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(番外編)ともに、歩く。
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リヒトは[『戸籍局』と真鍮のプレートの掛かっている部屋の前に立った。
後ろにはテオバルドが居る。
彼の両手はリヒトのウエストコートから長く伸びるレースのテール部分を持っているため、扉は自分で開かなければならなかった。
本当はいまここにテオバルドしか居ないのは、異例中の異例だと、リヒトにも理解できている。
婚姻の儀の式典を行うにあたり、リヒトはテオバルドやエミールから色々と話を聞いた。教本も見せてもらった。
教本には至るところにイラストが添えられており、式典の様子が伺えた。
そこには、結婚する王族はもちろん、その伴侶の周りにもひとがたくさん描かれており、色々な役割をそれぞれがこなしているようだった。
きっと、複数人が束になって行うような仕事を、ユリウスやテオバルドが一手に引き受けてくれたのだろう。
リヒトが必要以上に緊張しないように。
王城の仕来たりや礼儀作法をあまり知らないリヒトが、それを恥ずかしく思わなくていいように。
リヒトの知らない場所で、二人が動き回ってくれたに違いなかった。
そう思ったら、もう一度テオバルドにお礼を言いたくなったけれど、リヒトが予定にない動きをするとせっかくの衣装や花飾りが崩れてしまう。
だからリヒトは式典の後でしっかりとテオバルドに感謝を伝えようと決めて、扉に手を掛けた。
扉はずしりと重く、思った以上に力を込めなければならなかった。
中に入ると、そこは空っぽの小部屋になっていた。足元が絨毯から石造りの床に変わった。
小部屋の奥には、その先に続く白いドアがひとつある。
「リヒト様」
テオバルドに呼ばれ、リヒトはこくりと唾を飲み込んだ。
「俺はここまでです。この扉はあなたひとりで潜ってください」
「……はい」
「二の扉までは?」
「三十三歩です」
「そうです。あなたは練習通りに歩けます。大丈夫です」
励ます声音に背中を押される。
リヒトは白いドアに触れた。
「リヒト様、中は暗いです。転ばないように」
「はい」
「二の扉に殿下が居ます。そこからはお二人一緒です」
「はい」
「リヒト様」
「……はい」
テオバルドが持っていたテール部分をゆっくりと床に下ろし、きれいに見えるよう整えてから、リヒトの隣に並んだ。
茶色の瞳が、リヒトを見下ろしてじわりと細められる。
「ご結婚おめでとうございます」
やわらかにやさしく、テオバルドが言った。
その途端、リヒトの喉元に熱いものがこみあげてきた。
はふはふと息をしたら、テオバルドが笑いながらリヒトのひたいを指先でちょんとつついた。
「泣くのは我慢ですよ、リヒト様。俺は一番奥の部屋でお二人が来るのを待っていますから。あなたがユリウス殿下と一緒に歩いてくるところをお迎えさせていただきます」
「……ふぁい」
我慢、と言われてリヒトは、涙をこらえながら震えそうになる唇を動かした。
「ぼく、テオさんが教えてくれた通りに、頑張って歩きます」
「楽しみにしてます」
テオバルドの笑顔に見送られ、リヒトは深呼吸をした後、一の扉を押し開けた。
中は、テオバルドの言った通り暗かった。
壁際に置かれたオイルランプの火が、扉の開閉に合わせてゆらりと揺れた。
背後で扉を閉じると、なおのこと部屋の闇が際立った。
ゆらり、ゆらり。
頼りない光源が暗闇を舐めるように動く。
リヒトは息を吸い込んでから、右足を一歩前に出した。
向こうの扉まで、三十三歩で歩ききらなければならない。
リヒト様は一歩が小さいので、頑張って足を遠くへ出すようにしてください。
何度も聞いたテオバルドの注意が、耳の奥によみがえる。
出した右足に、左足を揃えて置いた。コツリ、と部屋に足音が響いた。
はふ……と呼吸をして、二歩目。こんどは左足を大きく前に出す。右足を揃える。三歩目は右足を出す、左足を揃える。
一歩ずつを、そうして大切に大切にしながら歩く。
一の扉から二の扉までは過去の道程だ、とエミールは言っていた。
「自分がこれまで歩いてきた道程を、一歩一歩確かめながら歩くんです。部屋は暗くて、ひとりで歩いていると不安になってきます。それでもおのれで歩くことで、前に進むことができる」
「エミール様も、不安になりましたか?」
「ええ。しずかな場所で、ランプの火だけがほのかに灯っていて、歩くうちに色々なことが思い出されました。そんな中をひとりきりで歩くのは、オレもとても不安でした。でも、リヒト、想像してください。辿りついた先には、あなたのつがいが居る。ユーリ様が、待ってるんですよ」
エミールとのやりとりを思い出しながら、リヒトは歩く。歩く。歩く。
暗くて、静寂に満ちた部屋に、自分の息づかいが溶けてゆく。
十歩、十一歩……。コツリ、コツリ。石造りの暗い部屋に、音が反響する。
間違えないように数えていると、不意に目の前が霞んだようになった。
あれ? と数度まばたきをする。
ランプの火が弱まったのだろうか? 否、そんなことはない。ゆらゆらと揺れる炎はどこも消えたりはしていない。
十二歩、十三歩……。
(数を数えてはいけませんよ)
誰かの声がした。
(数を数えてはいけません)
誰だろう。テオバルドだろうか。
でもテオバルドはそんなこと言わなかった。
わからなくなったら、声に出して数えてもいいんです。
頼りになる侍従は、そう言ってリヒトと一緒に歩く練習をしてくれた。
リヒトは震えそうになる声を、無理やりに喉から出した。
「じゅう、よん……じゅう、ご……」
ぴしゃり、と手を叩かれた。
驚いて周りを見る。
誰も居ない。暗い部屋には、リヒトしか居ない。
でも手が痛い。
誰かがリヒトの手を叩いて怒っている。
(また間違えましたね! 違います。最初からやり直しなさい)
(最初は右から二番目です。指をさしてはいけません。数を数えない!)
(次は? そうです、自然に見えるように手に取るのです。模様と形をしっかりと覚えなさい)
ぐらり、と足元が揺れた。
床が急に近づいてきた。
違う。床が近づいたのではない。リヒトが膝をついたのだ。硬い床は、ひやりとしていた。
浅い息が漏れた。
胸が苦しくて、なぜか震えが止まらなくない。
リヒトは周囲を見渡した。
誰も居ない、暗い部屋。
この部屋は、過去の部屋。
リヒトはいま、過去の中を歩いているのだ。
そう考えて、震えの理由に思い当たる。
リヒトの過去とは、すなわち『ハーゼ』。
過去を歩くということは、『ハーゼ』だったころのおのれの上を歩くことなのだ、と。
リヒトは不意に自覚して、恐怖に顔を歪めた。
後ろにはテオバルドが居る。
彼の両手はリヒトのウエストコートから長く伸びるレースのテール部分を持っているため、扉は自分で開かなければならなかった。
本当はいまここにテオバルドしか居ないのは、異例中の異例だと、リヒトにも理解できている。
婚姻の儀の式典を行うにあたり、リヒトはテオバルドやエミールから色々と話を聞いた。教本も見せてもらった。
教本には至るところにイラストが添えられており、式典の様子が伺えた。
そこには、結婚する王族はもちろん、その伴侶の周りにもひとがたくさん描かれており、色々な役割をそれぞれがこなしているようだった。
きっと、複数人が束になって行うような仕事を、ユリウスやテオバルドが一手に引き受けてくれたのだろう。
リヒトが必要以上に緊張しないように。
王城の仕来たりや礼儀作法をあまり知らないリヒトが、それを恥ずかしく思わなくていいように。
リヒトの知らない場所で、二人が動き回ってくれたに違いなかった。
そう思ったら、もう一度テオバルドにお礼を言いたくなったけれど、リヒトが予定にない動きをするとせっかくの衣装や花飾りが崩れてしまう。
だからリヒトは式典の後でしっかりとテオバルドに感謝を伝えようと決めて、扉に手を掛けた。
扉はずしりと重く、思った以上に力を込めなければならなかった。
中に入ると、そこは空っぽの小部屋になっていた。足元が絨毯から石造りの床に変わった。
小部屋の奥には、その先に続く白いドアがひとつある。
「リヒト様」
テオバルドに呼ばれ、リヒトはこくりと唾を飲み込んだ。
「俺はここまでです。この扉はあなたひとりで潜ってください」
「……はい」
「二の扉までは?」
「三十三歩です」
「そうです。あなたは練習通りに歩けます。大丈夫です」
励ます声音に背中を押される。
リヒトは白いドアに触れた。
「リヒト様、中は暗いです。転ばないように」
「はい」
「二の扉に殿下が居ます。そこからはお二人一緒です」
「はい」
「リヒト様」
「……はい」
テオバルドが持っていたテール部分をゆっくりと床に下ろし、きれいに見えるよう整えてから、リヒトの隣に並んだ。
茶色の瞳が、リヒトを見下ろしてじわりと細められる。
「ご結婚おめでとうございます」
やわらかにやさしく、テオバルドが言った。
その途端、リヒトの喉元に熱いものがこみあげてきた。
はふはふと息をしたら、テオバルドが笑いながらリヒトのひたいを指先でちょんとつついた。
「泣くのは我慢ですよ、リヒト様。俺は一番奥の部屋でお二人が来るのを待っていますから。あなたがユリウス殿下と一緒に歩いてくるところをお迎えさせていただきます」
「……ふぁい」
我慢、と言われてリヒトは、涙をこらえながら震えそうになる唇を動かした。
「ぼく、テオさんが教えてくれた通りに、頑張って歩きます」
「楽しみにしてます」
テオバルドの笑顔に見送られ、リヒトは深呼吸をした後、一の扉を押し開けた。
中は、テオバルドの言った通り暗かった。
壁際に置かれたオイルランプの火が、扉の開閉に合わせてゆらりと揺れた。
背後で扉を閉じると、なおのこと部屋の闇が際立った。
ゆらり、ゆらり。
頼りない光源が暗闇を舐めるように動く。
リヒトは息を吸い込んでから、右足を一歩前に出した。
向こうの扉まで、三十三歩で歩ききらなければならない。
リヒト様は一歩が小さいので、頑張って足を遠くへ出すようにしてください。
何度も聞いたテオバルドの注意が、耳の奥によみがえる。
出した右足に、左足を揃えて置いた。コツリ、と部屋に足音が響いた。
はふ……と呼吸をして、二歩目。こんどは左足を大きく前に出す。右足を揃える。三歩目は右足を出す、左足を揃える。
一歩ずつを、そうして大切に大切にしながら歩く。
一の扉から二の扉までは過去の道程だ、とエミールは言っていた。
「自分がこれまで歩いてきた道程を、一歩一歩確かめながら歩くんです。部屋は暗くて、ひとりで歩いていると不安になってきます。それでもおのれで歩くことで、前に進むことができる」
「エミール様も、不安になりましたか?」
「ええ。しずかな場所で、ランプの火だけがほのかに灯っていて、歩くうちに色々なことが思い出されました。そんな中をひとりきりで歩くのは、オレもとても不安でした。でも、リヒト、想像してください。辿りついた先には、あなたのつがいが居る。ユーリ様が、待ってるんですよ」
エミールとのやりとりを思い出しながら、リヒトは歩く。歩く。歩く。
暗くて、静寂に満ちた部屋に、自分の息づかいが溶けてゆく。
十歩、十一歩……。コツリ、コツリ。石造りの暗い部屋に、音が反響する。
間違えないように数えていると、不意に目の前が霞んだようになった。
あれ? と数度まばたきをする。
ランプの火が弱まったのだろうか? 否、そんなことはない。ゆらゆらと揺れる炎はどこも消えたりはしていない。
十二歩、十三歩……。
(数を数えてはいけませんよ)
誰かの声がした。
(数を数えてはいけません)
誰だろう。テオバルドだろうか。
でもテオバルドはそんなこと言わなかった。
わからなくなったら、声に出して数えてもいいんです。
頼りになる侍従は、そう言ってリヒトと一緒に歩く練習をしてくれた。
リヒトは震えそうになる声を、無理やりに喉から出した。
「じゅう、よん……じゅう、ご……」
ぴしゃり、と手を叩かれた。
驚いて周りを見る。
誰も居ない。暗い部屋には、リヒトしか居ない。
でも手が痛い。
誰かがリヒトの手を叩いて怒っている。
(また間違えましたね! 違います。最初からやり直しなさい)
(最初は右から二番目です。指をさしてはいけません。数を数えない!)
(次は? そうです、自然に見えるように手に取るのです。模様と形をしっかりと覚えなさい)
ぐらり、と足元が揺れた。
床が急に近づいてきた。
違う。床が近づいたのではない。リヒトが膝をついたのだ。硬い床は、ひやりとしていた。
浅い息が漏れた。
胸が苦しくて、なぜか震えが止まらなくない。
リヒトは周囲を見渡した。
誰も居ない、暗い部屋。
この部屋は、過去の部屋。
リヒトはいま、過去の中を歩いているのだ。
そう考えて、震えの理由に思い当たる。
リヒトの過去とは、すなわち『ハーゼ』。
過去を歩くということは、『ハーゼ』だったころのおのれの上を歩くことなのだ、と。
リヒトは不意に自覚して、恐怖に顔を歪めた。
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