ユーリ様はこんなお声をしてたんだ、といまさらに実感して、その、びっくりするほど良いお声に僕は、なんだか急にとても恥ずかしくなって、ますますユーリ様の首筋に頬を押し付けてしまったのだった。
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