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リヒト⑭
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バスケットの中身を見たエミール様は、
「これは本当に素敵ですね! お花畑みたいだ!」
とピンクのお花のところを指さしながら僕をたくさん褒めてくれて、
「せっかくなので外で食べましょう。ちょうど、ピンクの花がたくさん咲いている場所があるんですよ」
笑顔で僕を誘ってくれた。
急な思い付きで食事の場所が中庭へと移動したのに、僕がエミールに手を引かれてそこへ案内されたときには、中庭の丸いテーブルの上にはたくさんのパンとスープ、サラダやお魚の料理が並んでいて、真ん中には僕が持ってきた焼き菓子のバスケットが置かれていた。
すごい。エミール様のお屋敷もユーリ様のお屋敷と一緒だ。
僕の見えないところで、小人の妖精が働いているかのように、使用人のひとたちが動いてくれているのだ。
エミール様と僕は、ピンクの花が咲いている花壇の方を向いて、横並びで座った。
椅子にはやわらかなクッションが敷かれていて、すぐ脇の台には膝掛けが準備されている。
「寒かったら言ってくださいね」
エミール様がやさしく僕に声を掛けてくれた。その言葉で、あの膝掛けは僕のためのものなのだとわかった。
僕の前に、紅茶のカップとジュースのグラスが置かれた。
白いお皿に、エミール様がパンを取り分けてくれる。ふわふわの玉子パンだ。
手でちぎったそれを口に入れる。しゅわりと溶けるような食感だった。
「甘くてやわらかくて美味しいです」
これまで味がわからなかった僕は、お料理をどう褒めていいのかわからない。だからいつも「美味しいです」ぐらいしか言えないのだけれど、エミール様は満面の笑顔を浮かべてくれた。
「リヒト! 味がわかるようになって良かったですね。この玉子パンはぜひリヒトに食べてほしかったんです。オレの好物なんですよ」
エミール様の好物。そう聞いたら舌に広がるその味がなおのこと美味しく思えるから不思議だ。
「リヒト、リヒトの好きな物も知りたいです。これまで食べたもので、なにが一番美味しかったですか?」
問われて、すこし考える。
「僕、なんでも好きです。サデルさんのお料理はぜんぶ美味しいです。でも、このパンも美味しいです。エミール様の好きな味を僕も食べることができて嬉しいです」
ユーリ様やエミール様が美味しいと思うものを、僕も味わうことができること。
そして一緒に「美味しいです」と言えること。
味覚が治って一番嬉しいことは、それだった。
だからエミール様が好きな玉子パンを、エミール様と同じように美味しいと思えることが嬉しくて、ついうふふと笑ってしまう。
そうしたらエミール様が両手で口を押えて、悶えるように足をバタバタさせた。
「ああっ! 可愛いっ!」
可愛い? なにか可愛いものがあるのかな。振り向いて探してみたけれどお庭の景色しかなくて、視線を前に戻したらピンクのお花の周りを白い蝶々が二匹、ひらひら飛んでいるのが見えた。
蝶々は羽が触れあうほどに近づいたり、離れたりを繰り返している。
仲良しの蝶々。
二匹の動きを目で追っているうちに、ふと、エミール様のうなじの噛み痕を思い出した。アルファのクラウス様に噛まれた、その花のような歯型を。
「……エミール様」
「はい」
「あの……」
僕は口を開きかけて、どう話せばいいのか迷った。
僕はまだ発情期が来ないのです。
ユーリ様の匂いがわかるようになったのに来ないのです。
どうすればいいですか。
……そんなことを尋ねられても、エミール様も困ってしまうだろう。
シモンさんに相談したときは、相談の内容が途中で変わってしまっていた。
発情期が来るようになるお薬はありますか、と聞いたら、シモンさんは僕に、なぜ発情を起こしたいのかと質問を返してきて。
そのとき僕は、ユーリ様の匂いがわかるようになりたい、と答えたのだ。
嗅覚がまともになれば、ちゃんとしたオメガになれると思っていたから。
けれどこうして嗅覚が治っても、僕に発情は来ない。
僕が不完全なオメガだから、ユーリ様は僕を噛んでくれないのだろうか。
エミール様のうなじにある、噛み痕。
僕もあれが欲しかった。
お屋敷に居るもうひとりのオメガには、ユーリ様の噛み痕があるのかしら。そう考えるとかなしくなって、胸の奥がヒリヒリと痛む。
そういえばもうひとりのオメガには赤ちゃんがいるのだ。二年前、ユーリ様が哺乳瓶を欲しがっていたから。
赤ちゃんはもう生まれただろうか。あのお屋敷で赤ちゃんの声を聞いたことがないけれど、もうひとりのオメガの姿だって僕は見たことがないのだから、僕が知らないだけで他の使用人のひとたちは知っているのかもしれなかった。
ユーリ様の宝物があるというあの部屋。
ユーリ様の匂いが濃く沁みついているあの部屋。
もうひとりのオメガの匂いがするあの部屋。
あの部屋の扉の向こうに、僕とは違う、本物のオメガが居て……。
ユーリ様は夜な夜な、そのオメガと会って…………。
「リヒト? リヒト!」
目の前でエミール様の手が動いた。僕はハッとしてエミール様の方を向いた。
「急に黙り込んで、どうしました? なにか話しにくいことですか?」
エミール様が小首を傾げて、僕と視線を合わせてくる。
飴色のきれいな瞳。そこに泣きそうな顔の自分が映っていた。
僕ははふはふと息をした。喉の奥が苦しい。
泣いてしまいそうだった。
エミール様が僕の方へと椅子を寄せてきて、背中を撫でてくれた。
「リヒト、ゆっくりで構いませんから、話したいことがあれば話してください」
やさしい声に促され、僕は両手をぎゅっと組み合わせて、なるべくゆっくり息を吸い込んだ。
「……エミール様」
「はい」
「エミール様のようになるには、どうすればいいですか」
話した言葉の、最後が揺れた。
泣かないように我慢したけれど、もう視界がぐにゃりとしている。
すんと鼻を啜ってから、僕はまばたきで涙を払った。
「エミール様のような、完璧なオメガになるのにはどうすればいいですか?」
ピンク色の花の上で、絡まるように飛んでいる二匹の蝶々。
それを見つめながら僕は、震える声でエミール様に問いかけた。
エミール様が黙り込んでしまわれた。
やっぱり僕がエミール様のようになりたいなんて、無茶な相談だったのだ、と僕は恥ずかしくなってうつむいた。
頬が熱い。頬以上に、目が熱かった。
新しい涙が盛り上がってきて、組んだ手の上にぽたりと落ちた。
「リヒト……オレが、完璧なオメガというのは……」
エミール様が戸惑うように言いかけた、そのとき。
「完璧なオメガ? エミールが?」
知らない声が、突然僕の耳に響いた。
びっくりしてきょろきょろと周りを見渡したら、きれいに植えられた庭木の向こうから、日傘をさしたドレス姿の女のひとが現れた。
「げっ!」
なにかが潰れたような声が隣でした。
え? と思ってそちらを見ると、エミール様が頭を抱えていた。
え? いまの声、エミール様の声?
エミール様が「げっ」って仰ったのかな?
ふだんのお声と違いすぎてびっくりした拍子に、僕の涙はどこかへ引っ込んでしまう。
ひとりキョトンとする僕の前に、女のひとが近づいてきて。
ゆっくりと日傘を閉じたそのひとが、エミール様へと微笑みかけた。
「あら、いまなにか聞こえた気がするわ」
「空耳でしょう」
「歓迎の声かしら。ねぇ、エミール」
「……呼んでもいないのにようこそいらっしゃいました」
「うふ。楽しそうだから来ちゃったわ」
女のひとが僕へと視線を流して、優雅な会釈をする。
どなただろう、と思っていたら、エミール様がどこか苦いお声で教えてくださった。
「リヒト。この御方はユーリ様の兄君、サーリークの国王マリウス様のつがい様……王妃、アマーリエ様です」
「これは本当に素敵ですね! お花畑みたいだ!」
とピンクのお花のところを指さしながら僕をたくさん褒めてくれて、
「せっかくなので外で食べましょう。ちょうど、ピンクの花がたくさん咲いている場所があるんですよ」
笑顔で僕を誘ってくれた。
急な思い付きで食事の場所が中庭へと移動したのに、僕がエミールに手を引かれてそこへ案内されたときには、中庭の丸いテーブルの上にはたくさんのパンとスープ、サラダやお魚の料理が並んでいて、真ん中には僕が持ってきた焼き菓子のバスケットが置かれていた。
すごい。エミール様のお屋敷もユーリ様のお屋敷と一緒だ。
僕の見えないところで、小人の妖精が働いているかのように、使用人のひとたちが動いてくれているのだ。
エミール様と僕は、ピンクの花が咲いている花壇の方を向いて、横並びで座った。
椅子にはやわらかなクッションが敷かれていて、すぐ脇の台には膝掛けが準備されている。
「寒かったら言ってくださいね」
エミール様がやさしく僕に声を掛けてくれた。その言葉で、あの膝掛けは僕のためのものなのだとわかった。
僕の前に、紅茶のカップとジュースのグラスが置かれた。
白いお皿に、エミール様がパンを取り分けてくれる。ふわふわの玉子パンだ。
手でちぎったそれを口に入れる。しゅわりと溶けるような食感だった。
「甘くてやわらかくて美味しいです」
これまで味がわからなかった僕は、お料理をどう褒めていいのかわからない。だからいつも「美味しいです」ぐらいしか言えないのだけれど、エミール様は満面の笑顔を浮かべてくれた。
「リヒト! 味がわかるようになって良かったですね。この玉子パンはぜひリヒトに食べてほしかったんです。オレの好物なんですよ」
エミール様の好物。そう聞いたら舌に広がるその味がなおのこと美味しく思えるから不思議だ。
「リヒト、リヒトの好きな物も知りたいです。これまで食べたもので、なにが一番美味しかったですか?」
問われて、すこし考える。
「僕、なんでも好きです。サデルさんのお料理はぜんぶ美味しいです。でも、このパンも美味しいです。エミール様の好きな味を僕も食べることができて嬉しいです」
ユーリ様やエミール様が美味しいと思うものを、僕も味わうことができること。
そして一緒に「美味しいです」と言えること。
味覚が治って一番嬉しいことは、それだった。
だからエミール様が好きな玉子パンを、エミール様と同じように美味しいと思えることが嬉しくて、ついうふふと笑ってしまう。
そうしたらエミール様が両手で口を押えて、悶えるように足をバタバタさせた。
「ああっ! 可愛いっ!」
可愛い? なにか可愛いものがあるのかな。振り向いて探してみたけれどお庭の景色しかなくて、視線を前に戻したらピンクのお花の周りを白い蝶々が二匹、ひらひら飛んでいるのが見えた。
蝶々は羽が触れあうほどに近づいたり、離れたりを繰り返している。
仲良しの蝶々。
二匹の動きを目で追っているうちに、ふと、エミール様のうなじの噛み痕を思い出した。アルファのクラウス様に噛まれた、その花のような歯型を。
「……エミール様」
「はい」
「あの……」
僕は口を開きかけて、どう話せばいいのか迷った。
僕はまだ発情期が来ないのです。
ユーリ様の匂いがわかるようになったのに来ないのです。
どうすればいいですか。
……そんなことを尋ねられても、エミール様も困ってしまうだろう。
シモンさんに相談したときは、相談の内容が途中で変わってしまっていた。
発情期が来るようになるお薬はありますか、と聞いたら、シモンさんは僕に、なぜ発情を起こしたいのかと質問を返してきて。
そのとき僕は、ユーリ様の匂いがわかるようになりたい、と答えたのだ。
嗅覚がまともになれば、ちゃんとしたオメガになれると思っていたから。
けれどこうして嗅覚が治っても、僕に発情は来ない。
僕が不完全なオメガだから、ユーリ様は僕を噛んでくれないのだろうか。
エミール様のうなじにある、噛み痕。
僕もあれが欲しかった。
お屋敷に居るもうひとりのオメガには、ユーリ様の噛み痕があるのかしら。そう考えるとかなしくなって、胸の奥がヒリヒリと痛む。
そういえばもうひとりのオメガには赤ちゃんがいるのだ。二年前、ユーリ様が哺乳瓶を欲しがっていたから。
赤ちゃんはもう生まれただろうか。あのお屋敷で赤ちゃんの声を聞いたことがないけれど、もうひとりのオメガの姿だって僕は見たことがないのだから、僕が知らないだけで他の使用人のひとたちは知っているのかもしれなかった。
ユーリ様の宝物があるというあの部屋。
ユーリ様の匂いが濃く沁みついているあの部屋。
もうひとりのオメガの匂いがするあの部屋。
あの部屋の扉の向こうに、僕とは違う、本物のオメガが居て……。
ユーリ様は夜な夜な、そのオメガと会って…………。
「リヒト? リヒト!」
目の前でエミール様の手が動いた。僕はハッとしてエミール様の方を向いた。
「急に黙り込んで、どうしました? なにか話しにくいことですか?」
エミール様が小首を傾げて、僕と視線を合わせてくる。
飴色のきれいな瞳。そこに泣きそうな顔の自分が映っていた。
僕ははふはふと息をした。喉の奥が苦しい。
泣いてしまいそうだった。
エミール様が僕の方へと椅子を寄せてきて、背中を撫でてくれた。
「リヒト、ゆっくりで構いませんから、話したいことがあれば話してください」
やさしい声に促され、僕は両手をぎゅっと組み合わせて、なるべくゆっくり息を吸い込んだ。
「……エミール様」
「はい」
「エミール様のようになるには、どうすればいいですか」
話した言葉の、最後が揺れた。
泣かないように我慢したけれど、もう視界がぐにゃりとしている。
すんと鼻を啜ってから、僕はまばたきで涙を払った。
「エミール様のような、完璧なオメガになるのにはどうすればいいですか?」
ピンク色の花の上で、絡まるように飛んでいる二匹の蝶々。
それを見つめながら僕は、震える声でエミール様に問いかけた。
エミール様が黙り込んでしまわれた。
やっぱり僕がエミール様のようになりたいなんて、無茶な相談だったのだ、と僕は恥ずかしくなってうつむいた。
頬が熱い。頬以上に、目が熱かった。
新しい涙が盛り上がってきて、組んだ手の上にぽたりと落ちた。
「リヒト……オレが、完璧なオメガというのは……」
エミール様が戸惑うように言いかけた、そのとき。
「完璧なオメガ? エミールが?」
知らない声が、突然僕の耳に響いた。
びっくりしてきょろきょろと周りを見渡したら、きれいに植えられた庭木の向こうから、日傘をさしたドレス姿の女のひとが現れた。
「げっ!」
なにかが潰れたような声が隣でした。
え? と思ってそちらを見ると、エミール様が頭を抱えていた。
え? いまの声、エミール様の声?
エミール様が「げっ」って仰ったのかな?
ふだんのお声と違いすぎてびっくりした拍子に、僕の涙はどこかへ引っ込んでしまう。
ひとりキョトンとする僕の前に、女のひとが近づいてきて。
ゆっくりと日傘を閉じたそのひとが、エミール様へと微笑みかけた。
「あら、いまなにか聞こえた気がするわ」
「空耳でしょう」
「歓迎の声かしら。ねぇ、エミール」
「……呼んでもいないのにようこそいらっしゃいました」
「うふ。楽しそうだから来ちゃったわ」
女のひとが僕へと視線を流して、優雅な会釈をする。
どなただろう、と思っていたら、エミール様がどこか苦いお声で教えてくださった。
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