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離婚の申し出
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カルロスが去った寝室は、あっという間に静まり返った。
あの冷たい瞳と、最後に見せた微笑らしきものが頭から離れない。
——やはり、簡単には離婚できない。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
物語の中のアイリスは、嫉妬に狂い、夫の心を縛ろうとして破滅した。そんな未来を辿るくらいなら、今のうちに距離を置くべきだ。
朝の支度を終えると、私は意を決してカルロスの執務室へ向かった。
長い廊下の窓から差し込む光は白く冷たく、緊張で手のひらに汗が滲む。
——扉の前で深呼吸。
控えめにノックをすると、中から低い声が響いた。
「入れ」
重厚な扉を開けると、カルロスは大きな机に向かい書類に目を通していた。軍服の上着は椅子の背に掛けられ、黒いシャツから覗く首筋に血管が浮かんでいる。
その横顔は彫刻のように美しいが、やはり冷たく、近寄りがたい。
「……カルロス様」
「また離婚の話か?」
顔も上げずに言い当てられ、心臓が跳ねた。
私は一歩近づき、膝の前で手を重ねて俯く。
「……はい。私は……この結婚が、あなたのためにならないと思うのです」
「ふん……理由は?」
「……私が、あなたの足を引っ張るから」
「そんなことはない」
「……でも——」
言葉を遮るように、カルロスが椅子から立ち上がった。
長身の影が私を覆い、距離が一気に詰まる。
「足を引っ張るかどうかを決めるのは、俺だ。お前ではない」
「……」
「それに……」
一瞬、金色の瞳が私を射抜く。
その視線は冷たさの奥に何か熱を秘めているようで、心臓が締めつけられる。
「俺はお前を、手放すつもりはない」
低い声に、逃げ場を塞がれた気分だった。
——なぜ、そこまで固執するのか。物語では、カルロスはカミラに心を奪われていたはずなのに。
「……私には、わかりません。なぜ——」
「わからなくていい。考えるな」
突き放すような言葉に、胸の奥が痛んだ。
そのまま執務室を追い出され、私は長い廊下を歩く。
足元がおぼつかず、壁に手をつくたびに、離婚の道が遠のいていくのを感じた。
午後、屋敷の玄関前に豪奢な馬車が停まった。
扉が開き、鮮やかな紅のドレスに身を包んだ女性が姿を現す。
——カミラ。物語の悪女ライバルにして、カルロスの心を奪う女。
艶やかな黒髪を揺らし、彼女はまっすぐ屋敷に入り、私を見ると微笑んだ。
その笑みは甘く、そして挑発的だった。
「まあ、奥様。ご機嫌よう」
「……ご機嫌よう、カミラ様」
「今日もお美しいわ。……カルロス様も、きっと目を離せないでしょうね」
わざとらしい言い回しに、胸の奥がざわめく。
カミラは侍女に導かれるまま、カルロスの執務室へと消えていった。
——そして、その日の夕刻。
街へ買い物に出た私の目に飛び込んできたのは、馬車から降りるカルロスと、その腕に手を絡めるカミラの姿だった。
笑顔で寄り添い、まるで恋人のように歩く二人。
息が止まり、足が凍りつく。
視線がぶつかることはなかったが、胸の奥で何かが崩れる音がした。
(……やっぱり、このままじゃ……)
私は拳を握りしめた。
——この結婚は、やはり終わらせなければならない。
翌朝。
私が屋敷の庭で花に水をやっていると、侍女のマリアが妙に落ち着かない様子で近づいてきた。
「……奥様、あの……」
「どうしたの?」
「……こんなこと、申し上げるべきか迷ったのですが……街で少し、不穏な噂が……」
胸がざわめく。
マリアは視線を泳がせ、ためらいがちに続けた。
「……カルロス様とカミラ様が……夜な夜な同じ部屋で過ごしている、と……」
「……!」
昨日、街で見た二人の姿が鮮明に蘇る。
あの笑顔、腕を絡める仕草。あれは演技なんかじゃなかった——そう思い込んでしまうには十分だった。
「誰がそんなことを……」
「噂の出どころは……おそらく、カミラ様のご友人方です」
その瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。
——つまり、彼女自身が意図的に流した可能性が高い。
物語でも、カミラは巧みに言葉を操り、アイリスを孤立させていった。
「……もう結構よ、マリア。ありがとう」
侍女を下がらせ、私は庭の奥に歩み出る。
冷たい風が頬を刺すのに、心の中は熱く、痛く、苦しい。
——やっぱり、離婚しかない。私の命を守るためにも。
その夜。
カルロスは夕食にも顔を出さず、遅くに屋敷へ戻ってきた。
廊下を歩く靴音が近づき、私の部屋の前で止まる。
扉がノックもなく開き、背の高い影が差し込んだ。
「起きていたのか」
「……はい」
彼は部屋に入り、何も言わずに暖炉の前に腰を下ろした。
軍服の襟元を緩め、深く息を吐く。その仕草は、疲れているというより……何かを隠しているように見える。
「……今日は、どちらに?」
「視察だ」
「……カミラ様とご一緒に?」
わずかに、カルロスの肩が動いた。
彼は私を見ず、低く短く答える。
「……そうだ」
「……そう、ですか」
返事をしただけで、喉が焼けるように熱くなった。
——やはり、噂は本当なのか。
「……俺とカミラのことを、誰から聞いた」
「……え?」
「噂になっているだろう。俺が知らないとでも?」
鋭い視線が突き刺さる。
私は反射的に一歩引いた。だが、彼は立ち上がり、ゆっくりと私に歩み寄る。
「……くだらない話を真に受けるな」
「でも……街で見ました。あなたとカミラ様が、腕を組んで——」
「あれは、必要があった」
「必要……?」
カルロスは眉をひそめ、言葉を探すように沈黙した。
やがて、低い声でぽつりと言う。
「……お前を、守るためだ」
「……どういう意味ですか?」
「……まだ言えない」
——まただ。肝心なことは何も教えてくれない。
結局、私は彼を信じる理由も、離婚を諦める理由も持てないままだ。
「……お前は、俺が嫌いか」
「……」
「答えろ」
「……わかりません」
正直に答えると、カルロスはわずかに目を細めた。
その瞳には、微かな痛みが滲んでいた——気のせいかもしれない。
「……なら、まだ離婚はしない」
そう告げると、彼は私の頭に大きな手を置き、一瞬だけ撫でた。
温かいのに、すぐに離れてしまう。その不器用な仕草が、胸に刺さる。
扉が閉まり、静寂が戻る。
私はベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。
(……カルロス様は、何を考えているの……?)
わからない。けれど、このままでは——私の心が先に壊れてしまう。
あの冷たい瞳と、最後に見せた微笑らしきものが頭から離れない。
——やはり、簡単には離婚できない。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
物語の中のアイリスは、嫉妬に狂い、夫の心を縛ろうとして破滅した。そんな未来を辿るくらいなら、今のうちに距離を置くべきだ。
朝の支度を終えると、私は意を決してカルロスの執務室へ向かった。
長い廊下の窓から差し込む光は白く冷たく、緊張で手のひらに汗が滲む。
——扉の前で深呼吸。
控えめにノックをすると、中から低い声が響いた。
「入れ」
重厚な扉を開けると、カルロスは大きな机に向かい書類に目を通していた。軍服の上着は椅子の背に掛けられ、黒いシャツから覗く首筋に血管が浮かんでいる。
その横顔は彫刻のように美しいが、やはり冷たく、近寄りがたい。
「……カルロス様」
「また離婚の話か?」
顔も上げずに言い当てられ、心臓が跳ねた。
私は一歩近づき、膝の前で手を重ねて俯く。
「……はい。私は……この結婚が、あなたのためにならないと思うのです」
「ふん……理由は?」
「……私が、あなたの足を引っ張るから」
「そんなことはない」
「……でも——」
言葉を遮るように、カルロスが椅子から立ち上がった。
長身の影が私を覆い、距離が一気に詰まる。
「足を引っ張るかどうかを決めるのは、俺だ。お前ではない」
「……」
「それに……」
一瞬、金色の瞳が私を射抜く。
その視線は冷たさの奥に何か熱を秘めているようで、心臓が締めつけられる。
「俺はお前を、手放すつもりはない」
低い声に、逃げ場を塞がれた気分だった。
——なぜ、そこまで固執するのか。物語では、カルロスはカミラに心を奪われていたはずなのに。
「……私には、わかりません。なぜ——」
「わからなくていい。考えるな」
突き放すような言葉に、胸の奥が痛んだ。
そのまま執務室を追い出され、私は長い廊下を歩く。
足元がおぼつかず、壁に手をつくたびに、離婚の道が遠のいていくのを感じた。
午後、屋敷の玄関前に豪奢な馬車が停まった。
扉が開き、鮮やかな紅のドレスに身を包んだ女性が姿を現す。
——カミラ。物語の悪女ライバルにして、カルロスの心を奪う女。
艶やかな黒髪を揺らし、彼女はまっすぐ屋敷に入り、私を見ると微笑んだ。
その笑みは甘く、そして挑発的だった。
「まあ、奥様。ご機嫌よう」
「……ご機嫌よう、カミラ様」
「今日もお美しいわ。……カルロス様も、きっと目を離せないでしょうね」
わざとらしい言い回しに、胸の奥がざわめく。
カミラは侍女に導かれるまま、カルロスの執務室へと消えていった。
——そして、その日の夕刻。
街へ買い物に出た私の目に飛び込んできたのは、馬車から降りるカルロスと、その腕に手を絡めるカミラの姿だった。
笑顔で寄り添い、まるで恋人のように歩く二人。
息が止まり、足が凍りつく。
視線がぶつかることはなかったが、胸の奥で何かが崩れる音がした。
(……やっぱり、このままじゃ……)
私は拳を握りしめた。
——この結婚は、やはり終わらせなければならない。
翌朝。
私が屋敷の庭で花に水をやっていると、侍女のマリアが妙に落ち着かない様子で近づいてきた。
「……奥様、あの……」
「どうしたの?」
「……こんなこと、申し上げるべきか迷ったのですが……街で少し、不穏な噂が……」
胸がざわめく。
マリアは視線を泳がせ、ためらいがちに続けた。
「……カルロス様とカミラ様が……夜な夜な同じ部屋で過ごしている、と……」
「……!」
昨日、街で見た二人の姿が鮮明に蘇る。
あの笑顔、腕を絡める仕草。あれは演技なんかじゃなかった——そう思い込んでしまうには十分だった。
「誰がそんなことを……」
「噂の出どころは……おそらく、カミラ様のご友人方です」
その瞬間、背筋を冷たいものが這い上がる。
——つまり、彼女自身が意図的に流した可能性が高い。
物語でも、カミラは巧みに言葉を操り、アイリスを孤立させていった。
「……もう結構よ、マリア。ありがとう」
侍女を下がらせ、私は庭の奥に歩み出る。
冷たい風が頬を刺すのに、心の中は熱く、痛く、苦しい。
——やっぱり、離婚しかない。私の命を守るためにも。
その夜。
カルロスは夕食にも顔を出さず、遅くに屋敷へ戻ってきた。
廊下を歩く靴音が近づき、私の部屋の前で止まる。
扉がノックもなく開き、背の高い影が差し込んだ。
「起きていたのか」
「……はい」
彼は部屋に入り、何も言わずに暖炉の前に腰を下ろした。
軍服の襟元を緩め、深く息を吐く。その仕草は、疲れているというより……何かを隠しているように見える。
「……今日は、どちらに?」
「視察だ」
「……カミラ様とご一緒に?」
わずかに、カルロスの肩が動いた。
彼は私を見ず、低く短く答える。
「……そうだ」
「……そう、ですか」
返事をしただけで、喉が焼けるように熱くなった。
——やはり、噂は本当なのか。
「……俺とカミラのことを、誰から聞いた」
「……え?」
「噂になっているだろう。俺が知らないとでも?」
鋭い視線が突き刺さる。
私は反射的に一歩引いた。だが、彼は立ち上がり、ゆっくりと私に歩み寄る。
「……くだらない話を真に受けるな」
「でも……街で見ました。あなたとカミラ様が、腕を組んで——」
「あれは、必要があった」
「必要……?」
カルロスは眉をひそめ、言葉を探すように沈黙した。
やがて、低い声でぽつりと言う。
「……お前を、守るためだ」
「……どういう意味ですか?」
「……まだ言えない」
——まただ。肝心なことは何も教えてくれない。
結局、私は彼を信じる理由も、離婚を諦める理由も持てないままだ。
「……お前は、俺が嫌いか」
「……」
「答えろ」
「……わかりません」
正直に答えると、カルロスはわずかに目を細めた。
その瞳には、微かな痛みが滲んでいた——気のせいかもしれない。
「……なら、まだ離婚はしない」
そう告げると、彼は私の頭に大きな手を置き、一瞬だけ撫でた。
温かいのに、すぐに離れてしまう。その不器用な仕草が、胸に刺さる。
扉が閉まり、静寂が戻る。
私はベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。
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