溺愛アルファの完璧なる巣作り

夕凪

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 しずかな声音で、ユリウスは問いかけた。
 リヒトの目が、これ以上はないというほど大きく見開かれた。

「なぜ、ユーリ様が怖いのですか?」

 心底不思議そうに問い返され、ユリウスは思わず笑ってしまった。

 そうか、この子はなにもわからないのだ。
 肉欲を覚えたことがないから、自分がそういう対象として見られることも理解ができない。
 いまのキスも、いつもと違うから困惑しただけで、そこからユリウスの抱く劣情を感じ取れるほどの知識も経験も、リヒトには存在しないのだった。

 ユリウスは笑いに紛れて身の内に巣食う欲望を散らし、リヒトの銀糸の髪を撫でて、
「なんでもないよ」
 と告げた。

「リヒト、今日は触覚が戻ったばかりで疲れたよね。もう寝ようか」
「僕、疲れてません」
「きみはそう言うけど、目と耳が治ったときもきみは、泥のように眠ってたよ。知らず知らずに気を張ってるんだ。今日は寝よう。ね、僕のオメガ」

 ちゅ、と目元にキスをしてから立ち上がり、ユリウスが左手を差し出すと、リヒトは迷うようにユリウスの手と顔を見比べていたが、結局は「はい」と頷いて、大人しく手を重ねてきた。
 軽く引くと抵抗もなくリヒトが腰を上げる。

 手を繋いだまま、廊下を歩いた。
 触覚が阻害されていたときは、バランスをとることができなくていつもふらふらしていたリヒトが、いまは危なげなく歩くことができている。

「リヒト、今度僕と一緒にお出かけしようか?」
「え?」
「いまのきみなら、色々なものに触れることができるよ。リヒト、まずはそうだなぁ……湖のある公園に行こうか。あそこならひとは少ないし、のんびり景色も楽しめる」

 おでかけ……とリヒトが口の中でつぶやいた。

 これまでの彼の世界は、王城の一室やこの屋敷だけで完結していた。
 けれどいまは、目が見えて、耳が聞こえて、全身で外の世界を感じることができる。匂いと味は、まだわからないけれど、視聴覚と触覚が回復したのだから、リヒトだって充分に季節の景色や草花の手触りを楽しむことができるだろう。
 そう考えてのユリウスの提案に、リヒトはパァっと瞳を輝かせた。

「ユーリ様と、お出かけ……行きたいです」

 繋いだ手が、控えめな強さで握られる。それをしっかりと握り返すと、リヒトがうふふと笑みをこぼした。

 可愛い。可愛すぎる。
 こんな子を外に出して大丈夫だろうか。ユリウスは俄かに不安を覚えた。

 リヒトには自分が常に付き添っているとはいえ、こんなに可愛いオメガを連れ歩いたりしては、不埒なアルファに誘拐されてしまうかもしれない。
 しまった。外出の誘いなんてしなければ良かった。

 しかし、喜びに顔をほころばせているリヒトに、やっぱりいまの話はなかったことに、なんて言えやしない。
 ユリウスの胸の内側では、誘ってしまったことを悔やむ気持ちと、リヒトにもっと色々なものを見せて喜ばせてやりたい気持ちが綱引きを始める。綱はあっちに引かれ、こっちに引かれと忙しなく動き、しかし決着はつかなかった。

 仕方ない。なるべく人目につかない場所で、それでいてかつリヒトが楽しめそうなスポットをテオバルドに調査させよう。
 思考は一旦そこへ落ち着き、ユリウスは深く息を吐いてから、隣を歩く愛しいオメガを見下ろした。

 ユリウスの視線に気づいたのだろう。リヒトがこちらを見上げて、恐ろしいほどに可愛い顔で微笑んだ。
 睡眠前に抑制剤を服用することが決定した瞬間であった。

 
 ユリウスはリヒトの寝支度を手伝い、隙を見てこっそりとアルファ用の抑制剤を口に放り込んだ。
 一時期の頻用で不眠や食欲不振の症状が出て以降、次兄から注意を受けたことも踏まえて、服薬の頻度と量は調整できていた……はずだったが、今日だけで幾度も理性の箍がゆるんでしまっている。

 念のため規定量の倍を服用し、いつものようにひとつのベッドで二人で眠った。

 リヒトは肌に当たる布団の感触や、背に回ったユリウスの手の感触など、ひとつひとつに驚きを見せながらも、やはり気づかない内に神経が昂ぶっていたのだろう、横になってすこしすると、可愛らしい寝息を立て始めた。

 頬にかかる髪をかき上げてやろうと伸ばした指先を、ユリウスはすんでで握り込む。
 触覚の弱かったリヒトは、いくら触れても一度寝たら起きなかったけれど、いまはどうだろう。ちょっとした刺激でも目が覚めてしまうだろうか。

 ユリウスは慎重な仕草で、ゆっくりとひとさし指を動かし、銀色のうつくしい髪をそうっと横へ流した。
 伏せられた長い睫毛は揺らぐことなく、瞼は閉ざされたままだった。
 起こさなかったことにホッとして、ユリウスはしばらくリヒトの寝顔を見つめていた。

 もう二十歳を過ぎているのに、いつまでもあどけない寝顔だ。成熟しきらない彼の、きれいなままの心身を、このままま愛でていたくもなるし、おのれの手で穢してやりたくもなる。

「愛してるよ、僕のオメガ」

 小声で、甘く囁いた。
 するとリヒトの手がもぞりと動いて、一度目をこすったかと思うと、
「……ゆぅりさまぁ」
 回らない口が、ユーリを呼んで。
 子猫のようにリヒトの体が、ユリウスへと擦り寄ってきた。

 胸元に頬をこすりつけて、リヒトがうふふと笑う。

「あったかいです、ゆぅりさま」

 布団の中にこもる二人分の体温。それを触覚の戻った全身で実感するように、呟いて。
 リヒトはまたことんと眠りに落ちた。

 魂がふるえる、というのはこういう感情を言うんだろう、とユリウスは思った。

 腕の中に在る存在がいとおしすぎて、胸苦しいほどだった。

 リヒト。僕のオメガ。僕の喜び。僕の光。
 ユリウスはこの子を、まもり通さなければならない。

 デァモント教の、つらく過酷な記憶から。
 ハーゼとして不当に得てきた傷から。
 今後、この子を傷つけようとするあらゆるものから。

 そして……ユリウス自身の、どうにもならないような欲望から。

 ユリウスはリヒトを、まもらなければならないのだ。

 ユリウスはその覚悟とともに、おのれのオメガへの渇望を飲み込んだ。

 抑制剤が効いていない。
 なんて頼りにならない薬だろうか。まだシモンの偽薬プラセボの方が優秀だ。リヒトの五感をちゃんと治療しているのだから。

 ユリウスはなんとか気を散らそうとしたが、リヒトの匂いに我慢ができなくなり、ついにはベッドをそっと抜け出した。
 リヒトを起こしてしまわないよう、以前とは違って、物音ひとつ、衣擦れひとつにも神経を使う。

 常夜灯の仄かな灯りの中で、リヒトはよく眠っていた。
 なぜ、こんなにも可愛い寝顔を見て、おのれの内側でこれほどの劣情が湧き起こるのだろうか。自分ではどうにもならないアルファ性ゆえの本能に、ユリウスは苦い笑みをこぼした。

「いい子で寝ていてね、僕のオメガ」

 囁きほどの音量で、そう話しかけて、触れるか触れないかの位置で頬にキスを落す。
 そうしてからユリウスは、欲望を発散させるための場所へ向けて、足を踏み出した。
 

 自分のことで切羽詰まっていたユリウスは、まったく気づいていなかった。

 このときのリヒトが、寝たふりをしていたことに……。
 そして、部屋を出て行くユリウスを、横たわったままひとりぽつねんと見送っていたことに……。


 
 
 
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