4 / 10
幼馴染の手
しおりを挟む
噂は消えるどころか、日を追うごとに形を変えて広がっていった。
屋敷に届く招待状の中には、あからさまに私を除外したものすら混じるようになる。
カルロスは何も説明しないまま、忙しさを理由に外出が続き——私は、孤立を深めていた。
その日、私は久しぶりに街へ出ることにした。
息苦しい屋敷の空気から逃げ出したかった。
護衛の騎士を伴い、人気の少ない通りを歩いていると、懐かしい声が耳に届く。
「……アイリス?」
振り向いた先に立っていたのは、背の高い青年。
柔らかな栗色の髪、穏やかな碧眼——間違いない。幼馴染のクリスだった。
「……クリス……?」
「やっぱり、君だ。何年ぶりだろう……」
彼は笑顔を見せながら近づき、その視線には懐かしさと安堵が混じっていた。
近くの喫茶店に入り、温かい紅茶を前に向かい合う。
彼は王都近郊で商会を任されており、偶然の仕事で街に来ていたという。
「噂を聞いて……心配していたんだ」
「……噂?」
「カルロス殿下と、あのカミラ嬢のこと。——本当なのか?」
その名が出た瞬間、胸の奥がざわつく。
私は答えに詰まり、カップを持つ手が震えた。
「……私は……何も知らないの」
「そうか……」
クリスは眉をひそめ、テーブル越しに私の手をそっと包んだ。
その手は温かく、懐かしい安心感をくれる。
「君は昔から、何でも一人で抱え込む。……守らせてくれ」
「……クリス……」
その時——。
喫茶店の入口から、重い靴音が響いた。
振り向くと、黒い外套を羽織ったカルロスが立っていた。
金色の瞳が鋭く光り、テーブルの上で重なった私たちの手を一瞥する。
「……随分と楽しそうだな」
低く押し殺した声に、背筋が粟立つ。
「カルロス様……これは——」
「言い訳はいい」
彼はゆっくりと歩み寄り、クリスの手から私の手を奪い取った。
その動作は荒くないのに、拒絶をはっきりと伝える力があった。
「——彼女は俺の妻だ」
「……承知しています。ただ、昔の友人として——」
「必要ない」
冷たく切り捨てられた言葉に、店内の空気が一瞬で凍りつく。
私は慌てて立ち上がったが、カルロスは私の腰を引き寄せ、外套の下に隠すように連れ出した。
馬車の中、沈黙が落ちる。
カルロスは外を見たまま、低い声で問う。
「……あいつは誰だ」
「……幼馴染です。クリス・ハワード」
「なぜ手を握られていた」
「……慰められていただけです」
カルロスの瞳がわずかに細まり、拳が膝の上で固く握られた。
「……俺が不在の間に、他の男に慰めを求めるのか」
「そんなつもりでは——」
「俺は……」
何かを言いかけ、カルロスは口をつぐむ。
代わりに、私の手を自分の膝の上で強く握り締めた。
「……もう二度と、あいつと会うな」
「……理由は?」
「理由は……まだ言えない」
その曖昧な言葉が、私の中の疑念をさらに膨らませた。
けれど、彼の握る手の熱は、不思議と拒めなかった。
それからの数日、屋敷の空気は目に見えない網のように張りつめた。
カルロスは朝早く出て夜遅く戻るが、以前よりも私の行動に口を出すようになった。庭へ降りるときは侍女を二人つけろ、街に出るときは護衛を三人に増やせ、友人との茶会は一時見合わせろ——ひとつひとつは保護に聞こえるのに、積もると檻の形を取る。
「……過保護が過ぎます」
控えめに抗議すると、カルロスは書類から目を上げずに答えた。
「必要だ」
「何に対して、ですか」
「……世間話だ」
「世間話程度で、私の予定をすべて覆すのは——」
「覆していない。整えているだけだ」
冷ややかな声が、かえって不器用な焦りを滲ませる。
叱責とも庇護ともつかぬ言葉の端で、指先がわずかに机を叩く癖。私が黙ると、その音も止む。
——私が何をすれば、彼は安心するのだろう。
その日の午後、マリアがそっと囁いた。
「奥様……門前に紳士が。『クリス・ハワードと申します』とのことですが、いかがいたしましょう」
胸が跳ねる。
会わない方がいい、そう結論づけたばかりのはずなのに、名前を聞いただけで心は揺れた。
「……応接間へ。護衛は近くに」
「かしこまりました」
応接間の扉を開けると、クリスは立ち上がった。
簡素な旅装の上に濃紺の上衣、靴には街道の塵。けれど姿勢は端然として、目に宿る光は穏やかだ。
「突然押しかけてすまない。……伝えたいことがあって」
「お座りになって。お茶を」
マリアが用意した香り高い茶が湯気を上げる。
カップを受け取ったクリスは、少し迷うような表情をして、それからまっすぐ私を見た。
「——噂の出どころを追った。商会の伝手で幾つか辿れたが、最初に火をつけたのは、カミラ嬢の侍女だ。名を貸したのは下町の酒場主。金が動いている」
「……やはり」
「それから、宝飾店の件。あれは『見せ金』だ。実際の買い付けはなかった。店主に確認した」
手にしたカップがかすかに震えた。
息の奥に、安堵とも悔しさともつかない熱が溜まっていく。
「どうしてそこまで……?」
「君が困っていたから」
即答だった。クリスは少し微笑を弱め、言葉を選び直した。
「きっと、君はこの屋敷の中で一人だ。誰に話していいのかも、分からない。それなら、せめて事実だけでも渡しておきたい。——君が決めるために」
ありがとう、と言いかけたとき、廊下の足音が応接間の前で止まった。
扉が開き、カルロスが現れる。外出中のはずの軍服の上、外套の裾が風を孕み、金の瞳が一瞬で室内を測った。
「……客人とは、珍しいな」
穏やかな声音なのに、室温が僅かに下がった気がした。
クリスは礼を取り、名乗る。
「ハワード商会のクリス・ハワードと申します。旧くからの——」
「幼馴染、だそうだな」
カルロスは私の隣に立ち、そのまま視線を外さず言葉を続けた。
「要件は」
「奥様に関わる流言について、確認済みの事実をお伝えに」
「俺の屋敷に、俺の妻の噂を携えてきたのか」
「はい。——奥様が、誤った噂で傷つくべきではないから」
短い沈黙。暖炉で薪がはぜる音がやけに大きい。
カルロスの横顔がわずかに動き、顎の線が堅くなる。
「……報せは受け取った。以後は俺の管轄だ。退け」
「しかし——」
「退け」
同じ言葉でも二度目は低く、鋭い。
クリスは私を見た。助けを求めるようでも、別れを告げるようでもない視線。
私は息を吸い、丁寧に頭を下げた。
「教えてくれて、ありがとう。頂いた情報は大切にします」
それで十分だと告げるように、クリスは穏やかに微笑んだ。
「では、また。——必要ならいつでも」
扉が閉じ、足音が遠ざかる。
残された空間に、緊張だけが置き去りにされた。
「……勝手だな」
カルロスの呟きは、自分に向けたもののようにも聞こえた。
彼は外套を椅子に投げ、私の正面に立つ。
「なぜ俺を通さない。外から来た男に、屋敷の中で君を囲ませるな」
「囲ませてなどいません。ただ——事実を知りたかった」
「事実は俺が持っている」
「ならば、どうして教えてくださらないのです」
つい言葉が尖った。
カルロスの瞼がわずかに震え、次いで息を吐く気配。
「……まだ、時機ではない」
「その『まだ』が、私を孤独にするのです」
吐き出してから、胸の奥がひどく静かになった。
彼は私を見て、金の瞳の奥で何かが軋む。
次の瞬間、膝の裏に影が落ちたと思うと、私は軽々と抱え上げられていた。
「か——カルロス様?」
「足が震えている。座れ」
ソファへ下ろされ、彼は片膝をついた。
軍手袋を外し、指先でそっと私の足首に触れる。
くすぐったいような、くすぶるような熱が皮膚から胸へ這い上がる。
「……俺は、不器用だ」
唐突な告白に目を瞬く。
カルロスは視線を落とし、足首から手を離した。
「遠ざければ安全だと、そう思ってきた。口にすれば弱点になる。守るなら、知られない方がいい。……そう教えられて育った」
「それは——戦場の理屈です」
「俺にとっては、世界の理屈だった」
短い乾いた笑い。自嘲と、わずかな疲弊。
「だが、君には通じないらしい」
「ええ」
我ながら即答だった。
カルロスは驚いたように目を瞬き、ふ、と微かな笑みの影を口元に刻んだ。
「では、少し変える。……少しずつだ」
「何を、ですか」
「君に渡す情報の量と順序。関係者の扱い。護衛の配置も。——君が孤独でないと、俺が納得できる範囲で」
「……『俺が納得できる範囲』」
「譲れない部分は、ある」
頑なさを隠そうともしない言い分なのに、心のどこかが苦笑でほどける。
変える努力を口にしたのは、これが初めてだったから。
と、その時だ。控えの間から駆け足の気配、侍女の声が響く。
「奥様! 大変でございます!」
「どうしたの、マリア」
「下町の掲示板に……『殿下とカミラ様の婚約、近日中に発表』という張り紙が! 署名は……『王都報知』と」
息が詰まる。
カルロスは立ち上がり、外套を掴んだ。
「掲示の場所は」
「市場通りと、南門前、工匠区の三箇所に!」
「剥がせ。護衛を連れてすぐに——」
「待って」
思わず、カルロスの袖を取った。
彼の動きが止まり、金色が振り向く。
「……行くのは私です」
「駄目だ」
「いいえ。私が行かなければ、また『知らされない』ことが増える。私の目で見たい。人々がどう私を見て、何を信じているかを」
強くは言っていない。けれど自分でも驚くほど、声は揺れなかった。
カルロスは短く考え、顎で合図した。
「……馬車を回せ。近衛を四。——俺も行く」
市場通りは夕刻の光に満ち、人々のざわめきが波のように押し寄せていた。
掲示板の前には紙を覗き込む人だかり。紙は安物だが墨は新しい。
私は馬車から降り、護衛の輪の内側で紙面を見上げた。
そこには確かに、太い字で「婚約近日発表」の文言。
周囲の視線が、遠慮なく私を貫く。
「これが……現実……」
呟きが風に攫われる。
次の瞬間、ざわめきが別の方向から沸いた。
黒馬に跨った兵が駆け込み、短い角笛が市場に響く。
人々が道を開ける中、先頭の男が馬から飛び降り、膝をついた。
「殿下! 報告! この張り紙を用意したのは、下町の印刷屋『黒雀』。依頼主は……偽名にて『青の手』を名乗る女。特徴は黒髪、指に薔薇の刺青!」
周囲にざわめきが走り、誰かがあ、と声を漏らす。
黒髪、薔薇の刺青——カミラの侍女に、そんな女がいた。
私の横で、カルロスの呼吸が変わる。
彼はひとこと命じた。
「店を押さえろ。依頼書、見積もり、版木、すべてだ。——穏便に、しかし確実に」
声は冷たく、恐ろしいほど静かだった。
それから振り向き、私の前に立つ。
市場の視線が一斉に集まり、時間が、止まる。
「よく見ておけ」
低い声が、私だけに届くように落とされる。
「君が侮られたら、俺はこうする。——徹底的に、正す」
言葉が胸に沈むと同時に、彼は私の肩に外套を掛けた。
その仕草は、さっきまでの冷徹さとは別人のように、優しい。
馬車に戻る途中、人混みの端に見慣れた影を見た。
クリスだ。私たちに気づくと、彼は一歩だけ前に出て、しかし近づこうとはしなかった。
代わりに、口だけで——「大丈夫か」と。
私は、うなずいた。
それだけで、彼は満足したように微笑み、群衆の向こうへ消える。
帰路、馬車の中で、カルロスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐き、私の方へ視線を寄越す。
「……さっきのような場に君を連れ出したのは、正しいか分からない」
「私が望んだことです」
「ああ。だが、次に同じことが起きたら——俺は、もっと早く手を打つ」
「『俺が納得できる範囲で』?」
思わず茶化すと、カルロスはほんのわずか、目尻を緩めた。
「学習は早い方だ」
からかうような言い方なのに、声音はやけに柔らかい。
その柔らかさが、胸の内側に静かな灯をともす。
屋敷に戻ると、玄関で伝令が待っていた。
「殿下! 『黒雀』より押収した依頼書に、差出人のもう一つの連絡先が。——伯爵家ミラーの別邸」
私は思わずカルロスを見る。ミラー伯……カミラの後援者として知られる名だ。
カルロスの視線が鋭く細くなり、次の瞬間には命令が飛んでいた。
「夜明け前に別邸へ向かう。令状の手配、証人の準備、文官を二名。……アイリス」
「はい」
「同行するか?」
問いは静かで、逃げ道を選べる形で差し出された。
私は短く迷い、うなずいた。
「ええ。——私の名が使われた噂の行方を、この目で確かめたい」
カルロスはわずかに息を止め、それから「分かった」と頷いた。
その声音の底に、微かな安堵が混じるのを、私は聴き逃さなかった。
部屋へ下がる前、私は振り返る。
「カルロス様」
「何だ」
「……ありがとう」
言葉は軽く、けれど内側は熱かった。
彼は目を瞬き、ふ、と笑いにもならない息を漏らす。
「礼は、結果が出てからにしろ」
ツンとした言い草のはずなのに、不思議と背中が温かくなる。
その温度を抱えたまま、私は寝室の扉を閉じた。
夜更け。
窓の外に雲が流れ、夜の匂いが濃くなる。
目を閉じると、市場のざわめき、紙の白、金の瞳の熱が交互に浮かんでは消えた。
——私の手は、まだあの外套の重みを覚えている。
明け方、廊下を踏む靴音が静かに近づき、扉の外で一度止まった。
呼吸を潜めると、低い声が扉越しに落ちる。
「行くぞ」
「はい」
扉を開けた先、カルロスは黒の軍衣に身を包み、いつもの冷たい武装の奥で、見慣れない灯を宿していた。
それが何かを問うには、まだ早い。
けれど、私は気づいていた。
——この拗れの夜が明けるたび、彼の不器用な手が、少しずつ私の方へ伸びてきていることに。
そして、その手を振り払うか、掴み返すかを決めるのは、きっと私だ。
私は外套の前を留め、彼の歩幅に合わせて一歩踏み出した。
屋敷に届く招待状の中には、あからさまに私を除外したものすら混じるようになる。
カルロスは何も説明しないまま、忙しさを理由に外出が続き——私は、孤立を深めていた。
その日、私は久しぶりに街へ出ることにした。
息苦しい屋敷の空気から逃げ出したかった。
護衛の騎士を伴い、人気の少ない通りを歩いていると、懐かしい声が耳に届く。
「……アイリス?」
振り向いた先に立っていたのは、背の高い青年。
柔らかな栗色の髪、穏やかな碧眼——間違いない。幼馴染のクリスだった。
「……クリス……?」
「やっぱり、君だ。何年ぶりだろう……」
彼は笑顔を見せながら近づき、その視線には懐かしさと安堵が混じっていた。
近くの喫茶店に入り、温かい紅茶を前に向かい合う。
彼は王都近郊で商会を任されており、偶然の仕事で街に来ていたという。
「噂を聞いて……心配していたんだ」
「……噂?」
「カルロス殿下と、あのカミラ嬢のこと。——本当なのか?」
その名が出た瞬間、胸の奥がざわつく。
私は答えに詰まり、カップを持つ手が震えた。
「……私は……何も知らないの」
「そうか……」
クリスは眉をひそめ、テーブル越しに私の手をそっと包んだ。
その手は温かく、懐かしい安心感をくれる。
「君は昔から、何でも一人で抱え込む。……守らせてくれ」
「……クリス……」
その時——。
喫茶店の入口から、重い靴音が響いた。
振り向くと、黒い外套を羽織ったカルロスが立っていた。
金色の瞳が鋭く光り、テーブルの上で重なった私たちの手を一瞥する。
「……随分と楽しそうだな」
低く押し殺した声に、背筋が粟立つ。
「カルロス様……これは——」
「言い訳はいい」
彼はゆっくりと歩み寄り、クリスの手から私の手を奪い取った。
その動作は荒くないのに、拒絶をはっきりと伝える力があった。
「——彼女は俺の妻だ」
「……承知しています。ただ、昔の友人として——」
「必要ない」
冷たく切り捨てられた言葉に、店内の空気が一瞬で凍りつく。
私は慌てて立ち上がったが、カルロスは私の腰を引き寄せ、外套の下に隠すように連れ出した。
馬車の中、沈黙が落ちる。
カルロスは外を見たまま、低い声で問う。
「……あいつは誰だ」
「……幼馴染です。クリス・ハワード」
「なぜ手を握られていた」
「……慰められていただけです」
カルロスの瞳がわずかに細まり、拳が膝の上で固く握られた。
「……俺が不在の間に、他の男に慰めを求めるのか」
「そんなつもりでは——」
「俺は……」
何かを言いかけ、カルロスは口をつぐむ。
代わりに、私の手を自分の膝の上で強く握り締めた。
「……もう二度と、あいつと会うな」
「……理由は?」
「理由は……まだ言えない」
その曖昧な言葉が、私の中の疑念をさらに膨らませた。
けれど、彼の握る手の熱は、不思議と拒めなかった。
それからの数日、屋敷の空気は目に見えない網のように張りつめた。
カルロスは朝早く出て夜遅く戻るが、以前よりも私の行動に口を出すようになった。庭へ降りるときは侍女を二人つけろ、街に出るときは護衛を三人に増やせ、友人との茶会は一時見合わせろ——ひとつひとつは保護に聞こえるのに、積もると檻の形を取る。
「……過保護が過ぎます」
控えめに抗議すると、カルロスは書類から目を上げずに答えた。
「必要だ」
「何に対して、ですか」
「……世間話だ」
「世間話程度で、私の予定をすべて覆すのは——」
「覆していない。整えているだけだ」
冷ややかな声が、かえって不器用な焦りを滲ませる。
叱責とも庇護ともつかぬ言葉の端で、指先がわずかに机を叩く癖。私が黙ると、その音も止む。
——私が何をすれば、彼は安心するのだろう。
その日の午後、マリアがそっと囁いた。
「奥様……門前に紳士が。『クリス・ハワードと申します』とのことですが、いかがいたしましょう」
胸が跳ねる。
会わない方がいい、そう結論づけたばかりのはずなのに、名前を聞いただけで心は揺れた。
「……応接間へ。護衛は近くに」
「かしこまりました」
応接間の扉を開けると、クリスは立ち上がった。
簡素な旅装の上に濃紺の上衣、靴には街道の塵。けれど姿勢は端然として、目に宿る光は穏やかだ。
「突然押しかけてすまない。……伝えたいことがあって」
「お座りになって。お茶を」
マリアが用意した香り高い茶が湯気を上げる。
カップを受け取ったクリスは、少し迷うような表情をして、それからまっすぐ私を見た。
「——噂の出どころを追った。商会の伝手で幾つか辿れたが、最初に火をつけたのは、カミラ嬢の侍女だ。名を貸したのは下町の酒場主。金が動いている」
「……やはり」
「それから、宝飾店の件。あれは『見せ金』だ。実際の買い付けはなかった。店主に確認した」
手にしたカップがかすかに震えた。
息の奥に、安堵とも悔しさともつかない熱が溜まっていく。
「どうしてそこまで……?」
「君が困っていたから」
即答だった。クリスは少し微笑を弱め、言葉を選び直した。
「きっと、君はこの屋敷の中で一人だ。誰に話していいのかも、分からない。それなら、せめて事実だけでも渡しておきたい。——君が決めるために」
ありがとう、と言いかけたとき、廊下の足音が応接間の前で止まった。
扉が開き、カルロスが現れる。外出中のはずの軍服の上、外套の裾が風を孕み、金の瞳が一瞬で室内を測った。
「……客人とは、珍しいな」
穏やかな声音なのに、室温が僅かに下がった気がした。
クリスは礼を取り、名乗る。
「ハワード商会のクリス・ハワードと申します。旧くからの——」
「幼馴染、だそうだな」
カルロスは私の隣に立ち、そのまま視線を外さず言葉を続けた。
「要件は」
「奥様に関わる流言について、確認済みの事実をお伝えに」
「俺の屋敷に、俺の妻の噂を携えてきたのか」
「はい。——奥様が、誤った噂で傷つくべきではないから」
短い沈黙。暖炉で薪がはぜる音がやけに大きい。
カルロスの横顔がわずかに動き、顎の線が堅くなる。
「……報せは受け取った。以後は俺の管轄だ。退け」
「しかし——」
「退け」
同じ言葉でも二度目は低く、鋭い。
クリスは私を見た。助けを求めるようでも、別れを告げるようでもない視線。
私は息を吸い、丁寧に頭を下げた。
「教えてくれて、ありがとう。頂いた情報は大切にします」
それで十分だと告げるように、クリスは穏やかに微笑んだ。
「では、また。——必要ならいつでも」
扉が閉じ、足音が遠ざかる。
残された空間に、緊張だけが置き去りにされた。
「……勝手だな」
カルロスの呟きは、自分に向けたもののようにも聞こえた。
彼は外套を椅子に投げ、私の正面に立つ。
「なぜ俺を通さない。外から来た男に、屋敷の中で君を囲ませるな」
「囲ませてなどいません。ただ——事実を知りたかった」
「事実は俺が持っている」
「ならば、どうして教えてくださらないのです」
つい言葉が尖った。
カルロスの瞼がわずかに震え、次いで息を吐く気配。
「……まだ、時機ではない」
「その『まだ』が、私を孤独にするのです」
吐き出してから、胸の奥がひどく静かになった。
彼は私を見て、金の瞳の奥で何かが軋む。
次の瞬間、膝の裏に影が落ちたと思うと、私は軽々と抱え上げられていた。
「か——カルロス様?」
「足が震えている。座れ」
ソファへ下ろされ、彼は片膝をついた。
軍手袋を外し、指先でそっと私の足首に触れる。
くすぐったいような、くすぶるような熱が皮膚から胸へ這い上がる。
「……俺は、不器用だ」
唐突な告白に目を瞬く。
カルロスは視線を落とし、足首から手を離した。
「遠ざければ安全だと、そう思ってきた。口にすれば弱点になる。守るなら、知られない方がいい。……そう教えられて育った」
「それは——戦場の理屈です」
「俺にとっては、世界の理屈だった」
短い乾いた笑い。自嘲と、わずかな疲弊。
「だが、君には通じないらしい」
「ええ」
我ながら即答だった。
カルロスは驚いたように目を瞬き、ふ、と微かな笑みの影を口元に刻んだ。
「では、少し変える。……少しずつだ」
「何を、ですか」
「君に渡す情報の量と順序。関係者の扱い。護衛の配置も。——君が孤独でないと、俺が納得できる範囲で」
「……『俺が納得できる範囲』」
「譲れない部分は、ある」
頑なさを隠そうともしない言い分なのに、心のどこかが苦笑でほどける。
変える努力を口にしたのは、これが初めてだったから。
と、その時だ。控えの間から駆け足の気配、侍女の声が響く。
「奥様! 大変でございます!」
「どうしたの、マリア」
「下町の掲示板に……『殿下とカミラ様の婚約、近日中に発表』という張り紙が! 署名は……『王都報知』と」
息が詰まる。
カルロスは立ち上がり、外套を掴んだ。
「掲示の場所は」
「市場通りと、南門前、工匠区の三箇所に!」
「剥がせ。護衛を連れてすぐに——」
「待って」
思わず、カルロスの袖を取った。
彼の動きが止まり、金色が振り向く。
「……行くのは私です」
「駄目だ」
「いいえ。私が行かなければ、また『知らされない』ことが増える。私の目で見たい。人々がどう私を見て、何を信じているかを」
強くは言っていない。けれど自分でも驚くほど、声は揺れなかった。
カルロスは短く考え、顎で合図した。
「……馬車を回せ。近衛を四。——俺も行く」
市場通りは夕刻の光に満ち、人々のざわめきが波のように押し寄せていた。
掲示板の前には紙を覗き込む人だかり。紙は安物だが墨は新しい。
私は馬車から降り、護衛の輪の内側で紙面を見上げた。
そこには確かに、太い字で「婚約近日発表」の文言。
周囲の視線が、遠慮なく私を貫く。
「これが……現実……」
呟きが風に攫われる。
次の瞬間、ざわめきが別の方向から沸いた。
黒馬に跨った兵が駆け込み、短い角笛が市場に響く。
人々が道を開ける中、先頭の男が馬から飛び降り、膝をついた。
「殿下! 報告! この張り紙を用意したのは、下町の印刷屋『黒雀』。依頼主は……偽名にて『青の手』を名乗る女。特徴は黒髪、指に薔薇の刺青!」
周囲にざわめきが走り、誰かがあ、と声を漏らす。
黒髪、薔薇の刺青——カミラの侍女に、そんな女がいた。
私の横で、カルロスの呼吸が変わる。
彼はひとこと命じた。
「店を押さえろ。依頼書、見積もり、版木、すべてだ。——穏便に、しかし確実に」
声は冷たく、恐ろしいほど静かだった。
それから振り向き、私の前に立つ。
市場の視線が一斉に集まり、時間が、止まる。
「よく見ておけ」
低い声が、私だけに届くように落とされる。
「君が侮られたら、俺はこうする。——徹底的に、正す」
言葉が胸に沈むと同時に、彼は私の肩に外套を掛けた。
その仕草は、さっきまでの冷徹さとは別人のように、優しい。
馬車に戻る途中、人混みの端に見慣れた影を見た。
クリスだ。私たちに気づくと、彼は一歩だけ前に出て、しかし近づこうとはしなかった。
代わりに、口だけで——「大丈夫か」と。
私は、うなずいた。
それだけで、彼は満足したように微笑み、群衆の向こうへ消える。
帰路、馬車の中で、カルロスはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐き、私の方へ視線を寄越す。
「……さっきのような場に君を連れ出したのは、正しいか分からない」
「私が望んだことです」
「ああ。だが、次に同じことが起きたら——俺は、もっと早く手を打つ」
「『俺が納得できる範囲で』?」
思わず茶化すと、カルロスはほんのわずか、目尻を緩めた。
「学習は早い方だ」
からかうような言い方なのに、声音はやけに柔らかい。
その柔らかさが、胸の内側に静かな灯をともす。
屋敷に戻ると、玄関で伝令が待っていた。
「殿下! 『黒雀』より押収した依頼書に、差出人のもう一つの連絡先が。——伯爵家ミラーの別邸」
私は思わずカルロスを見る。ミラー伯……カミラの後援者として知られる名だ。
カルロスの視線が鋭く細くなり、次の瞬間には命令が飛んでいた。
「夜明け前に別邸へ向かう。令状の手配、証人の準備、文官を二名。……アイリス」
「はい」
「同行するか?」
問いは静かで、逃げ道を選べる形で差し出された。
私は短く迷い、うなずいた。
「ええ。——私の名が使われた噂の行方を、この目で確かめたい」
カルロスはわずかに息を止め、それから「分かった」と頷いた。
その声音の底に、微かな安堵が混じるのを、私は聴き逃さなかった。
部屋へ下がる前、私は振り返る。
「カルロス様」
「何だ」
「……ありがとう」
言葉は軽く、けれど内側は熱かった。
彼は目を瞬き、ふ、と笑いにもならない息を漏らす。
「礼は、結果が出てからにしろ」
ツンとした言い草のはずなのに、不思議と背中が温かくなる。
その温度を抱えたまま、私は寝室の扉を閉じた。
夜更け。
窓の外に雲が流れ、夜の匂いが濃くなる。
目を閉じると、市場のざわめき、紙の白、金の瞳の熱が交互に浮かんでは消えた。
——私の手は、まだあの外套の重みを覚えている。
明け方、廊下を踏む靴音が静かに近づき、扉の外で一度止まった。
呼吸を潜めると、低い声が扉越しに落ちる。
「行くぞ」
「はい」
扉を開けた先、カルロスは黒の軍衣に身を包み、いつもの冷たい武装の奥で、見慣れない灯を宿していた。
それが何かを問うには、まだ早い。
けれど、私は気づいていた。
——この拗れの夜が明けるたび、彼の不器用な手が、少しずつ私の方へ伸びてきていることに。
そして、その手を振り払うか、掴み返すかを決めるのは、きっと私だ。
私は外套の前を留め、彼の歩幅に合わせて一歩踏み出した。
70
あなたにおすすめの小説
『恋心を凍らせる薬を飲みました』 - 残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください、婚約者様
恋せよ恋
恋愛
愛されることを諦めた。だから、私は心を凍らせた。
不誠実な婚約者・ユリアンの冷遇に耐えかねたヤスミンは、
伝説の魔女の元を訪れ、恋心を消し去る「氷の薬」を飲む。
感情を捨て、完璧な「人形」となった彼女を前に、
ユリアンは初めて己の罪と執着に狂い始める。
「お願いだ、前のように僕を愛して泣いてくれ!」
足元に跪き、涙を流して乞う男に、ヤスミンは冷酷に微笑む。
「愛?……あいにく、そのような無駄な感情は捨てましたわ」
一度凍りついた心は、二度と溶けない。
後悔にのたうち回る男と、心を凍らせた冷徹な公爵夫人の、
終わりのない贖罪の記録。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」と言われたので別れたのですが、呪われた上に子供まで出来てて一大事です!?
綾織季蝶
恋愛
「貴女じゃ彼に不釣りあいだから別れて」そう告げられたのは孤児から魔法省の自然管理科の大臣にまで上り詰めたカナリア・スタインベック。
相手はとある貴族のご令嬢。
確かに公爵の彼とは釣り合うだろう、そう諦めきった心で承諾してしまう。
別れる際に大臣も辞め、実家の誰も寄り付かない禁断の森に身を潜めたが…。
何故か呪われた上に子供まで出来てしまった事が発覚して…!?
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
乙女ゲームの悪役令嬢の兄の婚約者に転生しましたが傷物になったので退場を希望します!
ユウ
恋愛
平凡な伯爵令嬢のリネットは優しい婚約者と妹と穏やかで幸福な日々を送っていた。
相手は公爵家の嫡男であり第一王子殿下の側近で覚えもめでたく社交界の憧れの漆黒の騎士と呼ばれる貴族令息だった。
結婚式前夜、婚約者の妹に会いに学園に向かったが、そこで事件が起きる。
現在学園で騒動を起こしている第二王子とその友人達に勘違いから暴行を受け階段から落ちてしまう…
その時に前世の記憶を取り戻すのだった…
「悪役令嬢の兄の婚約者って…」
なんとも微妙なポジション。
しかも結婚前夜で傷物になる失態を犯してしまったリネットは婚約解消を望むのだが、悪役令嬢の義妹が王子に婚約破棄を突きつける事件に発展してしまう。
【完結】6人目の娘として生まれました。目立たない伯爵令嬢なのに、なぜかイケメン公爵が離れない
朝日みらい
恋愛
エリーナは、伯爵家の6人目の娘として生まれましたが、幸せではありませんでした。彼女は両親からも兄姉からも無視されていました。それに才能も兄姉と比べると特に特別なところがなかったのです。そんな孤独な彼女の前に現れたのが、公爵家のヴィクトールでした。彼女のそばに支えて励ましてくれるのです。エリーナはヴィクトールに何かとほめられながら、自分の力を信じて幸せをつかむ物語です。
婚約破棄されたので、もう誰の役にも立たないことにしました 〜静かな公爵家で、何もしない私の本当の人生が始まります〜
ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、
完璧であることを求められ続けてきた令嬢エリシア。
だがある日、彼女は一方的に婚約を破棄される。
理由は簡単だった。
「君は役に立ちすぎた」から。
すべてを失ったはずの彼女が身を寄せたのは、
“静かな公爵”と呼ばれるアルトゥール・クロイツの屋敷。
そこで待っていたのは――
期待も、役割も、努力の強要もない日々だった。
前に出なくていい。
誰かのために壊れなくていい。
何もしなくても、ここにいていい。
「第二の人生……いえ、これからが本当の人生です」
婚約破棄ざまぁのその先で描かれる、
何者にもならなくていいヒロインの再生と、
放っておく優しさに満ちた静かな溺愛。
これは、
“役に立たなくなった”令嬢が、
ようやく自分として生き始める物語。
子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。
さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。
忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。
「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」
気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、
「信じられない!離縁よ!離縁!」
深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。
結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?
「君以外を愛する気は無い」と婚約者様が溺愛し始めたので、異世界から聖女が来ても大丈夫なようです。
海空里和
恋愛
婚約者のアシュリー第二王子にべた惚れなステラは、彼のために努力を重ね、剣も魔法もトップクラス。彼にも隠すことなく、重い恋心をぶつけてきた。
アシュリーも、そんなステラの愛を静かに受け止めていた。
しかし、この国は20年に一度聖女を召喚し、皇太子と結婚をする。アシュリーは、この国の皇太子。
「たとえ聖女様にだって、アシュリー様は渡さない!」
聖女と勝負してでも彼を渡さないと思う一方、ステラはアシュリーに切り捨てられる覚悟をしていた。そんなステラに、彼が告げたのは意外な言葉で………。
※本編は全7話で完結します。
※こんなお話が書いてみたくて、勢いで書き上げたので、設定が緩めです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる