聖女の絶望、ホストの虚言

あさリ23

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ホストの虚言

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 深夜二時の歌舞伎町。安っぽい香水、安っぽいタバコの煙、そして吐瀉物と排気ガスが混ざり合った特有の匂い。それが、俺の生きる世界の匂いだ。

 ネオンの光が雨上がりのアスファルトに反射して、街全体が安っぽい万華鏡のようにチカチカと明滅している。俺――「レン」は、店の裏口で一本の煙草を吸い殻入れに押し付けた。

「レン、3番テーブル、シャンパン入るぞ。新規の客、お前のこと気に入ってるみたいだ」

「りょーかい。今行くわ」

 同僚の声を背に、俺はパウダールームの鏡に向かった。

「今日も俺はイケメンだな」

 鏡の中の自分に言い聞かせる。だが、その時、鏡の端に映った自分の指先が、微かに震えていることに気づいた。……半年前からだ。あの目が死んだ客、美紀ちゃんが来なくなってから、酒の味がしなくなった。営業用の嘘が、時々喉に閐(つか)える。

「……らしくねえな」

 手慣れた動作でコームを入れ、サイドの髪を捲り上げる。

 ホストという職業は、俺にとって天職だ。名前も、経歴も、そして地毛の色さえも偽り、客が望む「王子様」という虚像を演じる。この街では、誰も俺の真実なんて求めない。金の力で心地よい嘘を買い、束の間の夢を見る。それこそが、俺が最も得意とするゲームだ。

 ただペラペラと相手が喜ぶことを話すだけでいい。誰かのナニカを責任を持ち、そして相手へナニカをする必要もない。守るなんて崇高な行為なんて出来ない、俺のような男にはピッタリの仕事だと俺は思っている。

「よし……これで完璧だ。今日も偽物で行こうぜ」

 そんな俺の嘘まみれの日常に、あいつ――美紀ちゃんが現れたのは、半年前のことだった。

 彼女はいつも、何かに怯えるような、それでいてすべてを諦めたような、ひどく疲れた目で俺を見ていた。

「レン君。……今日は、何か適当な嘘を吐いてよ」

 彼女はそう言って、決して安くないシャンパンを注文した。彼女自身はほとんど飲まず、俺がグラスを空けるのを黙って眺めている。

「嘘、ね。いいよ。じゃあ、美紀ちゃんは実はどこかの国の王女様で、俺は君を迎えにきた騎士。……あ、でも美紀ちゃんは働きすぎだから、騎士の俺が『今日は公務休みね』って言って、お城から連れ出しちゃう。どう、これくらいのベタなやつで?」

「ふふ、いいかも。……休み、か。いいなあ」

 彼女はどこか遠くを見るような目で、俺の安い営業トークを聞いていた。

「ねえ、レン君。もし私が、本当にどこか遠い世界に行っちゃったら、助けに来てくれる?」

「当たり前でしょ。指名料さえ払ってくれれば、たとえ世界の果てだって、地獄の底だって俺が必ず助けに行くよ」

 そんなの、ただのテンプレの返しだ。何の責任も伴わない、中身のない嘘。

 でも、彼女はその言葉を聞いた瞬間、凍りついていた顔をふっと綻ばせ、子供のように笑った。

「……ありがとう、レン君。その嘘、すっごく助かる」

 一ヶ月前、彼女は店に来なくなった。

 未払いの掛けがあるわけでもない。ただ、ふっと煙のように消えた。

 気にならなかったと言えば嘘になる。だが、ここは歌舞伎町だ。昨日まで隣で笑っていた客が、明日には音信不通になる。そんなのは日常茶飯事だ。俺はまた別の客に、同じような嘘を吐いて夜をやり過ごすだけ。そう思っていた。




 異変は、三番テーブルに向かおうとした際、化粧直しのために立ち寄ったトイレの鏡の前で起きた。

 足元の汚れたタイルが、見たこともない幾何学的な紋様――魔法陣とかいうやつを浮かび上がらせ、部屋全体が銀色の光に包まれていく。

「おい、待て! 何なんだこれ! 誰か、ドッキリかよ!」

 叫ぼうとしたが、言葉が喉に張り付く。
 
 重力がおかしくなり、視界が歪む。
 歌舞伎町の喧騒、換気扇の回る音、トイレの芳香剤の匂い……すべてが遠ざかっていく。

 落ちる。どこまでも、深く。
 そして――次に目を開けたとき、鼻をついたのは冷たく、清浄すぎる空気だった。

 硬い、石畳の感触。
 俺は這いつくばったまま、恐る恐る顔を上げた。
 そこは新宿の汚い居酒屋でも、ホストクラブでもなかった。

 高い天井、ステンドグラスから差し込む月光、そして周囲を囲むのは、RPGの魔術師のような格好をした老人たちと、重厚な鎧に身を固めた騎士たち。

「魔力がない……? ただの平民ではないか!」
「こんな見窄らしい男を、最後に呼ぶとは…」
「いやはや、聖女様も…」

 魔導師たちの困惑した声。彼らは俺の姿を見て絶句した。王族の血筋でも、伝説の魔導師でもない。ただの、安っぽいスーツを着た「不純物」がそこにいたからだ。

 俺の怒りを無視して、黄金の男――アルフレッドが歩み寄ってきた。その瞳にはどす黒い嫉妬が燃えている。

「……貴様が。彼女が死の淵で求めた存在だというのか」

 男が身を引くと、その背後に美紀ちゃんがいた。

 だが、俺の知っている彼女とはまるで違う。顔色は紙のように白く、命の灯火が今にも消えそうだ。

「美紀ちゃん……?」


 俺は戸惑いながら膝を打ってベッドの脇にどっかと腰を下ろした。

 近くで見れば見るほど、その衰弱ぶりはひどかった。頬はこけ、白いシーツにはまだ乾ききっていない鮮紅の斑点が点々と散っている。喉元にはこびりついた血の痕。

 俺は彼女の指先をそっと掴んだ。氷のように冷たい。だが、それ以上に気になったのは、彼女の指に刻まれた小さな、不自然な傷跡だった。それは、苦しみに耐えるために自分の掌を爪で強く握りしめ続けてきた痕だ。

(急に消えたと思ったら……このバカ。向こうにいた時よりひどい顔してやがる)

 俺がその手を握った瞬間、部屋の空気が一変した。

 黄金の髪をなびかせ、偉そうな男(多分偉いと思う)が俺の胸ぐらを強引に掴み上げた。

「……離れろ。その汚らわしい手で彼女に触れるな」

 至近距離で睨み合う。男の瞳には、愛する者を侵食されたことへの怒りと、得体の知れない「不浄な存在」への生理的な嫌悪が混ざり合っていた。

 しかし同時に俺の呼びかけに、彼女の睫毛が僅かに震えた。

「……レン、くん……? 本当に、来て……くれたの……?」

 その消え入りそうな声を聞いた瞬間、俺の怒りは、一気に冷え切った。

 俺はため息をついた。

「……来てくれたっていうかさ。なんか知らねえけど、急に呼び出されたんだよ。……おい、美紀ちゃん。あんた、とんでもないところに指名飛ばしてくれたな。ここ、どこだよ。歌舞伎町からどれだけ離れてんだ?」

 俺の不遜な物言いに、騎士たちが一斉に剣を抜こうとする。だが、偉そうな男(多分偉いと思うが)がそれを制した。

 俺は構わずに、彼女の細い指を握った。

「言っただろ、世界の果てでも助けに行くって。……まさか、本当にこんな世界の果てだとは思わなかったけどさ。……まったく、高くつくぜ。俺、今日の客放り出してきたんだからな。あんた、どうやって払ってくれんの?」

 俺の言葉は、重みも、魔法よのうな輝きも、何もない。

 ただの、新宿・歌舞伎町の夜を泳ぐホストの、安い皮肉だ。

 けれど、その言葉を聞いた瞬間。美紀ちゃんの頬に、一筋の涙が伝わった。

 砕け散っていた彼女の胸元が、俺の言葉を吸い込むように、穏やかな光を宿し始めた。

「えっ、なになに」

 淡く光り始めた胸元を見て慌てる俺と共に周りが騒がしくなってくる。

「……ふふ。ごめんね、レン君……」

 彼女が微かに笑った。

 世界で一番高貴な場所へと、世界で一番不誠実な俺が招かれた。おそらく、皮肉にも、俺が一生をかけて塗り固めてきた「黒い嘘」を、本物にするためだけに。

 だが、真っ白な顔をした彼女の色が少し淡くても赤みを帯びてきたのは事実だった。


 近くで見れば、その衰弱ぶりは正視に耐えないものだった。白いシーツには乾ききっていない鮮紅の斑点。喉元にはこびりついた血の痕。俺は彼女の指先をそっと掴んだ。氷のように冷たい。だが、それ以上に俺が目を止めたのは、彼女の掌に深く刻まれた爪痕だった。苦しみに耐えるために、彼女が自分を握りしめ続けてきた絶望の証だ。

 労わらなければ。そう思った俺が彼女の頭を撫でようと手を伸ばすと、黄金の髪をなびかせた男が苛立った様子で俺の手を強引に掴み上げた。

「……離れろ。その汚らわしい手で彼女に触れるな」

 至近距離で睨み合う。男の瞳には、愛する者を侵食されたことへの怒りと、得体の知れない「不浄な存在」への生理的な嫌悪が混ざり合っていた。

「貴様、自分が何をしているか分かっているのか。彼女は聖女だ。この国の全霊をかけて守るべき、至高の存在なのだ」

「至高の存在、ねぇ」

 俺は、俺の手を掴む彼の手を冷めた目で見つめた。そして、彼の磨き上げられた鎧や、一寸の乱れもない軍服、そして何よりその「正義に満ちた顔」を上から下まで隅々まで観察した。

「で? あんた、誰?」

 まず一番初めに頭に浮かぶ疑問を投げ掛ければ、周りがザワザワと騒がしくなった。

「貴様! 無礼だぞ!」

 今にも生き絶えそうな彼女の手を握る俺を、目で殺さんとする男。男を囲む騎士たちが剣を抜こうとしたが、男は少し背筋を伸ばしてそれを制した。

「私はエリュシオン公国公、アルフレッド・ル・エルリオン。国の支配者であり、彼女の婚約者だ」

 その後、彼は美紀ちゃんの状況を含め、とうとうと説明を始めた。

 この寝室がいかに最高級の魔法具で守られているか、彼女がいかに民に愛され、この国の歴史において無二の存在であるか。そして、彼女の「言霊」を維持するために、彼がどれほどの国庫を投じ、どんなに心を砕いて彼女の「清らかさ」を守り抜いてきたか……。

「私は彼女を愛している。だからこそ、彼女が『聖女』という重責に耐えられるよう、あらゆる不浄から彼女を遠ざけてきた。貴様のような男を呼ぶことも、彼女の尊厳を傷つける苦渋の選択だったのだ」

 俺はその「ご立派な演説」を聞きながら、鼻で笑った。

「へぇ。……で、その『誠実な支え』の結果が、あそこにある死体一歩手前の女ってわけだ」

「何だと……?」

「あんた、さっきから自分の苦労話ばっかりだな。彼女を『不浄から遠ざけた』? 笑わせんな。あんたがやったのは、彼女から《人間らしい汚れ》を吐き出す場所を奪っただけだろ」

 俺はベッドの方を指差した。

「あんたの鎧はピカピカだ。髪一本乱れてねえ。……なのに、なんであんたの目の前の女は、喉を血で汚して、自分の掌を爪が食い込むまで握りしめてんだ? 答えろよ、婚約者様。あんたが彼女の隣で『正しく』いればいるほど、彼女は自分の弱音を『不浄』だと思い込んで飲み込むしかなくなるんだよ」

 アルフレッドの顔から余裕が消え、不快感が露わになる。

「……貴様に何がわかる。私たちは共に、この国を救うという大義を――」

「大義? そんなもん、こいつの指の傷一つより重いのかよ」

 俺はアルフレッドに一歩詰め寄り、その胸元の紋章を指で弾いた。

「あんたが欲しかったのは、自由な美紀ちゃんじゃない。自分を救ってくれた『理想の聖女』が隣で笑ってる安心感だろ。聖女が血を吐くたびに『大丈夫か』って悲しそうな顔を見せて、また次の『救済』を求めた。あんたの愛は、ただの『搾取』だ。俺と同じ、ただの強欲な男なんだよ、あんたは!」

「……黙れ。黙れと言っている!」

 アルフレッドが激昂し、俺の胸ぐらを掴み上げた。至近距離で睨み合う。正論を突きつけられ、プライドが悲鳴を上げている証拠だ。

「離れろ。その汚らわしい手で彼女に触れるな!!」

 アルフレッドが俺を突き飛ばす。その目は、俺を人間として見ていない。道端の汚物を見る目だ。

「彼女は聖女だ。貴様のような、嘘で塗り固められた男が触れていい存在ではない」

 俺は、床に這いつくばったまま笑った。低く、濁った声で。

「聖女……? 笑わせんなよ。あんたが『聖女』を崇め奉れば奉るほど、この子の喉の奥には血の塊が溜まっていくんだよ。あんたの言う『清らかさ』ってのは、この子の内臓を削り取って作った、ただの飾り物だろ」

「黙れ! 私は彼女を愛している!」

 アルフレッドが剣を抜き、俺の喉元に突きつけた。切っ先が震えている。正論を突きつけられ、プライドが悲鳴を上げている証拠だ。

「愛してる? ……ああ、そうだろうな。あんたは『自分を救ってくれる都合のいい神様』を愛してるだけだ。美紀ちゃんが、夜中にポテチ食いながら『あいつら全員死ねばいいのに』って毒を吐くような、普通の女の子だって想像したこともねえだろ? あんたが愛してるのは、あんたが勝手に描いた、この子の『遺影』だよ」

「貴様ぁッ!!」

 アルフレッドが剣を振り上げた瞬間。

「……やめて!!」

 美紀ちゃんの叫びが、部屋の空気を震わせた。魔法ではない。ただの、枯れ果てた喉からの絶叫。彼女はベッドから転げ落ちるようにして、俺とアルフレッドの間に割り込んだ。

「……アルフレッド様、もう、いいの。この人は……この人だけは、私が《悪い子》になっても、笑って指名料を取ってくれる人なの……。私の『嘘』を、許してくれる人なの……っ」

 アルフレッドは、剣を構えたまま凍りついた。

 銀色の魔法陣が、帰還の時を告げるように輝きを増す。

 俺の体は、砂のように崩れ始めていた。

「美紀ちゃん」

 俺は、もう感覚のなくなった手で、彼女の頬を乱暴に、でも壊れ物を触るように包み込んだ。

「指名料代わりに、とびきりの嘘を置いてってやる」

 彼女の耳元に顔を寄せる。営業用の甘い声じゃない。新宿の掃き溜めで吐き出すような、俺の、本当の、汚い本音。

「俺さ……あんたが店に来なくなった時、せいせいしたんだ。あんな暗い顔した客、商売あがったりだからさ。……だから、もう二度と、あんな顔して俺に会いに来るな。……なーんてな。これ、全部、嘘だよ」

 美紀ちゃんの瞳が、一瞬大きく見開かれ、次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れ出した。

「……っ、ふふ……。最悪。……本当に、最低な王子様……」

 彼女が今日一番の、そしてこの三年間で一番「醜く、愛らしい」笑顔で笑った。

 その瞬間、彼女を縛っていた黄金の呪縛が、音を立てて砕け散った。

「……完敗だ」

 アルフレッドが、深々と頭を下げる。彼が三年間注いできた「高潔な愛」が、一人の「嘘つきホスト」に完敗したことを、その瞬間に理解したのだ。

「じゃあな、美紀ちゃん。……歌舞伎町で待ってるぜ!またな。嘘つきな男が必要な時はいつでも指名してくれ。美紀ちゃんがどこにいても、助けに来るからな!!」
 
 俺の姿が消える間際、聞こえた「ありがとう」という声。

 それは言霊の魔法なんていらない、ただの女の子の、本物の言葉だった。




  
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