離婚を望む悪女は、冷酷夫の執愛から逃げられない

柴田はつみ

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死と目覚め

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 ——冷たい水の底に沈んでいくようだった。
 耳に届くのは、自分の鼓動が遠ざかっていく音だけ。視界の端が暗く染まり、最後に見たのは赤信号を無視して突っ込んできたトラックのライトだった。
 痛みはなかった。ただ、重く、眠りに落ちるような感覚。

 次に目を開けたとき、そこは見知らぬ天蓋付きのベッドの上だった。
 薄絹のカーテン越しに差し込む光はやわらかく、甘い香油の匂いが漂っている。天井の装飾、壁に掛かった絵画、そして自分の手に嵌められた宝石のついた指輪——どれも現実感がなかった。

「……ここは……?」

 声は震え、聞き覚えのない高めの音色で響いた。
 反射的にベッド脇の鏡へと足を向ける。そこに映っていたのは、自分ではない。
 長い銀糸の髪、大きな紫水晶色の瞳。睫毛は扇のように長く、肌は雪のように白い。唇は薔薇色で——物語の中で読んだ悪女アイリス、そのままだった。

「……嘘、でしょう……?」

 足がすくむ。だが、頭の奥底に記憶が流れ込んできた。この顔、この部屋、この世界。
 ——ここは、私が死ぬ前夜に読み終えた恋愛小説の中。
 そして私は、夫カルロスに嫉妬と誤解の末に殺される悪女、アイリスになってしまった。

 脳裏に蘇るラストシーン。血に濡れた石畳、冷たい瞳で剣を振り下ろすカルロスの姿。
 胸の奥が締めつけられる。あの結末を辿れば、私の命は確実に終わる。

「……避けなきゃ……絶対に……」

 その瞬間、ドアがノックもなく開いた。
 入ってきたのは、長身で鋭い金色の瞳を持つ男——カルロスだった。
 深紅の軍服を纏い、威圧感を纏ったその姿は、物語の中で描かれたままの冷酷な軍人。だが、現実として目の前に立たれると、息をするのも忘れるほどの存在感があった。

「……起きていたのか、アイリス」

 低く抑えた声。感情はほとんど読めないが、わずかに眉間が寄っている。
 彼は私を一瞥すると、窓際に歩み寄り、カーテンを開け放った。光が差し込み、カルロスの整った横顔が際立つ。
 けれど、その美しさと同時に、物語の結末が脳裏をよぎる——この人は、私を殺す。

「……カルロス様」

 声が震える。
 私がどうすれば彼との破滅を避けられるか——その答えは一つしかない。
 結婚をやめること。すぐにでも、この関係を終わらせること。

「……お願いがあります」
「……なんだ」
「……離婚を……していただけませんか?」

 沈黙が落ちた。
 カルロスはわずかに目を細め、ゆっくりとこちらへ向き直る。その視線は氷のように冷たく、足元から体温が奪われる感覚に襲われる。
 けれど——その瞳の奥に、一瞬だけ複雑な感情が揺れたように見えた。

「……離婚、だと?」
「はい……私は……あなたの足かせになるだけです」
「……理由を言え」
「……理由は……」

 言えない。この世界の未来を知っているからなんて、口が裂けても言えない。
 視線を逸らす私に、カルロスはゆっくりと歩み寄ってきた。
 ベッド脇まで来ると、彼は手を伸ばし、私の顎を軽く持ち上げる。至近距離で見下ろす瞳は、冷たさの中にどこか探るような色を帯びていた。

「……面白いことを言う。だが——」
 低く、囁くように続く。
「お前は俺の妻だ。今も、これからも……それは変わらない」

 指先から離れた瞬間、息が詰まるような緊張感が残った。
 カルロスは何事もなかったかのように背を向け、扉の前で一度だけ振り返る。
 その口元が、ごくわずかに——笑ったように見えた。

 扉が閉まったあと、私はその場に崩れ落ちた。
 ——やっぱり、簡単には逃げられない。
 だけど、私は諦めない。必ず、この物語の結末を書き換えてみせる。
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