1 / 10
死と目覚め
しおりを挟む
——冷たい水の底に沈んでいくようだった。
耳に届くのは、自分の鼓動が遠ざかっていく音だけ。視界の端が暗く染まり、最後に見たのは赤信号を無視して突っ込んできたトラックのライトだった。
痛みはなかった。ただ、重く、眠りに落ちるような感覚。
次に目を開けたとき、そこは見知らぬ天蓋付きのベッドの上だった。
薄絹のカーテン越しに差し込む光はやわらかく、甘い香油の匂いが漂っている。天井の装飾、壁に掛かった絵画、そして自分の手に嵌められた宝石のついた指輪——どれも現実感がなかった。
「……ここは……?」
声は震え、聞き覚えのない高めの音色で響いた。
反射的にベッド脇の鏡へと足を向ける。そこに映っていたのは、自分ではない。
長い銀糸の髪、大きな紫水晶色の瞳。睫毛は扇のように長く、肌は雪のように白い。唇は薔薇色で——物語の中で読んだ悪女アイリス、そのままだった。
「……嘘、でしょう……?」
足がすくむ。だが、頭の奥底に記憶が流れ込んできた。この顔、この部屋、この世界。
——ここは、私が死ぬ前夜に読み終えた恋愛小説の中。
そして私は、夫カルロスに嫉妬と誤解の末に殺される悪女、アイリスになってしまった。
脳裏に蘇るラストシーン。血に濡れた石畳、冷たい瞳で剣を振り下ろすカルロスの姿。
胸の奥が締めつけられる。あの結末を辿れば、私の命は確実に終わる。
「……避けなきゃ……絶対に……」
その瞬間、ドアがノックもなく開いた。
入ってきたのは、長身で鋭い金色の瞳を持つ男——カルロスだった。
深紅の軍服を纏い、威圧感を纏ったその姿は、物語の中で描かれたままの冷酷な軍人。だが、現実として目の前に立たれると、息をするのも忘れるほどの存在感があった。
「……起きていたのか、アイリス」
低く抑えた声。感情はほとんど読めないが、わずかに眉間が寄っている。
彼は私を一瞥すると、窓際に歩み寄り、カーテンを開け放った。光が差し込み、カルロスの整った横顔が際立つ。
けれど、その美しさと同時に、物語の結末が脳裏をよぎる——この人は、私を殺す。
「……カルロス様」
声が震える。
私がどうすれば彼との破滅を避けられるか——その答えは一つしかない。
結婚をやめること。すぐにでも、この関係を終わらせること。
「……お願いがあります」
「……なんだ」
「……離婚を……していただけませんか?」
沈黙が落ちた。
カルロスはわずかに目を細め、ゆっくりとこちらへ向き直る。その視線は氷のように冷たく、足元から体温が奪われる感覚に襲われる。
けれど——その瞳の奥に、一瞬だけ複雑な感情が揺れたように見えた。
「……離婚、だと?」
「はい……私は……あなたの足かせになるだけです」
「……理由を言え」
「……理由は……」
言えない。この世界の未来を知っているからなんて、口が裂けても言えない。
視線を逸らす私に、カルロスはゆっくりと歩み寄ってきた。
ベッド脇まで来ると、彼は手を伸ばし、私の顎を軽く持ち上げる。至近距離で見下ろす瞳は、冷たさの中にどこか探るような色を帯びていた。
「……面白いことを言う。だが——」
低く、囁くように続く。
「お前は俺の妻だ。今も、これからも……それは変わらない」
指先から離れた瞬間、息が詰まるような緊張感が残った。
カルロスは何事もなかったかのように背を向け、扉の前で一度だけ振り返る。
その口元が、ごくわずかに——笑ったように見えた。
扉が閉まったあと、私はその場に崩れ落ちた。
——やっぱり、簡単には逃げられない。
だけど、私は諦めない。必ず、この物語の結末を書き換えてみせる。
耳に届くのは、自分の鼓動が遠ざかっていく音だけ。視界の端が暗く染まり、最後に見たのは赤信号を無視して突っ込んできたトラックのライトだった。
痛みはなかった。ただ、重く、眠りに落ちるような感覚。
次に目を開けたとき、そこは見知らぬ天蓋付きのベッドの上だった。
薄絹のカーテン越しに差し込む光はやわらかく、甘い香油の匂いが漂っている。天井の装飾、壁に掛かった絵画、そして自分の手に嵌められた宝石のついた指輪——どれも現実感がなかった。
「……ここは……?」
声は震え、聞き覚えのない高めの音色で響いた。
反射的にベッド脇の鏡へと足を向ける。そこに映っていたのは、自分ではない。
長い銀糸の髪、大きな紫水晶色の瞳。睫毛は扇のように長く、肌は雪のように白い。唇は薔薇色で——物語の中で読んだ悪女アイリス、そのままだった。
「……嘘、でしょう……?」
足がすくむ。だが、頭の奥底に記憶が流れ込んできた。この顔、この部屋、この世界。
——ここは、私が死ぬ前夜に読み終えた恋愛小説の中。
そして私は、夫カルロスに嫉妬と誤解の末に殺される悪女、アイリスになってしまった。
脳裏に蘇るラストシーン。血に濡れた石畳、冷たい瞳で剣を振り下ろすカルロスの姿。
胸の奥が締めつけられる。あの結末を辿れば、私の命は確実に終わる。
「……避けなきゃ……絶対に……」
その瞬間、ドアがノックもなく開いた。
入ってきたのは、長身で鋭い金色の瞳を持つ男——カルロスだった。
深紅の軍服を纏い、威圧感を纏ったその姿は、物語の中で描かれたままの冷酷な軍人。だが、現実として目の前に立たれると、息をするのも忘れるほどの存在感があった。
「……起きていたのか、アイリス」
低く抑えた声。感情はほとんど読めないが、わずかに眉間が寄っている。
彼は私を一瞥すると、窓際に歩み寄り、カーテンを開け放った。光が差し込み、カルロスの整った横顔が際立つ。
けれど、その美しさと同時に、物語の結末が脳裏をよぎる——この人は、私を殺す。
「……カルロス様」
声が震える。
私がどうすれば彼との破滅を避けられるか——その答えは一つしかない。
結婚をやめること。すぐにでも、この関係を終わらせること。
「……お願いがあります」
「……なんだ」
「……離婚を……していただけませんか?」
沈黙が落ちた。
カルロスはわずかに目を細め、ゆっくりとこちらへ向き直る。その視線は氷のように冷たく、足元から体温が奪われる感覚に襲われる。
けれど——その瞳の奥に、一瞬だけ複雑な感情が揺れたように見えた。
「……離婚、だと?」
「はい……私は……あなたの足かせになるだけです」
「……理由を言え」
「……理由は……」
言えない。この世界の未来を知っているからなんて、口が裂けても言えない。
視線を逸らす私に、カルロスはゆっくりと歩み寄ってきた。
ベッド脇まで来ると、彼は手を伸ばし、私の顎を軽く持ち上げる。至近距離で見下ろす瞳は、冷たさの中にどこか探るような色を帯びていた。
「……面白いことを言う。だが——」
低く、囁くように続く。
「お前は俺の妻だ。今も、これからも……それは変わらない」
指先から離れた瞬間、息が詰まるような緊張感が残った。
カルロスは何事もなかったかのように背を向け、扉の前で一度だけ振り返る。
その口元が、ごくわずかに——笑ったように見えた。
扉が閉まったあと、私はその場に崩れ落ちた。
——やっぱり、簡単には逃げられない。
だけど、私は諦めない。必ず、この物語の結末を書き換えてみせる。
110
あなたにおすすめの小説
『恋心を凍らせる薬を飲みました』 - 残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください、婚約者様
恋せよ恋
恋愛
愛されることを諦めた。だから、私は心を凍らせた。
不誠実な婚約者・ユリアンの冷遇に耐えかねたヤスミンは、
伝説の魔女の元を訪れ、恋心を消し去る「氷の薬」を飲む。
感情を捨て、完璧な「人形」となった彼女を前に、
ユリアンは初めて己の罪と執着に狂い始める。
「お願いだ、前のように僕を愛して泣いてくれ!」
足元に跪き、涙を流して乞う男に、ヤスミンは冷酷に微笑む。
「愛?……あいにく、そのような無駄な感情は捨てましたわ」
一度凍りついた心は、二度と溶けない。
後悔にのたうち回る男と、心を凍らせた冷徹な公爵夫人の、
終わりのない贖罪の記録。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?
綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。
相手はとある貴族のご令嬢。
確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。
別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。
何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!
ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。
相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。
結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。
現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう…
その時に前世の記憶を取り戻すのだった…
「悪役令嬢の兄の婚約者って…」
なんとも微妙なポジション。
しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。
【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない
朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。
婚約破棄されたので、もう誰の役にも立たないことにしました 〜静かな公爵家で、何もしない私の本当の人生が始まります〜
ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、
完璧であることを求められ続けてきた令嬢エリシア。
だがある日、彼女は一方的に婚約を破棄される。
理由は簡単だった。
「君は役に立ちすぎた」から。
すべてを失ったはずの彼女が身を寄せたのは、
“静かな公爵”と呼ばれるアルトゥール・クロイツの屋敷。
そこで待っていたのは――
期待も、役割も、努力の強要もない日々だった。
前に出なくていい。
誰かのために壊れなくていい。
何もしなくても、ここにいていい。
「第二の人生……いえ、これからが本当の人生です」
婚約破棄ざまぁのその先で描かれる、
何者にもならなくていいヒロインの再生と、
放っておく優しさに満ちた静かな溺愛。
これは、
“役に立たなくなった”令嬢が、
ようやく自分として生き始める物語。
子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。
さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。
忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。
「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」
気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、
「信じられない!離縁よ!離縁!」
深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。
結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?
「君以外を愛する気は無い」と婚約者様が溺愛し始めたので、異世界から聖女が来ても大丈夫なようです。
海空里和
恋愛
婚約者のアシュリー第二王子にべた惚れなステラは、彼のために努力を重ね、剣も魔法もトップクラス。彼にも隠すことなく、重い恋心をぶつけてきた。
アシュリーも、そんなステラの愛を静かに受け止めていた。
しかし、この国は20年に一度聖女を召喚し、皇太子と結婚をする。アシュリーは、この国の皇太子。
「たとえ聖女様にだって、アシュリー様は渡さない!」
聖女と勝負してでも彼を渡さないと思う一方、ステラはアシュリーに切り捨てられる覚悟をしていた。そんなステラに、彼が告げたのは意外な言葉で………。
※本編は全7話で完結します。
※こんなお話が書いてみたくて、勢いで書き上げたので、設定が緩めです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる